古代史入門 後 記

後 記
 

 『古建築秘話』専門家の立場から、若草伽藍の法隆寺が裏日本と九州に流入の「高麗尺」で、出雲の建造物だったと解明は正しい。

 が、『日本書紀』に合わせるため「上宮聖徳法王」は「大海人皇子」…つまり、後の「天武帝」と見做しているのは違う。

 西暦669年は、この年「大唐」は郭務悰兵二千余を送るとあるゆえ、「追加兵力」によって「天智帝」の皇子の「弘文帝」を672年に滅し、即位された「天武さま」は本当はどうも彼自身(郭務悰 )らしい。

 

 「大化の改新」前後から「壬申の乱」の年の前にみな仏教に帰依したのは、『不可思議な国ジャポネ』に、火薬の原料の「硝石」欲しさに戦国大名が「教義」も分からずキリシタン大名になったように、六世紀~七世紀の豪族も中国大陸の「鉄武器」欲しさに、入手のため寺を建立したりして恰好付けしたものであると判る。
 

 

 「一つの民族」とは同宗教と言うが、庶民は「赤」の「祇」のヤサカ・スサノオ・イナリ・七福神天神や、「白」のヤワタ・白山信仰と数多いので、みな「信心」より武器や硝石欲しさに「キリシタン大名」にも「仏教豪族」にもなる。
 

 

 東大寺の「お水取り」の行事、若狭神宮寺の「イテキ呪法」や各地の「火祭り」は、今もイランのヤスドの「拝火宗」と同じ

 山焼きは「逃亡賎民」を捕らえる為や、焼き殺しの「残酷物語」の名残りであったと解って頂きたい。

 

 今の銀閣寺みたいに「応仁の乱」で銀壁が焼けると復旧出来ぬままのごとく、「銀」や「鉄」資源は全く鉱産されぬ日本列島の「古代史」は…

「ヤマトタケル」が竹内宿弥 に殺され騎馬王朝が滅びた、「蘇民」発生の時。
「壬申の乱」で(日本国内の)三韓統合が終わり、郭将軍の藤原王朝確立の時。
 それを「赤」北条政子 が京へ進攻し、体制変換の時。

…と「三分」される。
 
 後の「南北朝」の戦いも、「中国勢力」と「三韓勢力」との「代理戦争」と診れば、良く納得していただける。

 

[ 了 ]

 
 

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