グスタフ・クライトナー

『東洋紀行』
グスタフ・クライトナー(小谷裕幸・森田明) 『東洋紀行』
東洋文庫555,558,560, 平凡社, 1992-93

グスタフ・クライトナー (Gustav Kreitner, 1847~93) はオーストリーの軍人・外交官で、1877~80年にハンガリー貴族セーチェーニ・ベーラ伯爵の東洋旅行に同行した。

一行は1878(明治11)年6月に上海から汽船で長崎に着き、瀬戸内海航路で神戸に上陸した。

大阪・京都を見物後、富士山に登頂してから東京に入った。
 
8月にクライトナーは単身で南北海道を踏査し、9月に上海で一行と合流した。

この日本旅行が機縁となり、クライトナーは1884年に横浜領事、後に総領事となったが、45歳で死亡し横浜外人墓地に葬られた。
 

脱線はこの程度にして再び長崎に話を戻してみると、町の辻裏の雑然とした営みは、品位、道徳、美徳に関するわたしたちの観念と正反対である。
 
しかし男女を問わず、日本人はおしなべて親切で愛想がよい。底抜けに陽気な住民は、子供じみた手前勝手な哄笑をよくするが、これは電流の如く、文字通り伝播する。
(一巻, p.214)

プロテスタントの宣教師の話では、中国ではおよそ三万人の住民がキリスト教に改宗している。中国人の場合、一度改宗すればその人はいつまでもキリスト教徒のままである。例えば、ある宣教師が十六年前にある村で300人の人に洗礼を施していた。宣教師がその村を再び訪れた時には、信者は十六年前より増えていた。
 
これに比べて、日本では改宗させるのははるかに容易だが、この国の民衆は宗教の面でも「去る者は日々に疎し」という諺に忠実である。
(一巻, p.219)

日本人の召使いはどんな場合でも信頼できる。彼らは心底正直者で、何日家を留守にしても盗みを働く心配はない。
(一巻, p.222)

山門の前あたりから、はや道端に露店が並び、菓子、小間物、日本製彫り物、櫛、ガラス器、喫煙具等を売っている。
 
売り子の女たちは真底愛想がよいので、外国人などはつい買う気にさせられてしまう
 
日本人がいろいろの点で人気があるのも、この親切さや素朴さのおかげであることは確かである。
(一巻, p.224)

日本女性の地位は、たった今述べたことからも明らかなように従属的である。女性の役割は受動的なもので、夫は、妻とか娘の心の動きなどはまったく無視し、自分の好きなように、そして自分の欲する通りに家庭内をとりしきる。
(一巻, p.251)

日本の田舎の人は富の恩恵を受けていない。生活は惨めなものである。米を食べることのできる裕福な家庭は数える程ほどしかない。
(一巻, p.271 – 272)

旅行者なら誰でも、日本の国土と国民の虜となって日本から去っていく。このことは日本人のほうも心得ていて、外国人に好かれようと努力する
(一巻, p.283)

実際に眺めてみると、期待した程のものではなかった。東京は大きな村という感じだった。そして、町の無数の貧弱な木造家屋の中に高々と聳え立っている帝の居城さえも、宮殿というよりもむしろバラックといった趣であった。
(一巻, p.289)

しかし、心の飛躍を阻む民族的慣習を根絶することを政府は怠っている。文化の発展の基礎は、公衆道徳にある。しかし、日本人には公衆道徳がまったく欠如している。この面での日本人の考え方は、ヨーロッパ人のそれとはまったくかけ離れている。
 
ヨーロッパ人たるわたしは、一挙手一投足ごとに、ヨーロッパ人の風俗や習慣の概念とはまったく相容れない場面に出くわすのである。
 
…柵の奥にはそれぞれ五~十人の娘がいて、けばけばしい着物で飾り立て、一片の羞恥心さえもあるとは思えない程に平然と落ち着きはらって、通行人たちの目に身をさらしている
 
どんな町の路地、どんな小さな村にも共同浴場があり、そこでは、日本人は男女の区別なく、ひとつの浴室に集まる
(一巻, p.294 – 295)

日本の発展と、強い影響を及ぼすその文化とには多くの賞讃が寄せられている。
 
が、わたしは、日本讃美にとりつかれるのは、たいていの場合、深い基盤を欠いた、一時の浅薄な熱狂にすぎない、と見ている。
(一巻, p.306)

欧米から見た日本