古代史入門 1.1.1

近視眼的な教科書騒ぎ

 日本では、古代史を無視してみんな「昔噺」にしてしまう。そして勿体をつけて「神話」とまでする。『古事記』にしても、本居宣長 によって『古事記伝』として今日のものができるまでは(つまり江戸時代の大岡忠相 が死ぬまでは)「骨事記」とか、ただ「こじき」と、ひと掴みの豆を投げて貰って拾って喰って退散して行く、哀れな乞食みたいな「ハングリー」な存在。大安万侶 が書かされたものは、八世紀初頭の権力者の優越感を満足させるためのもので、それを、日本原住民の末孫として明和年間から寛政十年までかかって、今日の立派な『古事記伝』に仕上げたのは本居宣長「労作なり」と言えよう。
 


本居 宣長

 
 何しろ「隠忍(オニ)」とされていた原住民は、野や山に「自生」するものだけが自由にしてよいとされ、木を切って細工したりする大工のような「加工業」は、舶来系の縄張りとされていたのである。つまり幕末までは、筆は「竹」穂は「狸の毛」だから、〈もの書き〉や〈版行〉の「出版業」は、原住民限定職

 北条政子 が夫の頼朝を馬から落して「即死」として始末してから、梶原源太 を下手人と殺して次々と和田、三浦と「源氏」の主だった連中を処分。郎党や女子供を「ゲットー」へ入れたものの、叛乱防止のために「身分保証」みたいな限定職を定めたのだが、発布されたとする治承四年(1180年)の年号は、石橋山で敗れた頼朝を政子が「平氏」の本籍地千葉へ逃した年。「頼朝御判二十四種」は、まさか逃げる途中に細かい布令など出す筈もない。それなのに発表年にされ、伝わっている。

 さて、今日の「新聞」が土地など賜って「お上御用」となりだした明治二十二年までは、『明治密偵史』宮武外骨 の著に詳しい。それだから東京新聞の「大波小波」によると、中国では台湾の陳瞬臣 より中国本土の血の濃い司馬遼太郎 のほうが人気があると報道されているのも、古代史の「権力者」は占領軍の中国人だった隠然とした〈匿された歴史〉があるからして、「血は水よりも濃し」でまたむべなるからぬ話。

 何しろ「日本」と呼ぶ国は、西暦663年に「白村江の戦い」で〈百済系〉の奈良朝を倒し、九州より「御所」入りし、『天の古代史研究』にも藤原鎌足 と郭は〈日本名〉をつけ、「則天文字」つまり漢字の強制使用(北東の風が吹かなくては日本から中国へは航行できぬから「冬至」=「唐至」の当て字もあるが、文部省学校教育で「イ・アル・サン・スウ」から「算数」とするのは今でもそのまま)と、「築城用巨石」の全国供出令を発布した。

 ところが俄に今になって、「侵略」を「進出」と教科書に載せるのは怪しからんと、「むちゃくちゃな出鱈目歴史(ではないか)」と「訂正」するよう抗議されている可哀想な〈日本歴史〉は、この時点では進駐軍司令官郭将軍によって「高安城」を築き、「金田城」を構築。

 当時は、今のアフガニスタンなみの勇敢な縄文日本人ゲリラから…「御国を離れて何百里」と昔は彼ら(進駐軍)が歌っていたから…万一の時は冬までは立て籠もらねばならぬから…郭務悰 将軍が降参した日本原住民を使役し築かせたのである。なのに日本では文部省が、「金田城」を昨年確かに国の重要文化財に指定している。

 昔は沢田美喜 みたいな豪き人がいなかった。それゆえ郭将軍部下、兵四千・軍属のチャン輩(バラ)一万二千人が単身で来ていたから、女とみれば片っ端から種付け、一人で九人くらいに孕ませて廻ったからして、原住系の日本人女は「カイト」「界戸」「皆戸」「海渡」…いろんな当て字を今ではつけられる場所で、「エリザベス・サンダースホーム」がなかったから、堪え忍んで育てあげた。

 「わが世とぞと想う」と詠じた足利時代の義満 でさえ「臣源道義」と、大陸へは絶対服従。被占領国の日本が中国と対等になれたのは、秀吉 の「対明交戦」で初めて「解放」されたと言ってもよかろう。
 

 
 その国の立場というものがそれぞれある。「侵入」や「進攻」の字句で今になって文句を言うなら、七世紀から産まされっぱなしで、テレビの「ルーツ」で、黒人女が白人の旦那に産まされた子でも「奴隷」として売買されるみたいな有様で、「嫡民」ならぬ「庶民」とされ、「賎民」の「奴隷」扱いされていた吾々の先祖のことも、古代史を徹底的に(昔の事と言わず)検討してからよく考えて欲しい。

 「日帝が三十八年にわたって勝手気侭に振舞った、怪しからん」と解放記念日にはテレビでも放映して抗議するが、郭を改名した藤原鎌足 が渡来するまでの日本列島は、彼らの先祖の奈良王朝。「馬韓」「辰韓」「弁韓」の三韓時代から西暦664年の藤原鎌足 まで、彼らが日本原住民に加えた残酷非道は、僅か三十八年間だけの日帝の圧政に比べれば、何十倍もの年数の苛酷さであった。中国の方も、郭将軍の部隊が「御所」を占領した西暦664年5月17日からは藤原王朝を建て、南京の大虐殺以上のことを…固めて捕虜を生き埋め踏んづける「根蓋(ネブタ)」までやってくれている。

 しかし藤原鎌足 の子孫が作った『勧学院日本書紀』を金科玉条とし、古代史を真剣に勉強し確り取っ組んでいないものだから、日本の〈歴史屋〉は哀れ何も言い返しが出来ないのである。古代史さえよく研究していたら「逆手」にとって、反対にこちらが被害者の立場から教科書抗議に対せるのだが、全く不勉強すぎて悲しいことにそれすらも全然できないのである。と言ってまぁ、「過ぎ去った過去のこと」を言い出したら、それこそ切りがないかも知れぬ。

 それを良い事に被害者の立場をとる向こうでは、日本人乗車拒否のタクシーまで出現しているという。「家永裁判」では「民主主義」でなく、またしても「皇国史観」の昔へ逆戻りさせた判決をせっかく勝ちとったばかりの文部省も、〈歴史屋〉の不勉強さで何ともならず誠に気の毒である。

 かつて吾が日本列島が「馬韓」「辰韓」「弁韓」の三韓に支配されていた時代は、終戦直後より酷く、奈良時代(韓国語の「カントリー」の意味だそう)金大中 の御先祖さま(百済系)が君臨の昔、「百済(クダラ)にあらざれば人にあらず」とされ、「クダラぬやつ」「クダラん事はするな」とまで、現代でさえ用いられるくらいに韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていた。

 「新羅人」や「高麗人」も、日本海よりベーリング寒流で入って来て勢力争いをした。だから日本の古名は「越前」「越中」「越後」とか、「備前」「備中」「備後」と三韓時代に三分割されていたままなのも、その例証である。畏れ多くも「桓武帝」のごときは、「桓武焚書」と今では呼ばれるごとく、前からの『日本書紀』は悉く集めて焼き、『オンモン日本書記』まで作成しなさったくらいに好きなようになされ遊ばした。

 韓国の女性の腹から生れた徳川綱吉 は千代田城を「朝廷」と呼ばせ、閣老を「公家」として「王政」を布き、よって「東下り」の公卿は大納言や侍従でも〈退官〉して無位無冠で江戸伝奏屋敷へ入り、「京」へ戻ると前大納言や前侍従がまた〈復官〉したのは『赤穂義人纂書』に明記されていて、「証拠」も残っている。

 それなのに〈日本歴史〉は好意的に、馬韓渡来の方に「神功皇后」の御名をつけ「マタニティードレス」の女将とするくらい、本心では韓国に敬意を失っていない。何しろ日本の「歴史教科書」は単なる暗記もので、ドイツ人リース門下の作ゆえ、責めても不勉強の〈歴史屋〉が悪いのだから仕方がない。

 もし日本古代史が乳離れするみたいに『記紀』離れして、藤原王朝が創ったのから脱却していたら良かった。半世紀もたたぬ最近のことを突き廻す被害者顔の近隣諸国に、せめて五世紀まで遡って日本の歴史家が解明していたならば、薮を突っついて蛇を出すようなしっぺ返しができたものを、従来の学校教育に甘んじ、学者だと自認している連中たちは何も知らぬ。

 「無智」ということは「罪悪」である。いくら、奈良朝時代は「韓国製の日本史」、七世紀からは「唐」のトウゲン(桃源)=「藤原王朝史」だと、判らぬのか…知らぬのか…何も反対意見を出せぬままの現状ゆえ、このままでは「ご無理ごもっともです」と、「教科書検定審議会」の答申を受け抗議されるままに訂正して、「おっしゃるように、なおしました」という事になるのだろう。世界中どこの国が他国より干渉されて、その〈学校歴史〉を改訂するといった例が、果たして悲しい事だがあったであろうか。「国辱」というものがあるのなら、これ以上の屈辱はないだろう。
 

 
 長州より招かれて「御抱え教師」となり、現代日本史の開祖となったアドルフ・リース が、先進国に倣って日本でも「博士号設定」をとなった際に、彼は〈歴史屋〉なのに「理学博士」や「医学博士」は認めたけれど…
 

「独・英・仏・伊には歴史学博士の称号はあるが、この国にては、その設定は無理なり。文字を弁じうる程度なれば、文学博士にて間に合わすべきである」

 
…と、後にベルリン陸大の歴史教授となって、「ゲルマン民族優秀説」を発表し「ナチス」に利用させたリース歴史学博士は、日本では「開明学校」が「東京大学」になると『史学会雑誌』を刊行させはしたが、「歴史学博士号」は許さずに帰国した。

 だから、歴史の専門家が一人も認められていないゆえ、まぁ古代史は無理と言ってしまえばそれまでの話だが、もし〈良心〉があるなら、各大学で歴史担任の教授は丸坊主にでもなるべきだろう。なにしろ日本以外の国では歴史を「愛国心」を育てるために重点的に教える。大学入試でも歴史は必須科目として必ず受けさせられる。しかし日本では、「ディスカッション」し学生たちに研究討議させる重要科目ではなく、中学生の頃から文字通り〈教科書を暗記〉させ年号を覚えさせるだけであって、大学の入学試験にも歴史を必須受験科目にするようなところは全然ないのである。

 なにしろ各時代の権力者によって、〈日本歴史〉は都合よく美化され創作されているにすぎないのは、各会社が自費出版して得意先や関係会社へ配付している社長伝や社史と同じことである。それゆえ歴史を受け持ち講義する者は、「恩師」に対し「弟子」として領分からはみ出さぬようにのみを心がけて、「昇任昇給」だけを望み、隠れた「ベストセラー」とも言える「文部省検定歴史教科書」を出せるようになって、莫大な「印税」を得られるようになりたいとの願望だけのみであるらしい。

 それゆえ、騎馬民族は日本海を渡ってきて裏日本へ入ってきた「潮流学」を無視して『日本書紀』に合せ、鴨緑江を渡って百済人みたいな騎馬民族とし、「体制」に合わせ江上教授も発表した。大伴家持 が「飼戸」の〈四つ〉の奴隷頭ゆえいくら働いても認められず、癪にさわって飛び込み憤死したのを『日本書紀』に辻つまを合わせてた梅原教授も、今では「学長」にまで昇任した。

 みな、お利口さんは「御用歴史作家」であるが、彼らとて歴史の講義をする教授ではなく他科目の教授である。というのはいくら「体制」べったりに添っての「事なかれ」であっても、〈歴史畑〉であれば「恩師」が言っていないことを発表するには「立場」が拘束されていて、絶対に不可能のせいだろう。つまり監督官庁の文部省の指導方針に沿い、「恩師」の口利きがなくては立身出世の途が開けぬからである。

 他の〈考古学畑〉にしてもやはり親方は文部省で、宮内庁の権威が影についているから、少しでも『日本書紀』からハミ出しては、「枠内」からの落ちこぼれと見做されてしまう。

 世界最大の墳墓と言われる「仁徳陵」の発掘を絶対に宮内庁が不許可にしているのも、『日本書紀』に記載されているのとはどうも違う結果がはっきりしていて、果たして「仁徳陵」といっても、どなたが埋められているか判らぬといった危惧があるせいらしい。なにしろ〈学校歴史〉では「民のかまどは賑わいにけり」と、高屋から望み観られたもうた御情け深い御方となっている。

 しかし、民のかまどから炊煙が絶えるくらいに搾取され、「暴動」を怖れて淡路島へ待避しておられたのが浪花へ戻られ、また高所から民の有様をご覧になりそうおっしゃられたというのは、恐らくまた戻って来て「これなら課役が増やせて良い」とのたもうたのではあるまいか。

 広大な「仁徳陵」と称せられるような大規模なものになると、「ブルドーザー」もなかった昔ゆえ何千どころか、数万の奴隷が鞭打たれつ何年も働かされて構築されたものゆえ、古代史の中では奴隷社会の始まりと言えよう。もちろん「同国人」を奴隷にしてまでひどく酷使できるはずはない。となると鉄製武器をもって渡来された方が、原住民である日本縄文人を捕え働かせたものとみるが至当で、「珍」「讃」などと中国から呼ばれた「五王」の、四世紀初頭の捕虜課役大工事だったのだろう。
 

 
 「産業革命」以降でも主だった「発明」や「発見」はみな、専門分野の者ではなくて素人だったという。現在の天気予報でも気象衛星まで使っている「お上」よりも、民間のお天気おじさんの方が「確率」がはるかに高いみたいに天文学でも、新星を発見するのは日本でも学者と自認する人たちより、「素人」で見つけている例の方が多い。歴史の分野でもやはり保守的な『日本書紀』派より「畑違い」の人による解明の方が、「昇進」とか「教科書作成」といった夢を持たぬだけにきわめて大胆である。

 私にしても、父方と母方の宗旨違いで亡兄の入籍に数年かかり、ようやく届出ができた時には当人は小児急性肺炎で天野病院で亡くなっていたので、またもめるのは厄介だからと、亡兄の「戸籍」をそのままで引き継がされ、名も生年月日も亡兄のもので私には本当の名も生れた年も知らされていない。さながら透明人間みたいな存在ゆえ絶えずそれに悩み「自殺未遂」も何度もして、「真実とは、果たして実存するものか」と、過去の「具象」としての歴史を「真に本当なの」かと、生まれてきた時よりの「挫折感」を何とかして打破しようとして取り組んできてしまった。

 初めは、当時の日本へ来ていたイエズス派資料という〈裏付け〉のある、戦国時代から検討して入ってゆき、「信長殺しは明智光秀」するのも、光秀の「ライバル」だった秀吉。本当の黒幕は家康だが、「仏敵」と信長、光秀を見立てて負けた石山本願寺の一向宗の、今の本願寺派が「説教節」で決めつけてしまって、日本全国の居付き部落に「説教僧」を送り込み、面白おかしく説教にして「定説化」しただけと判りもした。

 「美化」というか、天下一の豪傑とされる山中鹿之助 も本当は、殺人鬼みたいに「毛利方」を片っ端から討ち取ったのではなく、相手方がへばっていて「頼まあ(タンマ)」と声をかけ、「後日に銀一貫匁を支払うものなり」と矢立で紙に書き、「スタンプ」印鑑のなかった時代ゆえ掌に墨を塗って押し渡したのが約束手形の始まりで、「首落し」前の談合ゆえ「落し前(をつける)」と言う。紙がない時には「口約束」ゆえ「武士の言葉には二言はない」といった用語も残される。

 江戸期に入っても、外出の侍が「懐紙」といって夏でも白紙を大切に持ち歩き、今でも財布のことを「紙入れ」と呼ぶのも、万一の際に「落し前の約手」を書くための大切な用紙だった名残り。

 「プロ」とは、今の「プロレス」みたいにやたらに致命的な負傷などはせぬもので、山中鹿之助は「約手」をとっても集金せずだったから、彼を生かしておいては後に毛利の家中の者が迷惑すると、「約手のパクリ屋」並みの「毛利方」の者によって上月落城後、備中合の渡しで殺されたのである。

 だからその伜が大阪で「鴻池」の店を開くにあたって、「約手」の決済をしてなかった連中が銀を集めて送って開店させたのである…といった、従来の歴史とは相反する資料が得られたが発表すると、勇ましい「講談」を頭から信じこんでいる人々からは、ただ意想天外とされたにすぎぬ。

 しかし、「尼子方」は滅亡しているから何も残っていないが、「毛利方」の『吉田篭城記』によれば「本日の合戦は、先手の者は石つぶてに当り一人傷つきたれば全軍とって返す」と、あまり殺生沙汰はなかった記述が多い。「常識」で考えても人口の僅かな時代に取っては投げ、突き刺して殺すみたいに派手にしていたのではみな死に絶えてしまって、両軍とも戦う者がいなくなってしまう。「美化」というか「勇壮化」されて伝承されているものの、「プロ」の武士道は「落し前」をつけるだけのものが本当のところ。となると、中世紀の宗教戦である戦国時代の前はどうなるかと問題になる。

 江戸期でさえ「やつこさんは辛いね」とか、「奴女郎」の名称があり、「町奴」幡随院長兵衛 は勇ましく水野十郎左 に突き殺されるが、「奴」とは寺の「奴隷」のことゆえ、「寺奴」で仏教側の「ガードマン」。

 とすれば、後までそうだとなると古代史とは、縄文日本人が「権力者」によって鉄製武器で征服された弥生時代が「日本の古代史」、つまり奴隷社会の始まりということになると、それへ突入し、「真実」とは何かと遡って解明していったのが、この「入門書」を書き出した私の「ノート」とも言える。
 
 

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