パキスタン政治の基礎知識 2007

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執筆者:辻 雅之 (記事掲載日/2007.11.29)
 
 
■ パキスタンを読み解く3つのキーワード

パキスタンという国を理解するのはなかなか難しいことです。そこでまずは、パキスタンを読み解く3つのキーワードをここで掲げたいと思います。

(1) イスラム教徒(ムスリム)の共同体国家であるパキスタン

このことは、すなわち「イスラム国家」であることを必ずしも意味しません。「イスラム教徒の国家」がパキスタンなのです。

これによって、歴史的なインドとの険悪な関係と、「多民族国家」パキスタンの現状をみていきます。

(2) 軍政が長く続いてきたパキスタン

パキスタンはアジアの国のなかでもとりわけ軍政が長く続いてきた国です。なぜそうなったのかを説明することで、パキスタンの政党政治について説明していきます。

(3) アメリカの「前衛(最前線基地)国家」としてのパキスタン

パキスタンは、特に80年代から、アメリカにとって地政学的に重要な国の1つになってきました。そうして深まったアメリカとの関係。それがパキスタンにどのような影響を与えているかをみていきます。
 
 
■ インドから「分離独立」したパキスタン

パキスタンの成立は、単なるイギリスからの「独立」ではなく、インドからの「分離独立(パーテーション)」である、と表現されることがしばしばあります。

もともと、インドは今のパキスタンやバングラデシュもあわせて1つの国家として独立するはずでした。インドの独立運動の初期段階では、パキスタンがわかれて独立することは想定されていませんでした。

しかし、徐々に独立運動の多数派=ヒンドゥー教徒少数派=イスラム教徒という図式ができあがってくると、イスラム教徒たちの間に、ヒンドゥー教徒のインドとは別の、独自の「イスラム教徒コミュニティ」を作ろう、という機運が高まり始めます。

こうしてできた両教徒間指導者層のあいだの溝は年月とともに埋めがたくなり、結局1947年8月14日にパキスタンが、翌日にインドが「分離独立」することになったのでした。

このことは、1600万人の人々をパキスタンからインドへ、インドからパキスタンへと移動しなければならなくなった大量の難民を生んでしまうことにもなりました。パキスタンはこうした波乱のうちに建国作業をしなければならなかったのです。

ちなみに、パキスタンという国名は1933年、ケンブリッジの学生であったチョウドリ・ラフマット・アリーが作ったと言われています。意味はイスラム教徒の多いパンジャーブ地方の、カシミール地方の、シンド地方の、パルーチスタン地方のスタンをとってパキスタン。これは「神聖なる地」という意味でもあります。
 
 
■ インドとの関係悪化

さらに、北部カシミール地方の帰属をめぐってインドとパキスタンはすぐに激突します(1948~49年、第1次印パ戦争、現在まで続く停戦ラインが成立しカシミール分割)。

「パキスタン」という国名のなかに含まれるとされる「K」=カシミールをめぐるインドとの争いは、その後も1965年の第2次印パ戦争を引き起こし、両国はさらにバングラデュの独立をめぐって1971年の第3次印パ戦争も起こします。

1998年、インドが核実験をすると、パキスタンも対抗的に核実験をし、世界に緊張が走りました。停戦していたカシミールでも2002年ではインド側カシミール駐屯地に対する襲撃事件が起こり、一触即発の危機に陥りました。
 
 
■ 「イスラム教徒共同体」としての対インド政策

パキスタンは、重要な「イスラム教徒の地」であったカシミールの半分をインドに「奪われ」、その後もインドの脅威にさらされることになります。

インドはその後も「膨張」を続けます。インドは1948年にハイデラバード(インド中部)を併合、1950年にはシッキム(中印国境付近)を保護領に(1975年併合)、1961年にゴア(旧ポルトガル領)を武力併合。

そして1971年の第3次印パ戦争では東パキスタンの独立にインドは手を貸し、バングラデシュとして独立させました。パキスタンからすると「東パキスタンも奪われた」わけです。

このようなことを考えると、インドの意図と反し「イスラム教徒共同体」として「分離独立」してきたパキスタンインドがを狙うと考え、パキスタンが自然とインドに敵意、過剰な防衛意識を持つのは必然かもしれません。

もっとも、これはあくまで支配層の意識であり、パキスタン国民のすべてがそのように思っているかどうかというと、そうではないのですが……。

ともかくも、こうしてパキスタンはインドに対する防衛を強化していき、最終的に核保有にまでたどり着いてしまいました。また、インドに対するけん制の意味から、早くからアメリカ、そして中国との良好な関係を構築するようになるのです。
 
 
■ 「イスラム教徒国家」≠「イスラム国家」パキスタン

さて、この「イスラム教徒国家」パキスタンですが、必ずしも「イスラム教に基づく国家」というわけではありません

パキスタンの建国者たちは西欧的な考えを持ったエリートであり、近代的な政教分離の考えを持っていました。彼らはイスラム教に基づいた政治をしようとしたのではなく、あくまで「民族としてのイスラム教徒の国家」を「ヒンドゥー教徒の国家インド」に対抗して作ろうとしたのです。

しかし「イスラム教」ではなく「イスラム教徒共同体」としてパキスタンをまとめていくことは、今のところ、あまりうまくいっていないということになると思われます。

まず、ベンガル地方に飛び地のようになっていた東パキスタンは、イスラム教徒としての団結よりも、ベンガル人としてのアイデンティティーの方を優先して独立運動を開始、パキスタン政府は弾圧しますが最終的にインドの介入により1971年独立をしてしまいます(第3次印パ戦争)。

現在のパキスタンも多民族国家です。しかし、建国当初のインドからやってきた指導者たち(ムハージル)や、その後の多数派民族パンジャブ人たちの支配は、他の民族の不満を招いています。

それは主に、支配層が推進してきた「ウルドゥ語公用語化政策」に反発する形で、各地の言語地域で反対運動が起こることになりました。特に最初の首都カラチを含むシンド州では、自治権拡大運動にまで発展しました。

「9.11」後のアフガニスタン空爆から後は、アメリカの空爆を支持するムシャラフ政権と、それに反発するペシャワール人の対立が尾を引いています。ペシャワール人はアフガニスタンの主要民族だからです。また、イスラム原理主義と政府との対立も深刻になっています。

「イスラム教徒の共同体」をパキスタンの理念とするなら、今のパキスタンは、イスラム教徒であることをもってしても「共同できない」状況であり、理念からは遠い状況にあるといえるでしょう。
 
 
■ 建国期の混乱が軍政を招いたパキスタン

1947年に建国したパキスタンですが、その60年の歴史のうち、およそ半分である30年以上を軍政が占めています。アジアの国のなかでは、抜けて軍政の多い国の1つです。

インドが、あのガンディーが暗殺された後も、有能な指導者であったネルーによって1964年まで統治され、民主制度の整備がおおむね順調になされたのに対し、パキスタンの建国期は波乱の連続でした。

パキスタン建国に力を尽くしたのは「ムスリム同盟」であり、その指導者としてパキスタンの初代総督となったのがジンナーでした。しかし彼が1948年に病死、ついで1951年に彼の片腕だったリヤーカト首相が暗殺されてしまうと、ムスリム同盟は急速に衰退していきました。

さらに第1次印パ戦争における混乱、カシミールの「喪失」。パキスタン政治はさらに混乱し、最初の憲法(1956年)ができるまで長い年月が経ってしまうほどでした。

この混乱を収めるべく、立ち上がったのは結局軍でした。1958年、国軍総司令官アユーブ・ハーンがクーデターを起こし、1969年までのあいだ軍政を敷くことになります。

その後も、ヤヒヤ・ハーン(1969年~73年)、ジウ・ハク(1977年~88年)、ムシャラフ(1999年~現在)と、ことあるごとにクーデターが起き、軍政がまるで伝統のように続いています。
 
 
■ 政党政治への不信感と軍政との関係

パキスタンで軍政が多いもう1つの理由は、パキスタン政党政治の腐敗や混乱と、それに対する不満などにあったともいえるでしょう。

1971年の第3次印パ戦争の敗北で軍政が倒れると、文民のズルフィカール・ブット首相(ベーナズィール・ブット元首相の父)の政権が誕生します。

しかし、彼と人民党の政権は社会主義政策に失敗し、さらに腐敗を起こして国民からの信頼を失墜、騒乱が起きると戒厳令を発して自ら文民政権の首を絞めてしまいます。このようなことは結局ジア・ハクのクーデターを招き、彼は処刑されてしまいます。

ハクは1985年に正式に大統領となりますが、88年に飛行機事故で死去、文民政権が復活します。ここから99年まで、4回の総選挙が行われパキスタン人民党のベーナズィール・ブット首相とイスラム民主連合のシャリフ首相が政権を交代で担当します。

しかしここでも、経済政策の失敗や腐敗、行政の私物化などを展開し、中立的な存在である大統領の介入を何度も招き議会が解散され、全国の騒乱を引き起こすなど混乱を極めます。このようななかで1999年、ムシャラフ陸軍参謀総長(現在の大統領)によるクーデターを招いたのでした。

現在、亡命していたブット・シャリフ両元首相が帰国し、政治活動を再開させようとしていますが、過去の過ちを繰り返すようでは、再度のクーデターも懸念されることになるでしょう。
 
 
■ アメリカの最前線国家・パキスタン

パキスタンがインドと対抗するためアメリカに接近していったことはお話ししましたが、その後の国際情勢によって、パキスタンはアメリカにとって重要な場所になっていきました。

その状況を作ったのが、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻でした。

アメリカはソ連勢力の拡張を防ぐため、アフガニスタンの隣国であるパキスタンを最大限支援します。その結果、軍政のハク政権のもと、80年代のパキスタン経済成長率は平均で6.5%を記録します。

冷戦終了後、アメリカは1990年、パキスタンの核開発疑惑を名目にこれを中止します。それからしばらく、アメリカとパキスタンの仲は冷却していきます。特に、パキスタンがアル・カーイダをかくまうタリバンを支援していることは、アメリカの怒りを買うものでした。

しかし、そんななか起こった「9.11」で事態は一変します。

パキスタンは、再びアメリカの最前線基地国家となりました。ムシャラフ政権はタリバンへの支援をあっさりと翻し、アメリカの空爆に協力する姿勢に転じました。さらにタリバンたちを育てたとされるマドロサ(モスク附属の宗教学校)の管理強化も表明し、イスラム原理主義を抑える立場に変貌します。

こうしてアメリカの援助のもとムシャラフ政権は継続されていますが、国内では親米に転じた政権に対するイスラム原理主義勢力によるテロが頻発するようになり、治安は年を追うごとに悪化していきました。

また、こうしたことから民主化の要求が高まり、ブット元首相らが帰国するなか、なおの混乱を避けるため、ムシャラフ政権は非常事態宣言の発令に踏み切りました。

冷戦構造が終了した今、「アメリカの同盟国」であるためには民主化が求められます。しかし、民主化をしたらムシャラフ政権はもたないかもしれないし、さらなる混乱をもたらすかもしれない。

アメリカ、民主化、イスラム勢力、民族対立……さまざまな問題を抱えているムシャラフ政権は、2008年1月8日に下院選を行います。注目したいところです。
 
 
■ 参考書籍・サイト

『現代パキスタン分析』 黒崎卓・子島進・山根聡/編 2004 岩波書店
『現代南アジア3民主主義へのとりくみ』 堀本武功・広瀬崇子/編 2002 東京大学出版会
『南アジアの歴史』 内藤雅雄・中村平治/編 2006 有斐閣
『アジア政治読本』 佐藤宏・岩崎育夫/編 1998 東洋経済新報社 

「パキスタン政治におけるイスラーム」 井上あえか アジア研究第49巻所載
「パキスタン──軍事クーデターの背景」 内山秀二/編 アジア経済研究所発行