『晋 書』 三 韓

列伝第六十七(巻九十七) 四夷伝
編者:房玄齡(唐) 等
 

馬韓 辰韓 弁韓

種有三:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓
「韓」の種は三つあり:一に「馬韓」、二に「辰韓」、三に「弁韓」。

辰韓在帶方南,東西以海爲限。
「辰韓」は帯方の南に在り、東西は海によって限られる。

馬韓居山海之間,無城郭,凡有小國五十六所,大者萬,小者數千,各有渠帥。
「馬韓」は山と海の間に居し、城郭は無く、凡て小国で五十六所あり、大きいものは一万戸、小さいものは数千家で、各々が渠帥を有す。

俗少綱紀,無跪拜之禮。
俗衆に綱紀は少なく、跪拝の礼義は無い。

居處作土室,形如,其戸向上,舉家共在其中,無長幼男女之別。
居処は土室(ムロ)を作り、形は塚の如くで、その入り口は上を向き、一家を挙げてその中に共在し、長・幼・男・女の別は無い。

不知乘牛馬,畜者但以送葬。
牛馬に乗ることを知らず、送葬のためだけに蓄育する。

俗不重金銀錦罽,而貴瓔珠,用以綴衣或飾發垂耳。
俗衆は金・銀・錦・罽は珍重しないが、瓔珠は貴重で、衣に縫いつけたり髪に飾ったり耳から垂らして用いる。

其男子科頭露紒,衣布袍,履草蹻,性勇悍。
その男子の科は頭は束ねた髪を露にし、衣は裏地付きで、草で編んだ蹻を履き、性質は勇悍である。

國中有所調役,及起築城隍,年少勇健者皆鑿其背皮,貫以大繩,以杖搖繩,終日歡呼力作,不以爲痛。
国中に「調」と「役」を納める所があり、および城や堀の建築が起きると、年少の勇健者は皆その背の皮を穿ち、大縄で貫き、杖を縄にぶら下げ、一日中掛け声を上げて労働し、痛みを忘れるようにする。

善用弓楯矛櫓,雖有鬥爭攻戰,而貴相屈服
弓・楯・矛・櫓を巧みに用いるが、戦争・攻戦があっても、引き分けを貴しとする。

俗信鬼神,常以五月耕種畢,群聚歌舞以祭神;至十月農事畢,亦如之。
俗衆は鬼神を信じ、五月の耕・種が終わると、群衆は歌舞で神を祭るのが常である。;十月の農事の終わりに至ると、同じくこれの如し。

國邑各立一人主祭天神,謂爲天君。
国・邑は各々一人の天神の主祭を立て、天君と謂う。

又置別邑,名曰蘇塗,立大木,懸鈴鼓。
また別に置く邑を、蘇塗といい、大木を立て、鈴・鼓を懸ける。

其蘇塗之義,有似西域浮屠也,而所行善惡有異
その蘇塗の義は、西域の仏教に似ていて、行く所は善悪で異なる。

武帝太康元年、二年,其主頻遣使入貢方物,七年、八年、十年,又頻至。
武帝の太康元年(280年)と二年(281年)に、その主君は頻繁に使者を遣わし方物を入貢し、七年(286年)と八年(287年)と十年(289年)も、また頻繁に至る。

太熙元年,詣東夷校尉何龕上獻。
太熙元年(290年)、東夷校尉「何龕」を参詣して上献する。

咸寧三年復來,明年又請内附。
(後涼)咸寧三年(401年)に復び来て、明くる年にまた内附を請う。
 
 
 
 
辰韓在馬韓之東,自言秦之亡人避役入韓,韓割東界以居之,立城柵言語有類秦人,由是或謂之爲秦韓
「辰韓」は「馬韓」の東に在り、「秦」の労役を避け亡命した人が「韓」に入ったと自ら言い、「韓」を分割して東界をこれの居地とし、城柵を立て、言語は秦人に類する部分があり、是を理由に秦韓ともいう。

初有六國,後稍分爲十二,又有弁辰,亦十二國,合四五萬,各有渠帥,皆屬於辰韓。
初めは六国あり、後次第に分かれ十二になり、また弁辰があり、同じく十二国に分かれ、合せて四、五万戸になり、各々が渠帥を有し、皆辰韓の内に属する。

辰韓常用馬韓人作主,雖世世相承,而不得自立,明其流移之人,故爲馬韓所制也。
辰韓は常に馬韓人が作る主君を用い、代々の相承とはいえ、自から立つことはできず、流移の人なのが明らかであり、故に馬韓が所を制する。

地宜五穀,俗饒蠶桑,善作縑布,服牛乘馬
土地は五穀に宜しく、俗衆の多くが蚕桑を植え、縑布は善い作りで、牛を働かせ馬に乗る。

其風俗可類馬韓,兵器亦與之同。
その風俗は馬韓と同類と言え、兵器もこれに同じ。

初生,便以石押其使
子が生まれた初期に、石などをその頭を押さえて扁頭にするのに使う。

喜舞,善彈瑟,形似
舞に喜び、「瑟」を善く弾き、「瑟」の形は「築」に似ている。

武帝太康元年,其王遣使獻方物。
武帝の太康元年(280年)、その王は使者を遣わせ方物を献上する。

二年復來朝貢,七年又來。
二年(281年)に復び来て朝貢し、七年(286年)にまた来る。