オメラスから歩み去る人々 (2/2)

 オメラスのうつくしいある公共建造物の地下室に、でなければおそらく誰かの宏壮な邸宅の穴蔵に、ひとつの部屋がある。部屋には鍵のおりた扉がひとつ、窓は無い。わずかな光が、壁板の隙間から埃っぽくさしこんでいるが、これは穴蔵のどこか向こうにある蜘蛛の巣の張った窓からのおすそ分けにすぎない。

 小部屋の一隅には、先のゴワゴワに固まって悪臭のするモップが二本、錆びたバケツのそばに立てかけてある。床は“たたき”で、穴蔵の土間が通常そうであえるように、なんとなく湿っている。部屋の間口は歩幅ふたつくらい、奥行きは歩幅みっつぐらい。ただの物置か、それとも使われていない道具部屋といったところだ。

 その部屋のなかにひとりの子どもが座っている。男の子とも女の子とも見分けがつかない。年は六つぐらいに見えるが、実際はもうすぐ十になる。

 その子は知的障害児だ。それは生まれつきの欠陥かも知れないし、また、恐怖と栄養不良と無視された境遇のために、知能が退化したのかも知れない。その子は鼻をほじくり、時おりボンヤリと足の指や陰部をいじったりしながら、猫背でうずくまっている。そこは二本のモップとバケツから一番遠い片隅である。その子はモップが怖いのだ。怖くでしかたがない。そこで目をつむるのだが、それでもやはりモップがそこにあるのは知っている。しかも、扉には鍵がおりている。そして、誰もやって来ない

 扉には常に鍵がおり、誰もやって来ないが、ただ、時おり――その子には時や間隔の観念が無い――時おり、ガチャガチャと恐ろしい音をたてて扉が開き、ひとり…ないしは何人かの顔がそこから現れることがある。そのうち誰かが部屋に入って来て、子どもを蹴とばし、立ち上がらせることもある。ほかの者はそばへ寄りつかず、怖気づいた嫌悪のまなざしで子どもを覗きこむ。食べ物の鉢と水差しがそそくさと満たされ、扉が閉ざされ、覗きこんでいた目が消える。

 戸口の人びとはいつも無言だが、その子はもとからズッとこの物置に住んでいたわけでなく、日の光と母親の声を思い出すことができるので、時々こう訴えかける。

「おとなしくするから、出してちょうだい。おとなしくするから!」

 彼らはけっしてそれに答えない。その子も前にはよく夜中に助けを求めて叫んだり、しょっちゅう泣いたりしたものだが、いまでは、「えーはあ、えーはあ」といった鼻声を出すだけで、だんだん口もきかなくなっている。

 その子の脚はふくらはぎもないほど痩せ細り、腹だけが膨らんでいる。食べ物は一日に鉢半分のトウモロコシ粉と獣脂だけである。

 その子はすっ裸だ。しょっちゅう自分の排泄物のうえに座るので、尻や太腿には一面に腫れ物ができて、膿み爛れている。

 その子がそこにいることはみんなが知っている――オメラスの人ぜんぶが。なかには自分の目でその子を見た人びともいるし、また、その子がそこにいるという事実を知るだけで満足している人びともいる。どちらにせよ、そのわけを理解している者、いない者、それはまちまちだが、とにかく、彼らの幸福、この都のうつくしさ、彼らの友情の優しさ、職人たちの技術、そして豊作と温和な気候までが、すべてこのひとりの子どものおぞましい不幸に負ぶさっていることだけは、みんなが知っているのだ。

 このことは、子どもたちが八歳から十二歳のあいだに、理解できそうになった時を見計らって、おとなの口から説明される。そんなわけで、穴蔵の子どもを見に来る客には、時々それが何度目かのおとなも混じっているが、たいていはその年頃の少年少女である。いくら念入りに説明されても、年若い見物人たちは例外なくそこに見たものに衝撃を受け、気分が悪くなる。彼らは、これまで自分たちには縁が無いと思い込んでいた嘔吐をもよおす。どう説明されても、やはり彼らは怒りと、憤ろしさと、無力さを感じる。

 その子のために、何かをしてやりたい。だが、彼らにできることは何も無い。もしその子をこの不潔な場所から日なたへ連れ出してやることができたら…もしその子の体を洗い清め、お腹いっぱい食べさせ、慰めてやることができたら…どんなにかイイだろう。だが、もしそうしたが最後、その日その刻のうちに、オメラスのすべての繁栄と美と喜こびは枯れしぼみ、滅び去ってしまうのだ。それが契約の条件である。

 オメラスのあらゆる生き物のうつくしさと優雅さのすべてを、そのたったひとつのささやかな改善と引き換えるか。何千何万の人びとの幸福を、ひとりの幸福の可能性のために投げ捨てるか。それはこの都のなかに、心やましさを解き放つことにほかならない。

 条件は厳格で絶対だ。その子には、ひと言の優しい言葉さえかけてはならぬことになっている。

 はじめてその子を見て、この恐ろしいパラドックスに直面したとき、子どもたちは泣きじゃくりながら…あるいは涙も出ぬ激怒に身を震わせて、家に帰ることが多い。彼らは何週間も、時には何年も、そのことを思い悩む。しかし、時が経つにつれて、彼らは気づきはじめる――たとえあの子が解放されたとしても、たいして自由を謳歌できるわけではないことに。

 ささやかでおぼろげな暖かさと食べ物の快楽、それはあるにちがいないが、せいぜいその程度ではないか。あの子はあまりにも堕落し、痴呆化してしまって、本当の喜こびを知ることもできないだろう。あまりにも長くおびえ苦しんだために、もはや恐怖から逃れることもできないだろう。あまりにも粗野な習慣が身についてしまって、人間らしい扱いに応じるすべも知らないだろう。実際、あんなに長い監禁のあとでは、周囲を仕切った壁が無くとも…視界を閉ざした暗闇が無くとも…また自分の排泄物のなかに座らなくとも…やはりみじめな気持ちでいることだろう。

 この恐ろしい現実の裁きに気づき、それを受け容れはじめたとき、苛酷な不当さを憤った彼らの涙は乾いてゆく。

 しかし、この涙と怒り、博愛心に課せられた試練と自己の無力さの認識が、たぶん彼らの輝かしい生活の真の源泉なのかも知れない。彼らは、自分たちもあの子のように自由でないことを、わきまえている。彼らは思いやりがある。あの子の存在と、その存在を彼らが知っていること、それが彼らの建築物の上品さを…彼らの音楽の激しさを…彼らの科学の琵琶を…可能にしたのだ。

 あの子がいればこそ、彼らはどの子に対しても優しいのだ。彼らは知っている――暗闇の中を這いずりまわっているあの子がもしいなけれは、ほかの子ども、たとえばあの笛吹きが、夏の最初の朝、日ざしの中のレースに愛馬の“くつわ”を並べた若い乗り手たちの前で、喜こびに満ちた曲を奏でることも、またありえなかっただろうことを。
 
 これで、あなたにも納得いただけたろうか? 彼らの存在が、さっきよりは信じやすいものになったのではなかろうか? しかし、話すことはまだもう一つ残っており、そして、これはまるで信じがたいことなのである。
 
 時によると、穴蔵の子どもを見にいった少年少女のうちのだれかが、泣いたり怒ったりして家に帰っては来ないことが、というより、まったく家に帰ってこないことがある。また、時には、もっと年をとった男女のだれかが、一日二日だまりこんだあげくに、ふいと家を出ることもある。
 
 こうした人たちは通りに出ると、ひとりきりで通りを歩きだす。彼らはそのまま歩きつづけ、美しい門をくぐって、オメラスの都の外に出る。オメラスの田野を横切って、彼らはなおも歩きつづける。少年と少女、おとなの男と女、だれもがひとり旅だ。夜のとばりが下りる。衆人たちは、黄色く灯のともる家々の窓に挟まれた村道を抜け、真暗な野原へと出ていかなくてはならない。
 
 それぞれに、ただひとりきりで、彼らは山々を目ざして、西か、または北へと進む。彼らは進み続ける。彼らはオメラスを後にし、暗闇の中へと歩み続け、そして二度と帰ってこない。彼らがおもむく土地は、私たちの大半にとって、幸福の都よりもなお想像に難い土地だ。私にはそれを描写することさえできない。それが存在しないことさえありうる。

 しかし、彼らはみずからの行先を心得ているらしいのだ。彼ら――オメラスから歩み去る人びとは。
 

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