フランソア・カロン

『日本大王国志』
フランソア・カロン(幸田成友訳注) 『日本大王国志』
東洋文庫90, 平凡社, 1967
 
フランソア・カロン (Francits Caron, 1600~1673) はフランス系オランダ人で、オランダ東インド会社の日本専門家として活躍し、平戸のオランダ商館長もつとめた。

カロンは1619(元和5)年、貿易船の料理方手伝いとして初来日し、1626(寛永2)年2月にはオランダ商館助手になった。この頃には日本語に能通しており、翌年には台湾長官ピーター・ヌイツの江戸参府の際に通訳をつとめた。

ヌイツに従いいったん台湾に渡ったが、末次船拘留事件で捕虜となり、大村に抑留された。

1630(寛永7)年5月にバタビヤ(ジャカルタ)に赴いて状況を報告し、10月には交渉のため日本に戻った。

ようやく1632(寛永9)年にオランダ船出航禁止の解除を勝ち取り、その報告のためバタビヤに赴いた。

1633(寛永10)年には商館長次席として平戸に赴任し、1634(寛永11)年3月と1636(寛永13)年5月に徳川家光に謁見した。

1636年6月には平戸に戻り、バタビヤ商務総監フィリップス・ルカスゾーンの質問に答えて『日本大王国志』を執筆した。

島原の乱の最中の1638(寛永15)年初、カロンはバタビヤに赴き、そこで平戸のオランダ商館長の辞令を受けた。9月に平戸に戻り、1639(寛永16)年2月の前商館長ニクラス・クーケバッケルの離日とともに館長職を継いだ。

6月にカロンは幕府に献上した迫撃砲の実射を麻生で行い、幕府側を満足させた。

1640(寛永17)年4月、カロンは江戸に参府し商館を長崎に移す計画を阻止しようと運動したがはかばかしくなく、家光への謁見もかなわなかった。

11月、平戸で「今後商館長は一年以上日本に滞在すべからず」との命令を受けたカロンは、これを承諾して翌年2月長崎を発ちバタビヤに向かった。

『日本大王国志 (Besechrijvinghe van het machtigh Coninckrijck Iapan) 』は1645年にオランダで出版され、ケンペルの『日本誌』が出るまで唯一の日本紹介書として重視された。
 

位置の高下を問わず、夫人はすべて政治上または社会的の事業に関係せず、一意主人に仕えることに勤め、それが女の守るべき道であるとして教えられている。仮に尋ねた所で何らの返事を得ず、主人は怒って沈黙するのが通例である。故に賢い夫人は主人が毫も不満足を起こさぬように注意警戒する。

(p.135)

 

微罪と雖も死に当たる。特に盗みはたとえ一スタイフェルでも死に値す。

賭博は死罪、殺人は過失であっても、謀殺であっても死罪、その他我々の本国で死刑に当たるものは皆当国でも同様である。

刑法上の事件は個人の犯罪により個人が死に処せられるのみならず、父・兄・弟及び男子は連座して殺され、金財産は没収せられ、母・姉妹及び女子は奴隷に下され売却される。

(p.143)

 

日本国民殊に無邪気のように見える婦人は、悲痛の色を示さず、従容泰然として死に就く

(p.148)

 

この国民は特に迷信的でも無ければ宗教的でも無い。彼等は朝夕、食膳・食後・あるいは時々祈ることも無い。一ヵ月に一度寺院に参詣する者は信心深いと言わざるを得ぬ。

(p.150)

 

僧侶並に貴族大身中には男色に汚れているものがあるが、彼らはこれを罪とも恥ともしない

(p.154)

 

夫婦の間に自由選択は無い。凡そ結婚は双方の両親、両親が無ければ最も近い親戚の相談決定する所である。

一夫一婦を本則とするが、妻が夫の気に入らぬ場合、夫は適当且つ名誉ある方法を以て妻を離別し得る

(p.164)

 

彼らは子供を注意深くまた柔和に養育する。たとえ終夜喧しく泣いたり叫んだりしても、打擲することはほとんど、あるいは決して無い。

(p.166)

 

この国民は信用すべしと認められる。彼らは第一の目的である名誉に邁進する。

また恥を知るを以て漫に他を害うことは無い。彼らは名誉を維持するためには喜んで生命を捨てる

(p.169)

 

欧米から見た日本