古代史入門 1.1.3

受難の『日本書紀』

 〈学校歴史〉の古代史は、北条政子 の歿った西暦1225年までを一括して安易に教えている。という事は、七世紀の世変りを匿しこんでしまう意図から十三世紀まで引っぱって延長した期間を、網掛け方式で制定している。日本人の歴史好きというのは何も向学心の現れや、真実追求のものではないらしい。「侵略」を「進出」と変えてしまって韓国や中国から抗議を烈しく浴びているくらいで、日本の歴史は「臭いものには蓋をしろ」と、何でも自分に都合よく過去は美化してしまう伝統がある。

 それまで、幕末までは各地方面に民間に、口から耳へと伝承の歴史があったのを、東京を首都とし「中央集権制度」を採ったから、日本全国を一つの検定した教科書で洗脳するみたいに統一教育を歴史にまで及ぼして、他の国ではディスカッションして覚えさせているものをば「暗記物」にした。だからして学校で教わる歴史ではさっぱりどうにも呑み込めぬ人々が多く、そこで何とかして己れのルーツを知りたがるのが多く、これが〈歴史好み〉というか探求型にもなるのである。
 

 
 近江八幡で『解放』を発行している西川秀夫 氏は、祥伝社、大倉精神分化研究所、日本シェル出版、光文社、琵琶湖研究会、新泉社、オリジン出版、秋田書店の出版物を名ざしでピックアップして、古代史入門の手引にと並列している。しかしである。それらの本の中で注意したいのは、『日本書紀』『古事記』を信用してか、それを参考にしている本だけは絶対に除外してほしい。なにしろ学校歴史で…
 

西暦720年5月に『日本書紀』三十巻成る

 
…と教えているからしてさも、「いま活字本で廻っている『日本書紀』は、西暦八世紀初頭の編纂された唯一の日本史である」と誤っている方が多いが、私の『天の古代史研究』に詳しく解明してあるように、その60年後に河内より「高野新笠」の御子を迎えて人皇五十代「桓武さま」となし、『日本書紀』を作った藤(唐)の人々が昔の「中ツ国」、今の中国地方の岡山へ財宝を積んだ牛車の群れを牽いて逃避行をした後…
 

彼ら弁髪は、日本原住民どもが一致団結して、富士王朝復活のため清見潟(今の田子浦)まで怒涛の進撃をなして攻めてきたのに惧れをなして、逃げてしまったのゆえもはや構ったことはない

 
…と仰せられて、それまで藤(唐)一族が自分らが「中国大陸から渡来」とするよりも、「遥かに高い天から下ってきた選ばれた民族」とした方が恰好が良いから、大いに美化するために創作したところの『日本書紀』だけでなく、「六国史」と称される他の史書類もみな悉く一切合財を集めさせて、山のごとく各地で積み上げみなこれを燃やしてしまった。世にこれを「桓武焚書」と言われる。

 富士王朝の「アラビア文字」を縦書きにしたような歴史書も悉く集めて燃やしてしまい、「オンモン日本書紀」というようなハングル文字の『桓檀古記』を種本にして、「桓武さま」の御先祖さまが高千穂峯におりてきたという、百済人に都合のよいように美化されて纏め上げられてしまい、ここに第二次の、全面改訂『日本書紀』の新版が出来上がったのである。

 一時は長岡の山の中にまで逃げたが〈賎〉から〈良〉に格上げしてもらえた百済兵は、勇戦敢闘し原住民を撃退。この時代が本当の奈良(ナラ)時代だが、彼らは威張って…
 

百済人にあらざれば人にあらず、非人である

 
…と教科書の「侵略」よりもひどい傍若無人。しかし驕る何とか久しからずである。今でも「クダラ(百済)ぬやつ」とか、「クダラ(百済)ぬことを言うな」といった言葉が残っている程ゆえ、「桓武さま」の血脈の続いた時代は日本原住民は討伐され奴隷にみなされ、新羅(シラギ)高麗(コマ)系は「蕃族」として追討された。現代の新羅が慶尚道人で、朴前大統領もそうだが今の全大統領や、金日成父子やその他南北の軍部も同じである。金大中は百済系だから釈放されても国外追放。

 日本列島における確執だけでなく、朝鮮半島でも「馬韓」「辰韓」「弁韓」の昔から殺し合ってきた民族闘争の原点が、「桓武さま」の時代でも「光州事件」の現代でも続いているだけで、「民族の血の流れ」というのは二千年や三千年たっても変らないものである。ナチスのユダヤ人狩りでも判る。もちろん現代ではユダヤが、イスラエル建国以来アメリカのユダヤ勢力を後楯にして、極めて強力である。
 

 
 さて、西南に向けて潮流が変り瀬戸内の海から鉄製武器がどしどし送られてくるようになった。初めは護身のための影武者のようなつもりで「王位」につけた百済系にも援助して勝たせはしたが、やがて、延暦十三年の富士の大爆発で、せっかく復活に団結して攻めこんできた日本原住民が百済の坂上田村麿 に追われ、谷底に生き埋めにされ「根」つまり死の国へみな送り込まれた。

 ほっとして牛車を連ねて戻ってきた藤(唐)の人々は、もはや治安が回復したので影武者の必要も無しとみた。そこで「桓武さま」の御孫の「嵯峨さま」の代になると、せっかく苦労して創作されたのを全部燃やしてしまったのである。

 が、藤(唐)の『日本書紀』は焚書後40年も既に経っていたから「勧学院」を設けて、武器と共に渡来した医師や漢学者たちにもう一度改めて「日本書紀漢学版」の作り直しをさせた。しかし一ヵ所だけではすっかり燃やされてしまった『日本書紀』を復元するのは難しく、藤氏一門は「勧学院」、和気氏には「弘文院」、王氏に「奨学院」といったのを次々と設立させて、百済史の焼き直しの「桓武日本書紀」を集めて悉く燃やし、第三次の新々『日本書紀』は高野山の中国渡来僧たちの「綜芸種智院」にも協力させ、バビロニア史の漢訳とも対比して、今では言われるごとく司馬遷 の『史記』の中よりも当てはめられる個所はそっくりいただいて作り上げた。かくして第三回目『日本書紀』は西暦833年の「令義解」ができた前後に書き整った。「桓武焚書」の一件は、南北朝時代の北畠親房『神皇正統記』にもはっきりと明記されている。
 

 
 が、これが今日そのまま残されている『日本書紀』ではない。藤原道長 の全盛期を経て「前九年後三年の役」、ついで平清盛 の時代にまた焚書されて、第四回目の新々『日本書紀』熊野権現で書き直され…
 

「新平氏」こそ日本開祖の民族である

 
…としたものを作らせたが、これは「壇の浦合戦」で水没した事になっているが、この時の一部の書き直しが梶原景時 の手に入り、北条政子 に献上された。

 頼朝を落馬死という事にし、ついで梶原、畠山、和田、と源氏の主だった連中を粛清してのけた北条政子 は、鎌倉をオール平氏一色にしてしまうと承久三年(1221)五月には、京へ大進攻をさせた。「阿魔将軍」と恐れられた彼女自らが陣頭にたって押し寄せるわけだったが、大切な北条平氏の女大将が自ら鎌倉を離れては後が気がかりであると、甥の泰時が代って出陣した。

 美化したがる通俗歴史は、夫の頼朝が急死したので貞婦ニ夫にまみえずで髪をおろして「尼将軍」になったとしているが、日本では仏教を持ち込んだ唐(藤)の者の他は男も女も、坊主や尼の官認の得度は受けられなかった。「平氏」の政子が尼になろうとしても有髪の「比丘尼」だし、男は法界坊、法印の大五郎、日光の円蔵みたいにツルツル坊主になれずで、吉原でゴザを敷いてカッポレを踊っていた梅坊主一座にしろ、剃刀を当てて奇麗に坊主に頭が剃れたのは明治「御一新」からである。政子が「比丘尼」になるわけはないから、古代史の最後を飾る彼女の画像は後世の儒教時代の想像画で、それが今では歴史教科書の挿絵に使われだしたので本当らしく誤られる。

 富士王朝の残党ともいうべき北条政子 は夷頭(伊東)に逃げ、潮を汲んで製塩、漁労をして塩魚にして銭に替え、藤(唐)派遣軍には非人扱いされていた積年の恨みの積み重ねの報復として、「藤」を名乗る公卿の主だった者を斬首。「後鳥羽上皇」は鳥も通わぬといわれる隠岐の小島の石牢。「順徳上皇」は佐渡ヶ島の土牢。「土御門上皇」は土佐へ流罪。そして京御所を監視するため「六波羅探題」を南北に置き、見張り侍所を置いた。
 

 
 平政子 (古平氏)は生前に大江広元 に命じ、かつて梶原景時 が入手した平清盛 (新平氏)の第四回目の『日本書紀』をもとに、改訂第五回目『日本書紀』は出来上った。しかし北条時宗 の時に、かつて沿海州から親潮で佐渡や能登へ渡り「蘇我氏」として栄えた末孫の「源氏」を、「北条平氏」は打倒藤原のために頼朝を担ぎ出し散々に働かせた後、使い棄てみたいに主だった者を皆殺しにして天下を「北条平氏」のものとした。だから沿海州から中国本土を席巻して「元」の国を建てた騎馬民族にしては、占領した朝鮮半島の高麗水軍に命じて「源氏」の仇討ちに、「失地回復」のための進攻なりと、壱岐・対馬の守護代より急使が鎌倉へ駆けつけてきた。

 文永五年(1268)にはその噂通り「元」の兵部治郎黒的 を高麗人の案内で、正月十八日には太宰府守護の少弐資能 に対して高圧的な態度で臨んできた。何でも今では美化して恰好をつけたがる〈学校歴史〉では、このことすらも…
 

国信使をもって元の「国書」や「方物」を献上し、通交を求む

 
…といった具合に「世界は一つ人類みな兄弟」みたいなことを記載している。だが翌文永六年(1269)三月七日の条になるとはっきりと…
 

猛子使用黒的 は高麗人と共に対馬に立ち寄り、掠奪暴行の限りを尽くし、降参した島民の手の甲に穴をあけ鎖を通して舷側に吊し曳行す

 
…とある。「通交」の為に来た国使のすることではない。挑戦でしかありえない。

 やがて五年後の文永十一年(1274)十月、壱岐・対馬から太宰府へ十万の元軍が高麗水軍に護衛されて来攻。守護代・宗助国平景隆 は一族と共に青竜刀や鉄鉾に取り囲まれて玉砕。少弐、菊池の救援軍も苦戦したが、たまたま台風の目が突如として来襲。元軍十万の木造船は大暴風のために沈没。時間稼ぎに、翌1275年夏に訪れて来た朴世忠 ら五人の「元」の国使を、鎌倉龍の口で並べて斬首。翌年(1276)は、再度来攻に備えて九州の筑前海岸一帯に石を積んで防塁を建造した。

 新興「元」が高麗水軍を先頭に攻め込んで来て台風で悉く沈んだにしても、損害は高麗や新羅の捕虜兵だけなので、改めて来攻してくるのは目に見えていた。それゆえ時の執権北条時宗 は、「元」が又も懲りずに攻めて来るというのは北条開祖の政子さまが、散々に「源氏」を戦わせて平定するともはや馬乗りは無用の長物と使い棄てに殺したり、双方で戦わせたことへの仕返しに意地になって失地回復に攻めて来るのだから、もしもの用心に全ての証拠の書類は燃やすべし

 『間柱所文書』から大江広元 に書かせた改訂第五次『日本書紀』も、まさか次の弘安四年(1281)の来攻の十万の元兵も台風で、復しても海の藻屑になってしまうとは神ならぬ身の知るよしもなく、万全を期して片っ端から、文字の出ている物はみな集め悉く焼き払って灰にしてしまった。「時宗焚書」というのがこれである。

 〈学校歴史〉では「元寇」の実際も明白にしていないが、今もハバロフスク民族館の正面入口の扉の上には沿海州人の民族章として、大きな円形の笹りんどうの紋章がレリーフで掲げられている。つまり「元」は日本では「源」であって、同じ民族なのである。明治時代の内田弥八『義経再興記』。続いて小谷部圭一郎「ジンギスカン義経説」は、「源氏」の風俗や言語が沿海州人の「元」の民族と全く同じなのが、裏日本から入って来た「源氏」ゆえそこから連想されたもので、ここが判らなくては「元寇」の意味も判らぬし、「ジンギスカン義経説」の由来も、ただ奇をてらうものとしか想われないかも知れぬ。が、バイカル号でハバロフスクへ立ち寄った者なら、「源氏」の笹りんどうの紋や、パンダがその笹を囓っているマークも見ている筈である。
 

 

義経の痕跡残るウラジオストック近郊(EJ1644号)
Electronic Journal 2005年07月29日

 これに関連する情報として、大正14年2月1日付の朝日新聞に、こんな話が出ているのです。シベリア出兵当時、ニコラエフスクの近くでタタール人の芝居を見たところ、その巻狩の場面で役者が笹竜胆(ささりんどう)の紋をつけた日本流の鎧兜であらわれたというのです。わけを尋ねたところ、昔から伝わっているもので、誰が作ったかについてはわからないという返事だったといわれます。

 笹竜胆といえば、源氏の紋章です。それを蒙古武人が着けていたことになるのです。この笹竜胆の紋章は、ナホトカの一般住居にもつけられており、これも義経ゆかりのものではないかと考えられるのです。

 歴史学者たちは、こうした数々の証拠をどのように考えているのでしょうか。…[義経14]
 


 
≪画像および関連情報≫
・笹竜胆/ささりんどう
 民家の建物の壁に笹竜胆/400年以上になる古い建物
 向って左はモンゴルの笹竜胆/右は源氏の紋章/笹竜胆

 
 

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