『宋 史』

巻四百九十一 第二百五十 外国・七
撰:脫脫 (元) 等
 
日本国条

日本國者,本倭奴國也。
日本国の者の、本貫は倭の奴国なり。

自以其國近日所出,故以日本爲名;或云惡其舊名改之也。
日の出る所に近いので、故に「日本」を自ら名乗る(或いはその旧名が悪く改名したと云うなり)。

其地東西南北各數千里,西南至海,東北隅隔以大山,山外即毛人國
その地は東西南北各数千里、西と南は海に至り、東と北の隅は大きな山で隔てられ、山の外は即ち毛人の国である。

後漢始朝貢,歴皆來貢,永徽、顯慶、長安、開元、天寶、上元、貞元、元和、開成中,並遣使入朝。
「後漢」の時代に朝貢を始めてから、「魏」、「晋」、「宋」、「隋」を歴て皆来貢し、並びに「唐」の永徽、顯慶、長安、開元、天寶、上元、貞元、元和、開成中期に遣いの使者が入朝した。
 

雍熙元年,日本國僧奝然與其徒五六人浮海而至,獻銅器十餘事,並本國『職員今』『王年代紀』各一卷。
雍熙元年(984年)、日本国の僧奝然とその徒5、6人が船で至り、 銅器十余事、並びに国本『職員今』、『王年代紀』の各一卷を献上した。

 
奝然衣綠,自云姓藤原氏,父爲真連;真連,其國五品品官也。
奝然は緑衣をまとい、姓は「藤原」氏で、父親は「真連」と自ら云う(真連は、その国の品官(九品官)で五品なり)。

奝然善隸書,而不通華言,問其風土,但書以對云:
奝然は隸書は善いが、言葉は話せず、その風土を問うに、ただ書によって応対して云う:

「國中有『五經』書及佛經、『白居易集』七十卷,並得自中國

土宜五穀而少麥。
土地は五穀に宜しいが麦は少ない。

交易用銅錢,文曰『乾文大寶』
交易には『乾文大寶』と書かれた銅銭を用いる。

畜有水牛、驢、羊,多
家畜には水牛、驢馬、羊があり、犀、象が多い。

産絲蠶,多織絹,薄致可愛。
繭糸を産出し、絹織物が多く、薄絹が愛用される。

中國高麗二部。
音楽には「中国」と、「高麗」の二部がある。

四時寒暑,大類中國。
四季の寒暑は、大きくは中国に類する。

國之東境接海島,夷人所居,身面皆有毛。
国の東の境は海島に接し、「夷人」が居る所で、身も顔も皆毛で覆われている。

東奧州産黄金,西別島出白銀,以爲貢賦。
東の奧州は黄金を産出し、西の別な島は白銀が露出するので、以って貢賦する。

國王以爲姓,傳襲至今王六十四世,文武僚吏皆世官。」
国王は「王」を姓にして、今に至る六十四世に襲伝し、文武の官吏は皆世襲である。
 
 
 
『年代紀』所記云:
その『年代記』に記す所に云う:

「初主號天御中主
初主の号は天御中主。
 
次曰天村雲尊,其後皆以爲號。
次は天村雲尊で、その後は皆「尊」を号とする。

次天八重雲尊,次天彌聞尊,次天忍勝尊,次瞻波尊,次萬魂尊,次利利魂尊,次國狹槌尊,次角龔魂尊,次汲津丹尊,次面垂見尊,次國常立尊,次天鑒尊,次天萬尊,次沫名杵尊,次伊奘諾尊,次素戔烏尊,次天照大神尊,次正哉吾勝速日天押穗耳尊,次天彥尊,次炎尊,次彦瀲尊,凡二十三世,並都於築紫日向宮
次は天八重雲尊、次は天彌聞尊、次は天忍勝尊、次は瞻波尊、次は萬魂尊、次は利利魂尊、次は國狹槌尊、次は角龔魂尊、次は汲津丹尊、次は面垂見尊、次は國常立尊、次は天鑒尊、次は天萬尊、次は沫名杵尊、次は伊奘諾尊、次は素戔烏尊、次は天照大神尊、次は正哉吾勝速日天押穗耳尊、次は天彥尊、次は炎尊、次は彦瀲尊で、すべてで二十三世、並びに築紫の「日向宮」において都とす。
 

彦瀲第四子號(1)神武天皇,自築紫宮入居大和州橿原宮,即位元年甲寅,當周僖王時也。
彦瀲の第四子は神武天皇を号し、「築紫宮」から大和州の「橿原宮」に居を移し、即位した甲寅元年(前666年)は、「周」の僖王(釐王)時(前681~677年)にあたる。

 
次(2)綏靖天皇,次(3)安寧天皇,次(4)懿德天皇,次(5)孝昭天皇,次(6)孝安天皇,次(7)孝靈天皇,次(8)孝元天皇,次(9)開化天皇,次(10)崇神天篁,次(11)垂仁天皇,次(12)景行天皇,次(13)成務天皇。
次は綏靖天皇、次は安寧天皇、次は懿德天皇、次は孝昭天皇、次は孝天皇、次は孝靈天皇、次は孝元天皇、次は開化天皇、次は崇神天篁、次は垂仁天皇、次は景行天皇、次は成務天皇。
 
次(14)仲哀天皇,國人言今爲鎮國香椎大神
次は仲哀天皇で、国人は「鎮国香椎大神」と今は言う。
 
次(15)神功天皇,開化天皇之曾孫女,又謂之息長足姫天皇,國人言今爲太奈良姫大神
次の神功天皇は、開化天皇の曾孫の女子で、又これを息長足姫天皇と謂い、国人は「太奈良姫大神」と今は言う。
 

次(16)應神天皇,甲辰歳,始於百濟得中國文字,今號八蕃菩薩,有大臣號紀武内,年三百七歳。
次の応神天皇は、甲辰の歳(344年)、百済から中国文字を得ことを始め、今は「八蕃菩薩」の号で、「紀武内」という号で、年が三百七歳の大臣あり。

 
次(17)仁德天皇,次(18)履中天皇,次(19)反正天皇,次(20)允恭天皇,次(21)安康天皇,次(22)雄略天皇,次(23)清甯天皇,次(24)顯宗天皇,次(25)仁賢天皇,次(26)武烈天皇,次(27)繼體天皇,次(28)安開天皇,次(29)宣化天皇。
次は仁徳天皇、次は履中天皇、次は反正天皇、次は允恭天皇、次は安康天皇、次は雄略天皇、次は清甯天皇、次は顯宗天皇、次は仁賢天皇、次は武烈天皇、次は継体天皇、次は安開天皇、次は宣化天皇。
 

天國排開廣庭天皇,亦名(30)欽明天皇,即位十三年,壬申歳始傳佛法于百濟國,當此土梁承聖元年。
次の「天国排開広庭」天皇は、またの名を欽明天皇で、即位して十三年、中国のの承聖元年(552年)にあたる、壬申の歳に百済国の仏法を伝え始める。

 
次(31)敏達天皇。
次は敏達天皇。

次(32)用明天皇,有子曰聖德太子,年三歳,聞十人語,同時解之,七歳悟佛法於菩提寺,講『聖曼經』,天雨曼陀羅華。
用明天皇に、聖徳太子という子があり、年三歳で十人の語を聞き、同時にこれを理解し、七歳で菩提寺にて仏法を悟り、『聖曼經』の、天雨曼陀羅華を講ず。
 

當此土開皇中,遣使泛海至中國,求『法華經』
隋の開皇中期(590年)にあたり、遣いの使者が船で中国に至り、『法華経』を求める。

 
次(33)崇峻天皇。
次は崇峻天皇。

次(34)推古天皇,欽明天皇之女也。
次は推古天皇で、欽明天皇の息女なり。

次(35)舒明天皇,次(36)皇極天皇。
次は舒明天皇、次は皇極天皇。
 

次(37)孝德天皇,白雉四年,律師道照求法至中國,從三藏僧玄奘受經、律、論,當此土永徽四年也。
次は孝徳天皇で、白雉四年、律師の「道照」が法を求め中国に至り、三蔵僧の「玄奘」に従い経、律、論を授かったのは、中国の「唐」の永徽四年(653年)にあたるなり。

次(38)天豐財重日足姫天皇,令僧智通等入大乘法相教,當顯慶三年。
次は「天豊財重日足姫」天皇で、僧の「智通」らに「唐」に入り「大乗法相教」を求めるよう命令したのは、顕慶三年(658年)にあたる。

 
次(39)天智天皇,次(40)天武天皇,次(41)持總天皇。
次は天智天皇、次は天武天皇、次は持総天皇。
 

次(42)文武天皇,大寶三年,當長安元年,遣粟田真人入唐求書籍,律師道慈求經。
次は文武天皇で、大宝三年、(武周)長安元年(701年)にあたり、「粟田真人」を遣わせ入唐し書籍を求め、律師「道慈」は経を求む。

 
次(43)阿閉天皇,次(44)皈依天皇。
次は阿閉天皇、次は皈依天皇。
 

次(45)聖武天皇,寶龜二年,遣僧正玄昉入朝,當開元四年。
次は聖武天皇で、宝亀(神亀)二年、僧正の「玄昉」を入朝に遣わせ、開元四年(714年)にあたる。

次(46)孝明天皇,聖武天皇之女也,天平勝寶四年,當天寶中,遣使及僧入唐求内外經教及傳戒。
次の孝明天皇は、聖武天皇の息女なりて、天平勝宝(感宝)四年、天宝中期(749年)にあたり、遣いの使者及び僧が入唐し内外の経教及び伝戒を求める。

 
次(47)天炊天皇。
次は天炊天皇。

次(48)高野姫天皇,聖武天皇之女也。
次の高野姫天皇は、聖武天皇の息女なり。
 

次(49)白璧天皇,二十四年,遣二僧靈仙行賀入唐,禮五臺山學佛法。
次は白璧天皇で、(延暦)二十四年(805年)、「霊仙」、「行賀」の二僧を遣わせ入唐し、「五台山」に礼拝し佛法を学ぶ。

次(50)桓武天皇,遣騰元葛野空海大師及延暦寺僧入唐,詣天臺山傳智者止觀義,當元和元年也。
次の桓武天皇は、「騰元(藤原)葛野」と「空海」大師及び延暦寺僧「(最)澄」を遣わせ入唐し、「天台山」を詣で智者から「止観の義(瞑想法)」を伝授されたのは、元和元年(806年)にあたる。

 
次(51)諾樂天皇,次(52)嵯峨天皇,次(53)淳和天皇。
次は諾楽天皇、次は嵯峨天皇、次は淳和天皇。
 

次(54)仁明天皇,當開成、會昌中,遣僧入唐,禮五台。
次は仁明天皇で、 開成・会昌中(836~846年)にあたり、僧を遣わせ入唐し、五台を礼拝する。

次(55)文德天皇,當大中年間。
次は文徳天皇で、大中年間(847~859年)にあたる。

 
次(56)清和天皇,次(57)陽成天皇。
次は清和天皇、次は陽成天皇。
 

次(58)光孝天皇,遣僧宗睿入唐傳教,當光啟元年也。
次の光孝天皇が、僧の「宗睿」を遣わせ入唐し教えを伝授されたのは、光啓元年(885年)にあたる。

次(59)仁和天皇,當此土龍德中,遣僧寬建等入朝。
次の仁和天皇は、「(後)梁」の龍徳中期(922年)にあたり、僧の「寬建」らを遣わせ入朝する。

 
次(60)醍醐天皇,次(61)天慶天皇。
 

次(62)封上天皇,當此土廣順年也。
次は封上(村上)天皇で、中国の「(後)周」の広順年(951~954年)にあたる。

 
次(63)冷泉天皇,今爲太上天皇。
次は冷泉天皇で、今は太上天皇。

次(64)守平天皇,即今王也。
次は守平天皇、即ち今の王なり。

六十四世
すべてで六十四世。
 


第七十三代 堀河天皇時の古地図

 
 
 
畿内有山城、大和、河内、和泉、攝津凡五州,共統五十三郡。
 
東海道有伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武藏、安房、上總、常陸凡十四州,共統一百一十六郡。
 
東山道有通江、美濃、飛驒、信濃、上野、下野、陸奧、出羽凡八州,共統一百二十二郡。
 
北陸道有若狹、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡凡七州,共統三十郡。
 
山陰道有丹波、丹彼、徂馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隱伎凡八州,共統五十二郡。
 
小陽道有播麼、美作、備前、備中、備後、安藝、周防、長門凡八州,共統六十九郡。
 
南海道有伊紀、淡路、河波、贊耆、伊豫、土佐凡六州,共統四十八郡。
 
西海道有築前、築後、豐前、豐後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩凡九州,共統九十三郡。
 
又有壹伎、對馬、多ネ執凡三島,各統二郡。
 
是謂五畿、七道、三島,凡三千七百七十二都,四百一十四驛,八十八萬三千三百二十九課丁。
 
課丁之外,不可詳見。
 
皆奝然所記雲。
 


行基図

 
 

開皇二十年,倭王姓阿毎,名自多利思比孤,遣使致書。
隋に照らし開皇二十年(600年)、倭の王で姓「阿毎」、自名「多利思比孤」の遣使が書を携え致る。

唐永徽五年,遣使獻琥珀、馬腦。
唐の永徽五年(654年)、遣使が琥珀、馬腦を献上す。

長安二年,遣其朝臣真人貢方物。
(武周の)長安二年(702年)、遣いの朝臣「真人」が方物を貢ぐ。

開元初,遣使來朝。
開元初(713年)、遣使が来朝する。

天寶十二年,又遣使來貢。
天宝十二年(753年)、また遣使が来貢する。

元和元年,遣高階真人來貢。
元和元年(806年)、「高階真人」を遣わせ来貢する。

開成四年,又遣使來貢。
開成四年(839年)、また遣使が来貢する。

 
此與其所記皆同。
 

大中、光啟、龍德及廣順中,皆嘗遣僧至中國,『唐書』中、『五代史』失其傳。
大中(847~859年)、光啓(885~888年)、(後梁の)龍徳(921-923年)及び「(後)周」の廣順中期(953年)、かつては皆僧の遣いが中国に至ると、『唐書』の中にあったが、『五代史』はその伝えを失う。

咸亨中及開元二十三年、大曆十二年、建中元年,皆來朝貢,其記不載。
唐の咸亨中期(672年)及び開元二十三年(735年)、大暦十二年(777年)、建中元年(780年)、皆来朝して朝貢するも、その記録は不載。

 
太宗召見奝然,存撫之甚厚,賜紫衣,館于太平興國寺。

上聞其國王一姓傳繼,臣下皆世官,因歎息謂宰相曰:

「此島夷耳,乃世祚遐久,其臣亦繼襲不絶,此蓋古之道也。

中國自唐季之亂,宇縣分裂,梁、周五代享暦尤促,大臣世胄,鮮能嗣續

朕雖德慚往聖,常夙夜寅畏,講求治本,不敢暇逸。

建無窮之業,垂可久之範,亦以爲子孫之計,使大臣之後世襲祿位,此朕之心焉。」

其國多有中國典籍,奝然之來,復得『孝經』一卷、越王『孝經新義』第十五一卷,皆金縷紅羅標,水晶爲軸。
 
『孝經』即鄭氏注者。
 
越王者,乃唐太宗子越王貞;『新義』者,記室參軍任希古等撰也。
 
奝然復求詣五台,許之,令所過續食;又求印本『大藏經』,詔亦給之。
 
 

二年,隨台州甯海縣商人鄭仁德船歸其國。
(雍熙)二年(985年)、台州甯海県の商人「鄭仁徳」の船にに随行しその国に帰る。

 
後數年,仁德還。

奝然遣其弟子喜因奉表來謝曰:

「日本國東大寺大朝法濟大師、賜紫、沙門奝然啟:傷鱗入夢,不忘漢主之恩;枯骨合歡,猶亢魏氏之敵。

雖雲羊僧之拙,誰忍鴻霈之誠。

奝然誠惶誠恐,頓首頓首,死罪。
 
奝然附商船之離岸,期魏闕於生涯,望落日而西行,十萬里之波濤難盡;顧信風而東別,數千里之山嶽易過。

妄以下根之卑,適詣中華之盛。

於是宣旨頻降,恣許荒外之跋渉;宿心克協,粗觀宇内之瑰奇。

況乎金闕曉後,望堯雲於九禁之中;岩扃晴前,拜聖燈於五台之上。

就三藏而稟學,巡數寺而優遊。

遂使蓮華回文,神筆出於北闕之北;貝葉印字,佛詔傳於東海之東。

重蒙宣恩,忽趁來跡。

季夏解台州之纜,孟秋達本國之郊。

爰逮明春,初到舊邑,緇素欣待,侯伯慕迎。

伏惟陛下惠溢四溟,恩高五嶽,世超黄、軒之古,人直金輪之新。

奝然空辭鳳凰之窟,更還螻蟻之封。

在彼在斯,只仰皇德之盛;越山越海,敢忘帝念之深。

縱粉百年之身,何報一日之惠。

染筆拭涙,伸紙搖魂,不勝慕恩之至。謹差上足弟子傳燈大法師位嘉因、並大朝剃頭受戒僧祚乾等拜表以聞。」

稱其本國永延二年歲次戊子二月八日,實端拱元年也。
その本国を稱える - 永延二年(988年) 歳次戊子 二月八日 實端拱元年なり。

又別啟,貢佛經,納青木函;琥珀青紅白水晶紅黑木槵子念珠各一連,並納螺鈿花形平函;毛籠一,納螺杯二口;葛籠一,納法螺二口,染皮二十枚;金銀蒔繪筥一合,納發鬘二頭,又一合,納參議正四位上藤佐理手書二卷、及進奉物數一卷、表状一卷;又金銀蒔繪硯一筥一合,納金硯一、鹿毛筆松煙墨金銅水瓶鐵刀;又金銀蒔繪扇筥一合,納檜扇二十枚、蝙蝠扇二枚;螺鈿梳函一對,其一納赤木梳二百七十,其一納龍骨十橛;螺鈿書案一、螺鈿書幾一;金銀蒔繪平筥一合,納白細布五匹;鹿皮籠一,納■裘一領;螺鈿鞍轡一副,銅鐵鐙紅絲秋泥障倭畫屏風一雙;石流黃七百斤。
 
 

咸平五年,建州海賈周世昌遭風飄至日本,凡七年得還,與其國人滕木吉至,上皆召見之。
咸平五年(1002年)、建州の貿易商の「周世昌」は突風に遭遇し流されて日本に至り、七年して日本人の「滕木吉」と帰還するを得て、上はこれを見るに皆を召した。

 
世昌以其國人唱和詩來上,詞甚雕刻膚淺無所取。

詢其風俗,雲婦人皆被發,一衣用二三縑。又陳所記州名年號。

上令滕木吉以所持木弓矢挽射,矢不能遠,詰其故,國中不習戰鬥

賜木吉時裝錢遣還。
 

景德元年,其國僧寂昭等八人來朝,寂照不曉華言,而識文字,繕寫甚妙,凡問答並以筆劄。
景徳元年(1004年)、その国の僧「寂昭」ら8人が来朝するも「寂照」は中国語が話せず、文字の知識は正しく巧妙につき凡ての問答は筆談にて行なう。

 
詔號圓通大師,賜紫方袍
 

天聖四年十二月,明州言日本國太宰府遣人貢方物,而不持本國表,詔卻之。
天聖四年十二月(1026年)、明州が言うに日本国の「太宰府」が人を遣り方物を貢納するが、日本国の奉表を不所持にて、詔でこれを却下す。

 
其後亦未通朝貢,南賈時有傳其物貨至中國者。
 

熙寧五年,有僧誠尋至台州,止天臺國清寺,願留。
熙寧五年(1072年)、僧の「誠尋」が台州に至ることがあり、天台山の国清寺に止まり留学を願う。

 
州以聞,詔使赴闕。

誠尋獻銀香爐,木槵子、白琉璃、五香、水精、紫檀、琥珀所飾念珠,及青色織物綾。

神宗以其遠人而有戒業,處之開寶寺,盡賜同來僧紫方袍

是後連貢方物,而來者皆僧也
 

元豐元年,使通事僧仲回來,賜號慕化懷德大師
元豊元年(1078年)、通事の使いである僧の仲回が来て、「慕化懐徳大師」の号を賜う。

 
明州又言得其國太宰府牒,因使人孫忠還,遣仲回等貢絁二百匹、水銀五千兩,以孫忠乃海商,而貢禮與諸國異,請自移牒報,而答其物直,付仲回東歸。

從之。
 

乾道九年,始附明州綱首以方物入貢。
乾道九年(1173年)、始めて明州の綱首(船主)に附して(太宰府は)方物を入貢す。
 
淳熙二年,倭船火兒滕太明作死,詔械太明付其綱首歸,治以其國之法。
淳熙二年(1175年)、倭船の暴れ者の滕太明が鄭を殴り死に至らしめ、詔にて太明に械(かせ)を付けその綱首に付して帰国させ、その国の法律によって治む。
 
三年,風泊日本舟至明州,衆皆不得食,行乞至臨安府者復百餘人。
三年(1176年)、風泊した日本の舟が明州に至り、乗組員は皆何も食べておらず、臨安府に行き至りて食べものを乞い、復命した者百余人。

 
詔人日給錢五十文、米二升,俟其國舟至日遣歸。
 

十年,日本七十三人復飄至秀州華亭縣,給常平義倉錢米以振之。
十年(1183年)、日本の七十三人が復び飄舶して秀州の華亭県に至り、常平義倉の銭米をこれに振る舞い給じる。
 
紹熙四年,泰州及秀州華亭縣復有倭人爲風所泊而至者,詔勿取其貨,出常平米振給而遣之。
紹熙四年(1193年)、泰州及び秀州華亭県で復び倭人に台風で漂泊して至る者があり、詔にて遣いはこれに無償で常平米を出し振まい給ず。
 
慶元六年至平江府,嘉泰二年至定海縣,詔並給錢米遣歸國。
慶元六年(1200年)、平江府に至り、嘉泰二年(1202年)、定海県に至り、詔ならびに銭米を給じ遣使と帰国。

目 次