『新唐書』

巻二百二十 列伝第一百四十五 東 夷
撰:歐陽修 ・ 宋祁 等 (北宋)
 
 
倭,日 本

日本,古倭也。
日本は、古の倭の「奴国」なり。

去京師萬四千里,直新羅東南,在海中,島而居,東西五月行,南北三月行。
京師(都)を去ること一万四千里、新羅東南に直近の、海の中に在って、居住する島は、東から西に行くこと五ヶ月、南から北に行くこと三ヶ月。

國無城郛,聯木爲柵落,以草茨屋。
国に城郭は無く、木を連ねた柵で集落を囲い、草や茨で屋を作る。

左右小島五十餘,皆自名,而臣附之。
左右の小島は五十余りで、皆自ら国を名乗り、これに臣従する。

置本率一人,檢察諸部。
本率を一人置き、諸部を検察する。

其俗多女少男,有文字,尚浮屠法
その俗衆は女が男より多く、文字があり、仏法を尊ぶ。

其官十有二等
その官位は十と二。
 

其王姓阿毎氏,自言初主號天御中主,至彦瀲,凡三十二世,皆以爲號,居築紫城
その王の姓は「阿毎」氏で、自ら言うに初主は天御中主と号し、彦瀲に至るまで、凡ての三十二世は、皆が「尊」を号し、築紫城に居住。
 
彦瀲子神武立,更以天皇爲號,徙治大和州
彦瀲の子の神武(1)が立つと、号を「天皇」に変更し、大和州を制圧して統治。
 
次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀
次は綏靖(2)といい、次は安寧(3)、次は懿徳(4)、次は孝昭(5)、次は天安(6)、次は孝霊(7)、次は孝元(8)、次は開化(9)、次は崇神(10)、次は垂仁(11)、次は景行(12)、次は成務(13)、次は仲哀(14)。
 
仲哀死,以開化曾孫女神功爲王。
仲哀が死して、開化の曾孫の女の神功(15)を以って王と為す。
 
應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閒,次宣化,次欽明
次は応神(16)、次は仁徳(17)、次は履中(18)、次は反正(19)、次は允恭(20)、次は安康(21)、次は雄略(22)、次は清寧(23)、次は顕宗(24)、次は仁賢(25)、次は武烈(26)、次は継体(27)、次は安間(28)、次は宣化(29)、次は欽明(30)。
 
欽明之十一年,直承聖元年。
欽明の十一年は、梁の承聖元年(552)に直す。
 
海達
次は海達:敏達(31)。
 
用明,亦曰目多利思比孤,直開皇末,始與中國通。
次の用明(32)は、別名を目多利思比孤といい、 隋の開皇(581~600)の末に直し、中国と通じ始める。
 
崇峻
次は崇峻(33)。
 
崇峻死,欽明之孫女雄古立。
崇峻が死して、欽明の孫の女の雄古(34)が立つ。
 
舒明,次皇極
次は舒明(35)、次は皇極(36)。

 
其俗椎髻,無冠帶,跣以行,幅巾蔽後,貴者冒錦;婦人衣純色裙,長腰襦,結髮於後。
その俗衆は髪を束ね、冠や帯は無く、裸足で歩き、大きな布で体を覆い、貴い者はさらに錦を羽織る(婦人は同色の裙と、長い腰襦で、後で髪を結う)。

至煬帝,賜其民錦線冠,飾以金玉,文布爲衣,左右佩銀蘤長八寸,以多少明貴賤。
煬帝の代に至り、その民に錦線の冠を賜いて、金や宝玉で飾り、文様入りの布を衣にし、左右に長さ八寸の銀の花をあしらったので、多少貴賎が明らかになる。

太宗貞觀五年,遣使者入朝。
太宗の貞觀五年(631)、使者を遣わせ入朝。

帝矜其遠,詔有司毋拘歳貢
帝はその遠さに同情し、詔には司所に歳貢の拘束を禁じると有り。

遣新州刺史高仁表往諭,與王爭禮不平,不肯宣天子命而還。
遣いの新州刺史の高仁表が往きて諭すと、待遇を巡り王と争論になり、天子の命を宣告できずに帰還。

久之,更附新羅使者上書。
これから久しくして、さらに新羅の使者に従い上書。

永徽初,其王孝德即位,改元曰白雉,獻虎魄大如斗,碼硇若五升器。
永徽(650~655)の初め、その王に孝徳(37)が即位し、白雉と改元すると、一斗舛ほどの大きさの虎魄と、五升ほどの瑪瑙を献上した。

時新羅爲高麗、百濟所暴,高宗賜璽書,令出兵援新羅
時に新羅が高麗、百済の所で暴れ、高宗は璽書を賜いて、新羅援護の出兵を命令。
 

未幾孝德死,其子天豐財立。
幾ばくもせず孝徳が死して、その子女の天豊財(38)が立つ。
 
死,子天智立。
死して、子の天智(39)が立つ。

 
明年,使者與蝦夷人偕朝。
明くる年、使者と蝦夷人がそろって来朝。

蝦夷亦居海島中,其使者須長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。
蝦夷も海の島の中に居し、その使者の顎鬚は長さ四尺ほどで、首に飾りと矢を掛け、数十歩離れて人の頭にひょうたんを戴せて立たせ、これを射てすべて命中。
 

天智死,子天武立。
天智が死して、子の天武(40)が立つ。
 
死,子總持立。
死して、子の総持(41)が立つ。

 
咸亨元年,遣使賀平高麗
咸亨元年(670)、高麗平定の祝賀の使者を遣わす。

後稍習夏音,惡名,更號日本
後に中国語の習得が進むと、「倭」という名を悪しく思い、「日本」という国号に変更。

使者自言,國近日所出,以爲名。
使者が自ら言うに、日の出ずる所に国が近いので、それを名と為す。

或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。
或いは云うに日本は小国なので、倭の所を併せ、故にその号を冒す。

使者不以情,故疑焉。
使者の云うことには信憑性が無いので、疑わしい。

妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
重ねてその国の都は数千里四方の広さだと妄言誇張し、南と西は海で尽き、東と北は大山で限られ、その外は即ち毛人の地だと云う。
 

長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。
長安元年(701)、その王に文武(42)が立ち、太宝と改元すると、朝臣の真人の粟田を遣わせて方物を貢ぐ。

 
朝臣真人者,猶唐尚書也。
朝臣の真人なる者は、唐でいえば尚書なり。

冠進德冠,頂有華蘤四披,紫袍帛帶。
冠は進徳冠で、頂には四披の花が有り、紫の外套に錦の帯。

真人好學,能屬文,進止有容。
真人は好く学び、文書を理解し、立ち振る舞いに威容があった。

武后宴之麟德殿,授司膳卿,還之。
武后は麟徳殿でこれに宴を設けると、司膳卿を授け、帰還させた。
 

文武死,子阿用立。
文武が死して、子の阿用(43)が立つ。
 
死,子聖武立,改元曰白龜
死して、子の聖武(44)が立ち、白亀と改元。

 
開元初,粟田復朝,請從諸儒受經。
開元(713~741)の初め、粟田が復び入朝し、諸儒に従い経を授かりたいと請う。

詔四門助教趙玄默鴻臚寺爲師,獻大幅布爲贄,悉賞物貿書以歸。
詔にて鴻臚寺の四門学助教の趙玄黙を師にすると、お礼に大幅の布を献上し、貴重品をことごとく書と交換し持ち帰る。

其副朝臣仲滿慕華不肯去,易姓名曰朝衡,曆左補闕儀王友,多所該識,久乃還。
その副朝臣の仲満は中華を慕い帰国せず、姓名を朝衡に改易して、左補闕、儀王友を歴任し、多くの見識を得、久しくして帰還。
 

聖武死,女孝明立,改元曰天平勝寶
聖武が死して、子女の孝明(45)が立ち、天平勝宝と改元。

 
天寶十二載,朝衡復入朝。
天宝十二載(753)、朝衡が復び入朝。

上元中,擢左散騎常侍安南都護
上元(760~761)中、安南都護の、左散騎常侍に抜擢される。

新羅梗海道,更繇明、越州朝貢。
新羅が海の道を塞ぎ、更には明州、越州に朝貢を課す。
 

孝明死,大炊立。
孝明が死して、大炊(46)が立つ。
 
死,以聖武女高野姫爲王。
死して、聖武の子女高野姫(47)を以って王と為す。
 
死,白壁立。
死して、白壁(48)が立つ。

 
建中元年,使者真人興能獻方物。
建中元年(780)、真人である使者の興能が方物を献上。

真人,蓋因官而氏者也。
真人とは、官の最高位の氏の者なり。

興能善書,其紙似繭而澤,人莫識。
興能は書を善く嗜み、その紙は繭に似て光沢があり、博識の人物。
 

貞元末,其王曰桓武,遣使者朝。
貞元(785~805)の末、その王は桓武(49)といい、使者を遣わせ来朝。
 
其學子橘免勢、浮屠空海願留肄業,暦二十餘年。
その文官橘免勢と、仏僧空海は就学を願い出て、二十年余り留まる。

 
使者高階真人來請免勢等倶還,詔可。
使者の高階真人が来て免勢等の留学を免じ全員の帰還を請うので、詔にて認可。
 

諾樂立,次嵯峨,次浮和,次仁明
次は諾楽(50)が立ち、次は嵯峨(51)、次は浮和(52)、次は仁明(53)。
 
仁明直開成四年,復入貢。
仁明は開成四年(839)に直して、復び入貢。
 
文德,次清和,次陽成
次は文徳(54)、次は清和(55)、次は陽成(56)。
 
光孝,直光啓元年。
次の光孝(57)は、光啓元年(885)に直す。

 

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