古代史入門 1.1.2

何故に歴史を知りたがるか

 「一文にもならぬ事は誰がする」といった国民性なのに、向学心ではなくて頗る歴史好きが多い。若い人では中学生ぐらいから、何か歴史に魅かれだしてしまう人も相当にあるようです。そのうちに高校受験とか、色んな口を開けて待っている世の荒浪に呑みこまれ、就職、生活と暮しに追われてそれっきり歴史願望から離れてしまう人もないではないが、子供が一人前になって手放れしだすと、また歴史探求に取り憑かれたように戻ってくる人も女性では多い。

 それに近頃の現象は、50代になり漸く我に返りはしたが今さら華道や手芸でもないという女性が、何かしら生きざまを求めるみたいに「真実」をと、歴史の中へ突入してくる向きもいる。もっと高年齢層で、死ぬ前に本当の事を知ってからこの世から別れてゆきたいという、安心立命型の方もそう沢山ではないがいらっしゃるのは、十万余枚の年賀状を熱心な読者から頂くが、その内の二百枚余りが老人ホームの住所だったからそう明確に私は言えるのである。

 まぁ、父から祖父母の代まで遡って判る自己の歴史は、せいぜい半世紀がよいところだろう。「あなたの御家系図をお好み通りに作製。古代錦仕上げ、虫くい桐箱入りは十万円にて」などという、大阪の何とかの友社からの広告が今でも歴史雑誌にはよく見受けられる。

 「死せる子は見目好かりき」とか。大正から昭和までは、身投げした娘は実際は水ぶくれでふた目とは見られぬものなのに、新聞記事は故人に花をもたせて「水死美人」といった熟語を作った。だから「死んだら天国へゆける」と考えるみたいに、「飛び込めば、水死すれば美人になる。なにしろ新聞に出ているくらいだから間違いない」と、生きていては死ぬまで美人と呼んで貰えぬ娘さんが、整形美容の流行せぬ時代だったので、美人と呼ばれたい一心での投身自殺があまりにも数多く、処置に困って「水中美人」なる熟語の使用禁止を各新聞社では申し合わせたことがある。過去は…過ぎ去った昔は美しい思い出であると、「水中美人」なみに歴史もかつては扱われた。

 中学生を対象とする歴史雑誌の読者欄などでは、まず女子中学生の沖田総司 讃美。そして次は、「自分の先祖は江戸時代には何々大名の城代家老だったそうです。何か御存じの方は御教え下さい」とか、「太田姓をもつ方は集まって先祖の話をしましょう」などとあるのが頗る多い。ここまでくると、日本の歴史は「芝居」や「講談」からのものだけだと、情けない想いにされてしまう。「城代家老」などという呼称は『仮名手本忠臣蔵』が時代設定を足利時代にし、大星由良之助 をも架空のこうした肩書きにして「お上」の取締り逃れにしただけのものであって、実存ではないもの。

 「城代」というのは武臣派で、野戦の時に城代りとなって殿を守って戦うため、師団長・大隊長・聯隊長・中隊長といった具合に「組頭」が下にあって、それぞれ戦場で生死を倶にする者らが堅に累っていて、浅野家でも岡林杢助 が一千石の城代で、直属の部下二百名を擁していた。

 「家老」は「お羽織衆」といって、作戦の際には糧まつ…兵の食糧や馬糧を整え、勘定奉行を監督し年貢の取立てをするのが平時。赤穂では「お浜方」の塩問屋「木津屋」などを取締まるだけの仕事。だから直属は若党二人に中間一人で、士分の者など大石内蔵介 にしても一人も付いていない。

 全く別個の役目のものを二つくっ付けてしまっているのだから、赤穂浪士討入りの真相さえも討入りを美化してしまって、今では判らなくなっている。岡林は旗本松本孫左衛門 の弟で岡林家へ養子に入ったのだが、「公儀」では前京町奉行で当時は江戸南町奉行の松前伊豆守が、後で始末のつけやすい文臣派が本所松坂町周辺に町人に化けて住みつくのは黙認(坂本勝説)。しかし武臣派の者は岡林一人だけは入府を許したが、他は六郷川の先の川崎から江戸へは入れなかった。

 京へ昔からの大判小判を送り、堺の中村内蔵介 に銅を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に「隠居する」と言い出した総宰領の吉良上野介 を挑発し抜刀させ処分しようと、田舎大名の浅野を呼んで自ら当日の朝に言いつけ、失敗すると「口封じ」に田村邸へ唐丸籠で送り込み、門内に入り駕を開けて首を出したところを背後から一刀両断。片岡源吾 に引き渡された遺体も大紋姿のままだった。

 吉良が上杉よりの二万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしても構わぬ辺鄙な本所二ツ目の、近藤登之助 の古屋敷を与えた。剣呑なので、吉良上野介 は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと、別れの茶会を催すにのには上杉邸ではまずいからと初めて本所へ行った。それを大高源吾 に急報した四方庵山田宗偏 は、京所司代から贋金作りの功で一万石を加増されて「老中」にまでなっていた、小笠原備後守の代々の家臣である。

 当夜…神戸市刊・坂本勝 編の『赤穂浪義士事典』によれば、討入りに駆けつけた細井広沢 にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが、柳沢吉保 の三百石の儒臣ゆえ「殿」とは柳沢吉保 のことで、やはり「口封じ」に文臣派を斬り込ませ、彼らをまた「口封じ」に柳沢が全員へ賜罪。それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると「私利私欲を図らなかった、まこと清廉な政治家」として追贈、正三位にもなっているのは『オの字忠臣蔵』『元禄泰平記』の本に詳しく出ているが、江戸時代そのままなのが今の〈学校歴史〉。

 つまり江戸時代の事でさえ、明治に世変りした時に真実がみな明るみへ出てもよかったのに、明治大帝が華族令を布き「皇室の藩屏なり」と勅を出され、華族会長に徳川公爵がなってしまい「学士会」がその下に入ったので、何も解明されず江戸時代の事実も匿され通しで徳川時代のまま。
 

 
 明治時代の事すら国民には知らす要はないと匿されている〈学校歴史〉しか教わっていないのに、一足飛びどころか、大飛躍して古代史を探求したがる人がきわめて多いのには驚かされる。日本史と対比できる唯一の「史書」として『魏志倭人伝』が引っぱり出されて、白髪三千丈的な誇大化を美化する国のものなのに、これを其々がみな自己流に解釈して一冊にしたものが「耶馬台国はどこか」とか、「ヒミコは美女だったか」と興味本意で、ひどいのは知名度を利用して「ヒミコが天照大神」といった類の本までが、訳けも判らぬままに歴史まがいで次々と出版。

 書店の古代史部門のコーナーへ行けばこうした類の本の羅列である。いくら頭の良い方でもこうした本から読んでいったのでは、とても真実への追求など無理なできっこない話である。『日本書紀』『古事記』も今日我々が拝し得るものは江戸時代に、焚書に次ぐ焚書で消滅していたものを「屏風」や「襖」の下張り用紙とし残存し、「関西」で発見されたものを下敷きにしたものであるとは詳しく後述するけれど、西での発見ならばこれは第三次「勧学院」のものであって、唐(藤)製である。

 第四次、第五次の『日本書紀』は「鎌倉」できだから、東で発見の筆写本の残片でなくては判る筈はない。が、鎌倉が北条九代で終わってしまった後、足利体制は「白旗党余類」の名で室町文書に書き残されているように、蘇民の「源氏」をみな網掛けで散所奉行によって「居付部落」(今で言う「橋のない川」のゲットー)へ連行収容。その居宅は家ごと燃されているから写しの残存もない。

 せっかく大同団結して富士王朝の回復を目指したものの追われた日本原住民の蜂起(宝亀)は、後の「平氏」(平民で〈八つ〉と呼ばれた、太平洋沿岸に這い上がった西南よりの俗に言う古代海人族)は今の田子浦から江尻、大井川まで、「アイウエオ」(秋田・胆〈夷〉沢・宇賀・江刺・雄勝)を先頭に逆攻。

 日本海をベーリング親潮寒流で沿海州から六時間、白頭山の羅津からなら四時間で能登半島や新潟に着く。崇神王朝の曾孫「ヤマトタケルノミコト」が伊吹山中で、竹内宿弥 の廻し者に供された中国産のチン毒にて歿せられてより、騎馬民族ゆえ〈四つ足〉とか〈四つ〉と呼ばれた連中は、箱根越えに進攻。

 藤原王朝が身代わりに立てた百済の「桓武帝」は、天険の長岡へまで待避されたが、やがて富士山の大噴火(延暦大噴火)によって撃退できると、先住民を限定の囲地の「センゲン」に封じ込めにした。今では信州の「アサマ」と同じ「浅間」の当て字がつけられている。この「センゲン」は、出雲節に出てくる「安来千軒」と同じで、幕末の黒駒の勝蔵 が金を掘りに行った「千軒」とも同じことで、先住民の収容地で先住日本人の隔離収容地のことではあるが、「橋のない川の土地」ゆえ出入りは不許可だから「居付き」とも呼ばれる。

 歌手の五木ひろし にしても、徳間音工に入社してから歌が巧くなってレコードが売れだしたのではなく、「五木」と39回目の芸名を変えたから、かつて「イツキ」に収容されていた人々の子孫がレコードを買いだしそれで大人気歌手になれたし、『厳戒令の夜』を書いた作家も、やはりその「苗字」で人気がある。昭和初期までは井口は山手樹一郎、藤野は山岡荘八、清水姓が山本周五郎 と、大衆に信頼される「ヤ印」の筆名にし、韓国人の立原正秋 も〈日本名〉で書いた。
 

 
 しかし全人口の「一割」や「五分」が奴隷では、残りの人々の食糧増産などできよう訳はありえぬ。西暦663年に郭将軍が「御所」に入って藤(トウ)原鎌足と〈日本名〉をつけて、藤原王朝を建て「則天文字」…つまり漢字強制当て字令を出した頃は彼らの軍隊は、はじめは二千に人夫や軍属、それに一旗組として渡海してきた者を含めて二万人だけ。レジスタンスをしていた連中や、山や海へ逃げ込んで「シノガラ」のサンカになった人々の他は、みな「降参」させられ日本原住民は「奴婢」にさせられた。

 七世紀に日本列島には何人いたのかの記録はない。しかし「白村江の戦い」に連行されていった日本原住民の〈四つ〉の飼戸の民…つまり「戦奴」が二万七千とあるから、水軍奴隷として伴われた〈八つ〉の海人族も別に半分はいただろうから、計四万が総動員数。明治36年の町村役場兵事課に対しての軍部よりの動員計画では、老幼を含めた「人口百に対して壮丁一人」の割合だから、その割で逆算してゆくと人口四百万になるがそれを半分と押さえてみても、二百万人の者が「奴隷」として「クダラ(百済)ぬやつ」「クダラ(百済)ぬことを言うな」と、人間扱いされなかった働き蜂「非人」だった事になる。

 それに百済が敗戦して、日本列島の百済人も「奴婢」にされたから四百数万となるが、新しい主人となったのが二万ゆえ「奴婢」の割合は5パーセントや10パーセントは余りにも過小評価で、二百の「奴婢」で一人の「御主人さま」に仕えたのが正しい。

 後に「桓武さま」の時より、百済人は〈貴〉〈賎〉の「大宝律令」の中で〈良〉に格上げされ、戦国時代からは、〈四つ〉の騎馬系の戦国武者が「ブシン(不信)」と蔑まされていたのを「ン」をとって武士と呼ぶ新興階級にのし上がったから、「非人」とされる奴婢階級は半減し百対一ぐらいになった。

 が、大岡忠相 の貞亨年間に、現在のアメリカの各州なみに各大名領ごとに「国法」が違っていたのを五街道で一斉に取締まろうと、〈八つ〉の海人族の流し行商や、旅芸人の「道(堂)の者」らに朱鞘の公刀と捕縄を渡して、ハイウェイパトロールなみに道中探索の御上御用を命じた。後には街道ごとに「縄張り」を決め合って鉄火場を開帳して、あがる「テラ銭」を費用に充て「御用ッ!」「御用ッ!」と捕物をやらせ、日没になると彼らを「お客さん遊んでいらっしゃい」と客引きに使う。つまり、テレビや講談で悪く言う「二足草鞋」が実は公認の「本可打ち」で、本物なのである。

 後に幕末近くになると「抜刀禁止令」の法を破りだしたので、うっかり召捕りに行けば怪我をするからと、文久二年(1862)までに各地の親分は朱鞘の公刀を返上し、「縄張り」をして香具師に総転業。そこで空き巣狙いみたいに「半可打ち」と呼ばれていた素人(ネス)上がりの連中が、その「縄張り」の奪い合いで清水次郎長『天保水滸伝』になっていったのは、私の『仁義と任侠』の本に詳しい。

 つまり、彼らは明治までは「非人」扱いだったから、殺されても殺され損だと「本可打ち」は転業した後でも、やくざの喧嘩の殺生沙汰は「寺人別」には入っていない連中ゆえ犯罪にはならなかった。

 つまり、テレビや映画では「郵便制度」が無くても「郵便法」で、戸口配達の為みたいに「クマさん」「ハッツァン」の表札まで長屋の木戸口に掲げてあるような暮しぶりを見せるが、前途亨保年間の大岡忠相 の「道の者」の街道目付ができるまでは、「八つぁん」の部族は居附部落に入れられて農耕、海浜では漁労や製塩の課役奴隷だった。しかし、同じ〈八つ〉の「道の者」が街道目付になると「目こぼし」で街道へ出してもらえた。つまりそれまでの今の庶民は、みな各地の「ゲットー」に入れられていた。

 領主や代官にとっては住民をみな「居付部落」に入れて働かせ、逃げ出せば「逃散」の咎で斬罪にできたから都合がよく、殆どが今いう部落であった。私の祖母の先祖もこの享保年間に、尾張の徳川継友 が将軍吉宗の御庭番村桓左太夫 に毒殺され、弟の奥州梁川三万石の宗春が後を嗣いだがやはり睨まれ、家康の曾孫の彼が「家康は世良田の次郎三郎だった」と公表したので隠居処分にされた、混雑に紛れて名古屋へ住み着いたのだと口伝えに大正の末に教えてくれた。
 

 
 何の生産もない江戸に人々が集まり、天保年間には人口百三十万の世界一の都会になった謎も祖母の先祖らと同じで、「道の者」の街道目付の「目こぼし」で「居付部落」から出てきた為らしい。しかし、どっと出てきても身体一つが元手ゆえ、「馬方」みたいな〈四つ〉は白褌。馬を使わぬ「駕かき」や蓮台の「川越人足」は赤褌で〈八つ〉と、一見してる色分けで稼ぎをした。

 江戸体制は〈四つ〉の騎馬系の弾左衛門 の下に〈八つ〉の車善七 を、その下に「四谷者」、またその下に「谷津者」と交互に組み込んだ。相互に牽制しあって夷をもって夷を制させるのが治安維持の方法だったが、幕末になって「弥次=八」「喜多=北=四」今では簡単に「野次馬」と呼ぶが、反目しあう日本原住民同士の両者の融合を狙ったのが「弥次喜多道中記」で、『東海道膝栗毛』の題名で濡れ場もないものなのに貸本のベストセラーとなり、「御一新」の大衆動員の起爆剤となったのは、今では余り知られていない。

 幕末になっても限定地のまだ「居付部落」に入れられ、界化の「非人」と差別されていた庶民が全人口の半分は越えていた。享保年間から部落抜けをして、「町人別」や「寺人別」を銭で買って町人になっていた者を加えれば、総人口の八割以上は「ヤジ」と「キタ」の日本原住民の末孫だったと考えられるのである。

 両親が認知すれば「嫡子」だが、父親だけしか認めねば「庶子」。つまり「庶民」とはテレビ(ドラマ)の「ルーツ」みたいに、白人の旦那が奴隷女に産ませたのはやはり「奴隷」として露骨に売るよりは、日本の方がましみたいに勘違いされるが、日本では徹底して全部がみな「奴婢」だったのである。
 
 

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