古代史入門 1.1.4

復活 『日本書紀』の捨て石

 古代史の範囲に入る平政子 の時代の改訂第五次『日本書紀』は、「元寇」で上陸された時の用心に北条時宗 によって焚書されてしまったから、西暦720年に作成されたものとは全然似ても似つかぬものとはいえ、『日本書紀』らしいものは第五回の書き直しの分で消滅してしまった事になる。
 

「南朝」こそ正しい皇統である。「北朝」と呼ばれる足利体制は、昔の「耶馬台国」と同じで親大陸政権どころか、中国より属国扱いをされているではないか

 
…と厳しく論評した北畠親房 にしても『神皇正統記』は残し得たが、「桓武焚書」によって当初の『日本書紀』は燃されてしまった事実を述べてはいるが、「第三次」「第四次」「第五次」の『日本書紀』に触れていないところをみるとどうも…
 

  1. 第二次「桓武製オンモン日本書紀」は、長岡京から中国人が「坊都」とし造営した平安京、つまり今の京都へ移る時に「写し」は持って行ったが「原文」は匿し、長岡京の何処かに埋めて来たらしいこと。
     
  2. 「勧学院」の第三次「漢字版日本書紀」は、高野山の中国僧たちまで手伝って藤原氏全盛時代にすっかり初めから新しく書かれたものの、平清盛 の時に熊野権現で別個に書かれたものと入れ換わる
     
  3. その第四次『日本書紀』は清盛の歿後に福原で消滅したか、「安徳帝」と共に海底へ沈んだもので、その「写し」だけは鎌倉へ届けられたとみられる。でないと大江広元 の記録所の書役で平政子 の第五次「反藤日本書紀」が、そう易々と「平氏側日本書紀」に書き直されたものとは思えぬからである。
     
  4. この、政子が「校閲」したと伝わる第五次改訂版『日本書紀』はそのままでもし伝わっていれば、これは「反藤思想」のサンカの倫理と全く同じで面白いものだろうが、北条時宗 の時に「元寇」を懲りずに繰り返して来襲して来る敵の真意が判り、もし元軍に上陸されて読まれでもしてはそれこそ大変であると、『問注所文書』『記録所文書』と共に惜しくも北条時宗 に燃されてしまっている。

 
 つまり「時宗焚書」とか「元寇焚書」と言われて第五次までのものは燃やしては次々と失くしてしまい、替った権力者の立場によって新しく滅ぼしたのを蘇らせてきたのが『日本書紀』。が、国難の「元寇」による焚書の時は、もしもの時は殺されると其々みな探し、「写し」さえも残されていない
 

 
 江戸時代に、伊勢の古い神官に保管されていた「第四次」のものらしい『日本書紀』珍稀本として刊行されたのが、「公儀」の摘発するところとなって版元手錠で絶版にされ、関係した〈イザナギの神官〉はみな流罪処分にされた事件があった。戦前の三省堂の『日本歴史年表』には三行ほどだが出ている。

 全く消え去って失くなってしまった筈の『日本書紀』が、昭和の初めになると「皇国史観」の黒板勝美 によって突如として蘇って来て、活字本となって大八州出版株式会社創立事務所より発刊されて、旱天の慈雨のごとくに軍や官だけでなく各学校からも求められた。売れ行きの凄まじさに吉川弘文館が目を付け「版権」の譲渡を受け、歴史物出版社としての今日の大をなす基礎ともなった。出版制限の戦争中でさえも、国民精神作興教育のため次々と刊行された。そして「神典」として大いに、一般にはかつての「教育勅語」のごとくに普及。今も我々が手に取って見られる印刷された『日本書紀』の本は、これである。

 魔術のように、無い筈のものが突如として「神は蘇り給えり」と、前半は「神話」で後半が「史書」という奇妙な体裁だが、現実に「皇国史観」黒板勝美 のものとして堂々というか出廻っていて、今では唯一、確定的なものとして拝読されている。

 という事は、日本以外の国の郷土史家というのは、其々「地方の伝承」や「古記録」によって己が郷土の歴史を探求しているので、それを綜合してゆくと地方別に明確な史資料が一つに纏まって、国の正しい歴史が形成されてゆくといった積木細工式ゆえ、隣接した他国との歴史とも対照していっても、その接している地方ごとの郷土史で「真実」はかなり明白になる得る

 ところが日本ではそうではない。今ある『日本書紀』が「元本」となり金科玉条のごとく動かし難いものとされているから、郷土史家のものもその地方の伝承や古記録を、いかにして今の『日本書紀』に結びつけてゆくかの方向にだけのみ専念して、まったく他を省みようとはしていない。「鵜飼歴史」とでも言うのか、一羽ずつの鵜がてんでに皆引っぱられ舟の上へ戻され、頚を掴まれしごかれて吐き出させられたものは、鵜匠の手によって一つの魚籠の中に集められてしまう。どの地方の古記録もみな、今の『日本書紀』の内容に合うようにされてしまう。そして、それが正しいことに官学の「東大閥」に認められ、他は黙殺されているのである。

 だから日本の郷土史家はゼロから出発するのが歴史の解明なのに、今の『日本書紀』を原点とし、それを一とし、ニ、三と研究の展開をしてゆく。しかし困った事に考古学という分野があって、整地の際に土を掘ったりするからして今の『日本書紀』では…
 

「大化の改新」の舞台であった板葺宮は、その後火災にて焼失

 
…とあるのに、さて発掘してみると敷石にも焦げた痕もないのに驚かされて、今の『日本書紀』は怪しまれる。

 すると築地へ新築移転前のA新聞が、「稲荷山古墳」で十余年目に121個の文字が発見。これを以ってしても、今の『日本書紀』は全く正しいものであるとマスコミが証明。それでも効果があまりないとみると手を変え品を代えて、大安万侶 の木牌が炭焼窯の奥から見つかったから、西暦712年に完成された『古事記』も正しいものだと大新聞が連日発表
 

 
 『古事記』については後で解明するが、今の『日本書紀』大新聞の権威によって戦後も「高千穂峯に天孫降臨」と、よし外国では相手にされないものであっても人民共への国体護持の「聖典」というか、「神典」と崇められて日本歴史の聖なる原典とされているのだが、何も720年当時のものが今までそっくり、ゼロックスで撮られ伝わって来ている訳ではない。前章にも述べたように「第一次」から「第五次」まで。
 

 
 その時々の体制によって都合良く作り変えられて北条時宗 の時までは実存したが、「元寇」の騒ぎで「第五次」のものは完全に燃やされた。黒板勝美『日本書紀』「国史体系」として編修された第一巻であるが、その序言にまず…
 

旧「国史大系」の時は、寛文十三年(1673)に木版刷りで出版された松下見林 のものを「原底本」となして、それに伴信友 のものを参考にして、編修をなして完成した

 
…がその後、大正三年(1914)に到りては…
 

「国史大系・六国史」の第一巻として刊行なした時は、八代将軍徳川吉宗 が元文元年(1736)二月六日に三の丸の紅葉山書物奉行に校訂させた、『類聚国史』をも入手し得たので、これを参考にしてなんとか定本を作らんことに努めたり

 
…と、徳川時代の「原本」なりとある。

 つまりこれをみると「第六次」『日本書紀』は、北条時宗 の時に消滅したのが南北朝時代、足利時代、戦国時代には浮かび上がらず、390年後の江戸時代になって寛文十三年(1673)九月より延宝元年にかけて、大阪人の松下見林 によって漸く再生された事が明らかになる。

 彼は『日本書紀』を四世紀ぶりに世に出したことよりも、『異称日本伝』『公事根源集釈』『職原抄参考』の著だけがさも代表作みたいな扱いにされているのは、彼のごとき無位無官の者が再生させたのでは『日本書紀』のせっかくの権威にかかわるとされたのか、明治以降は故意に敬遠というか黙殺され、遠ざけられて匿されてしまっている向きがないでもない。

 なお大阪人ゆえ、近くの京の公家より出た古紙の中からでも「底本」になるものを見つけ出し、それを下敷きにして書き上げたものらしいが、出処が京の公家…つまり藤(唐)の堂上方とみれば、これは「桓武焚書」の後に主として「勧学院」で作り出された「第三次」の「則天(漢字版)日本書紀」の版古紙で、何かの内貼りになっていたものを「襖」の下貼りか、「掛け軸」の内貼りにするため京の古紙商が固めて購入してきたものを、縁ってみて大阪の松下見林 の許へ…「先生は四角い文字のものがお好みだと伺いましたによって、ひとつ値良う買うて頂けませんどっしゃろか」…と下貼りにするよりは高値にて儲けようと持ち込まれでもしたものらしい。

 版行に先立って大阪町奉行所は、事前検閲に京所司代に提出し裁断を乞うた。堂上公家の冷泉家を呼び読ませたところ、藤(唐)製のものゆえ別に反対や異存も無く許可が出たらしい。江戸表でも、だからこの「第三次」『日本書紀』復刻並と、別にお咎めも受けずに済んだらしい。
 

 
 さて、伴信友 は若狭小浜の藩士で本居宣長 の死後に入門し、本居太平 の教えを受け幕末の弘化三年(1847)までは生きたが多才博識。軟派では『ねやのひめごと』の「黄表紙本」から三百余の著作で、『長等山風』『神社私考』などの硬派本まである。

 もっとも有名なのは、水野忠邦 の「倹約令」で江戸三座が今の浅草松屋よりずっと入って行く、聖天町と呼ぶ弾左衛門 の地の草原に移された時に、「先生、わっしら芝居者を助けると思って、今までとは違って駕でさえ滅多に入らぬ草深い所へ移された江戸三座の為に、なんとしてでも、どかっと客が来るようなものを書いて下さらんか」と懇願されて筆を取ったのが、『両島英雄記』である。

 何しろ当時の芝居の舞台は間口2メートル半しかなく、両袖のロウソクが照明だった。〈濡れ場もの〉ならこの広さでも出来るが、これは「倹約令」で御禁制。そこで宮本無三四佐々木小次郎 の両雄が九州巌流島で決闘の芝居を書いた。何しろ、槍を持って舞台へ出てはそれだけで一杯になって身動きができぬが、刀を持たせ「雪月花」と呼ぶ躍りの拍子でチョンがチョンと…上段、中段、下段の絡みで、しかも宮本無三四 には両手に刀を持たせ、裏日本や東北で言うところの「張(チャン)バラ」を派手にやらせてみたのである。これが江戸中の大評判になって「黄表紙本」の方も売れに売れた。

 昭和になって軍部が…「明治時代は、桃中軒雲右衛門 の赤穂義士銘々伝で召集兵員の在郷予備教育はできたが、いつまでも大石内蔵介でもあるまい」…と国民精神作興に躍起になっていたので、吉川英治の書き直し『宮本武蔵』は大いに「剣だ」「剣だ」という、尚武の敢闘精神で「満州事変」から大流行をしだした。何しろ主人公の武蔵は慕うお通さえも拒んで、剣一道の武芸者で性的不能の変質者みたいだが、ポルノは全面発禁の世の中なのに、同じ村出身の本位田又八情事場面が二頁おきぐらいに、汁粉の逆塩どころか全体の半分も入っていたから「お上」の意向とは逆に、心なき国民の中の青少年はオナニー用に求めたものだ。少年だった私もその不心得者の一人だった覚えがある。

 伴信友演劇界救済のために書いた「宮本武蔵」が大当たりを獲ると、抜け目の無い連中が放って置くわけはない。もっともらしい『五輪の書』までが生まれたりして、いつか実在の人物化された。
 

人の一生は、重荷を背負うて坂を登るがごとし

 
…といった『家康遺訓集』は明治になって、「徳川家」を見殺しにしてしまった勝海舟らが徳川公爵家の要請で創作したものだとは、名古屋「徳川家」で思い切って公表したのは最近の新聞に大きく掲載されていたからご記憶の方も多かろう。
 

 
 しかし吉川英治 は徹底的によく書き込んだからして、「国民大衆文学」として完成されたから「二刀流」は彼の草案と思い込む人も多いが、文藝春秋の故池谷信平 が「京城」(ソウル)の陸軍学校へ行き、「壬辰の役(文禄の役)に進路の倭兵を防ぐ韓国軍」という二百号大の油絵が正面階段の上に掲げられているのを見ると、日本軍はみな両手に刀を握っていたので驚いたという話は、故海音寺潮五郎 も「文学建設」に書いてはいたが、「武蔵」がいつの間にか「二刀流開祖」にされてしまった。すっかり舞台上の産物が本当にされてしまったのである。

 「応仁の乱」の時に、鉄資源のない国なので外国のように鉄の楯は作れず、といって木の楯は重たくて一人ではとても運べぬから、「足軽」と呼ぶ狩り出してきた山者に両手に竹を持たせ、「尻っ払い」とか「露よけ」と先駆けに使った。関白一条兼良 は、反仏派で寺を荒し廻る彼らを「悪党」とも呼んだが、青竹を二本持って「人間楯」として突進して行くよりは安全と、戦場で落ちている刀を拾い持ち、生き残れた者は両手に握って飛んでくる矢を打ち払って後の戦国武者

 つまり「源平合戦」から戦国時代「大坂夏の陣」まで、当時は「雑兵」と呼ばれた者たちはみな「両刀使い」だったのだから、韓国の画家は正確に描写されているのである。「講談歴史」とか「浪花節歴史」と呼ばれる日本の方が間違っているのである。吉川英治 の作では「関ヶ原合戦」に出ているから、見よう見まねで二刀持ちを他に見習ったと言ってもよい。

 戦争目的に、「鉄資源不足」を知らせぬための学校の歴史の教育を「お上」の指示でされてきたのだから、伴信友 の作り出した宮本無三四吉川英治宮本武蔵 にまで勇ましく作らせたのは、全く意企的な軍部の指図だったらしい。

 元禄初期に書かれた尾州藩(尾張藩)鉄砲頭の天野信景『塩尻百巻』に、「細川家」の重役間に確執がきわめて甚だしかったの風聞が書かれているから、伴信友 はそれに今言う「ヒント」を得て創作したらしい。
 

 
 さて、芝居の『両島英雄記』や、「黄表紙本」を数多く出している彼が本居太平 の許で筆写したのを「底本」に書いた『日本書紀』では、いくら「士分」の者の筆になったものとはいえ問題にならぬと、伴信友 校本は『ねやのひめごと』の作者ゆえ、リース門下黒板勝美 にも参考にされたが軽く見られたらしい。後世の伴信友 の三百余の著書目録にも、『日本書紀』の権威のために削除されてその書名が全く出ていないのは、こうした理由からであるのだろう。

 江戸初期の松下見林 や幕末の伴信友『日本書紀』復活に貢献して其々が書いているが、黒板勝美 が「国史大系」の〈下肥え〉か〈縁の下の力持ち〉にされ、彼らの仕事は有耶無耶にされている。つまり「第七次」「第八次」とも言える江戸時代の松下や伴の『日本書紀』は、其々「木版」で刊行されはしたが明治になって全て回収され、全く今では跡形もなく消滅させられている。
 
 

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