シーボルト

『江戸参府紀行』
シーボルト(斎藤信訳) 『江戸参府紀行』
東洋文庫87, 平凡社, 1967
 
フランツ・フォン・シーボルト (Philipp Franz Jonkheer Balthasar von Siebold, 1796~1866) はドイツの医学者・博物学者・日本学者で、1823(文政6)年に来日し、1829(文政11)年にシーボルト事件で追放されるまで、日本の蘭学界にとてつもなく大きな影響を与えた。追放後はオランダで日本関連資料の整理に当たり、『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』を出版した。

その後日本の開国に伴い、シーボルトの入国禁止令も解除されたため、1859(安政6)年に再来日して1862(文久2)年まで滞在した。

東洋文庫版の『江戸参府紀行』は、大著『日本 (Nippon) 』の第2章である。

1826(文政9)年参府時の商館長はヨハン・ウィレム・ドゥ・スチュルレルで、シーボルトとその助手のハインリヒ・ビュルガーが同行した。日本人は通詞の他、シーボルトの門人の高良斎・二宮敬作・石井宗謙・西慶太郎、画家の登与助、シーボルトの召使の伊之助と熊吉らが同行した。

一行は2月15日に長崎を出発、4月10日に江戸に着き、5月1日と4日に将軍家斉に拝謁した。帰りは5月18日に江戸を発ち、7月7日に長崎に着いた。
 

察するに昔の日本の船は朝鮮のものの模倣であって、年代記の記述によれば、日本人は紀元前4 – 3年に朝鮮の船を知っていた。われわれが神社の奉納画で見るような古代の日本船の絵はこうした見解の正しいことを示している。
 
ともかくそれは独特な構造をもっていて、今日にいたるまで支那の造船術からほとんど受けついでいるものもないし、ヨーロッパの造船術からの影響は皆無である。
 
(p.26)

 

勤勉な農夫は自然の蕃殖力と競う。驚嘆すべき勤勉努力によって火山の破壊力を克服して、山の斜面に階段状の畑をつくりあげているが、これは注意深く手入れされた庭園と同じで――旅行者を驚かす千年の文化の成果である。
 
(p.70)

 

しかし(小倉)藩の下級武士の家族や召使が住んでいる町はずれでは、裕福な暮らしというのは当てはまらないように見える。それゆえ私の助力をもとめてやって来たたくさんの患者は、――たいていは慢性の皮膚病・眼病であるが――痼疾の梅毒や胸・腹部の古い疾患に起因する彼らの症状によって、われわれがこの町にはいって来た時に驚いたこぎれいな住居は、ただ貧困をかくしているに過ぎないことを打ち明けていた。
 
(p.82)

 

日本人は自分の祖国に対しては感激家で、先祖の偉業を誇りとしている。教養ある人も普通の人も天皇の古い皇統に対し限りない愛情を抱き、古い信仰や風俗習慣を重んじる。
 
それゆえ外国人が、日本人の民族性に追従し、彼らの宗教や風俗習慣を尊重し、そして原始時代の伝統や神として崇められた英雄の賛美に好意をもって耳をかたむけるのは、非常に結構なことである。
 
(p.84)

 

われわれの出発前まだ出島にいたころ、博物学の知識を少しは持っていた給人に、ヨーロッパ人が日本で集めることが許されている天産物のコレクションやその他の珍しい物を見せて、私の関心事に彼を引きつけておいた。
 
日本人特有の知識欲と自然の珍しい物に対する愛着とは、ある秘密の目的を私がとげようと努めていた時には、いつも役に立った
 
(p.97)

 

日本において国民的産業の何らかの部門が、大規模または大量生産的に行なわれている地方では一般的な繁栄がみられ、ヨーロッパの工業都市の人間的な悲惨と不品行をはっきり示している身心ともに疲れ果てた、あのような貧困な国民階層は存在しないという見解を繰り返し述べてきたが、ここでもその正しいことがわかった。
 
しかも日本には、測り知れない富をもち、半ば餓え衰えた階級の人々の上に金権をふるう工業の支配者は存在しない
 
労働者も工場主も日本ではヨーロッパよりもなお一層きびしい格式をもって隔てられてはいるが、彼らは同胞として相互の尊敬と好意とによってさらに堅く結ばれている。
 
(p.127)

 

日本の国民は小さい町の中でも、しつけの良い従順な多数の家族に比較できる。
 
長老――高官や大名は自分たちの家族のことで、たえ難い心痛を覚えることがヨーロッパではよくあるのは遺憾にたえないが、日本ではそういう懸念は滅多になく――彼らは子供を家庭で教育し、あるいは学校で勉強させる
 
(p.137)

 

川を渡ってまもなくわれわれは府中に着き、この土地の産物である有名な木工品や編細工品を見るために、長い街道を歩いて通り過ぎた。この地方は竹で編んだたいへんよくできている籠やときには高価な木で作った種々の家具、その他の漆器・人形・石の彫刻等々で、全国的に有名である。
 
午後にこれらの製品がたくさんわれわれのところに運ばれて来たが、実際に技巧の入念なことはどんなにほめてもよいほどである。
 
しかしこの商人たちは、われわれが自信をもって言い値の4分の1に値切ってもさしつかえないほど法外の値段をふっかけてくる
 
(p.176)

 

全住民のうちの大名という階級をわれわれによく示しているのは、この人たちの愛すべき家族たちであった。端正・礼儀作法と上品、心からの親切・誠実・誇りの影さえみせぬつつましやかな教養などはお丈夫な老候(薩摩藩主・島津重豪)にも、子供たちや夫人たちにも現われていた――要するにこれらすべては、教養あるヨーロッパ人の尊敬に値する特性である。
 
(p.194)

 

私は、たとえば宿の主人のような低い階層の日本人との交際についてたいへんきびしく自分の意見を述べたことに対し、実に申訳けないと思う。この善良な男とその家族は、読者は是認されるに相違ないが、静かな夜を淋しく過ごすわれわれをできるだけ愉快にしようとして、本当に最善をつくしたのである。
 
(p.207)

 

こんなに多くの人間が住んでいる都会では高度の贅沢とひどい貧乏の両極端がみられる
 
大名たちの食膳に出すためには、一升の米から数粒を、しかもいちばん大きくて上質のものをえらび出し、何度も洗ってさらに調べ、たいた釜の中からただ真ん中のところだけを使うので、20分の1以上はむだになってしまう。
 
同様に魚類・野菜類・そのほかの食品ならびに酒類は大名屋敷ではむだに使われる。
 
これに反して乞食などの最低の階級の者は、人の住む家にさえも住めず冬の寒空にあわれな露命をつないでいる。
 
まったく江戸にみるよりひどい貧困と甚しい贅沢とはこの国のどこにも見受けられない。食料品の値段は非常に高く、おそらく日本の他の地方の城下町より五倍は高い。
 
(p.216 – 217)

 

全国の財貨が集まる非常に重要な商業都市では、罪を犯す幾多の機会が生じる。それでも実際の犯罪者はまれであるということを、われわれは日本人全体の名誉のために言っておかなければならない。数をあげると、一年中、大坂の町で約百人の犯罪者が死刑に処せられるだけである。
 
(p.238)

 

ちょうど妹背山(Imose Jama)という外題で有名な芝居が上演された。役者の中にはたくさんの一流の芸術家がおり、彼らはヨーロッパにおいてさえ一般の拍手を受けたであろう。国民性と情熱のたくまない表現とがひとつになった彼らの身振りや台詞回しは全く賞賛に値するものであったし、彼らの高価な衣装はその印象を高め、劇場そのものの貧弱な設備を忘れさせた
 
(p.243)

 

大坂の町からは、特別な設備をして糞尿を積んだ汚穢舟がよくやってくるが、これは日本じゅうで使われている肥料で、夏期にはいろいろな野菜や穀物に施すのが普通である。そのため六、七および八月にはすべての地方、特に大都会周辺の地方は悪臭に満ちていて、すばらしい自然を楽しむのにたいへん妨げとなることがよくある。
 
(p.248)

 

欧米から見た日本