『天皇の陰謀』

『天皇の陰謀』
ディビット・バーガミニ:著
松崎 元:訳

 

第二部 天照大神の国

 
第四章 天皇家の遺産
 
■ バイキング天皇 (1)

 20世紀になって、裕仁がその上を歩きまわる、しみがつき、形のくずれた、天皇家の色である紫色の絨毯は、何世紀もかかって、彼のために広げられてきたものである。その彼のためのものとは、山々のように時代をへた祈願と歴代の前例によって統治されてきた、その古代よりの住処である。それは文字通りの最初の天皇の出現する、二千年の昔、神聖な富士山が、地震を伴って一夜のうちにその東部平原に姿を現したものである。それ以来、天皇と人々との関係や彼の統治の方法は、他の世界から美的ほどにも隔離された世界で発展してきた。ある面では舵取り役もしくは行政首長として、他の面では戦争首領もしくは王として、また別の面では人々の最高司祭そして法王として、彼は、国の印章が預けられ、際立った鎧の紋章をまとい、そしていまだに、重い宗教的法服を着けている。西洋世界では、政治的制度として、古代エジプト王ファラオ以来このかた、彼に相当するものはない(2)。

 日本に人々が最初に住み始めたのは、およそ十万年前である。彼らは、今のオーストラリアのアボリジニーと同じモンゴル系アジア人で、色白な放浪する狩猟民で、様々な色と巻き毛具合の濃いひげをもっていた。その後の九万年間、氷河期の末期の中で、日本は地橋あるいは飛び石状の島々で、アジア大陸とつながっていた。最北の島、北海道はシベリアと、最南の島、九州は台湾や東南アジアと、それぞれ行き来ができた。その後、約一万年前、氷河がとけて海面が上昇し、日本は、ドーバー海峡の二倍の幅をもつ海峡によって、アジア大陸から分断された。こうして日本は大陸の端からも隔たった地となり、晴れた日でも大陸からは見えなくなった。

 その孤立した環境で、日本は、アジアや世界の国々から切り離された独特の資質を発展させた。そこには、違った言語をもった二つの文化があった。ひとつは、北部のシベリア系のもので、他は、南部の東南アジア系のものであった。その北部言語は、今日、北海道でアイヌ語として残り、これは、シベリアのツンドラ地帯の言葉から分岐したものである。他方、南部言語は現代の日本語へと発達した。もっとも身近でもっとも古い言葉と思われる、母、父、カキ、腹などを示す単語は、ポリネシアやマラヤ地域の山岳部族の一部の言語と類似している。それはおそらく、より発達したモンゴル系石器時代人が中央アジアからやってきて、それ以前の古代東南アジア系言語の一分岐言語を凌駕したからであろう。

 紀元前の最後の八千年間に、日本の北方系のアイヌ文化をもった戦闘的で色白なひげの濃い狩猟民は、その民族的統合を維持したまま、本州の中部へとその狩猟領土を広げていった。これに対し、南方のアボリジニー・・・日本語の一種を話し、魚介類を食する定住を主とする・・・は、紀元前五百年ころから、しだいに、現代の日本人を形成するモンゴル系の人々によって置き換っていった。アボリジニーの特徴である縮れ毛、茶色の目、茶もしくは赤い髭は、日本の海岸線から離れた山間の谷で今でも見られるが、今日の日本への彼らの主要な貢献は、その言葉である。

 モンゴル系の民族が日本の南部に移動したことを示す考古学的証拠は存在していない。しかし、彼らはおそらく、したたる水滴のように絶え間なく、いかだや、カヌーや、あるいは難破によって、漂着したに違いない。そうした漂着民は、既存の土着語を話すことを学んだ。また、そうした新漂着民は、改良された石器、わらぶき屋根、ろくろ、初歩の農法などの進んだ生活技術を、大陸から持ち込んだ。中国文明の外延部の漁労民族のすべてに、そうした技法が見られ、日本での新住人であるモンゴル系の人々を繁栄させ、大きな家族を養うことを可能にして、次第に旧来のアボリジニーを山間部に追いやっていった。

 紀元前三百年ころ、日本の南部に、交易商人が来はじめるようになり、青銅、鉄、米作を持ちこんだ。海岸沿いの植民地は、そうした新技術を容易に吸収し、その恩恵をえた。九州の沿岸部に比較的小さな人口しかもっていなかったモンゴル系の人々は、紀元前の最後の一世紀に、九州の耕作可能な土地をすべてえた農耕民として、急速にその人口を増やしていった。そうした前モンゴル系狩猟民は農奴となって定着した。他の山間部に追いやられた人々は、そうした農耕民といさかいを起こし、何世紀にもわたって、戦争まがいの騒動が続いた。その新たな九州の農耕共同体は、村落のゆるい連合体としてまとまり、それぞれが、女族長あるいは多産母親によって治められていた。そのうち、最も強力な集落の女族長は天照大神(太陽女神)と呼ばれていた。中国からの初めての使いは、彼女をピメコと呼び、中国語ではヒミコ(卑弥呼)、つまり太陽光の子※と記した。

(※ 現代の日本語では、「ヒメ」 とは二つの意味、太陽光および姫、を持つ。 )

 西暦一世紀ころ、九州の天照大神は、山間部族の一族、熊襲(くまそ)にいたく手を焼き、朝鮮の海賊商人と同盟を結んだ。この人物は、日本の初代天皇の祖父で、以来七十一世代を経て、天皇裕仁はその直系の子孫である。伝説、考古学、そして中国および朝鮮の史記のいずれに照らしても、裕仁の先祖は、東洋版のバイキングに相等する。この朝鮮海賊商人の母港は、朝鮮半島の先端の今日の釜山にあたる、カラクと呼ばれる海賊包領であった。近隣の朝鮮の諸王国の記録は、カラク、あるいは、日本が後にそう呼ぶ任那は、西暦42年から562年まで、独立した日本人町であったと認識していた。(英国を征服したフランスの)ウイリアム公のノルマンディーのように、それ自体は、中間駅のひとつであったに過ぎない。日本のバイキング天皇の発祥の地と思われる(本物のバイキングの)スカンジナビアに相当する地は、おそらく、はるか南のマライ地方であろう。それは、その一、二世紀昔、太平洋の島々を発見しそこに住みついた、偉大なポリネシアの海の旅人たちを送り出していたことと近似している。歴史家の多くは、この地域の航海に託す冒険精神は、アレキサンダー大王がペルシャ湾で、インド征服のために集結させた大船団が、紀元前323年の王の突然死により分散したことによって鼓舞されたと見ている。

 ディドとアエナスの追憶談(訳注)のようだが、裕仁の祖先は九州の天照大神の孫娘との間に息子を持った。その息子は、海賊と共に成長し、頑強な石器時代的熊襲との闘いを共に支援しあうことを許された。彼とその息子、神武天皇・・・最初の天皇・・・は、その勢力を瀬戸内海一帯へと広げ、南本州の海岸地帯を開発、食糧生産地とした

訳注:ローマ伝説で、カルタゴの創設者といわれる女王ディドは、トロイ戦争後に漂着したアエナスをもてなし、彼がイタリアを去ったのを悲しみ自殺したとされる。 

 神武天皇の時代となってまもなく、この裕仁の六十九代前の祖先は、居住地を移動しながら、日本における自身の王国を築こうと決心した。熊襲は九州の山奥へと追いやられ、九州に根付いた母権社会においては、男の首領が存在しえる余地はもはやなくなっていた。神武は、彼の海賊集団総体・・・船、戦士、女、生活用具・・・を、瀬戸内海を通って、九州から本州へと移動させた。彼は、日本のほぼ中央、今の大阪港・・・現代の東京から260マイル(420km)南西・・・に錨を下ろした。そこには、40マイル(65km)も奥へと広がる肥沃な平野があり、米が植えられるのを待っていた。そこでは、貝を主食とするアボリジニーが、内陸の毛深いアイヌ語を話す狩猟部族との対立で助けを必要としていた。おそらく、もっとも重要なことは、神武の戦士たちが、大阪を囲む山々のなかに、鉄鉱石・・・鉄を作るための適当な不純物を含んでいた・・・を発見したことだろう。数世代のうちに、彼の刀鍛冶は、青銅時代から鉄器時代へとの変化をもたらし、それから数世紀のうちに、世界中の国ででもそれに優るもののない、鋭い刃物を作りだした※。

(※ 鉄鉱石の発見の一方、日本では、その後何世紀もの間、貴金属は発見されなかった。西暦674年、自然銀が発見され、701年には自然金も発見された。銅銭が鋳造されたのは708年のことだった。 )

 神武は、その地でのおよそ三年間の奮闘の後の西暦50年※、自らを大阪湾を囲む平野地帯における天皇と称することを宣言し、周辺の山間部へ勢力を伸ばしはじめた。彼の王国は、現代の大阪、神戸、京都にわたるもので、彼はそれを、今でも日本を愛国主義的に呼ぶ時に使われる、大和と称した。

(※ 十九世紀にイデオロギー的な目的で採用された日本の公式の年代表記では、神武天皇の即位を紀元前660年としている。だが多くの学者は、これを、600年から800年、早すぎると見ている。西暦二百年以降、初代から九人の天皇の長老が作った陰暦を日本人は採用している。本書であつかう年代表記は、考古学者J.エドワード・キッダーによるものを使っている。

 天皇神武は、腹心の部下三人・・・心的同朋の中臣(なかとみ)、刀鍛冶の物部(もののべ)、有力な友人の大伴(おおとも)・・・に彼の国をうまく治め、奥地の色白、毛むくじゃらの狩猟民族を退治することを命じた。彼は中臣とその子孫に国事をつかさどる王国の祭事官を命じた。物部とその家族には、武器の常備と供給ならびに国の軍事政策の執行を任せた。大伴には宮廷と家臣を警護する任務を与えた。今日、日本の裕福階級のほとんどは、その家系が、神武かこの三人のいずれかの部下の子孫であると主張している。たとえば、1937年に日本を戦争に導いた近衛宮は、自分を中臣家の分家である藤原家の末裔と考えていた。
 

 
 大和の神武天皇の王国は最初、わずか百ほどの同様な村落国家のひとつと、当時の交易商によって中国の年代記に報告されていた。しかし、神武とその息子は、すぐに権力を得て、スパルタよりスパルタ風に、軍事的指導力と規律を土着民に発揮した。彼とその血族は、容赦のない一種の厳格主義・・・信仰深さを清潔さと同等とみなし、身を清める数え切れない儀式を要求・・・を実施した。テルモビレーのギリシャ人のように、戦争におもむく前には、入浴し髪を櫛でといた。また、戦争の後、食事の後、性交の後、雄鹿を殺した後、つまり、不浄と思われるあらゆる行為の後に、彼らは入浴した。今日でも、天皇の風呂は、宮廷でもっとも神聖な場のひとつであり、華氏110~130度(摂氏45~55度)のお湯に全身をひたすことは、すべての日本人の生活の日常行事となっている。

 いったん大和に定着すると、神武とその一族は、死の汚染と移住しない生活という怠惰に陥ることを畏怖した。王が死ぬと、その首都はまるごと別の地に移された。それは、つかの間の空想ごとではなかった。以後六百年以上にわたって、首都は政治の中心地として念入りに吟味され、君主の臨終の度に移動された。西暦710年(平城京:奈良遷都)になってようやく、大きな都市を一世代ごとに取り壊し再建するには、その官僚組織があまりに大きくなりすぎ、宮廷はついに、恒常的な首都を受け容れるようになった。この年までは、代々の宮廷を取り囲む外壁の背後では、大半の建物は平屋か二階建ての簡素な木造だった。他の日本人のものも、宮廷の例にならい、紙と木のきゃしゃな家で、伝統的な生活を続けていた。後に近代的な建築物が到来するまで、地震の頻発する日本では、こうした伝統にならい、容易に移設でき被害の軽微なことは、実情に適したものであった。

 土着民の地方的な精霊信仰を基盤に、神武は、後の神道の母体を築いた。彼は、祖先の霊、ことに、彼の言う天照大神からそれまでに生まれた自身の祖先の霊に祈る大陸風の信仰をそれに加えた。彼は、土着の貝食民に、青銅の鏡、輝く刀、そしてカシューナッツのような胎児の形に磨きあげられた半貴石の数珠を見せ、それらが天照大神によって彼本人に授けられたもので、彼の神威を守るものであると告げた。

 神武は、その静穏な人々に対し、彼らを勇猛な兵士とさせて目的を与え、また、「この世の八つの方位を、一つの天の下に包み込む」と告げて、自らの使命とした。この彼の言葉、「八紘一宇」は、千九百年後、裕仁の教理宣伝者のスローガンとなる。時代をへるにつれ、神武天皇とその子孫は、そのようにして取り込んだ人々を近接する村落や王国を征服するよう導き、アイヌ民族を追いやった

 九州の天照大神の多産母崇拝者のように、神武とその一族は、自分たちの血が土着民の血と混じりあわないよう注意を払っていた。そのため、彼らは、一族の規模を広げることによって、土着民より優勢になろうとした。そしてその後五世代にわたって、朝鮮の領地より、聖民と呼ぶ自民族の女を妻に迎え入れていた(訳注)。それぞれの王子とその一族は、その富と権力に応じて、得られる限りの妻を持っていた。その家族についての古い記録によれば、百人もの子供をもうけていた。そうした血族急増によって、神武の、船に乗りきれるほど数少なかった一族たちは、やがて数千人の人口を持つようになった。五世代の後、神武の宮廷の子孫は、自分の姪や孫と結婚し始めた。近親交配はおびただしかったが、そのもとの祖先は健全だった。現代の日本人の、おおきな割合、恐らくその過半数は、そうした一族の子孫である※。

訳注:現天皇明仁は2001年、「桓武(かんむ)天皇の生母、高野新笠が百済の武寧王の血を引いていると 『続日本紀』 にある。そこで韓国とのゆかりを感じます」、と述べた(いわゆる 「ゆかり発言」) 。この桓武天皇の皇位期は西暦781~805年で、神話期から数えると第五十代天皇になる。

(※ もし日本人が、その優れた系統学的履歴を神聖かつ秘密なものと考えることを止め、血液型と染色体分析と関連させて研究し始めれば、日本は人類の遺伝子学的研究の完璧な実験モデルとなることだろう。)

 西暦200年から250年までの第十代崇神(すじん)天皇(訳注)の時期、神武の知恵を表す鏡と力を表す刀は、だれもが見、感嘆できるように、宮廷外の神社に祭られた。だが崇神天皇は、自身の安心のため、神威を示す宝石のみは手元に保有した。力の刀は、毛深い野蛮人から奪い取った地域にある、名古屋の熱田神宮にその居場所を見つけた。知恵の鏡は、大和に近い、海を見渡す、伊勢神宮に安置された。今日、伊勢神宮は、日本で最も神聖な場とされ、どの閣僚もその任務につく際には、就任の参拝をおこなっている。

訳注:実在したと考えられている最初の天皇で、その推定の在位期間は三世紀後半から四世紀初めころ( 『ウィキペディア』 「天皇の一覧」 による)。

 第十二代天皇の景行(けいこう)は、西暦280年より316年まで皇位にあったと考えられ、少なくとも72人の息子をこしらえ、大和の権力は大臣たちにまかせ、彼は六年間、九州の天照大神の王国に戻っていた。そこで、彼とかれの息子たちは九州の土着民の女王たちを、たぶらかし、また大和との恒久併合の交渉を成功するなどして一掃した。

 西暦400年ころ、神武の子孫や天照大神は、日本南部の大半を服従させ、その部隊長たちは、現在の東京あたりの毛深い民族との闘いを継続していた。最も古い大和についての国事文書(『宋書』 倭国伝)は、西暦478年に、中国王朝への大和の大使による報告として、こう記録している。「いにしえより、我が祖先は武器と鎧を身につけ、山地や海を突き進み、休む暇さえ控えてきた。東部では、五十五の毛深い部族の国を征服し、西部では、よく似た野蛮民の六十六の国の服従を獲得した」。

 大言壮語じみてはいるが、日本の中国への使者はまた、その先方に、その故国の名、大和を、偉大な平和を意味すると伝えた。中国の史記には、その数十年後に、日本が中国式の記述法を公式に採用した時、「大和」が日本の名となったと記述されている。しかしながら、日本では、「大」「和」という漢字は、特異に二重の読み方が与えられ、異例な用法となっている。日本語を使える人は誰もが知っているように、「大」「和」は、中国人の前では「だいわ」と発音され、日本国内では「やまと」と発音される。だがその真に意味するところは、「やまと」とは「山の道」、あるいは、新たな征服地への道を意味する。しかし、中国の皇帝に、そのように伝えることは、外交的に賢明なことではなかった。
 
 
 
■ 墓造り

 大和が拡大し、代々の天皇が全能となるにつれて、彼らは巨大な霊廟を建設するようになり、彼らが徴用することのできた奴隷労働ばかりでなく、その神道・・・祖先の霊魂の存在への信仰・・・が死の崇拝となっていた事実を証明するものとなった。その天照大神以来の「万世一系の皇統」は、その信奉者におびただしい犠牲を生み出した。

 およそ二百年存命したとされる第八代孝元(こうげん)天皇は、その石棺を銘記させるために小さな人工の丘を築いた。それは長さ180フィート(55m)ほどしかなく、その斜面にそって、わずか数十人の家来が葬られただけだった。だがそれは、その後三百年にわたり、代々の天皇が示した埋葬の狂気の始まりとしての重要性をもっている。その代々の支配者は、さらに大きな墳墓を要求し、彼の霊魂の世界への旅に同行する、より多数の家来の犠牲を求めた。伝説によれば、第十一代垂任(すいにん)天皇は、その兄でまだ王子にすぎない自分への義理により、生きたまま埋められようとしている一族郎党の悲嘆に困らされた。彼はそこで、自分の人形を埋葬することで、生きた犠牲にかえることができる、という法令を作った。しかし、彼の人間的な配慮も、長続きする変化をもたらさず、家来の犠牲の慣行は、強制的に中止される六世紀まで続き、1912年の明治天皇の死の時までも、散発的ながら、自らすすんで犠牲を選ぶ家臣もあった。

 日本の統治において、天皇の墓はいまだに重要な役割を演じている。1970年の現代においてもなお、年老いた裕仁は、条約への署名といった重要事態について、宮廷からの使者をその墓に送ってその報告をしている。孝元天皇の形にならった初期の墳墓は、鍵穴型(前方後円形)をし、大きなひょうたんが半ば地面に埋まったようであった。学識者によると、それは、当時、朝鮮に広がっていたひょうたん崇拝に関係しているとも、同じころの英国の古代スカンジナビアの冒険者によって急造された航海の目印の丘にも似た、陸上げされた巨大な船を形どっている。しかし、天皇の霊廟あるいは陵(みささぎ)は、バイキングのどんな記念碑よりもはるかに巨大である。実際、そこで運ばれた土の量は、ピラミッドにも引けを取らない。

 第十六代仁徳天皇・・・西暦395年より427年まで皇位にあったと推定されている・・・の陵は、堀に囲まれた人工の山で、80エーカー(33万平方m)の面積と、1マイル(1.6km)以上の長さをもち、千五百年の風化をへたのちでも100フィート(30m)以上の高さを保っている。構造として、それは二つの山頂を持ち、植林され、段状になっていると言われており、その優美な参道には、ギリシャ文字のパイ(π)の形のアーチ(鳥居のことか)が設けられている。その建設には二十年を要し、徴用された労働によって築かれた。宮廷の年代記は、あいまいながら、仁徳以外の建築上の貢献を、「人々は、監督者なしに、年長者を助け、若者の力を導きながら、木材を運び、土かごを背に担ぎ、昼夜を分かたずに懸命に働いた」、と指摘している※。

(※ おそらく、仁徳陵のもっとも驚くべき特徴は、現代の日本人ですら、それに注目することを継続していることだ。それは、ニューヨークのセントラルパークのように、大阪の郊外の高価な不動産地帯に位置しながら、どんな案内書もそのことには触れず、宮中の儀式上の必要は別として、誰も、その三重の堀を越えて、その木々におおわれた斜面を登った者はいない。仁徳の遺骨は、生前の愛用品とともに、その内部の石棺に収められているはずである。目ざとい西洋の古物研究家は、その山の脇に骨が散らばっていたことに、遠方からながら注目した。四十年以上、彼らは土砂崩れで表れた瓦礫に垣間見れる、細工をほどこした石棺に目を注いできている。しかし、日本の同業者に公式の科学的究明を行うよう提案するたびに、その話から逃げるように、彼らが突然にその話題を変える経験をしてきた。仁徳陵は、裕仁家族の私的で神聖な所有物である。)

 最も旺盛な墓造り天皇は、仁徳の孫の雄略天皇(西暦457年~479年)である。後の年代記の記録するところでは、彼は加虐趣味の怪物で、彼の手にかけることのできる皇族家系から、それぞれ一人の男を犠牲者とした。彼はまた、家臣らを高い木の上に上げ、彼らが滑り落ちるか射落とされるまで、それを的に弓の鍛錬をすることを好んだ。妊娠中の農奴の女を相手に、彼が素手でその腹を開ける興奮を楽しんだ。雄略天皇の死後、宮廷の助言者は、その後の天皇がその叔母や腹違いの妹と婚姻しないよう計らい、もしそうなった場合でも、その王子は、皇族の血の流れていない妾の血統から選ぶように計らった。
 
 
 
■ 中国からの光

 四世紀の天皇家の大和父権政権と天照大神の九州母権政権との連合は、三百年にわたる宮廷内の文化的抗争のもととなった。九州系の女は、進んだ中国の古代文明を信奉し、大陸と強い結びつきを持ち、大和王国を北部朝鮮へと広げようと努力を払った。一方、大和系の男たち、ことに、中臣、物部、大伴系の血族は、アイヌとの戦争と大和の本州北部への拡大を主張した。西暦400年ころ、漢字を用いた表意文字が宮廷知識人の関心となり始め、また、中国仏教が神道への信仰を揺るがし始めた

 渡来した仏教は、抽象的かつ、ほとんど無神的とでも言える信仰で、儀式と神秘主義と説教に満ちていた。それは、初期天皇たちの病的な迷信や強い血族的威信を浸食し、そこに徳政を説く儒教精神を注ぎこんだ。仏教教理によれば、生まれの高貴さは、必ずしも天国行きのパスポートを保障していなかった。そのインド人預言者によれば、いかに貴族的家族であれ、その死後の魂は、もしその人が善良に生きていなかったなら、貧農にも犬にも生まれ代わらされると教えていた。瞑想において個に徹し、穏やかで冷静な啓発を達成することによってのみ、魂は輪廻の退屈な環を脱し、宇宙と一体化した涅槃の境地に到達しえるとしていた。

 中国式の表意文字つまり漢字は、成文化した法律や記録を眼前の事実としえたがゆえに、天皇一族の尊大にとっては、これまた致命的であった。だが代々の天皇に幸運であったのは、それは表音文字ではなく、意味の表記であり、中国の短音節的な抑揚を欠いた発音のために発達したもので、日本の多音節からなる抑揚の多い言葉には容易に適用できなかった※。そこで、日本の言葉の語尾を表現するための音声上の記号が考案される必要を生み、中国語の表意記号と日本の話言葉とを適正に組合す一般的な用法に到達するために、長い実験的期間が費やされた。中国式の成文体系が日本式発想のための驚異的な道具となるためには、二百年以上を必要とした。この二百年間は、宮廷の筆記官にとっては、彼らの主を納得させる、過去についての受け容れ可能な見解を打ち立てるための十分に長い時間となった。

(※ 中国の話し言葉と日本のそれはまったく関係性がなく、互いに理解できない。しかし、現代の中国語と日本語は、共通して用いられる漢字が発音とは無関係に意味を共有しているため、書き文字を通じての意思疎通は可能である。 )

 こうした文化的抗争に勝利したのは貴婦人たちであった。西暦562年、天皇一族は、朝鮮半島のカラクにある古代よりの領土を、中国に支援された隣接する朝鮮人王国に奪われた(新羅、任那の併合)。中国文明の威信はますます高まった。西暦587年には、第三十一代敏達(びだつ)天皇が、その死の床で仏教を取り入れた。宮廷の武器部の物部一族は謀反を起こした。宮中の九州系母権一族は物部一族を皆殺しにし、そして、典型的な日本的妥協として、物部一族の一母の息子、聖徳太子を権力の座につけた。聖徳太子は、国の強化と改革のため、中国化計画に協力することに同意した。

 聖徳太子は神童であったようで、七歳の時に、難しい漢字の読み書きを修得した。彼は、中国の法律体系や文書法を日本に適用する野心的構想をもって、その準備に着手した。彼の調査団の学者たちは、日本で最初の歴史、地誌、文法、法規を記録し、土地測量、徴兵や徴税に相当する秩序立った初めての導入計画を立てた。最も重要なことは、親族の宗教である神道と、新しい宗教である仏教との間の、最初の和解を成し遂げたことである。仏教の僧侶は祖先を祭る神社を受入れ、そしてまた、(八百万の)自然の霊をブッダ自身の顕現・・・菩薩・・・と相並んで受け容れた。それゆえ代々の皇統は、輪廻の不面目から免れ、死んでゆく際、無条件に涅槃に到達しえると理解されるようになった。

 改革の計画のほとんどはまだ机上のものであったが、聖徳太子は、西暦621年、四十九才で死んだ。彼の先導がもしなかったとしたら、天皇家と連なる神道王子たちと九州の天照大神系の王子たちは、たやすく仲たがいした。首都市街で生じた小戦争は、九州の女権派の蘇我一族を国の専制君主とさせた。その二十四年後の西暦645年、皇太子(中大兄皇子)と中臣一族の子孫(蘇我鎌子)は、周到に準備された逆クーデターを起こした。彼らは、朝廷の政庁において、皇后の目の前で蘇我の王子を殺し、他の者を都から追放した(大化の改新)。蘇我一族は自らの屋敷に立てこもり、それに火をつけ、自らも焼け死んだ。彼らはその死に、おおくの家来と、聖徳太子が編纂した調査記録や文書を道連れとした。
 
 
 
■ 御簾越しの統治

 天智天皇(元中大兄皇子)と内臣(うちつおみ:新設された要職で後の内大臣)の中臣鎌足(なかおみかまたり)は、成し遂げたクーデタを、聖徳太子が残した計画を推進することでさらに徹底し、政府の全面的改革に取りかかった。この大化の改新(645~655)では、地方統治機関、戸籍調査、土地測量、皇位への請願権(訳注)などをもつ、中国をモデルとした官僚機構が導入された。武器は戦時のみに使用するよう兵器庫に強制的に収集された。こうして、少なくとも数世紀にわたる争乱の後、人は略奪に出くわす恐れなく、終日でも出歩けるようになった。

訳注:この 「皇位への請願権」 とは何を指すのか不明。人と土地の私有が廃止され、すべてが天皇(公)に帰属するとされた、いわゆる 「公地公民制」 のことか。

 670年、老いた賢者であり変革者である中臣は臨終の床にあった。その彼に名誉を授けるため、彼によって任命された者であり弟子である天智天皇は、妊娠中の自分の妾を彼に贈った。そこで天皇がそえた言葉は、「もし生まれた子が女なら、むろん私がその子の面倒をみる。もし男だったら、貴殿はご自分のものとなされよ」であった。そしてその子は男児で、天皇天智は、後に死ぬ前に、この子に藤原の氏を授けた。この庶子の皇室一門、藤原家は、中臣の内臣の地位を引き継ぎ、その後1275年にわたって、天皇の側近の寵臣となった。1937年に日本を戦争に導き、1945年に服毒自殺した近衛宮は、その藤原家の最後の人であった。
 

 
 八世紀および九世紀の間、右大臣、左大臣、内臣として、藤原家の宮廷生活は、儀式と衣冠束帯の壮麗さへと変じた。宮廷の中庭は、そのいたるところを、恰幅の良い老人たちがかしこまって歩いていた。その衣装の色や形、そのお辞儀の度合いなどすべてが定められていた。そしてその頭には、学者の角帽にも似た、身分を表す様々な形や大きさの黒漆の男根状のシンボルを冠した固い黒絹の帽子をかぶっていた。広い四角形の玉座の間は、白い畳敷きの床の上に、天皇は、口紅をつけた金ぴかの人形のような姿を次第に顕著としてゆき、風変わりなシュールリアリズム風演技の真中で、ただ静かに座していた。彼に関係する人たちは、そうした世離れした禁忌な存在となり、もはや天皇自身もそう呼ばれることもなくなり、天朝とか、禁裏とか、禁中とか、主上とかと、婉曲的に言われるようになった。その中のひとつが、作家ギルバートと作曲家サリバンによるオペラ『みかど』すなわち「御門」である。

 藤原一族は天皇を制度の中に封じ込めつつ、天皇に与える全ての助言の責任を自ら引き受けていった。そうした責任のあり方が、日本人に天皇の「御簾越しの統治」として知られる、最高権威のあり方であった。つまり、そうした天皇は、特別の機会において「鶴の一声」を発する以外、彼は最後まで御簾の向こうに隠れ、明らかなことは何もなさなかった。彼は大臣たちの助言を受け容れ、必要とあらばそれを再考するよう尋ねた。彼は統括し裁可したが、決して、公式には先導しなかった。すなわち、もし国事がうまく運ばなくなった時、藤原一族がすべての非難を引き受け、天皇はその批判や暴力的威嚇の対象外とされた。この宙に浮いた名誉と誇りの風土にあって、そうした責任のあり方は危なっかしいものであった。藤原一族は、一部、権力と富のため、一部、天皇に由来する純粋な宗教的確信からそれを引き受けていた。

 藤原一族による、この巧みな人造の幻想劇による支配を通じ、日本の人々は、次第しだいに、生きた神であり、無限な無であり、無力な全能者といった、逆説的な国の首長の存在を信じるようになった。そして藤原一族は人々に、国の統治とは家族関係同様の事柄という長く根付いた伝統が日本にはあり、天皇はその国という家族の親だ、と説いた。そうした社会身分制度のなかで、だれもが、自らの身分の軽重に応じて、その家族的話し合いにおける発言権を分有していた。うち天皇は、父親として、重すぎるほどの最高権威を持ち、誰もが、悪とされるものから彼を守る使命を負っていた。この国の家族として生まれることは、彼に対する「限りのない義務」を負うことであり、その家族の一員としての誇りに基づく、彼に従いかつ疑問をはさむ余地のない厳しい責任を負うことを意味していた。彼が行使しうる要望は限定されていたが、藤原一族の後見のもとで、天皇は、意味深淵な神託風な説話をとき、それはいかなる解釈をも可能とした。そうした天皇の隠れた意志にそい、その国家家族の利害に従うことは義務であった。明瞭な説明を求めることは常に不必要で、天皇の意思が誤解された場合、(当事者は)その全非難を受け止めなけれならなかった。

 藤原一族は宮廷の要職を占め、670年から1945年まで、歴代の天皇に助言し、あやつった。1165年までは、同一族は、政府の行政を積極的に率いた。その間数世紀にわたって、彼らは日本の政治に独特な性格付けを行った。それは、彼ら自身の資質・・・その家族的伝統と遺伝特質・・・を反映させたものではあったが、継承されてきた日本全体の特性に基づいたものではなかった。ほぼ例外なく、藤原一族は、近親血族である天皇と同じように、政府官吏を監督したり、必要な法体系を整備したりすることには大した関心を示さなかった。彼らの発想法においては、国を治めるとは、あたかもその一挙一動が美的実践であるかのように、合理的というより、芸術的・・・生きた事々を用いて演じられる技巧のゲーム・・・事柄であった。彼らは歴史を、あたかも自分たちが織る情緒的織物のようにそれを扱った。彼らは儀式と策謀を好んだ。赤裸々な力が彼らを動かした。彼らは、手際のよい暗殺をむしろ得意とした。繊細、洗練、好色、そして高い読み書き能力をもつ彼らは、同時に、迷信的、因業的、不道徳で、日本に天皇血族の神性を温存させ、自らの貴族的嗜好にふけった

 藤原一族の勢力の根源は、さほど彼らの政治的手腕によるものではなく、あたかも、代々の外見の良さと、彼らの姉妹や娘の魅惑を丹念に活用したがゆえかのものであった。千三百年の間、宮廷にこれ見よがしに出入りする妻や妾の四分の三以上は、藤原血族であった。そうした女たちの多くは、十歳に満たないうちから寵愛の技術の手ほどきを受け、十五歳になる前に、皇子たちを生んでいた。724年より1900年の裕仁の誕生までの十数世紀にわたって、76人の天皇が(一代で)、少なくとも54人の子を誕生させるという驚くべき多産な記録を打ち立てている。常時、通常二十人の女たちが天皇の寵愛を受け、また、流行病が十年ごとに侍従たちを激減させていた宮廷では、藤原女性の、衛生、魅力、感性、知性、そして献身的な熱情は、男の英雄以上のものと受け止められていたに違いない。

 670年から950年までの間、藤原一族は日本を巧みに統治し、次第に政府を強固なものとし、東日本へと勢力を広げ、そして内乱を最小限度に抑えた。藤原一族の大臣や女官による優れた治世のもとで、代々の天皇は、その荘厳な野蛮さを失い、教養を身につけるようになった。歌を読み、仏教の教義を学んだ。彼らは、その仏教統治の根拠地として、恒久的な首都を受入れ、710年に最初に奈良が大和政権の中心となった。そして794年、奈良において仏教僧侶による横行が過度となったため、奈良の北18マイル(約30km)の京都※が次の都となった。燦爛たる宮廷の庇護のもとで、みごとな絹織物、未塗装の香気ある木造品、気品ある磁器類、派手な漆塗り、そして屏風画など、日本がいまなおその伝統をもつ、様々な手工芸の発達をもたらした。

(※ 京都とは、都の都、を意味する。日本の現代の首都、東京、は、東の都を意味する。京都はその初期、平安、つまり平穏な平和、と呼ばれ、東京は、江戸、つまり運河工夫の戸口(著者の誤解か)と呼ばれた。)

 日本の独特の料理法は、主に、京都の宮廷が生みだしたものである。当時、今日の主食である、米、豚肉、牛肉、鶏肉などは、庶民には高値の花だった。百姓たちは、大麦、アワやヒエ、魚、貝、海藻、豆、根菜、野草、蕨などで命をつないだ。宮廷の貴婦人たちのみが、そうした食物をためし、また、多彩に味わった。その富が、たくさんの、米、大根、魚、小麦粉を浪費し、比類なく多様な漬物や味噌や豆腐を考案することを可能とした。彼女たちの夫である武士たちは、弓や刀をたずさえ、日毎、鍛錬のために山に狩りに出かけ、野生のイノシシ、シカ、キジの肉や、タケノコ、キノコ、レンコンなどを持ちかえった。それらを用い、宮廷婦人たちは、たとえば今日のレストランで好き焼きとして楽しまれているような、日本の独特な肉料理を作りだした。大衆は、そうしたものが存在していることすら知らなかった。仏教は肉食を禁じ、宮廷は人々に信心深いことを奨励した。一千年間、皇室の王子たちは、著名な仏教寺院の高僧として仕えたが、私的には、京都の肉屋や肉料理人のギルドの秘密の後ろ楯であった。十九世紀になって、食肉の習慣が再び広がり、神戸の(輸入された)家畜貯留場に初期の西洋人街が現われ始めた時、日本で牛肉を食する人たちは、自分たちが口にする新奇な日本料理が、新たに考案されたものであると信じていた※。

(※ それがゆえ、東南アジアからの輸入によって、米が国民の主食となり、大麦やヒエ・アワが下等な食物とされるようになった。)

 天皇は最初、仏教への新たな信仰を冷やかに見、改宗を制御する目的でのみそれを研究していた。だが、やがて多くの宮廷人や女たちがその寛大な神秘主義への祈りに傾くようになった。そしてついに、歴代の天皇自身も、その神学的な精緻さに熱中するようになり、仏教信者の助言に頼るようになった。749年から758年まで皇位にあった考謙(こうけん)女皇は、おかかえの僧侶(道鏡)を寵愛したため、彼を自らの愛人として皇位に着けようと謀っていると言われた。しかし、これは、女皇の下の藤原一族の大臣らの行動を正当化するためにされた流言で、彼女の退位は同一族の復権を意味した。藤原一族の目には、女皇は反目を助長させる愚かな失政・・・動物の殺生を禁じ、さらに別の新宗教に傾注・・・をとっていると見えた。この新宗教とは、中国より京都を訪れたネストリウス教徒の一団の教えであったが、彼女の皇位罷免によって、キリスト教の影響は、以後八百年間、日本から消え去ることとなった

 藤原一族が天皇を御簾の内に隠したのは、その内在者を守るためのもので、窒息させるものではなかった。もし、ある天皇が政治や権力行使への天性を示したなら、その在位中その(御簾の内の)立場を甘受しなければならないわけではなく、また、もし彼が皇位を投げ出したり、幼少であったりした場合、その御簾の背後からの独裁的スタイルに託してその能力を示すことはもっともなこととみなされた。力ある天皇にとって、若くして引退して隠遁生活に入り、自らの宮廷を設立して治世拠点とし、それを通じて、政治をつかさどる藤原一族を動かす、というのが通常の(院政と呼ばれる)形態であった。時には、自分の後継者より長生きする天皇もおり、数代の天皇を背後より操った。あるいはまた、後継天皇が退位したとしても、策謀を駆使して彼に競合したりもした。1301年には、少なくとも五人の引退した(院政)天皇がおり、それぞれが、自らの寺院から日本を治めようと奮闘した。

 794年から1868年まで日本の首都であった京都は、それまでの首都であった奈良に比し、僧侶たちによる支配がさらに強まった。松の森林に覆われた急峻な比叡山・・・天皇のそれに比べられる知恵の山・・・の頂きに、千を超える寺院が建てられ、そこを根城に、好戦的な坊主たちが頻繁に山を下り、対抗する政府庁舎に扇動的な急襲をかけるのも茶飯事であった。天皇家の宗教である神道は無用と化そうとしていた。946年以来、歴代の天皇は、重要事項を祖先に報告するために使者をその墳墓へ送ることをしなくなった。そして自分が死んだ際にも、もはや自身を埋葬する巨大な山を築くことはせず、自らを火葬にふし、小さな白い箱に納め、京都の方形の墓苑の中のこじんまりとした石の碑のもとに埋葬した。しかし、彼らが身に付けた(神道への)懐疑は、広く大衆に共有されていたわけではなく、時に応じて、民衆の迷信的信仰は宮廷に再感染し、一時的な神道の再興を起こした

 性的密通や、歌、絵画、新しい妾、そして時々の争いをまどろむなかで、日々、年々、あるいは数世紀が過ぎ去っていった。人々は、藤原一族の世を満喫していた。彼らはモンペをはき、わら笠をかぶり、田を耕し、今日の日本の農民とほとんど同じように、十分の一税を払っていた。日本の中心の島、本州の谷という谷は、しだいに耕作用に転じられ、農耕民たちは、狩猟生活を維持していた石器時代のかつての同僚に山間地帯でのみで遭遇していた。しかし、そうした国土の兄弟も、素早い弓使いに加えて上質な鉄の刀を使うようになり、強敵となりつつあった。無法者たちは、そうして形成された厳密な身分社会から排除される運命にあった。

 肥大する貴族階級は、屈強な殺し屋を仕立てることを思いついた。天皇や藤原一族はたくさんの子供をもうけており、次男たちがそのために役立てられた。彼らには地方領主としての地位が与えられ、都から追いやられ、不満のうちにそこに赴いた。だが彼らは、次第にあらゆる古代部族を一掃し、日本には荘園領主に天皇一族が納まっていない地方はほとんどなくなる程となった。しかし、次男たちに無税の領地を与え、彼らに土着民を農奴として与えたことが、不可避な問題を引き起こした。東部のアイヌ族はくり返し謀反をおこし、皆殺しにされなければならなかった。中央の貴族たちは、地方の統治を過大評価し、自らは京都問題に専念することを望んでいた。だが悪いことに、辣腕の次男たちに与える土地には限りがあり、それにその無税の領地は、政府の拡大する支出にその収入が追いつかなくさせる事態を生んでいた

 歴代の天皇は、近視眼的にも、つねに全国土を自身の領地と見なすばかりで、特定の皇室領地を収入にあて、わずかな景勝の領地を楽しみのためとするようなことはしなかった。950年ころまでには、細る税収では賄いきれない宮廷の不足額を埋め合わせるために、藤原一族の金力に頼らざるをえなくなっていた。日本は、華族国家に陥りつつあった。その華族とは天皇一族のことで、彼らが親族であり、また鉄器時代の武士の一族でもあったことから、古代部族の首領のように手荒には扱えなかった。それなりの資産を保有していると自任していた藤原一族の京都の諸分家ですら、平安を維持するために、武士階級や護衛たちに危なく頼っていることを覚らざるをえなくなっていた。もはや、有効に政治的バランスを保持し均衡を保つためには、用心棒を雇う程度ではすまなくなっていた。腕の立つ大将に率いられた武士階級を備えた地方領主の身内との忠誠関係を維持することが不可欠となっていた。 
 
 
 
■ 将 軍

 天皇を牛耳る藤原一族に取って代わろうと企んだ西日本の王子(平氏)の一団との戦争(源平の合戦)の後、東日本の王子たち(源氏)は、1192年、東京に近い鎌倉に設立された当座の組織を、東日本を統治する恒常的な本部、すなわち幕府・・・天幕(テント)住い政府・・・と定めた。後鳥羽天皇は、その首領(源頼朝)に、征夷大将軍、つまり野蛮部族を征服する大将、との名称を授けた。この名称は、後に「将軍」と短縮され、西洋の辞書で言う、「日本を支配する軍事総督」との意味をもつようになった。ただし、実際に将軍が日本全体を支配したわけではない。というのは、将軍は、表面的な忠誠、時には服従をもって、天皇の家臣としての地位を維持したためである。そうではあったが、将軍は東国を支配し、その後の七百年間、日本の軍事バランスを握る武士階級を統率した。

 かくして、頂上の「御簾の背後」の天皇、第二層で宮廷での実権を握る藤原一族に代わり、第三の政治勢力が登場することとなった。さらに、この第三勢力は第四勢力も従えていた。将軍とは、地方住いの小君子で、その幕府つまり天幕政府の実権は、参謀ないし憲兵司令官という行政執行者たちにあった。この第四勢力の武士階級統率者たちは、天皇の遠い親戚ではあった。彼らは、自らをのしあげ権力を握るために兄弟も殺したが、その頂上に位置する神のごとき存在である皇位までは手を出そうとしていなかった。

 宮廷が優位をほこる京都にあっても、そのほんの近辺まで、将軍つまり武士団司令官の軍事政府とその参謀、諜報員、そして兵卒が土地豪族を統率し、税金を取り立てていた。彼らはやがて、そうした日本の暫定勢力を統一し、天皇をただの宗教的権威以外には何も持たない存在へと追い込んだ。しかし、高僧として、天皇は常に、政府高官の就任のすべてに、それを授与し祝福する権威を維持していた。それをもってはじめて、彼らは国事の統治者であることを自ら名乗ることができ、逆に、国の重要事項について(天皇と)相談する義務を負った。ことに、そうして彼らは、日本の下層武士に関する絶対的権威を名乗りえた。移り代わりはありながら、そうした彼らの主張は決して否定されなかった。

 この新たな四層建ての統治機構において、各々の階層の要職は世襲となった。鎌倉幕府の参謀長は、戦に敗れると、その地位を息子や兄弟に譲った。鎌倉幕府の将軍も、敗戦は同じ条件を負ったが、京都の藤原一族の国務大臣たちは、失政をもって同じ運命となり、天皇は、私的理由か、ことに大地震後の国のみそぎ儀式としてのみを理由に、退位した。

 1221年、皇位から退いた後鳥羽上皇は、将軍の勢力の拡大に危機を感じ、自ら鎌倉に移り住んで、将軍を排斥しようと企んだ。上皇は、その計画を準備しつつ兵を集める一方、日本の伝統的策略・・・好色にふけり、国事に携わる能力を欠くと見せて・・・に出た。その策略において彼は、透けた着物を着た宮廷の女たちより水で薄めた酒を勧められるままに飲んでいた。将軍の諜報員たちはそれに驚いたが、それには騙されなかった。将軍は京都に到着し、後鳥羽上皇の操る幼少の天皇に退位を強い、将軍(訳注)の甥をそれに代わる幼少の天皇に着けた。その日以来、京都は日本の政治の中心としての地位を失い、東国がそれにとって代わった。しかしながら、皇室の扱いは相変わらず丁重で、国の聖職として、京都での閑職を維持することがゆるされた

訳注:英原文では「上皇」となっているが、著者の書き違いではないかと判断される。

 
 
■ フビライハン

 最初の将軍家である源氏の政権の間、隣国中国はロシアの平原からやってきたモンゴルの騎馬民族によって侵略されていた。1268年、北京の新たな支配者であるフビライハン(元の第一代の皇帝)・・・彼の祖父、ジンギスカンはアジアのほとんどを征服した・・・からの使者が、「貴国のような小さな国の王」は、モンゴル宗主国に服するか、それとも侵略されるか、と要求する手紙をもって日本に到着した。その手紙は、至急に鎌倉の将軍に送られた。彼はそれを大変重要とみなし、天国のような宮廷の平和を乱させようと決断し、その手紙を天皇に託した。

 京都では、フビライハンの要求を拒否する周到な文書が用意された。その返信は鎌倉に送られ、将軍に深慮を求め、その内容が適当なら送付するよう促した。それをきっかけに、将軍は国をまもる自分の責任を肝に銘じた。将軍は、天皇の文書が、余りに奢り高ぶりかつ緩慢で、非現実的であると決心し、返信も受信の確認も持たせずに使者をフビライハンのもとに帰らせた。フビライハンは憤然として、忠誠を誓っている朝鮮の国王たちに大船団を作るように命じた。朝鮮の王たちは、外交的な判断から、そうしたフビライハンの意図を日本側に伝え続けた。

 両国は、六年間にわたって準備を重ねた。そしてついに、1274年、一万五千人のモンゴル人と八千人の朝鮮人が朝鮮の港を出帆、日本の西部に向かった。彼らは最初、九州沖の二つの島(対馬と壱岐)を襲った。それらの島の日本人守備隊は、全員が死ぬまで闘い、英雄的な先例を打ち立てた。

 次に、モンゴルの船団は、小倉・・・671年後、原爆投下からかろうじて逃れた幸運な第一目標都市・・・の南西の博多に上陸した。日本側は、海岸線で猛烈な防御作戦を展開、一方、九州中部に待機する部隊には、参戦が命ぜられていた※。その夜、嵐が吹き荒れ、侵略船団の朝鮮人船長は退却を余儀なくされた。上陸したモンゴル人大将は、しぶしぶどころか、その機会に飛びついた。彼らの損失は膨大だった。彼らが本土に帰り着き、態勢を確認するまでに、二万三千人のうち、一万三千人を失っていた。

(※ その英雄的な司令官は、天皇家と天照大御神の地元の女族長の御曹司である島津久恒である。彼の子孫や強力な薩摩一門の子孫は「九州派閥」・・・1920年代に日本の侵略的な南進策を画策した・・・の一員である。)
 

 
 フビライハンは、悪天候という言い訳は受け入れたが、彼の誇りへの挫折には至らなかった。翌年、平然にも、彼は再度、使者を日本に送り、戦闘が始まる前に、日本の降伏を要求した。だが将軍は、その使者の首をはね、国の総力をあげた防戦態勢への天皇の許可を獲得した。フビライハンは南中国での戦乱に勢力をさかれ、彼の突進を再開するまでには、さらに六年を要した。

 日本はその準備を精力的にすすめ、「無数の夜打ち船」を造って中国船をなやまし、延長100マイル(160km)以上の石垣を築いて防衛線とした。日本のあらゆる、男、女、子供がお金や労働を国の兵器工場にささげた。

 1281年、フビライハンはその憤懣を放出した。彼は、広東と朝鮮の船のすべてをこの戦に投入でき、十四万人の部隊・・・そのうち四万人は恐るべき彼自身の北部兵士・・・を輸送可能としていたことに満足した。部隊は、日本人が築いた石垣の・・・ことにその突入点となりそうな両端はもっとも強固となっていた・・・境界線上に上陸した。中断のない五十三日間にわたる接戦が繰り広げられ、ことにその長い石垣の両端ではなはだしかった。そしてついに、1281年8月15日と16日、「神風」が二日間にわたって吹き荒れ、モンゴル艦隊を打ちのめした※。嵐が去った後、その十四万人の中国部隊のうち、生きて本国の土を踏んだのは、半分以下だった。

(※ それから664年後の1945年の8月の同じ日、多くの信心深い日本人は、「神風」が再び吹き荒れる時を心待ちにして、自分たちの神社に祈り、訴えていた。)
 
 
 
■ 朝廷分裂

 蒙古の襲来に対する偉大な勝利の後、日本の武士たちは、安堵はえたものの結束する理由を失い、お互いに争い始めた。鎌倉の将軍の統治力は失墜し、京都の皇室は二つの流れに分裂した。1339年から1392年まで、皇室は二つの朝廷となった(南北朝時代)。京都の南の山中(吉野)を拠点とする南朝は自らで統治権を握ろうと欲し、他方、京都の北朝は全権の代表を望んだものの、軍事的実力者将軍には宗教的な権威のみにあまんじようとした※。神道を強く信ずる者は、南朝が鏡、剣、玉の三種の神器を所有していることから、真の宮廷は南朝であると考えていた。首都京都の北朝は、反逆した詐称者によって占められていると見られ、正統を維持しているものとは見なされなかった。実際のところ、北朝は、相続権に関しては正統を継ぐものを持っていたが、聖権を継ぐお守りを欠いているために、自らそれを確信させえず、その権利の横領者としての汚名が忘れられるまでには、その後数世紀を要した。裕仁自身、1930年代、北朝の流れをくむと指摘する非難者によって手ひどく悩まされた。

(※ 偶然にも、同時代のヨーロッパでも二人の法王がおり、ひとりはローマに、他はアビニョンにあった。)

 朝廷の南北分裂時代、自らの主張を実証するために、南朝は宮廷の神道を見直し、重積したもろもろの仏教的装いを一掃した。それ以降、裕仁の時代まで、司祭行事の際に神道や祖先礼拝を重視する天皇は、自ら権威を行使しようと望む復古主義者となり、また、教理を説きお経を熱心にあげる天皇は、表看板で満足する儀式主義者となるということが、大雑把な傾向となった。

 1392年、南朝の皇太子が有利な財政的条件で妥協(三種の神器を返上)し、天皇家の分家として京都に戻った。しかし、彼らの条件付き復帰は、平和の永続をもたらしたわけではなかった。1467年(応仁の乱)から1600年(関ヶ原の戦い)まで、内戦が絶え間なく起こった(戦国時代)。領主や地侍は、スコットランドの羊泥棒のように、その荘園を拡大し、確保するために争った。この世襲の武士階級は、神武天皇とその海賊出身の副官たちの子孫であり、ゆえに、帯刀することが許され、鎧をまとい、馬に乗って、農民を厳しく抑圧した。彼らは、スパルタ風の騎士道精神を遵守し、金銭を遠ざけ、報酬のために仕えることを良しとしなかった。だが、その極端な忠誠心は、その領主のみに有利なものであった。それ以来、彼らは、金や銀に触れることをタブーとし・・・十九世紀の日本の陸軍将校は、いまだに、彼らの報酬を広げた扇で受け取り、下士官に手渡していた・・・、武士階級は土地からの上がりで生計を立てるべく身分付けられ、どこに投宿しようとも、その料金を請求されることはなかった。彼らは、平民から保護を求められている武士や領主である場合を除き、農奴や農夫を殺す権利を持ち、その行為の責任は問われなかった。また、武士は一対一の決闘で相手を殺す権利を持っていたが、その家族による仇討のしきたりは受けねばならなかった。

 戦で領主一家が全滅した時、その家臣たちは、主を失った武士、つまり浪人・・・字義上ではさまよう人・・・となり、運命に身を任せ、機会をとらえては自らの忠誠を売った。同じ浪人という言葉は、八百年前、アングロ・サクソンの英国で、主を持たない兵士たちを言う言葉でもあった。英国の浪人は雇われて山賊や荒海の海賊になった。日本でも同じであった。十六世紀の初め、日本の浪人たちは中国の沿岸を襲い、遠くは、バンコック湾やマニラ湾までもの海域に出没した。1550年までには、ビルマ、タイ、カンボジアの王たちは、日本の信念ある人殺しを雇って、自らの護衛とした。

 日本では、庶民たちは、終わるともしれぬ兵たちの行軍に悩まされたが、死ぬのが武士であり、破産したり領地・財産を奪われるのが領主であった。そうした戦国時代、統計が示すように、その国は全体として、裕福であったと見られる。人口は1500万人から2500万人に増加し、同じ時期のフランスのほぼ二倍、スペインのほとんど四倍、そして英国の優に五倍を超える人口を持っていた。商工階級は、物質主義者として武士たちからは蔑まれたものの、戦からの利益をえて富を築いていた。日本の漆塗りや鉄製品は世界で最高であった。日本の貿易商人は、バタビアやカルカッタまでも商売の手を広げていた。東アジアで、日本は追随をゆるさぬ武器輸出業者であった。鋭い刃をもつ日本刀は、トレド(スペインの名刀の産地)のムーア人職人の間でも、有名かつ羨望の的であった。

 京都地方は、その都に大半の大領主(大名)たちが自らの軍勢を保持していたために、戦国の世の最大の打撃をうけた。各々の領主は、隣り合す敵をせん滅する作戦への天皇の承認をえようとした。しかし皇室は、皇太子同士の間で、復古主義に傾くものと、儀式と宗教力に頼るものとの対立をかかえており、ほとんどその希望にはそえなかった。そうした混乱の時代にあっては、天皇は、領地を一平方マイル(約2.6平方km)も持たぬ、気位の高いばかりの家臣に、満足な食事を出すよう命ずるわけにもゆかず、そうした皇室内の議論は、最上の場合でも口論上の域を越えなかった。その幾年もの間、皇室は幕府からの何の手当ても得られず、京都周辺地方では、わずかな皇室所有の土地や森林からもその地代も徴収できないほど、世は乱れ切っていた。その当時、天皇や藤原系大臣に近くない宮廷の下層の家臣たちは、安全な生活をもとめて、自分の郷里に戻らなければならなかった。

 1500年、将軍が公式の葬式に十分な費用を出し惜しんだため、後土御門(ごつちみかど)天皇は、埋葬されぬまま四十五日間放置されるという恥辱にさらされた。その後継者、後柏原天皇によれば、その公式の即位式典を、財政上の理由で二十二年間も延期するほどに困窮していた。その次の後奈良天皇(1526~1557)も、自分の書を持ち歩かせて京都の街頭で売るといった、哀れな貧困劇を演じさせていた。こうした訴えが功を奏し、彼は勤皇家より十分な資金を集め、宮殿を新築し、地方に避難していた貧しさに苦しむ家臣たちを呼び戻すことができた。
 
 
 
■ 野蛮人

 最初のヨーロッパ人が日本にやってきた時は、朝廷の不運が最悪の事態に達していた丁度その時であった。そうした最初の欧州人には、困窮と権威、ましてや宗教的権威とが結びつきうるとは考えられなかった。したがって、彼らは、皇位の最初の印象をただ貧困とのみ受け取り、そう記録した。そしてそうした記録は、その後、天皇がキリスト教徒を恐れ、あらゆる情報を外国に出さなくしたため、後々まで修正されることはなかった。ほとんどの日本人にとって、外国人はよその地からやってきた人間なのではなく、他の惑星からやってきたかのような、人間の姿をした別の生き物であった。したがって、彼らは「夷(えびす)」・・・もともと、残忍で、狭隘な、ギリシャ的意味における、野蛮人との意・・・と呼ばれた。京都の司祭的支配者によって、彼らは、聖なる土地をけがし、そこに埋葬された霊魂を怒らせる、不浄な害虫とみなされた。

 朝鮮や中国よりはるかに遠く、海のかなたでの人間の存在は、日本では、六世紀以来、認識されてはきており、十二世紀以降では、最初、海賊によって報知されるようになった。世界一周航海者マゼランがフィリピンの所有権がスペインにあると主張した1521年から、少なくとも一世紀前、日本の船乗りは、南フィリピンのミンダナオ島スルのサルタン国に仕え、そこに定住するようになっていた。1510年以降、日本の冒険者は、インド西岸のゴアで、ポルトガル人と交流を持っていた。1529年、日本の海賊は話を聴取するために何人かのインド人を日本へ送り、京都の宮廷官吏が彼らを尋問した。海賊のもたらす世界についてのニュースは、定期的に南九州薩摩の島津家・・・1274年に蒙古を撃退した際の功労者・・・に伝えられており、それは分析のために京都の将軍や天皇に取り継がれていた。

 1542年、最初のポルトガル船が九州の港に姿を現した。それを早くから予期していた日本の役人は、彼らを歓待をもって迎え、敵意は表さなかった。六年間にわたった西洋人との交流は、散発的だったが友好的で互いに危害は加えなかった。そして1549年、長崎に最初のキリスト教宣教師が到着した。彼らは、後に聖人と認められることとなった、イエズス会のフランシス・ザビエルに率いられていた。政府は聖ザビエルの行動を念入りに追跡した。彼は、たゆまぬ精勤によって、すばやく日本語による有用な知識を身につけ、彼の表現によれば、その困難さは、まるで 「悪魔の操る仕掛けのごとき」 であった。

 二年間の勤勉の後、彼は、日本には将軍の上に天皇がいるという、禁じられた知識に達した。彼は、ほとんど徒歩で困難な旅をして京都に上り、後奈良天皇への謁見を申し出た。それへの返答は、将軍は京都を離れているのでその要望を中継ぎできないし、ともあれ、天皇・・・書を売っていた天皇・・・は隠遁生活をしている、というものであった。京都の街路は斬り合う武士たちであふれ、聖フランシスはそこで宣教をするのは望み薄であると覚った。そして数日後、彼は南九州へと引き返した。彼は天皇に会えなかったが、彼は手紙で、京都で自らの地盤を築く「天皇」と呼ばれる無力な精神的指導者の存在を(本国に)伝えていた。その後三百年間、天皇に面会した西洋人はおらず、西洋世界では、彼の存在は忘れ去られてしまっていた。

 そうした戦乱の日本を注意深く観察していたヨーロッパ人は、侵略の恐怖と鉄砲の知識、という二つの切り札を日本に持ちこんだ。1543年、三人のポルトガルの冒険家が、中国の交易船にのって、九州南端先の種子島に到着した。その際、種子島の領主は即座に彼らを雇い、彼らの持ち込んだ武器、鉄砲の使い方を習った。一ヶ月間の教習の後、領主は大いに感嘆し、かれらの火縄銃二丁を、驚くような高額である二千両で購入した。この額は、日本の職人がおおむね三十年間で稼ぐ収入にも相当するもので、現代のアメリカの基準に照らせば、およそ18万ドルになる※。そしてその領主は、その鉄砲を模作するため、それを刀鍛冶の親方に渡した。銃尾のスプリング部がうまくゆかないその親方は、その数ヶ月後に種子島に立ち寄ったポルトガル船の船長に自分の娘を贈り、その見返りに船の鉄砲鍛冶からの教えをえた※。

(※ 今日の日本の基準でいえば約6万5千ドルであるが、1545年当時と比較して、今日の日本の職人の給料は世界のそれと比べてかなり低い。)

(※ 一度銃作りのこつが飲み込まれると、それは急速に広がった。すでに世界一の刀鋼の製作者である日本の職人たちは、たちまちのうちに、火縄銃の銃口と銃尾を大きくし、銃の殺傷力を強めることができるようになった。多数の購入者のために、彼らはその使い方を試して見せた。また彼らは、火薬の敵である雨から守るため、かれらの製品を見事な漆塗りの防水の箱に収めた。その当時のヨーロッパでは、鉄砲はまだ特殊な装置で、通常の戦争の道具を補助するものとしてのみ使われていた。だが日本では、それがあまりに急速に改良されて採用されたため、軍事史研究家の中には、最初の近代的な歩兵隊と歩兵術は、この国で発達したと述べるものがいるほどである。それから十年以内に、日本のあらゆる領主のもとの兵器廠では、鉄砲と大砲が作られており、それまで二世紀にわたった武士道による戦争は、火薬の爆発音とともに姿を消していった。)
 
 
 
■ 鉄砲の威力

 鉄砲の発射音を初めて聞いた者のひとりに、その父親の死により年若くして自領の指導者にのしあがった十五歳の少年がいた。1535年、京都に恒例の火災で宮廷の半分が焼け落ちた時、その父親は気前よくその修築のための寄付を行った。そのおかげで、その息子は、まだ若年にもかかわらず、宮中よりの恩寵と情報を得るようになった。彼の領地は、東京と京都の間、尾張地方にあり、名古屋港や三種の神器のひとつである剣を所有する熱田神宮を領有していた。

 その少年の名は織田信長といい、天皇家や藤原家の血を引いていた。彼はまだ無茶な年頃であったが、それまで、本に代わって、父親の武将たちとともに過ごしてきていた。その父親が織田城を彼に残して他界した時、彼の師範はその後を追って自決し、彼に自分の道を改めるようにとの遺言を残した。若き織田は、戦に初めて鉄砲を用いて威力を発揮した歩兵の自慢話を聞き、父の後を継いだ最初の行いが、種子島の鉄砲鍛冶に、その新しい武器を五百丁以上、注文したことだった。それは1549年のことで、その種子島の鉄砲鍛冶は、その事業を始めてまだ六年にもなっていなかった。

 若き織田は、軍事的な天才へと成長した。他の領主も銃をもった歩兵を備えていたが、織田のみがそうした歩兵を巧みに展開できた。彼が二十八歳となった1559年、正親町(おおぎまち)天皇は、彼のもとに密使をよこし、京都に来て荒くれる侍どもを追い払うよう命じた。だが、織田が東京と京都の間のすべての領地を征服する1568年まで、彼はその命には応じられなかった。だがその後、彼は完璧に統制のとれた軍勢を引き連れて京都入りし、将軍を退位させて傀儡の新将軍をすえ、正親町天皇には豪奢な新宮殿を建て始めた。以来、その建造にあたる職人たちの目に、天皇といっしょに誇らしげに歩き、植木や石や池の配置の助言を与える織田の姿は、おなじみの光景となった。その無邪気なほどに自惚れた男は、中国の虎皮の陣羽織をまとい、自慢げに生え際まで伸ばした髭をたくわえていた。

 天皇の後ろ楯をえて、織田は領主大名を打ち破り、日本の統一に乗り出した。彼は冷血にも、すべての貴族一族に自殺するよう命じた。彼が忌み嫌う政治的意図のある仏教僧を、彼は、はりつけにして焼き殺した。彼は、地方の聖山のものを除き、京都や大阪の武装した僧院をことごとく壊滅させた。そして、それを包囲しながら手をかけなかった所とは、天皇からそうするようにとの要望をもらっていた所のみであった。

 しかし、彼は、キリスト教徒には寛大さをもってのぞみ、京都地区の一万五千人の転教者と二百の教会を生き残らせた。ポルトガルのイエズス会の純な論理と純な生き方は、(自らが)聖人という彼の考えに適しており、また、人技としてではなく、神の成せる仕業として人を殺すイエズス会の見方は、彼自身の感覚とも一致していた。彼はキリスト教の教えを、鉄砲の弾のように、直接的で実用的であると見た。それは、彼のもっともスパルタ風の武将たちの精神を燃え上がらせた。彼らは、キリストの十字架をかかげ、その象徴を首に下げて出陣して行った。彼らが、最高の神道者よりいっそう頼りになる狂信者であることを織田は発見していた。

 織田が四十一歳の1575年、、彼の生涯でもっとも大きな戦いにおいて、日本北岸の領主たちと遭遇した。それまでに、彼は十万をこえる軍勢を率い、そのうちには、多数の大砲と一万丁の鉄砲を装備した部隊を持っていた。彼の敵対者は、より多くの人と、騎乗した武士と、そして同じ数ほどの鉄砲を擁していた。だが、織田は、過去二十六年にわたり、火器の戦術的な使用において卓越していた。彼は、三千人からなる・・・すべて下層民による・・・最精鋭の鉄砲隊を組織し、もっとも果敢な騎馬部隊の突撃が予想される地点に設置されたジグザグの矢来の背後に、三列にそれを配置した。彼はその千人ずつからなる三隊の鉄砲部隊を、効果的に発砲できるように訓練していた。第一隊が引き金を引いている間に、第二隊はその火縄に火をつけ、第三隊は火薬を装填して銃口を下に向けていた。それまで、騎馬部隊の突撃は、常に、飛び道具部隊を突破することを原則としていた。しかし、長篠の戦いにおいては、織田軍の平民からなる三列の鉄砲隊は、ひざ立ちで構え、狙いを定め、発砲するくり返しを素早く行い、騎馬隊はその刀の届く範囲内まで突入できなかった。およそ一万六千の、その北部武士道の花であった騎馬武士が、矢来の前の野原で死んだ。ヨーロッパにおいてそれに匹敵する戦争は、それからほぼ百年以内には見られなかった。

 長篠の戦いから七年後の1582年、織田は四十八歳になり、彼の力は絶頂に達していた。彼は、軍勢を率いて南に向かい、天照大神の国、九州の制圧をねらっていた。その途上、京都(本能寺)での最後の夜、彼がもっとも信頼していた武将の一人(明智光秀)によって、その動機も、誘因も不明なまま、暗殺された。その武将は、数日後に見つけられ、その背後を明かさぬまま死んだ。権力を掌握した者の精神としては、織田の誇り高さと容赦のなさは、過度に達していた。彼は自分を自らの目的のために仕えさせた。彼のその彗星のような生涯の間、日本の首都である京都の人口は、1550年のわずか二万人から回復し、ほぼ五十万人へと増加していた
 
 
 
■ 日本のナポレオン

 織田の地位はただちに、彼の筆頭の家来である偉才、秀吉によって引き継がれた。織田や歴代の将軍と異なって、秀吉は平民出身で、足軽の息子だった。彼は織田の配下で数々の戦で手柄をあげて出世した。彼は策略の天才で、多くの難攻不落の要塞を、包囲戦や水攻めにしたりして攻落した。また織田と同じく、彼も天皇に敬虔な忠誠を示した。1945年までの日本の歴史において、秀吉に統治された1582年から1598年までの十六年間は、国の実際の支配が、その豊富な蓄積を誇る皇室血族の出身ではない一人の男によって代表された、希有な一時代であった※。

(※ 終戦後、多くの日本人は、天皇がマッカーサーの中に秀吉を見、皇室以外出身の軍事の天才を見、自らが関わらずとも劇的な変化を起こしうる人物などとの理由をもって、裕仁はマッカーサーに委ねることができたと語ったものだった。こうした対比は、朝鮮においての秀吉とマッカーサーの経験における類似性によっても確信さるものでもある。)

 秀吉は日本の統一を成し遂げ、すべての大名に、京都に参上し、天皇にあらたな忠誠を示すように強制した。秀吉は、疑わしい忠誠に代わって、大名の家族を京都に置かせて人質とし、首都にあっての特別の客人として扱った。彼は日本全土の検地を行って税収を確かめ、反政府的な古い主従関係を断ち切るよう、境界線を引いた。まったくの詐欺的な宗教心の発揚ながら、世界で最大の仏像を建造するため、政府以外に存する刀剣を徴収した。さらには、仕事を失くした兵士たちに職を与えるため、海外侵略の道を決心し、朝鮮、フィリピン、マラヤ、シャム、ビルマ、そしてインドの獲得を豪語した。そしてまず、朝鮮から取り掛かった。

 ヨーロッパまでにも風伝された、士気高く優れた武器を身に付けた秀吉の群なす武将たちは、どんなキリスト教国の武装集団にとっても好敵手であったであろう。しかし、朝鮮を通り過ぎるに際し、当時、世界でもっとも豊かで最大の人口をほこる中国を刺激しないではすまなかった。その朝鮮王国は中国の進貢国で、秀吉もそれを承知しており、もし彼がその国に攻撃を仕掛けた場合、中国が黙っているはずはなかった。そこで1591年、彼は、北京にまっすぐに進めるよう日本軍の行進に協力するようにと、いかにもぶしつけに朝鮮国王に要求した。だが朝鮮国王は、一億五千万人の中国は、二千五百万人の日本より、より持続する脅威であると考え、その秀吉の要求をはねつけた。

 1592年の春、周到な準備の後、秀吉は、かっての日本領土、カラクの釜山へ、二十万五千人の遠征軍を送り出した。日本遠征軍のほとんどは無事に上陸したが、陸上戦の将軍である秀吉は、水軍の重要性を見落しており、日本の海賊や交易商が彼に供給線を確保してくれることを過信していた。日本の海賊船は、おもに、九州と本州の間の静かな内海向きのものだった。それに比べ、朝鮮の船は大型で、大砲を装備し、李舜臣という優れた提督に率いられ、日本の供給船団は木端微塵にされた

 供給線の困難にも関わらず、日本の遠征軍は、朝鮮に上陸の後、六ヶ月もしないうちに、釜山からヤル川(鴨緑江、現在、北朝鮮と中国の国境をなす川)まで進んだ。そこで、予想されたように、中国が大軍をもって反撃に出てきた。中国は、最大時では百万以上の軍勢を繰り出し、その数を今日の人口で換算すれば、少なくとも四百万人にも達するものであった。それまで鉄砲の使用を見下していたある武士の留守宅に送られた手紙に注目すると、それは、「鉄砲をもっと送れ」とくり返し伝えていたことである。五倍の勢力を相手とする日本の駐屯隊は、もはや武士の誇りやしきたりも問題にならず、ただ、効果的な殺害手段を求めていた。

 三年間の硬直状態の後の1594年、秀吉は二度目の遠征軍を派遣し、今度も、半島の南半分を一掃した。ほぼ五十万人の犠牲を出しつつ、中国はその二倍の援軍を投入した。制海権を失う危険に至り、利口な朝鮮の李提督は、モニトル号とメリマック号(南北戦争時の鉄装甲軍艦)よりはるか二百五十年前に、世界で初めて、船に鉄装甲をほどこした。獰猛な亀のように東洋バロック調に優雅にデザインされて、その船は日本の木造船の間を櫓漕ぎ力で圧倒して航行し、そして、連続砲撃を加え、我がもの顔に突進した。再び、秀吉の軍勢は供給に困難をきたし、海際に追い詰められた。日本のキリスト教徒と仏教徒の駐屯兵は、どちらがより長く持ちこたえられるか、互いに競い合った。中国軍も甚大な損害を出し、再び、引き分けを余儀なくされていた。

 1598年、和平にむけた交渉が開始されるなかで、秀吉は死んだ。その最後の時、彼は、最も信頼する古くからの同志、徳川家康を、五歳の子の保護者と摂政にさせようと求めた。家康は、秀吉の子の面倒を見ることは約束したが、摂政となることは拒絶した。それに代わり、政権を、秀吉の五人の大将の合議制によって治めることに合意した。本国での勢力争いを予見して、五人の大将は、中国との即座かつかろうじての面子上の和平協約を受け容れた。戦争は終結した。二百年以上の後のヨーロッパで見られるナポレオンの戦争のように、犠牲のための犠牲を生まないために、いかなる妥協も成し得たのであった。
 
 
 
■ 暴君徳川

 徳川家康は、冷血で愛想のない男で、ものうい表情とブルドックのような血走った眼をしていた。だが、統治の才と驚異的な忍耐力に恵まれ、かつ、秀吉とは異なって皇室の血統をもっていた。秀吉の死から十四ヶ月後、家康は、京都の東、60マイル(96km)の草原で、ライバルの大将たちとの形勢を分ける戦い(関ヶ原の戦い)にのぞんだ。宮廷の藤原家系の陰謀を通じて、敵将の何人もを、最後の段階で寝返えらせ、彼を容易な勝利へと導いた。そうして彼は、自身とその子孫を、日本の新たな将軍の地位へと上らせた。

 彼は敵を殺さずに生かしておき、賢明にも、その領地を切り取り、その断片を自分の手下に分けて与えた。彼は、京都と江戸の間の海沿いの通商路にそう街道を整備し、新たな宿場や駐屯所を設置した。彼はまた、あらたに金貨を鋳造して信頼しうる通貨とし、日本の混乱した金融制度に秩序をもたらした。彼は、全国的な警察機構を設立し、職を失った武士に新たな仕事を創出した。それから二年間で、地方にわたるまでもの平和を作り上げ、日本を奇特な警察国家に仕上げていった。長崎に拠点をおいたある英国商人は、その徳川の独裁と本国のジェイムスI世のそれとを比較し、日本は、「世界にこれまでに知られたことのない、偉大でもっとも力のある独裁国」であると結論づけていた。

 1603年、徳川家康は、まだ若年の後陽成天皇に会い、税収の寛大な分配を与えた。それは、天皇に、申し分のない生活を保障し、深い尊敬を払って、徳川の子孫に対する策謀に彼を走らせないための金ぴかの檻であった。軍略を除き、家康は天皇をもはやその地位から退けずにおき、フランス国王が自らを法王と宣言したのに比べ、日本の天皇ははるかに自らの自ら足るものを掌握できていた。その代わり、家康は後陽成天皇に、自分の孫を義理娘として受入れるよう求めた

 後陽成天皇は、そうした親密な同盟関係は、家康が白人の優勢とキリスト教という双子の脅威に攻勢をかけ日本から追い払う何らかの方法を示さない限り、皇室にとっては不可能なことであるとやり返した。家康は、日本を外人排斥に導く必要をそれほど感じてはいなかったため、1611年、後陽成天皇はそれに抗議して自ら退位した。そして、さらなる交渉の後の1614年、元後陽成天皇は徳川家と皇室の婚姻に同意し、その代わり家康は、外国人司祭の追放、教会の撤去、「国の政府を変え、その土地の領有」を求める全てのキリスト教徒の信念の放棄を命ずる布告を発した。

 最高聖職者たる天皇の外国人嫌いとの妥協をなすにあたっては、家康は、ポルトガルのイエズス会やスペインの修道士に何の愛着ももたない、あるプロテスタントの平民の考えの影響を受けていた。彼は名をウィル・アダムスというケント出身の英国人で、1600年に事実上の漂流者・・・オランダ船の航海士だったが、彼の船は嵐、飢え、渇き、そして脚気によって乗組員の四分の三を失っていた・・・として日本に到着していた。徳川政府の囚人としてながら、アダムスは日本人のために二隻のヨーロッパ式の船を建造し、武士の地位(日本名三浦按針)にまで身分を引き上げられ、領地も与えられた。帰国は禁じられていたものの、彼は定期的に英国の家族のもとに金を送り、彼の好みにそった日本の暮らしを持っていた。「私は英国の領主のように、奴隷のような80から90人の百姓を持っている」と彼は書いている。

 アダムスは1620年、彼の日本人妻に看取られて死んだが、彼の魂は日本の神道信者によって崇拝されており、彼を祭る神社がその領地の丘の上に建てられている。生前、アダムスは徳川将軍との懇意な関係を活用し、プロテスタントとして、スペインの領土獲得の野望やその秘密工作者である「カトリック信者」のことを継続して警告した。その結果、家康は、すべてのスペインの宣教師やポルトガルのイエズス会の大半の信徒を、国の転覆を謀る危険人物として見るようになった。

 ローマの(カトリックの)手先には敵意があったものの、アダムスはあらゆるキリスト教宣教師を日本から追放するつもりはなかった。また家康も、天皇が望むほど敵愾心があったわけではなく、宣教師の後を追って開かれる、西洋との貿易による利益の道を閉ざすつもりもなかった。そしてアダムスの助言に従って、家康は、オランダや英国からのプロテスタント商人を奨励し、自らのキリスト教に対する布告をイエズス会や修道士への単なる忠告として用いた。

 徳川家康は1616年、ウイリアム・シェクスピアと同じ年に死んだ。そして彼は、江戸時代と呼ばれる、江戸を中心にした国家統治の王朝システムを残し、その子孫は、その後二百五十二年間、その権力を維持し続けた。そうした子孫は、外国からは日本の「皇帝」とか「王」とかと呼ばれたが、伝統に縛られた直系の息子たちは、将軍の上に真の天皇が居ることを知っていた。家康の三十七歳の息子は、もう十年間以上も名義上の将軍ではあったが、十五歳の孫もすでにその父の跡継ぎとして訓練されていた。

 1617年、後水尾天皇が京都の宮廷の実権を引き継いだ。後水尾天皇は、厳格な学者肌の二十二歳の若者で、1680年、80代の元天皇として死ぬまで、最高の国事にたずさわった。1620年、ついに後水尾天皇は、華麗な儀式をもって、将軍の若い妹と結婚した。同将軍は、キリスト教徒の過酷な迫害を制度化することによってそれに返礼した。1597年、その死の前の最後の怒涛のような年、秀吉はある実験・・・処刑のキリスト教的な形と彼は理解していた・・・を命じてその前例を作っていた。彼は、フィリピンから来た六人のスペイン人修道士と二十人の日本人改宗者を、十字架に釘づけにして殺した。1620年から1635年までには、約六千人のキリスト教徒が犠牲となり、そのうちの多くは、聖人ピーターのように、逆さづりにされて殺された。

 天皇がキリスト教徒に見た脅威は現実のものだった。1620年までの十七年間、その新たな宗教は、日本人の五十人に一人の心をとらえた※。改宗者の大半は農民で、そのうちの多くは、鉄砲の扱い方を知っている足軽であった。彼らは、そうした戦において、隔たったところから目上の者を打倒す方法を訓練されており、いまや数人のキリスト教徒の領主に率いられていた。彼らは、他の日本人を取り囲む、精霊の世界をより重んじていた。彼らは、天皇の上の世界であると信じた超人間的な世界のために、命をかける準備をしていた。

(※ 1970年、日本人のキリスト教徒の数は三百人に一人である。)

 1600年に家康が天下を制した後、負け戦側に立った多くのキリスト教徒たちは、家康がにおわす切腹を拒否し、それに代わって、不名誉な公共の面前での打ち首となった。こうした殉教者の正直な反抗心はすべての日本人の心を動かすものがあり、将軍は、政治的な難事として、キリスト教の撲滅を図るしかなくなっていた。1620年にその実行を天皇と確約した後、若き将軍は、引き続き周到に動き、あまたの反キリスト教宣伝を繰り広げ、首切り役人や警察任務に多くの資金をつぎ込み、また、外国貿易を厳しく削減あるいは監督して、悪魔の根を断とうとした。彼は新たな外国人宣教師が密入国してこないよう排斥する一方、すでに入国している宣教師には日本人改宗者を守るためにのみの滞在許可を与え、絶え間ない取り締まりが有効となるよう計らった。それでも、日本人宣教師の秘密の努力によって、隠れた破壊的信条は拡大を止めなかった。

 キリスト教徒に加えて、戦に敗れた反徳川の一派が残留していた。家康によって設置された警察と密告制度は有効に働いたが、不満は新たな内戦を抑える彼の専制主義の水面下でいまにも暴発しそうであった。それを予防するため、徳川家は、またしても、皇室の協力を必要としていた。そして天皇とその近親者は、徳川家が彼らを平和を敬愛する脅威のない非キリスト教国家の首領としていまだ認めていないと不平をもらした。和平の現実的漸進政策に対する皇室の裁可えるため、将軍はまず最初に、力ずくで天皇をねじふせようとした。将軍は配下の腹心を京都に駐在させており、その許可なくて天皇は宮廷からでることはできなかった。

 後水尾天皇は、その徳川家の妻を持っているにも拘わらず、それに反抗した。1629年、度々の抗議の後、彼は退位して、七歳の自分の娘を皇位につけ、769年以来の初めての女皇とした。それは、徳川家の権力が皇室の力によって侵害されている徴候と受け止められ、しかも、小さな少女にでも扱えることことであるかに見えた。将軍徳川家光はそのはったりに応え、丁重にその傀儡女皇を受入れ、退位した後水尾天皇に僅か年100万ポンド(454万kg)の米の収入を与えて決着させた。天皇はそれでやってゆくよう決心し、策を練るためある寺院に引きこもった。その後の五年間にわたり、徳川家は挑戦的な暴君の世の後ろ楯となった。
 
 
 
■ 鎖 国

 1634年、徳川家光は江戸から京都へと談判のために上京した。それは平和的だったが、とてつもない儀式と権力の見せ場だった。三十万七千人を超える配下勢力が彼を先導し、京都までの300マイル(480km)の東海道と呼ばれる主要街道を行進した。彼の家来の宿泊する宿屋は、京都周辺にまでわたって満杯となり、彼の陣地は、京都平野の地平線までをもおおった。そうした様子はかって見られたことはなく、都の歓楽街の曲芸師、吟遊詩人、砂糖菓子屋、賭場師らが、陣地の夜のかがり火に群がってその商売に精を出した。織田信長が建造した二条城では、将軍は退位した後水尾天皇のまだ十代の女皇やその宮廷人をもてなした

 たいそうな饗宴や贈り物の進呈の最中でも、将軍家光と元後水尾天皇は、時折その場を離れ、舞台裏での深刻なやり取りに終始した。後水尾天皇はそれを「無礼」としたが、二人は畳の上に、座机を間に向かい合って対等に座った。将軍は、ウィル・アダムスが自分の祖父である家康に地理の話をした際に与えられた、地球儀を手にしていた。用心深い、遠回して言質を与えない数時間の前談の後、二人は、世界における日本の位置を、あらゆる角度から吟味し、ある見解の一致に達した。それは、その後の二百三十三年間の日本の最重要国家政策の決定であった。ただその詳細は記録されておらず秘密とされたが、その後の進路は、この決定の結果であったと判断される。

 江戸に戻ると、将軍は、他のどんな国の歴史にも見られない、厳格な保守主義の道を導入した。1635年、彼はすべての大名に、毎二年間のうち一年間、江戸に居住し、(自領に戻る)他の一年間も、その家族は人質として江戸に住み続けるよう命じた。つまり、彼は反逆を事実上不可能とさせた。翌年、あらゆる商人に事業は国内に限るように命令し、外洋船の造船を禁じ、外国に住む日本人の国籍を剥奪し、もし帰国した場合には死刑にし、そして、いかなるキリスト教の布教にも死の苦痛が与えられるとの禁令を発した。かくして、彼は秀吉の海外進出に代わる政策を採用し、皇室の願望である日本に安全な神道を維持することに満足を与え、日本を外界の世界から閉鎖させたのであった。

 キリスト教の禁令が実施されると、五十万人の転教者にその放棄が要求され、多くの日本人は自ら十字架をこしらえ、それに磔になることを待った。幾千人もが改宗するよう牢屋に入れられ、幾百人もがみせしめの犠牲となった。隠れて住んでいたイエズス会の神父たちは、自ら進んで殉死しないよう教区民に警告を出すよう強いられた。にもかかわらず、何万人もの教区民は死を選んだ。本土政府に反旗をひるがえして九州島原に閉じこもった三万七千人のあるキリスト教徒集団は、最後の男女、子供まで虐殺された。何万人もの他の信者は地下に潜行し、二百三十五年の後、九州や本州の北端で、いくつかの集会が公然化してその存在が明らかとなった。

 1638年、将軍の取り締まりによって、最後のポルトガル司祭が海外追放となった。その後、数人のカソリック司祭が密入国したが、捜し出されて処刑され、すべてのカソリック教徒国からの船は、大砲を向けられて追い払われた。1640年、交易を口実として到着したポルトガル船は、その61人の乗組員一団が打ち首の処刑にあったとのメッセージを世界に向けて持たされて送り返された。プロテスタント教徒国であるオランダやイギリスに対しては、家康の助言者ウィル・アダムスが、いくらか寛大な扱いをあたえるよう、政府に申し出ていた。1673年、通商を求めてきたイギリス船は平穏な扱いを受けた。将軍は、その荷を陸揚げさせようとまでしたが、それも、イギリスのチャールスII世がポルトガルのブラガンザ家のキャサリーンと結婚したことを知るまでのことだった。それ以降、すべての交易はご法度とされ、イギリスの東インド会社員は脅かされて追い払われた

 日本では、ただオランダの小さな交易所のみが許され、その商人たちはその儲けに高い税を払わねばならなかった。またその宗教上の中立を証明するため、1638年の島原の乱の際には、彼らは船を提供し、その要塞への砲撃に服さされた。1641年以降、彼らは長崎港の出島という小さな島に閉じ込められた。出島は、日本国土の神聖を守る天皇の気持ちにそうための、わずか三百歩ほどの長さの人工の島だった。毎年、オランダの貿易商は江戸に徒歩で参上し、将軍の足にキスをし、科学の実験やおどけを演じ、また世界で起こっていることをまとめた紀要を提出せねばならなかった。また、定期的に踏み絵をさせられた。

 アイザック・ニュートンの生まれた1642年、最後の日本人司祭が処刑され、日本は貝殻の中に閉じこもった。その後二百十一年間、その国はその状態を続けた。日本は、九十年間続いた論争の後、その道を意図的に採用した。日本と外国との間の中間地帯を征服しようとする秀吉の試みは失敗に終わり、今や日本は国を閉ざし、その国内のみでの進展を望み、精神的に難攻不落の地になろうとしていた。日本がまだ東南アジアで傍若無人をふるまっていた時、平和とは哲学者の考えであった。そうした考えの推進者でもある、学者風の元後水尾天皇にとって、日本では職人が優れた刀や扇子を作っている時に、世界の列強の間では産業革命が起ころうとしていることなど、予想の域を越えたことであった。またそうした彼にとって、当時の地球上での二つか三つの最強の国の一つとして、そうした鎖国に入った日本が、数世紀の後、明らかな二流の国として出現することになろうとは、想像だにできないことであった。
 
 


脚 注

  1. 私は本章を、日本の過去についての案内と同時に、1920~1945年についての私の発見を日本の歴史の全体の流れと結びつける積りで記述した。この目的のために、私はすでに英語で出版されている文献のみをもちい、ことにその中で見落とされていると思える特徴を指摘した。
     
  2. 代々天皇の生存年代については、Richard Ponsonby-Fane’s Imperial House in Japan, 28-116, 229-91, 295-332, 369-405.。同著者の Studies in Shinto and Shrines, 1-135、そして The Vicissitudes of Shinto, 81-117。
     
  3. 将軍と人ぴとの全般的な歴史については、私はおもに、G. B. Sansom の権威ある History of Japan (上・中・下)による。
     
  4. 前史、あるいは、半歴史的時期については、私は、Komatsu Isao の考古学要約、The Japanese People と J. E. Kidder の Japan Before Buddhism を用いた。
     
  5. 私は、日本の初期の研究についてのもっとも有用な翻訳抜粋を Tsunoda Ryusaku, Wm. Theodere de Bary, and Donald Keene の Source of Japanese Tradition に発見した。
     
  6. その他の歴史一般については、私は、Storry の A History of Modern Japan、Leonard の Early Japan、Natori の Short History of Nippon、および Fairbank, Reishauer, and Craig の A History of East Asia Civilization, Vol. 2 を参照した。
     
  7. 私が関心をもったり、不可解であった特殊な点につては、Ballou の Shinto、Bunce の Religions in Japan、Gouverneur Mosher の Kyoto: A Contemporary Guide (Rutland, Vt., and Tokyo: Charles E. Tuttle Co., 1964)、Takeyoshi Yasusaburo の The Story of the Wako: Japanese Pioneers in the Southern Regions. から助けを得た。Sadler の家康の伝記や、Oliver Statler の Japanese Inn も役立った。
     
  8. 日本への鉄砲の伝来についての見解は、雑誌 『New Yorker』 (November 20, 1965) 所収の Noel Perrin 著 「Giving Up the Gun」 に、ほとんど全面的によっている。

 
 

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