カッテンディーケ

『長崎海軍伝習所の日々』
カッテンディーケ(水田信利訳) 『長崎海軍伝習所の日々』
東洋文庫26, 平凡社, 1964

カッテンディーケ (Willem Johan Cornelis Huyssen van Kattendijke, 1816~1866) はオランダの海軍軍人で、1857~59(安政4~6)年に長崎の海軍伝習所の教官団長をつとめた。同伝習所は1855年7月設立され、ベルス・ライケンを団長とする第一次教官団が11月に到着した。

カッテンディーケ中佐は幕府から注文を受けた蒸気船咸臨丸を長崎に回航するとともに、第二次教官団を率いてライケンと交代するよう命令を受けた。

咸臨丸は1857年3月26日にレフートスロイスから出航し、9月21日長崎港に到着した。教官団は伝習所で教えるとともに、天草・五島・対馬・福岡・鹿児島等に練習航海に出た。

1859(安政6)年1月、幕府は練習艦の朝陽丸と咸臨丸を江戸に呼び寄せ、伝習所は練習航海ができなくなった。

3月10日、カッテンディーケは長崎奉行から伝習所閉鎖を告げられた。教室での講義は4月18日をもって停止された。

11月4日、カッテンディーケら教官団七名は商船で長崎を発ち、27日にバタヴィアに到着した。しかしポンペ軍医やハルデス機関士ら数名は、日本に残った。
 

この二世紀にもわたる長い間の平和は、国民の性格に影響を及ぼさずには済まなかった。歴史に伝えられるキリスト教掃滅の暴虐は、全く言語に絶し、今なお人心を戦慄せしめるものがある。
 
その暴虐に比べると今の国民の温良さはまた格段で、日本人はたとい死は鴻毛のごとく軽く見ているとはいえ、かりそめにも暴虐と思われることは、いっさい嫌悪する
(p.20)

ラウツ教授は知識欲に燃えているのが日本人の特徴であると言っているが、まことに至言である。例えばポルトガル人の渡来以来、日本人は如何によくヨーロッパ人の知識を咀嚼して自己のものにしおおせたか、これは世人の熟知するところである。
(p.21)

日本人は物解りは早いが、かなり自負心も強い。我々のしていることを見て、直ぐさま他人の助けを藉らずともできると思い、その考えの誤りであることを諭されても、なかなか改めようとはしない。その上、非常に頑固で、陳腐な観念にコビリついている
(p.30)

私は一般に日本国民は、辛抱強い国民であると信じている。彼等はお寺詣りをするのが、努めであると考えており、我々がお寺に詣でることをも非常に喜ぶ。
 
彼等の年長者に対する尊敬心および諸般の掟を誠実に遵守する心掛けなど、すべて宗教が日本人に教え込んだ性質であり、また慈悲心が強く惨虐を忌み嫌うのは、日本人の個性かとさえ思われる
(p.41)

私はこうも考える、すなわち日本にはあまり貧乏人がいないのと、また日本人の性質として、慈善資金の募集に掛るまでに、既に助けの手が伸ばされるので、それで当局は貧民階級の救助には、あまり心を配っていないのではなかろうかと。
(p.43)

日本では婦人は、他の東洋諸国と違って、一般に非常に丁寧に扱われ、女性の当然受くべき名誉を与えられている
 
もっとも婦人は、ヨーロッパの夫人のように、余りでしゃばらない。そうして男よりも一段へり下った立場に甘んじ、夫婦連れの時でさえ、我々がヨーロッパで見馴れているような、あの調子で振る舞うようなことは決してない。
 
そうだといって、決して婦人は軽蔑されているのではない。私は日本美人の礼賛者という訳ではないが、彼女らの涼しい目、美しい歯、粗いが房々とした黒髪を綺麗に結った姿のあでやかさを、誰が否定できようか。
 
しかしいったん結婚すると、その美しい歯も、忽ちおはぐろで染めて真黒にする
(p.47)

私に最も力抜けを覚えさせたことは、日本人が非常に大切な問題を扱う場合に、いとも事なげに扱うかと思えば、反対に何でもないことにダラダラと数ヶ月も審議に時を費やすといった頼りない態度であった
(p.52 – 53)

日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ。我々はまた余り日本人の約束に信用を置けないことを教えられた
(p.56)

自分は日本人のすること、為すことを見るにつけ、がっかりさせられる。日本人は無茶に丁寧で、謙譲ではあるが、色々の点で失望させられ、この分では自分の望みの半分も成し遂げないで、ここを去ってしまうのじゃないかとさえ思う。
(p.58)

我々は若い娘たちに指輪を与えた。その娘たちはどうしたのか胸もあらわに出したまま、我々に随いて来る。見たところ、彼女たちは、われわれがそれによほど気を取られていることも気付かないらしい。
 
我々が彼女たちの中で一ばん美貌の娘に、最も綺麗な指輪を与えたことが判ると、数名の娘たちは我々の傍に恥ずかしげもなく近寄って来て、その露出した胸を見せ、更に手をさわらせて、自分こそ一ばん美しい指輪をもらう権利があるのだということを知らそうとする
 
こんな無邪気な様子は他のどこでも見られるものではない。しかしこの事実から、これらの娘たちは自分の名誉を何とも思っていないなどと結論づけようものなら、それこそ大きな間違いである
(p.86)

この国が幸福であることは、一般に見受けられる繁栄が、何よりの証拠である。百姓も日雇い労働者も、皆十分な衣服を纏い、下層民の食物とても、少なくとも長崎では、申分のないものを摂っている。もし苦力[クーリー]などが裸体のまま、街頭に立っていたとすれば、それは貧乏からではなくて、不作法のせいであると言う。それも尤もなことで、上流者は駕籠でなければ、町に決して出ないのである。
(p.123)

下層の日本人は、互いに礼儀というものを全然知らない。男も女も、また男の子と娘も、一つの同じ大きな風呂に入っていることが往々ある。我々がその風呂の傍を通ることがあれば、彼等はその風呂から飛び出し、戸口に立って眺めている。
(p.123 – 124)

これに反して、町人は個人的自由を享有している。しかもその自由たるや、ヨーロッパの国々でも余りその比を見ないほどの自由である。
 
道徳および慣習に違反する行為は、間諜の制度によって、たちまち露見し、犯人は逮捕せられる。市民はそれを歓迎しているようだ。そうして法規や、習慣さえ尊重すれば、決して危険はない
(p.125)

民衆はこの制度の下に大いに栄え、すこぶる幸福に暮しているようである。日本人の欲望は単純で、贅沢といえばただ着物に金をかけるくらいが関の山である。何となれば贅沢の禁令は、古来すこぶる厳密であり、生活第一の必需品は廉い。だから誰も皆、その身分に応じた財産を持つことができるのである。
 
上流家庭の食事とても、至って簡素であるから、貧乏人だとて富貴の人々とさほど違った食事をしている訳ではない。
 
日本人は頑健な国民である。苦力や漁師たちは、少なくとも長崎においては、冬でもほとんど裸で仕事をしている。しかも彼等は、歌をうたい冗談を喋りながら、すこぶる快活に仕事をしているのである
(p.126)

日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである。すなわち大広間にも備え付けの椅子、机、書棚などの備品が一つもない。
 
江戸城内には多数の人間がいるが、彼等は皆静粛を旨とし、城内は森閑としている。これはヨーロッパの宮廷にて見かける雑踏の騒音とは、まさに対蹠的な印象を受ける。
(p.127)

私は日本人ほど、無頓着な人種が他にもあるとは信じない。八、九月の頃、長崎市およびその付近でコレラ病が発生し、莫大な犠牲者を生じた時でも、住民は少しも騒がなかった。
 
それどころか、彼等は町中行列を作り、太鼓を叩いて練り歩き、鉄砲を打って市民の気を浮きたたせ、かくして厄除けをしようとしていたようであった。
(p.129 – 130)

日本人の死を恐れないことは格別である。むろん日本人とても、その近親の死に対して悲しまないというようなことはないが、現世から彼あの世に移ることは、ごく平気に考えているようだ。彼等はその肉親の死について、まるで茶飯事のように話し、地震火事その他の天災をば茶化してしまう
 
だから私は仮りに外国人が、日本の大都会に砲撃を加え、もってこの国民をしてヨーロッパ人の思想に馴致せしめるような強硬手段をとっても、とうてい甲斐はなかろうと信ずる。そんなことよりも、ただ時を俟つのが最善の方法であろう。
(p.130)

一般にいって上海と長崎の間には大きな相違がある。何といっても、長崎のほうが勝っている。両市とも約六万の人口を有する商業都市であるから比較に便利である。
 
長崎の町は広くて真直ぐで舗装されているに反し、上海のほうは狭隘で曲って、ごみごみしている。
(p.156)

私はこの支那の滞在中でも、ああ日本は聖なる国だと幾たび思ったことか。日本は国も住民も、支那に比べれば、どんなによいか知れない。だから二月四日の金曜日に、無事長崎番所付近に上陸して、菜種咲く畔を横切り、山を越え谷を渡って、幾町かを歩み、再び出島に帰り着いたその節は、ほんとに仕合せだと感じた。
(p.157)

想像力に非常に富んでいるところは、日本人とイタリー人がよく似ている。そうして祖先の英雄的行為を語る場合など、非常に昂奮するところなども、両者の似た点である。
(p.160)

人は何と言おうが、とにかく日本人ほど寛容心の大きな国民は何処にもいない。そうしてもし彼等の寛容心が、ただどうであろうが構わないという無頓着の結果でなかったならば、この点において我々キリスト教徒はたしかに教え導かるべきであろう
(p.161)

私は日本の海軍士官が、全然部下の乗組員のことに関係しないのは、日本人の持って生まれた尊大心からであると思う。彼等は乗組員がどんなふしだらなことをしても、未だかつて叱責したことがない。それに触れては手を汚すという気持ちがそうさせないのである。
 
こうした結果、下層民は前にも言ったとおり、全然上層民と関係がないから、誰にも抑制されることがない故、公衆の前でも平気でどんな乱暴でも働くということになる。
(p.182)

日本人は旺盛な独立心をもっているが、しかし水兵たちはその上官さえ、その育ちと経験によって水兵たちの信頼を獲得するだけの人物であるならば、彼等はよくその船内における自己の地位を弁えている。日本人はそのくらいのことは十分心得ている。そうして我々が時に大声で叱咤せねばならぬような場合には、我々の声におとなしく従い、与えられた命令を迅速に遂行するのである。
(p.183)

思うに日本海軍士官に、厳格なる船内規律の如何に必要であるかを認識せしめ、また彼等の先入観をいっさい取り除かしめる唯一の方法は、彼等をごく幼少の頃に、ヨーロッパ式軍艦に乗せて勤労を見習わしめることである。日本人は一般にすこぶる軽率である
(p.184)

また彼等の物事に飽きっぽい性質は、常に士官の純科学的養成に一大障碍である。日本人は敏捷であるから、必要だとさえ感得するならば、如何なる学問でもごく僅かな時間のうちに、ただ上っつらの知識だけではあるが、苦労なしで覚えることができる。
 
しかし悪いことには、ちょっと始めると直ぐさま彼等の好奇心は満腹して、忽ち他の変わったものに目をつける。何事でも徹底的に学ぶ辛抱というものが、彼らには欠けている
(p.184)

日本人がその子らに与える最初の教育は、ルッソーがその著『エミール』に書いているところのものと非常によく似ている。多くの点において、その教育は推奨さるべきである。
 
しかし年齢がやや長ずると親たちはその子供たちのことを余り構わない。どうでもよいといった風に見える。だからその結果は遺憾な点が多い。
(p.202)

私は或る階級の日本人全部の特徴である自惚れと自負は、すべて教育の罪だと思う。二百五十年の間、全く他国民と交渉を持たず、そうして外国人といえば、常に流刑者とばかり見るように教えられてきた日本国民が、井中の蛙のごとき強烈なる国民的自負を持つのも、あながち驚くには当たらない。
 
日本人は非常に物わかりが早い。しかしまたその一面、こうした人々によくある通り、どうも苦労をしないで、あれもこれも直ぐ飽いてしまう
 
彼等は人倫を儒教によって学び、徳を磨くことに無限の愛を感じ、両親、年長者および教師に対し、最上の敬意を払い、政府の力や法規を尊重すること、あたかも天性のごとくである。
 
その反対に、最も慎重に扱わねばならぬ事柄でも茶化してしまうような、軽薄な国民でもある
(p.203 – 204)

日本人の悪い一面は不正直な点である。私はこれを始終経験した。これは皆その隣人を、あたかも密偵のごとくに思わしめるような政府の政治組織が悪い結果であると思う。
 
外国人の関係する問題などが起こった場合、明瞭にこの日本人の不正直さが現われてくる
(p.205)

私は彼等を高慢な、うわべを飾る、すれからしの、何でもむずかしいことは嘘をついて片づけてしまうという手合いと思っている
 
この他では、日本はつき合ってまことに気持ちの良い国民である。しかし決して物事を共にすべき相手ではない。善良なところも多々あるが、言葉の真の意味における友情などということは全く知らない。
(p.205)

他所では何処でも精神的文明が発達するにつれて、婦人は男子と相並んで社会上立派な地位を占めている。
 
然るに日本の婦人は幾ら大切にせられ、自分の自由を持ってるとはいえ、男子に対しては絶対にあがめ奉ることを強いられている
(p.206)

決して日本が一ばん不行儀な国であるとは言わないが、しかしまた文明国民のなかで、日本人ほど男も女も羞恥心の少ない国民もないように思われる。風呂は大人の男も女も、また若い男女も皆一緒に入るのであるが、男も女も真っ裸で風呂から町に出ているのを往々見かける。
(p.206)

この切腹から考えても、真の日本人は恥を受けるよりも、死を選ぶことが判る。だから日本人は勇敢な国民であることを疑わない。
(p.207)

私はこうした、まんざら不良でもない日本人観を持って日本を去った
 
ああ日本、その国こそは、私がその国民と結んだ交際並びに日夜眺めた荘厳な自然の光景とともに、永く愉快な記憶に残るであろう。
(p.207)

欧米から見た日本