『宋 史』

巻四百九十一 第二百五十 外国七
撰:脫脫 (元) 等
 
 
日本国

日本國者,本倭奴國也。
日本国の者、本貫は倭の奴国なり。

自以其國近日所出,故以日本爲名;
自らが日の出る所に近いので、故に「日の本」を名乗る;

或云惡其舊名改之也。
或いはその旧名を嫌悪して改名したと云うなり。

其地東西南北各數千里,西南至海,東北隅隔以大山,山外即毛人國
その地は東西南北各数千里、西と南は海に至り、東と北の隅は大きな山で隔てられ、山の外側は即ち毛人の国。

後漢始朝貢,歴皆來貢,永徽、顯慶、長安、開元、天寶、上元、貞元、元和、開成中,並遣使入朝。
後漢の代に朝貢を始めてから、魏・晋・宋・隋の歴代を皆来貢し、唐の永徽・顯慶・長安・開元・天寶・上元・貞元・元和・開成中に、並べて遣使が入朝。

雍熙元年,日本國僧奝然與其徒五六人浮海而至,獻銅器十餘事,並本國『職員今』『王年代紀』各一卷。
雍熙元年(984)、日本国の僧奝然とその徒5、6人が船で至り、 銅器十余事、並べて国史本の『職員今』、『王年代紀』の各一卷を献上。

奝然衣綠,自云姓藤原氏,父爲真連
奝然は緑衣をまとい、姓は「藤原」氏で、父親は「真連」だと自ら云う;

真連,其國五品品官也。
真連とは、その国の品官(九品官)で五品なり。

奝然善隸書,而不通華言,問其風土,但書以對云:
奝然は書は善く嗜むが、中国語は話せず、その風土を問うと、ただ書を以って対応して云うに:
 

「國中有『五經』書及佛經、『白居易集』七十卷,並得自中國
「国中に『五経』の書および仏経・『白居易集』七十巻があり、並べて中国から得た。
 
土宜五穀而少麥。
土地は五穀に宜しいが麦は少ない。
 
交易用銅錢,文曰『乾文大寶』
交易には銅銭を用い、『乾文大寶』と書かれている。
 
畜有水牛、驢、羊,多犀
家畜には水牛、驢馬、羊があり、犀、象が多い。
 
産絲蠶,多織絹,薄致可愛。
繭糸を産出し、絹織物が多く、薄絹が愛用される。
 
中國高麗二部。
「中国」と「高麗」の二部の楽市(自由市場)がある。
 
四時寒暑,大類中國。
四季の寒暑は、大きくは中国に類する。
 
國之東境接海島,夷人所居,身面皆有毛。
国の東の境にに接する海や島は、「夷人」が居る所で、身も顔も皆毛で覆われている。
 
東奧州産黄金,西別島出白銀,以爲貢賦。
東の奧の州は黄金を産出し、西の別れた島は白銀が出土するので、以って貢賦を為す。
 
國王以爲姓,傳襲至今王六十四世,文武僚吏皆世官。」
国王は「王」を姓とし、今に至る六十四世が襲伝、文武の官僚も皆世襲。

 
『年代紀』所記云:
その『年代記』に記す所に云う:
 

「初主號天御中主
初主の号は天御中主。
 
次曰天村雲尊,其後皆以爲號。
次は天村雲尊で、その後は皆「尊」を号とする。
 
天八重雲尊,次天彌聞尊,次天忍勝尊,次瞻波尊,次萬魂尊,次利利魂尊,次國狹槌尊,次角龔魂尊,次汲津丹尊,次面垂見尊,次國常立尊,次天鑒尊,次天萬尊,次沫名杵尊,次伊奘諾尊,次素戔烏尊,次天照大神尊,次正哉吾勝速日天押穗耳尊,次天彥尊,次尊,次彦瀲尊,凡二十三世,並都於築紫日向宮
次は天八重雲尊、次は天彌聞尊、次は天忍勝尊、次は瞻波尊、次は萬魂尊、次は利利魂尊、次は國狹槌尊、次は角龔魂尊、次は汲津丹尊、次は面垂見尊、次は國常立尊、次は天鑒尊、次は天萬尊、次は沫名杵尊、次は伊奘諾尊、次は素戔烏尊、次は天照大神尊、次は正哉吾勝速日天押穗耳尊、次は天彥尊、次は炎尊、次は彦瀲尊で、すべてで二十三世、並べて築紫の「日向宮」が都。
 
彦瀲第四子號神武天皇,自築紫宮入居大和州橿原宮,即位元年甲寅,當周僖王時也。
彦瀲の第四子の神武(1)は天皇を号し、築紫宮から大和州の「橿原宮」に居を移し、即位した甲寅元年(前666)は、周の僖王(釐王)の時代(前681~677)に当たる。
 
綏靖天皇,次安寧天皇,次懿德天皇,次孝昭天皇,次孝安天皇,次孝靈天皇,次孝元天皇,次開化天皇,次崇神天篁,次垂仁天皇,次景行天皇,次成務天皇。
次は綏靖(2)天皇、次は安寧(3)天皇、次は懿徳(4)天皇、次は孝昭(5)天皇、次は孝安(6)天皇、次は孝靈(7)天皇、次は孝元(8)天皇、次は開化(9)天皇、次は崇神(10)天篁、次は垂仁(11)天皇、次は景行(12)天皇、次は成務(13)天皇。
 
仲哀天皇,國人言今爲鎮國香椎大神
次は仲哀(14)天皇で、国人は「鎮国香椎大神」と今は言う。
 
神功天皇,開化天皇之曾孫,又謂之息長足姫天皇,國人言今爲太奈良姫大神
次の神功(15)天皇は、開化天皇の曾孫の女子で、重ねてこれを息長足姫天皇と謂い、今の国人は「太奈良姫大神」と言う。
 
應神天皇,甲辰歳,始於百濟得中國文字,今號八蕃菩薩,有大臣號紀武内,年三百七歳。
次の応神(16)天皇は、甲辰の歳に、百済から中国文字を得始め、今は「八蕃菩薩」の号で、年が三百七歳の、「紀武内」という号の大臣あり。
 
仁德天皇,次履中天皇,次反正天皇,次允恭天皇,次安康天皇,次雄略天皇,次清甯天皇,次顯宗天皇,次仁賢天皇,次武烈天皇,次繼體天皇,次安開天皇,次宣化天皇。
次は仁徳(17)天皇、次は履中(18)天皇、次は反正(19)天皇、次は允恭(20)天皇、次は安康(21)天皇、次は雄略(22)天皇、次は清甯(23)天皇、次は顯宗(24)天皇、次は仁賢(25)天皇、次は武烈(26)天皇、次は継体(27)天皇、次は安開(28)天皇、次は宣化(29)天皇。
 
天國排開廣庭天皇,亦名欽明天皇,即位十三年,壬申歳始傳佛法于百濟國,當此土承聖元年。
次の天国排開広庭天皇は、またの名を欽明(30)天皇で、即位して十三年、中国の梁の承聖元年(552)にあたる、壬申の歳に百済国の仏法を伝え始める。
 
敏達天皇。
次は敏達(31)天皇。
 
用明天皇,有子曰聖德太子,年三歳,聞十人語,同時解之,七歳悟佛法於菩提寺,講『聖曼經』,天雨曼陀羅華。
次の用明(32)天皇には、聖徳太子という子があり、年三歳で十人の語を聞き、同時にこれを理解し、七歳で菩提寺にて仏法を悟り、『聖曼經』を講じると、曼陀羅華が天から降る。
 
當此土開皇中,遣使泛海至中國,求『法華經』
隋の開皇(581~600)中、遣使が船で中国に至り、『法華経』を求める。
 
崇峻天皇。
次は崇峻(33)天皇。
 
推古天皇,欽明天皇之也。
次は推古(34)天皇で、欽明天皇の息女なり。
 
舒明天皇,次皇極天皇。
次は舒明(35)天皇、次は皇極(36)天皇。
 
孝德天皇,白雉四年,律師道照求法至中國,從三藏僧玄奘受經、律、論,當此土永徽四年也。
次は孝徳(37)天皇で、白雉四年、律師の道照が法を求め中国に至り、三蔵僧の玄奘に従い経、律、論を授かったのは、中国の「唐」の永徽四年(653)にあたるなり。
 
天豐財重日足姫天皇,令僧智通等入大乘法相教,當顯慶三年。
次の天豊財重日足姫(38)天皇が、僧の智通らに唐に入り大乗法相教を求めるよう命令したのは、顕慶三年(658)にあたる。
 
天智天皇,次天武天皇,次持總天皇。
次は天智(39)天皇、次は天武(40)天皇、次は持総(41)天皇。
 
文武天皇,大寶三年,當長安元年,遣粟田真人入唐求書籍,律師道慈求經。
次は文武(42)天皇で、大宝三年、長安元年(701)にあたり、粟田真人を遣わせ入唐して書籍を求め、律師の道慈は経を求めた。
 
阿閉天皇,次皈依天皇。
次は阿閉(43)天皇、次は皈依(44)天皇。
 
聖武天皇,寶龜二年,遣僧正玄昉入朝,當開元四年。
次は聖武(45)天皇で、宝亀(神亀)二年、僧正の玄昉を遣わせ入朝、開元四年(714)にあたる。

孝明天皇,聖武天皇之也,天平勝寶四年,當天寶中,遣使及僧入唐求内外經教及傳戒。
次の孝明(46)天皇は、聖武天皇の息女なりて、天平勝宝(感宝)四年、天宝(742~756)中にあたり、遣使および僧が入唐し内外の経教および伝戒を求める。
 
天炊天皇。
次は天炊(47)天皇。
 
次高野姫天皇,聖武天皇之也。
次の高野姫(48)天皇は、聖武天皇の息女なり。
 
白璧天皇,二十四年,遣二僧靈仙行賀入唐,禮五臺山學佛法。
次は白璧(49)天皇で、(延暦)二十四年(805年)、霊仙、行賀の二僧を遣わせ入唐し、五台山に礼拝し佛法を学ぶ。
 
桓武天皇,遣騰元葛野空海大師及延暦寺僧入唐,詣天臺山傳智者止觀義,當元和元年也。
次の桓武(50)天皇が、騰元(藤原)葛野と空海大師及び延暦寺僧の最澄を遣わせ入唐し、天台山を詣で智者から「止観の義(瞑想法)」を伝授されたのは、元和元年(806)にあたる。
 
諾樂天皇,次嵯峨天皇,次淳和天皇。
次は諾楽(51)天皇、次は嵯峨(52)天皇、次は淳和(53)天皇。
 
仁明天皇,當開成、會昌中,遣僧入唐,禮五台。
次は仁明(54)天皇で、 開成・会昌中(836~846)にあたり、僧を遣わせ入唐し、五台を礼拝する。
 
文德天皇,當大中年間。
次は文徳(55)天皇で、大中(847~859)年間にあたる。
 
清和天皇,次陽成天皇。
次は清和(56)天皇、次は陽成(57)天皇。
 
光孝天皇,遣僧宗睿入唐傳教,當光啟元年也。
次の光孝(58)天皇が、僧の宗睿を遣わせ入唐し教えを伝授されたのは、光啓元年(885)にあたる。
 
仁和天皇,當此土龍德中,遣僧寬建等入朝。
次の仁和(59)天皇は、(後)梁の龍徳(921~923)中にあたり、僧の寬建らを遣わせ入朝する。
 
醍醐天皇,次天慶天皇。
次は醍醐(60)天皇,次は天慶(61)天皇。
 
封上天皇,當此土廣順年也。
次は封上:村上(62)天皇で、中国の(後)周の広順(951~954)年にあたる。
 
冷泉天皇,今爲太上天皇。
次は冷泉(63)天皇で、今は太上天皇。

守平天皇,即今王也。
次は守平(64)天皇、即ち今の王なり。
 
凡六十四世。
すべてで六十四世。
 
 
 
畿内有山城、大和、河内、和泉、攝津凡五州,共統五十三郡。
畿内には山城、大和、河内、和泉、攝津のすべてで五州があり、共に五十三郡を統べる。
 
東海道有伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武藏、安房、上總、常陸凡十四州,共統一百一十六郡。
東海道には伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武藏、安房、上總、常陸のすべてで十四州があり、共に一百一十六郡を統べる。
 
東山道有通江、美濃、飛驒、信濃、上野、下野、陸奧、出羽凡八州,共統一百二十二郡。
東山道には通江、美濃、飛驒、信濃、上野、下野、陸奧、出羽のすべてで八州があり、共に一百二十二郡を統べる。
 
北陸道有若狹、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡凡七州,共統三十郡。
北陸道には若狹、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡のすべてで七州があり、共に三十郡を統べる。
 
山陰道有丹波、丹彼、徂馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隱伎凡八州,共統五十二郡。
山陰道には丹波、丹彼、徂馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隱伎のすべてで八州があり、共に五十二郡を統べる。
 
小陽道有播麼、美作、備前、備中、備後、安藝、周防、長門凡八州,共統六十九郡。
小陽道には播麼、美作、備前、備中、備後、安藝、周防、長門のすべてで八州があり、共に六十九郡を統べる。
 
南海道有伊紀、淡路、河波、贊耆、伊豫、土佐凡六州,共統四十八郡。
南海道には伊紀、淡路、河波、贊耆、伊豫、土佐のすべてで六州があり、共に四十八郡を統べる。
 
西海道有築前、築後、豐前、豐後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩凡九州,共統九十三郡。
西海道には築前、築後、豐前、豐後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩のすべてで九州があり、共に九十三郡を統べる。
 
又有壹伎、對馬、多ネ執凡三島,各統二郡。
重ねて壹伎、對馬、多ネ執のすべてで三島があり、各々が二郡を統べる。
 
是謂五畿、七道、三島,凡三千七百七十二都,四百一十四驛,八十八萬三千三百二十九課丁。
是れ謂わゆる五畿、七道、三島で、すべてで三千七百七十二都、四百一十四駅、八十八万三千三百二十九課丁。
 
課丁之外,不可詳見。」
課丁以外は、詳細は不明。」

 
奝然所記雲。
皆奝然の記す所の云々。
 

開皇二十年,倭王姓阿毎,名自多利思比孤,遣使致書。
隋に照らして開皇二十年(600)、倭の王で姓「阿毎」は、自らは「多利思比孤」を名のり、使者遣わせ親書が致る。
 
唐永徽五年,遣使獻琥珀、馬腦。
唐の永徽五年(654)、遣使が琥珀、馬腦を献上。
 
長安二年,遣其朝臣真人貢方物。
長安二年(702)、遣いの朝臣真人が方物を貢ぐ。
 
開元初,遣使來朝。
開元(713~741)の初め、遣使が来朝。
 
天寶十二年,又遣使來貢。
天宝十二年(753)、重ねて遣使が来貢。
 
元和元年,遣高階真人來貢。
元和元年(806)、高階真人を遣わせ来貢。
 
開成四年,又遣使來貢。
開成四年(839)、重ねて遣使が来貢。

 
此與其所記皆同。
此れとその記す所は皆同じ。
 
 
 
大中、光啟、龍德及廣順中,皆嘗遣僧至中國,『唐書』中、『五代史』失其傳。
大中(847~859)、光啓(885~888)、龍徳(921~923)および廣順(951~953)中、皆かつては僧の遣いが中国に至ると、『唐書』の中にあるが、『五代史』はその伝えを失う。

咸亨中及開元二十三年、大曆十二年、建中元年,皆來朝貢,其記不載。
唐の咸亨(670~674)中および開元二十三年(735)、大暦十二年(777)、建中元年(780)、皆来朝して朝貢するも、その記録は不載。
 
 
 
太宗召見奝然,存撫之甚厚,賜紫衣,館于太平興國寺。
太宗は奝然を召して接見すると、滞在中はこれを慰撫し甚だ厚遇して、紫衣と、太平興国寺に広い館を賜う。

上聞其國王一姓傳繼,臣下皆世官,因歎息謂宰相曰:

「此島夷耳,乃世祚遐久,其臣亦繼襲不絶,此蓋古之道也。

中國自唐季之亂,宇縣分裂,梁、周五代享暦尤促,大臣世胄,鮮能嗣續

朕雖德慚往聖,常夙夜寅畏,講求治本,不敢暇逸。

建無窮之業,垂可久之範,亦以爲子孫之計,使大臣之後世襲祿位,此朕之心焉。」

其國多有中國典籍,奝然之來,復得『孝經』一卷、越王『孝經新義』第十五一卷,皆金縷紅羅標,水晶爲軸。
 
『孝經』即鄭氏注者。
 
越王者,乃唐太宗子越王貞;『新義』者,記室參軍任希古等撰也。
 
奝然復求詣五台,許之,令所過續食;又求印本『大藏經』,詔亦給之。
 
 
 
二年,隨台州甯海縣商人鄭仁德船歸其國。
(雍熙)二年、台州甯海県の商人の鄭仁徳の船に随行してその国に帰る。

後數年,仁德還。
数年後、仁徳が帰還。

奝然遣其弟子喜因奉表來謝曰:
奝然は喜びその弟子を遣わせ因んで奉表にて来謝し曰く:

「日本國東大寺大朝法濟大師、賜紫、沙門奝然啟:傷鱗入夢,不忘漢主之恩;枯骨合歡,猶亢魏氏之敵。

雖雲羊僧之拙,誰忍鴻霈之誠。

奝然誠惶誠恐,頓首頓首,死罪。
 
奝然附商船之離岸,期魏闕於生涯,望落日而西行,十萬里之波濤難盡;顧信風而東別,數千里之山嶽易過。

妄以下根之卑,適詣中華之盛。

於是宣旨頻降,恣許荒外之跋渉;宿心克協,粗觀宇内之瑰奇。

況乎金闕曉後,望堯雲於九禁之中;岩扃晴前,拜聖燈於五台之上。

就三藏而稟學,巡數寺而優遊。

遂使蓮華回文,神筆出於北闕之北;貝葉印字,佛詔傳於東海之東。

重蒙宣恩,忽趁來跡。

季夏解台州之纜,孟秋達本國之郊。

爰逮明春,初到舊邑,緇素欣待,侯伯慕迎。

伏惟陛下惠溢四溟,恩高五嶽,世超黄、軒之古,人直金輪之新。

奝然空辭鳳凰之窟,更還螻蟻之封。

在彼在斯,只仰皇德之盛;越山越海,敢忘帝念之深。

縱粉百年之身,何報一日之惠。

染筆拭涙,伸紙搖魂,不勝慕恩之至。謹差上足弟子傳燈大法師位嘉因、並大朝剃頭受戒僧祚乾等拜表以聞。」

稱其本國永延二年歲次戊子二月八日,實端拱元年也。
永延二年(988)戊子の歳の次の二月八日にその本国(中国)を稱えるとするが、実際は端拱元年(988)なり。

又別啟,貢佛經,納青木函;琥珀青紅白水晶紅黑木槵子念珠各一連,並納螺鈿花形平函;毛籠一,納螺杯二口;葛籠一,納法螺二口,染皮二十枚;金銀蒔繪筥一合,納發鬘二頭,又一合,納參議正四位上藤佐理手書二卷、及進奉物數一卷、表状一卷;又金銀蒔繪硯一筥一合,納金硯一、鹿毛筆松煙墨金銅水瓶鐵刀;又金銀蒔繪扇筥一合,納檜扇二十枚、蝙蝠扇二枚;螺鈿梳函一對,其一納赤木梳二百七十,其一納龍骨十橛;螺鈿書案一、螺鈿書幾一;金銀蒔繪平筥一合,納白細布五匹;鹿皮籠一,納■裘一領;螺鈿鞍轡一副,銅鐵鐙紅絲秋泥障倭畫屏風一雙;石流黃七百斤。
 
 
 
咸平五年,建州海賈周世昌遭風飄至日本,凡七年得還,與其國人滕木吉至,上皆召見之。
咸平五年(1002)、建州の貿易商の周世昌は突風に遭い流されて日本に至り、七年して帰還を得て、その国人の滕(藤)木吉と至ると、上はこれを召して接見。

世昌以其國人唱和來上,詞甚雕刻膚淺無所取

詢其風俗,雲婦人皆被發,一衣用二三縑。

所記州名年號。

上令滕木吉以所持木弓矢挽射,矢不能遠,詰其故,國中不習戰鬥

賜木吉時裝錢遣還。
 
 
 
景德元年,其國僧寂昭等八人來朝,寂照不曉華言,而識文字,繕寫甚妙,凡問答並以筆劄。
景徳元年(1004)、その国の僧の寂昭ら八人が来朝し、寂照は中国語が話せずとも、文字を識り、甚だ巧妙に書き写すので、すべての問答は並べて筆談。

詔號圓通大師,賜紫方袍
詔にて円通大師に号し、紫方袍を賜う。

天聖四年十二月,明州言日本國太宰府遣人貢方物,而不持本國表,詔卻之。
天聖四年(1026)十二月、明州は日本国の太宰府が人を遣わせ方物を貢ぐと言うが、日本国の奉表を所持せず、詔にてこれを却下。

其後亦未通朝貢,南賈時有傳其物貨至中國者。
その後同じく朝貢は未だ通らず、南の商人が時どき買うその物貨が中国の者に伝わることあり。
 
熙寧五年,有僧誠尋至台州,止天臺國清寺,願留。
熙寧五年(1072)、僧の誠尋が台州に至り、天台宗の国清寺に止まりて、留学を願う。

州以聞,詔使赴闕。
州はそれを聞くと、詔の使いが宮殿に赴く。

誠尋獻銀香爐,木槵子、白琉璃、五香、水精、紫檀、琥珀所飾念珠,及青色織物綾。
誠尋は銀香爐、木の櫛、白琉璃、五香、水晶、紫檀、琥珀製の飾り念珠、および青色の綾の織物を献上。

神宗以其遠人而有戒業,處之開寶寺,盡賜同來僧紫方袍
神宗はその遠方の人に、開宝寺の処で戒業有りと、来僧と同じく最高位の紫方袍を賜う。

是後連貢方物,而來者皆僧也。
この後連続して方物が貢がれるが、来訪する者は皆僧なり。

元豐元年,使通事僧仲回來,賜號慕化懷德大師
元豊元年(1078)、使者の通事僧の仲回が来訪し、慕化懐徳大師の号を賜う。

明州又言得其國太宰府牒,因使人孫忠還,遣仲回等貢絁二百匹、水銀五千兩,以孫忠乃海商,而貢禮與諸國異,請自移牒報,而答其物直,付仲回東歸。
明州は重ねてその国の太宰府の牒を得たと言い、因んで使いの人の孫忠が帰還すると、仲回らの遣いが絁二百匹、水銀五千両を貢いだので、以って孫忠は海運商として、諸国の異なる貢物作法を、自らが移牒(仲介)して報いるのを請い、直にその物品を贈答し、仲回に付して東に帰す。

從之。
これに従う。

乾道九年,始附明州綱首以方物入貢。
乾道九年(1173)、方物の入貢を明州の綱首(船主)に付託し始める。
 
 
 
淳熙二年,倭船火兒滕太明毆鄭作死,詔械太明付其綱首歸,治以其國之法。
淳熙二年(1175)、倭船の暴れ者の滕(藤)太明が鄭を殴って死なせ、詔で太明に械(かせ)をかけその綱首に身柄を付して帰国させ、その国の法によって治める。

三年,風泊日本舟至明州,衆皆不得食,行乞至臨安府者復百餘人。
三年(1176)、風に流され漂泊した日本の舟が明州に至り、乗組員は皆何も食べておらず、一行は食料を乞い臨安府に至り命拾いした者百余人。

詔人日給錢五十文米二升,俟其國舟至日遣歸。
詔にて一人につき銭五十文、米二升を日当に給し、その国の船が至る日を待って遣わせ帰す。

十年,日本七十三人復飄至秀州華亭縣,給常平義倉錢米以振之。
十年(1183)、日本の七十三人が復び飄舶して秀州の華亭県に至り、備蓄倉の銭米をこれに給じて振る舞う。

紹熙四年,泰州秀州華亭縣復有倭人爲風所泊而至者,詔勿取其貨,出常平米振給而遣之。
紹熙四年(1193)、泰州及び秀州華亭県で復び台風で漂泊して至る倭人の者あり、詔にてその財貨の取り上げを禁じ、備蓄米を出してこれに遣わせ振い給す。

慶元六年至平江府,嘉泰二年至定海縣,詔並給錢米遣歸國。
慶元六年(1200)には、平江府に至り、嘉泰二年(1202)には、定海県に至り、並べて詔にて銭米を給じ遣わせ帰国。
 
 

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