オメラスから歩み去る人々 (1/2)

『オメラスから歩み去る人々』
アーシュラ・K・ル=グウィン

 
 けたたましい鐘の音におどろいた燕たちが空へ飛び立つのといっしょに、ここオメラスの都、華麗な塔の建ちならぶ海のほとりに、<夏の祝祭>がおとずれる。港の船は、色あざやかな旗をその張り索にはためかせる。赤屋根の家々の彩色された壁のはざまを縫い、苔むした古い庭園のあいだを抜け、並木の下をくぐり、大きな公園や公共の建物の前を横切って、行列が通りを練り歩く

 なかにはきらびやかな行列もある――藤色と灰色の長いゴワゴワした衣をまとった老人たち、重々しい顔つきの工匠たち、赤子を抱いて語らいながら歩く、物静かで楽しげな女たち。別の通りでは、音楽がもっと速い拍子を刻み、ゴングとタンバリンがきらめき、人びとが踊りながら進む。行列がひとつの踊り。幼い子らがその中へ駆けこみ、駆けぬけ、空を横切る燕の群れのように、楽奏の音と歌声の中でひときわ高いさけびを響かせる。

 すべての行列はうねり、くねりながら都の北側へと向かう。そこでは<みどり野>と呼ばれる川端の牧草地に、陽光を浴びすっ裸になった少年少女が集まり、くるぶしまで泥にまみれた両足と長くしなやかな両腕で、競馬を前に控えて気の昂ぶっためいめいの馬を調教している。馬には“はみ”のない端綱のほか、なんの馬具もついていない。たてがみは、金と銀と緑のリボンで編み合わされている。馬たちは鼻息をふるわせ、後脚をはねあげ、おたがいに自慢しあう。どの馬もたいそう興奮しているが、それは彼らが人間の祝祭を自分のものとして取り入れた、唯一の動物だからだ。

 遠く北と西には、湾沿いのオメラスをなかば取り巻くようにして、山々がそそり立っている。朝の空気はいやが上にも澄みきり、<十八峰>の頂にまだ残る雪の冠が、蒼穹の下、陽射しのみなぎる何マイルもの大気を横切って、金白色の炎を放つのが見える。ちょうど頃合の風が、競馬のコースを示した標識旗を、ときおりパタパタとはためかせる。広い緑の牧草地の静けさのなかで、都の街路をうねり進む楽奏の音が、遠く…また近く…そしてたえず近づきながら聞こえてくる。陽気で、かすかな甘味をふくんだ空気は、ときおり大きく喜こばしげに打ち鳴らされる鐘の音にふるえ、わっ!と集まってはまた散っていく。

 喜こばしげに!その喜こびをどう語ろう?オメラスの市民をどう描写しよう?

 ごらんのように彼らは幸福だが、けっして単純な人たちではない。しかし、もはや私たちは、賞賛の言葉をあまり口にしなくなってしまった。すべての微笑がアルカイックなそれになってしまった。おまけに、こんな話しを聞かされると、だれもがその先を言い当てようとする。こんな話を聞かされると、きっと次には駿馬にまたがり、気高い騎士たちに護られた国王か、でなければ、筋骨たくましい奴隷たちのかつぐ金色の輿に乗った国王が、しずしずと現れるにちがいないと、予想しがちだ。しかし、ここには国王はいない。彼らは剣も使わず、奴隷もおいていない。

 彼らは野蛮人ではない。私は彼らの社会の規則や法律を知らないが、それが不思議なほどに数少ないという見当はつく。君主制や奴隷制が廃されているだけでなく、ここには株式市場も、広告も、秘密警察も、爆弾もない。しかし、くりかえすが、彼らはけっして単純な人たちではなく、また、うるわしい羊飼いでも、高潔な野人でも、退屈なユートピア人間でもない。彼らは私たちと同様に複雑な人間だ。

 ただ、問題は、私たちが衒学家や詭弁家の尻馬に乗って、幸福をなんとなく愚劣なものと見做す悪癖を身につけたことにある。苦痛のみが知的であり、邪悪のみが興味深い。これは芸術家の背信行為だ――邪悪の陳腐さ、苦痛の恐るべき退屈さを認めるのを拒むことは。勝てなけりゃ、むこうの仲間になれ。むこうが痛がったら、そいつをくりかえせ。

 しかし、絶望を讃えるのは歓喜を貶めることであり、暴力を抱きしめるのはその他のすべてを手放すことである。いまの私たちは、ほとんど手放しかけている。私たちは、もはや幸福な人間を描くことができず、歓喜に酔いしれることもできない。だから、あなた方にどうやってオメラスの人びとのことを語ろう?彼らは無邪気で幸福な子どもではない――もっとも、彼らの子どもときたら、これは幸福そのものなのだ。彼らは成熟した知的かつ情熱的なおとなであり、その生活には惨めなところが少しもない。

おお、奇跡!

 けれど、もっとうまく話すことができたら…と私は思う。あなた方を納得させることができたら…と思う。たぶん私の語るオメラスは、この地上のどこにもない土地、“むかしむかし…”で始まるおとぎ噺のなかの都のように聞こえることだろう。ひょっとすると、あなた方めいめい自分の好きなように、自由な想像を加えてくださるのが、一番イイかも知れない。万人の好みに合わせることなど、到底無理な相談だから。

 たとえば、テクノロジーは?私の考えでは、この都の街路にも上空にも、自動車やヘリコプターは見当たらないはずだ。オメラスの市民が幸福だという事実から推し測ると、当然そうなる。幸福の基盤は、なにが必要不可欠か?なにが必要不可欠でも、有害でもないか?なにが有害か?それを正しく見極めることにあるからだ。

 しかし、この中間カテゴリー――不必要だが無害なもの、つまり、安楽、豪華、潤沢のたぐい――に含まれるセントラル・ヒーティング、地下鉄、洗濯機、その他まだ私たちの世界では発明されていない素晴らしい考案の数々…宙に浮かぶ光源や、燃料不要の動力や、風邪の治療法を、オメラスの人びとが持ち合わせていることは充分ありうる。また、これらをまったく持ち合わせていないこともありうる。それはどちらでもイイ。あなたのお気に召すように。

 ただ、私としてはこう考えたい。この沿岸のあちこちの町に住む人びとが、祝祭の何日か前からオメラスにやって来るのには、きっと小型の高速列車や二階建ての市街電車を利用したにちがいない…と。そして、オメラスの駅は、壮麗な<農業市場>に一歩をゆずるとはいえ、この都でも屈指のうつくしい建物なのだ…と。いや、鉄道くらいでは、まだあなた方のなかにもこう考える方があるかも知れない。

 「お前がいままでに話した限りでは、オメラス人というのは善人ぶった鼻持ちならない連中だ。微笑み…鐘の音…パレード…馬…うへぇ、ごめんだよ」…と。

 もしそうなら、どうかそこへ性宴をつけ足してほしい。性宴が彼らの印象を変えるのに役立つなら、どうかご遠慮なく。とはいっても、あちこちの寺院から、すでに半恍惚状態に陥ったうつくしいすっ裸の僧侶や尼僧がゾロゾロと現れ、男、女、恋人、行きずりの他人、相手がだれであろうと喜こんで交わり、深遠な肉欲の神との一体化を願うといった図は、無しにしよう。

 確かに、私が最初に抱いた考えは、そうしたものだった。しかし、本当のところ、オメラスには寺院など無いほうが――少なくとも、人間のいる寺院など無いほうが、似つかわしい。宗教は可僧侶は不可。うつくしいすっ裸の人びとが無心に町を歩きまわり、恵まれぬ者の飢えの前にわが身を神のスフレのように差し出し、肉体の陶酔にふける――それだけでイイではないか。彼らを行列に加わらせよう。彼らの交わりの上でタンバリンを打ち鳴らさせ、ゴングの音よりもひときわ高く官能の賛歌を歌わせ、そして(けっして軽んじてはならない点だが)、この喜こびの儀式から生まれた子どもたちが、すべての人々の慈しみを受けるようにしよう。オメラスにこれだけは無いと私が知っているもの、それは“心のやましさ”なのである。

 しかし、そのほかにオメラスにあるべきものは?はじめ私は「麻薬」を廃除しようと思ったが、それではあまりに堅苦しすぎる。ナンならあなたのお好みに合せて、この都の大路小路に、かすかな、だが根強い、“ドルーズ”の甘い香りが漂っていることにしよう。ドルーズは、まず最初に心と四肢に非常な軽やかさをもたらしてくれる。次に数時間の夢見るような静けさが続き、そして最後に宇宙のもっとも難解深遠な謎に対して素晴らしい視野が開け、同時に、およそ信じられないほどの性の歓びが掻き立てられる。しかも、それでいて非習慣性なのだ。もっと穏やかな嗜好の人たちのためには、ビールがあることにしてもよい。

 そのほかには?そのほかに、この楽しい都に必要なものは?そう、もちろん勝利感だ…それも勇者の賞揚。しかし、先に僧侶を排したのと同じように、軍人も取り除こう。殺戮の成功から生まれる喜こびは、正しい喜こびではない。そんな喜こび…そんな恐ろしい…そして瑣末な喜こびは願い下げだ。かぎりなく豊かな満足感、外部の敵に対してではなく、あらゆる土地のすべての人びとの魂の中にある最も善美なものと、この世界の夏の輝きとを共有した、度量の広い勝利感。それがオメラスの人びとの心に満ち溢れるものであり、彼らが祝う勝利なのである。考えてみると、彼らの大部分はドルーズなど必要としないかも知れない。

 すでにほとんどの行列は<みどり野>に到着した。赤と青の接待用のテントからは、おいしそうな料理の匂いがあたりにひろがる。幼い子どもたちの顔は、ニコニコ、ベトベトしている。ひとりの男の柔和な灰色のあごひげには、こってりしたパン菓子のかけらがひとつふたつくっ付いている。少年少女はたちはすでにめいめいの馬にまたがり、競争のスタートラインへと集まりはじめた。小柄で肥った老婦人が、楽しそうに笑いながら、バスケットに入れた花をくばって歩き、背の高い若者たちは、もらった花をめいめいの輝かしい髪に差して飾る。

 九つか十ぐらいの男の子が、賑わいの外にたったひとりで座って、木の横笛を吹いている。人びとはその前で足を止めて耳を傾け、そして微笑を浮かべるが、その子に話しかけようとはしない。子どもが休みなく笛を吹き続け、その黒い瞳は彼らの姿も目に入らないように、甘くか細い魔法の調べにウットリと浸りきっているからだ。

 子どもは曲を吹き納め、木の横笛を持った両手をゆっくりと下におろす。

 その小さい私的な静寂を合図のようにして、とつぜんスタートラインのそばの亭からトランペットの音がひびく――尊大に…沈鬱に…鋭く突き刺すように。馬たちはすらりとした後ろ足で棹立ちになり、何頭かはそれに“いななき”を返す。年若い乗り手たちは真剣な顔で愛馬の首すじを撫で、なだめるように囁く。

 「静かに、静かに、かわいい子。がんばって…」

 彼らはスタートラインにそって並びはじめる。競争路を取り巻いた群集は、風に揺れる野原いっぱいの草花のようだ。<夏の祝祭>が始まったのである。

 信じていただけたろうか?この祝祭を…この都を…この喜こびを…受け容れていただけたろうか?だめ?では、もうひとつのことを話させて欲しい
 

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