ゴロヴニン

『日本幽囚記』
ゴロヴニン(井上満訳) 『日本幽囚記』
岩波文庫青33-421, 1943

ワシリー・ミハイロヴィッチ・ゴロヴニン (Vasilii Mikhailovich Golovnin, 1776~1831) はロシアの海軍軍人で、1811(文化八)年に国後島で捕虜となり、二年二ヶ月にわたって函館および松前に幽閉された。

1804年にロシアの遣日使節レザーノフが来日し通商を求めたが、幕府に拒否されると武力強圧策を皇帝に進言した。レザーノフが明確な命令を出さずにペテルブルグに戻った後、フォヴォストフ大尉が自己の判断で1806年9月に樺太を襲撃した。

この報せを受けた幕府は東北諸藩の兵力を動員し、北方警備に当てた。フォヴォストフはその後も千島に武力侵攻を続たため、幕府は1807年12月にロシア船打ち払い令を出した。

ゴロヴニンを艦長とするディアナ号は、1809年9月にカムチャツカに到着した。1811年には千島諸島の測量に従事していたが、7月11日に国後島に上陸したところを、ゴロヴニン以下ロシア人七名が日本側の捕虜となった。

一行は最初は函館、後には松前に幽閉され、奉行所の尋問を受けた。

1812年4月には、ムール少尉を除くロシア人六名が脱獄したが、九日後には全員が逮捕され、再び松前の獄舎に幽閉された。夏にリコルドが率いるディアナ号が国後島に来航し、高田屋嘉兵衛ら日本人数名をカムチャツカに拉致した。

1813年6月、ディアナ号は再び国後島に来航し、交渉のため水兵のシーモノフとアイヌ人通訳アレクセイが出牢して国後島に向った。交渉は妥結し、ディアナ号は9月28日に函館に入港し、ロシア人捕虜全員を収容してカムチャツカに帰還した。

『日本幽囚記 (ЗАГИСКИ О ПРЙКЛЮЧЕНИЯХ В ПЛЕНУ У ЯПОНЦЕВ В 1811-13) 』は1816年にロシア海軍印刷局から出版され、直ちにヨーロッパ各国語に翻訳された。このうちドイツ語からオランダ語への重訳が1817年に出ており、それを馬場佐十郎らが日本語訳した『遭厄日本紀事』が1825(文政8)年に出た。
 
 

「日本人もわれわれと同様に、直角三角形の(と私はそれを圖示した)兩邊の平方の和は斜邊の平方に等しいと思ってゐますか」 「むろん、その通りです」と彼は答へた。「何故です」とわれわれがたづねると、彼は最も争ひ難い方法でそれを證明した
 
といふのは兩脚器で紙上に圖形を描き、三つの正方形を切りぬき、そのうち兩邊の長さから取った二つの正方形を折つたり切つたりし、それを斜邊から作つた正方形の上にのせて、ぴつたりとその全面積を蔽つてしまつたのである。
 
(中巻, p.140)

さて私は、「日本側がわれわれを優遇し、釋放に同意したのは、彼等が臆病なためであり、ロシヤの報復を恐れたためである」といふ一部の批評についてもう自分の意見を述べてもよいであらう。
 
私自身としては、われわれに對する日本側の態度は、全く彼等の人間愛に根ざすものと考へてゐる。その理由は次の通りである。
 
もし現在日本側が恐怖心に押されたのだとしたら、その同じ恐怖心のため彼らが最初からロシヤとの和解を求めない筈はないではないか。ところが實際は、日本側では武力に訴へてもわれわれを打佛はうとした
 
のみならずわれわれが存命してゐるばかりでなく、日本側で大いに一同の健康保持に苦勞してゐる時に、われわれ一同は殺害されたとまで、リコルド君に傳へさせたではないか。
 
しかし讀者はこの物語によつて、ロシヤ側が日本のために何をし、日本側がわが方のために何をしたかを知られたら、この點について自ら判斷がつくであらう。
 
(中巻, p.237 – 238)

われわれが美德の一つに數えてゐる資質のうち、現在日本人に缺けてゐるものが一つだけある。それはわれわれが剛毅、勇氣、果斷と稱するものであり、また時には男らしさといふものである。
 
しかし彼らが臆病であるとしても、それは日本の統治の平和希求的な性質によるものであり、この國民が戰爭をしないで享受して來た永い間の太平のためである。いやむしろ流血の慘事に慣れてゐないためだと云つたがよからう。
 
(下巻, p.26)

罪惡のうちで最も日本人を支配してゐるのは肉慾らしい。日本人は法律上の妻は一人しか持つことは出來ないが、畜妾の權利を持つてゐるので、裕福な連中は遠慮なくこの權利を用ひ、破目をはづすことも屢々である。
 
(下巻, p.28)

復讐心もまた昔は、主として日本人特有の罪惡の一つに數へることが出來た。
 
昔は身に蒙つた恥辱に對する復讐の義務は、恥辱をうけた側の子孫が恥辱を加へた方の子孫に對して復讐の義務を果すまで、祖父から孫までも、甚だしきは曾孫までも傳承したものである。
 
しかし日本人たちの斷言するところによると、この凶暴な情熱は今では人の頭にそれほど強い作用を及ぼさず、恥辱はすぐに忘れられるやうになったそうである。
 
(下巻, p.30)

日本人は節儉ではあるが、吝嗇ではない。その證據として、彼らが常に守錢奴を大いに卑しみ、吝嗇ものについて彼等の仲間うちに辛辣なアネクドートが澤山できてゐることを擧げることが出來る。
 
(下巻, p.30)

日本の國民教育については、全體として一國民を他國民と比較すれば、日本人は天下を通じて最も教育の進んだ國民である
 
日本には讀み書きの出來ない人間や、祖國の法律を知らない人間は一人もゐない。日本の法律はめつたに變らないが、その要點は大きな板に書いて、町々村々の廣場や人目にたつ場所に掲示されるのである。
 
(下巻, p.31)

日本人は農業、園藝、漁業、狩獵、絹および綿布の製造、陶磁器および漆器の製作、金屬の研磨については、殆んどヨーロッパ人に劣らない
 
彼らは礦物の精煉もよく承知して居り、いろいろな金屬製品を非常に巧妙に作つてゐる。指物および轆轤業は日本では完成の域に達してゐる。
 
その上、日本人はあらゆる家庭用品の製造が巧妙である。だから庶民にとつてはこれ以上、開化の必要は少しもないのである。
 
(下巻, p.31)

繪畫、建築、彫刻、製版、音樂そして恐らく詩についても、日本人はあらゆるヨーロッパ人より遥かに後れてゐる
 
彼らは各種兵學を通じてまだ赤ン坊で、航海術は沿岸航海以外には全く知つてゐないのである。
 
(下巻, p.35)

日本人はあらゆる階級を通じて、應對が極めて鄭重である。日本人同志の禮儀正しさは、この國民の本當な教養を示すものである。
 
(下巻, p.39)

しかし國民の總數に比すると、宗教的偏見を脱却した日本人の數は甚だ少數で、全體として見れば日本人は極めて信心深いどころか、迷信的でさへある。日本人は妖術を信じ、その妖術についていろいろの昔話をするのが好である。
 
(下巻, p.50)

日本では布教される各種の宗教や教派がいろいろと違ってゐるにも拘はらず、それは政府にも社會にも少しも不安を與へない。市民は誰でも好きな宗教を信じ、また好きなだけ幾らでも宗旨を代へる權利を持つてゐる
 
また良心に覺るところがあるとか、また何かの都合があるとかで轉宗しても、誰も何とも云はないのである。
 
(下巻, p.54)

日本政府はその立法上に極めて重大な缺陥が澤山あることを覺つてゐる。
 
その缺陥のうちでも最も重大な點は刑罰の苛酷さであるが、政府はこれを一氣に變更することを恐れて、順を逐うて、極めて緩慢に改正してゐる。
 
(下巻, p.81)

とはいへ日本人の嫉妬ぶりは他のアジヤ民族のそれとは全然比較にならない。私から見ると、日本人は嫉妬ぶかいとは云へない。彼らは用心ぶかいだけだ。いやもつとあつさり云へば、日本人は西洋人よりも嫉妬ぶかくないとさへ考へてゐる。
 
(下巻, p.87)

日本人は自分の子弟を立派に薫育する能力を持つてゐる。ごく幼い頃から讀み書き、法制、國史、地理などを教へ、大きくなると武術を教へる。
 
しかし一等大切な點は、日本人が幼年時代から子弟に忍耐、質素、禮儀を極めて巧みに教へこむことである。われわれは實地にこの賞讃すべき日本人の資質を何度もためす機會を得た。
 
(下巻, p.87 – 88)

日本では熱烈に論爭することは、大變に非禮で粗暴なことと認められてゐる。彼らは常にいろいろ申譯をつけて、自分の意見を禮儀正しく述べ、しかも自分自身の判斷を信じてゐないやうな素振りまで見せる。
 
また反駁する時には決して眞正面から切り返して來ないで、必ず遠廻しに、しかも多くは例を擧げたり、比較をとつたりしてやつて來る。
 
(下巻, p.88)

日本には土臺のほかには石造の建築物はない。その原因は激烈な地震である。
 
木造家屋は多くは一階建であるが、二階建もあることはある。しかし暖かな氣候のため、どの建物も概して手輕に出來てゐる。
 
部屋部屋を區切る屋内の仕切りは、必ず移動式になつてゐるので、それを取り拂ふと、一軒の家屋を一つの部屋に變へることが出來る。
 
(下巻, p.94)

そのうへ名士や富豪はみな家の側に庭園を持つてゐる。日本人はこの方にかけては、なかなかの數寄者である。
 
かれらは園藝がなかなか巧者で、庭造りのためなら何も惜まないといふ連中が澤山ゐる
 
しかし日本家屋の最上の装飾であり、最も賞賛すべき装飾と認むべきものは、上下を通じて守られてゐる小ざつぱりと清潔なところであらう。
 
(下巻, p.95)

日本人はヨーロッパ人に比べると、食が大變に細い。われわれは監禁中、運動しなくても、ひとりで日本人の二人前は食べてゐた。また旅行中はこちらの水兵一人前でおそらく日本人の三人が滿腹する位であつたらう。
 
(下巻, p.105)

日本人は至つて快活な氣風を持つてゐる。私は親しい日本人たちが暗い顔をしてゐるのを見たことは一度もない。彼らは面白い話がすきで、よく冗談をいふ。勞働者は何かする時には必ず歌を歌う。
 
(下巻, p.109)

これについて特記すべき點は、日本の銅器が極めて精巧にできてゐることである。われわれは日本で使つてゐた薬罐の丈夫さに何度も驚かされたものである。薬罐は何ケ月も囲爐裏に掛けつぱなしになつてゐても、少しも痛まないのであつた。
 
(下巻, p.128)

日本で出來るほどの漆器類はどこに行つても出來はしない――といふことはもうヨーロッパ人も知つてゐる。
 
(下巻, p.150)

鋼製品はどうかといふと、日本の大小刀は、おそらくダマスク製を除いて、世界中のあらゆる同種の製品を凌駕してゐる。それは極端な試練に堪へるものである。鋼その他あらゆる金屬の研磨にかけては、日本人は一頭地を抜いてゐる。
 
彼らは金屬の鏡まで作るが、それはガラスの鏡と同様に立派に反射するのである。
 
われわれは日本の指物や大工道具をたびたび見たが、それは丈夫さから云つても、仕上げの美事さから云つても、イギリス製にほとんど劣らない
 
(下巻, p.149)

日本の陶器は支那の陶器より遥かにすぐれてゐる。ただ大變に高價で、全國の需要をみたせない位に僅かしか生産しないので、日本人は支那から澤山の陶器を輸入してゐる。
 
(下巻, p.150)

しかし日本人は上等の綿布は作れないか、でなければ作らうとは思はないらしい。われわれは人並みの綿布は一度も見たことがなかつた。われわれの持つてゐた東インド産のハンカチやうすものの襟巻を見ると、日本人たちはそれが綿織物だとは信じないのであつた。
 
(下巻, p.150)

日本人は金屬の像を鑄造し、石造や木造を刻むことも出來るが、われわれが松前の寺院で見た偶像から判斷すると、この藝術は日本ではまだ非常に未完成の状態にある。
 
 また繪畫や、製版や、印刷にかけても日本人は、これらの藝術がまだいはば小兒時代にあるヨーロッパ諸民族に比べても、なほはるかに立ちおくれてゐる
 
しかし彫像以外の彫刻にかけては日本人はかなり器用である。
 
また貨幣も、金、銀、銅貨を通じて相當によく鑄造してある
 
(下巻, p.150 – 151)

日本人は手工にかけて仕事ずきであると同様に、産業にかけても倦むことを知らない國民である。ことに漁業は巧妙で、非常に熱心にこれに從事してゐる
 
(下巻, p.151)

日本人の商賣好きは、どの町どの村に行つてもよく現はれてゐる。ほとんどどの家にも、いろいろな必要品を賣る店がついてゐる。
 
イギリスに行くと、數十萬もする寶石店の隣りに牡蠣屋があると云つた光景をよく見かけるが、それと同様に日本でも高價な絹織物を商ふ商人と、草鞋商人とが隣り同志に暮らしたり、店を開いたりしてゐるのである。
 
日本人はあらゆる秩序を通じて實にイギリス人と似てゐる。彼らはイギリス人と同様に清潔と極端な正確さを要求する。
 
イギリスではどんな下らぬ品にも品名、價格、使用法、製造者または工場の名、さては褒賞をうけたことなどを書きこんだ印刷物が附いてゐるが、日本人もこれと同様にほとんどあらゆる商品に小さな印刷物を附けてゐる
 
(下巻, p.154 – 155)

日本人は工兵の方の學問についても、兵學の他の領域と同様に、大して判つてゐない。われわれの見ることを得た日本の要塞や砲臺は、全くでたらめな構造で、(この構築者たちは經驗とか築城學の法則はおろか、常識さへ守つてないぞ)と考へるほど滑稽にできてゐた。
 
(下巻, p.174)

われわれは日本水夫の敏捷さをたびたび目撃した。かれらが海岸ぞひの猛吹雪を冒し、また潮の干滿が殘りなく猛威を振ふ河から海への落ち口の世にも物凄い潮流を冒して、あの大きな船を輕快巧妙に操つてゐるのは驚くべきものがある。かういふ海員にはどんな期待でも掛けることが出來る。
 
日本の水夫は仕事が多難で危険なだけ報酬も澤山とつてゐるけれども、金使ひの荒らさはイギリスの船員に似てゐる。何ケ月も生命がけで稼いだ金を、酒店や賣笑婦に數日の中に使つてしまふのである。
 
(下巻, p.177)

 

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