古代史入門 1.1

純正日本史案内
 
 「三つ子の魂、百までも」と言うが、学校で教わった歴史は「ジンム…スイゼイ…」と暗記ものだったゆえ、私でさえ今だに頭の中に引っ掛かっている。どうしても先入観は強いものである。そこへもって来て前人未踏の「八切史観」では戸惑われるかも知れぬと案じ、順を追って判り易く解明して行くため前もって予告編みたいに《 アウトライン 》を『古代史入門』の一般的手引きにしておく。

 「まえがき」をしてはやや重複をするが、いきなりぶつけるよりは読み易い。それにどうしても、古代史に入ってゆくには《 タブー 》視されている部落史とは切っても切れぬ問題がある。何しろ西暦 663 年に郭務悰が進駐して来て藤原鎌足と日本名になり、【 唐 】の『大宝律令』をそのままに輸入したのは『天の日本古代史研究』に詳しいが、天孫と称した郭さんの方は《 良 》で、それまでの縄文日本人原住民はみな《 賎 》にされた。

 二大別とされた《 賎 》とは、太平洋沿岸に漂着の《 八の者 》。次に、裏日本から親潮寒流で能登や新潟へ入って来たのが、獣の「四つ足」から《 四つ 》と呼ばれる。

 「源・平・藤・橘」と四大別するが、藤は【 唐 】で郭さんの 1 万 2000 人のグループ。橘はその【 唐 】を中国大陸で滅ぼし取って代わった《 契丹系 》ゆえ、大陸人でも【 唐 】ではないゆえ豪く見られず《 被差別 》とされた。彼ら《 契丹系 》は天神信仰だが、源は【 元 】ゆえ白山さま信仰。平は今の【 ペルシャ 】と同じで赤旗を振り祇園・八坂信仰で、宮島も紅殻の「赤塗り」である。藤は墨染めの衣を着た「坊主」が宣教師として先に来たので「黒住教」さえ残っていて、藤は【 唐 】で、黒色。

 しかし、この四種の姓別は最低四種以上の複合民族を指すが、「勝てば官軍、負ければ賊」で《 賎 》。「黒」の他は次々と体制の変わる度に《 限定居付き部落 》へと追い込み。郭将軍に滅ぼされたものの奈良王朝と栄え、桓武帝からは《 良 》となった《 百済系 》は黄色である。

 しかし、《 穢多非人 》とひとつにしたりまた分類し、「エツタ島」など、海軍にそっくり召し上げられると「江田島」と恰好良くなるのは、そうした《 ゲットー(居付き部落)》に次々と敗戦捕虜が入れられ混同しているためだが、四大別では無く太古日本人は、「エ・ケ・セ・テ・ネ」が姓の頭に付くところの雑色の人々だろう。
 

 
 「皮剥ぎ」も「皮細工」も《 四つ 》と呼ばれる騎馬民族。わかり易く言えば、白筋の「馬方」は源氏だが、「駕かき」「川越人足」や「雲助」は平氏で、《 八つ 》と呼ぶ赤筋の拝火宗徒。《 トウナイ 》は「唐ない」で《 契丹系 》の部落民とハッキリ種族別が分けられるが、喜田貞吉は「他国の捕虜」とか、「社会の落伍者」と決めつけるが、藤原王朝の時代に征伐された日本列島原住民。

 足利時代は《 散所奉行 》が新設されて、「南朝」に味方した者らの反体制子孫を収容。これは『庶民日本史辞典』『野史辞典』『日本部落史料』で明白にされている。戦国時代のはじめの「応仁の乱」に、部落の者らは「山狩り」で集められて来て「足軽」と呼ばれ、楯の代わりに尻払いさせられ生き残れたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平になると《 下克上 》は明治維新まで延びた。

 が、五代徳川綱吉 が韓国〈済州島系〉で、『神仏混合令』の法令を下したので、反仏派の原住民は「宗門改め」の寺社奉行によって、「浄土(上等)でない、汚れた下等人だ」差別され、圧迫された。太田亮『姓氏辞典』では「加賀に入った藤原氏(加藤)」と美化しているが、仏教は「一向宗」が入っただけ。ナポレオンが「勲章」を発明するまでは「賜姓」といって、「藤原」姓を「蝦夷」や「反乱軍」の純友にも与えた。

 つまり実際は、「産所」は足利幕府の散所奉行で、反体制だった「南朝」方の子孫を捕え収容したのが、同じ呼び方ゆえ「産所」と間違えられて伝わる。「山所」ともなり、「山しょ(椒)太夫」や「さんしょう(山椒)魚」ともなる。被差別の習慣が広まってしまった為でもあるが、「喜田貞吉説」も「産所」と、文字通りに取って誤っている。

 何しろ、唐語の「ブシン(不信)」…つまり信用できぬ輩として召し使われ、それが武力を以て遂に「公家」を押さえつけ、「公家」対「地下」といったのが実力で逆転。「下克上」の時代と呼ばれたのが文治革命であったり、戦国時代以降となると、かつては「非人」とか「八部」と呼ばれた蜂須賀小六 も阿波の「大名」となる。傭兵が武力でクーデターを起し主権を奪ったのである。関白の一条兼良 は足利末期の〈藤原系〉仏派ゆえ、寺を荒す彼らを「悪党」と呼んでいる。
 

 
 さて、「藤原王朝は天孫民族なり」と言うが、どうもこれは「妄説」である。藤原基経廃帝にされた「陽成さま」の一族一門が山へ逃げ込み、「木地師」となって「山がつ」になりたまいし事実もあるが、高貴の出で「良」であると証明したくて、自分らを放逐した「藤」の姓を勿体ぶって付けている。それゆえその姓を「本物」と思われてしまい、誤られている。「日本には正しい歴史なんかない」のだからと、「他国の如き歴史学博士の称号は不可」と、明治十八年の博士号設定の時リースに言われた如く、恰好よく美化されているだけで何も判っていない。

 「部落」とは、騎馬民族が日本列島へ渡来時に古代海人族を収容し、藤原時代には、「良」でない人口の九割の「賎」の民を閉じ込め、反仏派の北条期には「源氏」の〈四つ〉を始め、〈赤系〉でない者を追い込んだ。

 足利幕府になると今度は逆で、〈赤系〉の「祇」の〈八つ〉も、反体制「南朝」方と「橋のない川」へ入れられたのが実際のところで、喜田博士は日本部落史研究の第一人者とされているが、何も全然ご存じない。まだ曖昧模糊の「喜田史観」の間違いだらけよりも、明石書店刊行の高柳金芳 の、『江戸時代被差別分層の生活史』の方が正確である。そこから逆に遡って行けば、九対一ぐらいの割合だった「征服者」「被征服者」の悲劇…つまり、我々の先祖の虐げられて来た真相が、判り得ると言える。

 「良い事を言われると、人は悪い気がしない」という、人情の機微を巧く利用して何でも「美化」してしまい、敗戦民族「国津神」などとしてしまうからして、それを文字通りで読まされては、喜田先生でも訳が判らなくなる。仕方が無いというか…まぁ、当たり前みたいになっている。
 

 
 さて、拝火宗で「祇」と呼ばれる〈八つ〉は西南渡来系の日本原住民だし、〈四つ〉は騎馬民族で、東北沿海州から日本海を親潮で流されてきた北方民族であるが、治安維持のため徳川時代には、施政方針を〈四つ〉と〈八つ〉を交互に繰りこんで、互いに牽制し合わせて被差別

 〈トウナイ〉は十世紀流入の契丹系を指す。「契丹」は「唐」を滅ぼして取って代った国ゆえ、大陸系でも「御所」からは賎民視されていたのである。

 だが、太平洋側に黒潮で這い上がった〈八つ〉は八母音の原住民で、農耕漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされたが、〈四つ〉は沿海州北鮮系で遊牧民族ゆえ、「討伐」されて捕えられる飼戸(しこ)

 「石岡」の部落にしても「夷岡」と呼ばれ、〈ショウモン〉と蔑まれ差別されていたというが契丹系で、「天慶の乱」とされた時の者らの押し込み限定地。だが、〈エの民〉…つまり江戸の以北はみな部落ゆえ、一緒くたにされて被差別され、少しでも反抗すれば徹底的に懲らしめて、「お上」の言いなりになる奴隷人民に仕立ててしまった。だから、藤原王朝の鉄武器による権力はえらいものであった。

 「その筋のお達しにより喫煙は…」と今も映画館に出ている。「消防」とか「警察」といった危険を伴う仕事は、「千金の子は盗賊に死せず」とか、「良い人は兵にならぬ」といった「唐」の教え通り、「藤原氏」が日本へ来ても農耕をせぬ飼戸奴隷に施行。なお、足利時代に「散所奉行」が旧「南朝」の子孫を部落の散所民にしたのが知られていないから、私の『特殊部落発生史』に順に詳しく書いておいた。

 「千の宗易」こと俗に言う利休 の自決後、その木像を「八付」にかけた後その一味のササラ衆を部落に追い込んだのが茶せん部落で、華やかな「茶の湯」とは裏腹。また、昔は「ハングリースポーツ」興行だった角力(すもう)は、「おどま勧進」の勧進元で取り締まっては八百長で儲けていた

 「儲ける」といえば、一番新しい宗派では既存の旦那などいないからして、一向宗は部落に目を付けた。「悪人」でも念仏を唱えれば「善人」に生まれ変わる。「部落民」でも信心すれば「常人」に生まれてくるのだと、真言宗の本願寺説教僧が信徒にして廻ったので「寺人別」の数は増えた。だが、彼らの殆どはあくまで反仏であった。「僧」へ絶対に近寄らなかった原住民の全体は、この百倍以上が実際はいた。今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利鞘を取って売りつけていた名残りである。
 

 
 さて、大正八年秋に25銭(現在なら五百円)にて出された「第一号」は、最後の六頁が発禁となったと喜田先生は最後だけ削除し、奥付を大正九年一月一日にし、四倍に値上げ刊行し第六版から十二版まで世に送り出したのは、金集めのための作為なのかとも感じられる。なにしろ喜田貞吉博士はその大正八年には、「南北朝両統問題」リース 直系の三上三次 らに睨まれ、国定教科書編集官の職を追われ、やむなく自費で『民族と歴史』の〈第一号〉を出した時の事だから、どうも資金繰りで、発禁も値上げ操作のために「お上」に発禁にしてもらった裏取引とも考えられる。日本では〈歴史屋〉は真実追求よりも、どうも歴史を食いものにして儲けたがる傾向があるみたいゆえでである。
 

 
 「部落問題」は、関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ被差別されて、地域的だった。全国的に「解放」の美名で広められたのは、「神武陵」の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村『破戒』、それとこの『民族と歴史』が、全く何も知らぬ人々にまで部落について初めて知らされる結果となり、一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが住井すゑ『橋のない川』である。せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを、自分らもその出身者なのを本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し、本当の事は何も知らず子供などは苛める対象にまでしてのけた。

 「天は人の上に人をつくらず」と言われるが、日本では「人の下に人」をつくってきたのである。『天の古代史研究』さえ読めば全く事実はあべこべで、渡来した鉄剣部族がそれまでの先住縄文日本人を征服して奴隷にした、差別歴史が日本の「弥生時代」だとはよく判る。

 が、売れて広まってしまったこれらの本のため、大正14年12月13日の「世良田事件」となった。上州新田・世良田の庄「徳川」に残っていた23戸の部落へ近在の3800人が押し寄せ、村田銃を撃ちかけ火をつけて乱入し、片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し、「徳川」の部落は大騒動となった。というのは、世良田二郎三郎 の出生地で、「徳川」の地名をとった「徳川家康さまの由緒ある地」とされ、「縁切り寺」があり崇拝されていた土地。特殊部落とはいえ長吏岩佐満次郎 は、新田義貞 の後裔として「新田男爵」としてロンドンへ行っていた。

 だが、当時「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ、華族会長となった「徳川公爵」は、青山堂より「徳川家康は松平元康の改名せしものなり」という、故山岡荘八 が種本にした一冊(『松平記』)を桐箱入りで配布。そこで周辺近郊の者らが、世良田の「徳川」にはこれまで冥加米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地元の群馬警察でも「宮内庁」よりのお達しで、掠奪暴行を初めは見て見ぬふりをした。そこで「鬼石」や近在の部落から救援が5000人も集まってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追い払った。これがもとで「全国水平社」の結成となったのである。

 なにしろ、民友社の徳富蘇峯 のところで出版された『史疑 徳川家康』は「華族会」で買上げ、絶版とされていたが筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力を持って対抗していたからである。

 しかし当時の「学士会」は華族の下に入っていたし、各〈歴史屋〉はそれぞれ華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐 博士も月々のお手当を貰っているゆえ「野盗」ではなく「由緒正しき家柄」と、『蜂須賀小六』なる伝記本も出した。明治の〈贋系図作り〉は彼らで、みな金を貰って義理を立て、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、遡った奥付年月にした『松平記』を確定史料に資金を援助されていたゆえ、「東大史学会」は確定一級史料に認定してしまった。何しろ彼ら「明治史学会」の人々は、みな口を揃えて…
 

「明治史学」は、南朝方の顕彰にある

 
…と称したが、「長慶天皇」を明白にした事と楠木正成 の銅像を建てたくらいで、足利時代にできた散所奉行によって、足利創業の叛徒として特殊部落へ収容された「南朝」の末孫はそのままで解明できずだった。「脇屋」「湯浅」「新田」の地名が特殊部落にどこも多い。
 

 
 さて、明治までに刊行されたのは足利時代の『夷朗詠集』からはじまって『傀儡記』、遊行衆説教師たちの『鉢屋由来記』から『賎者考』『見た京物語』『京四条極楽院空也堂文書』『菅茶山備後史料』『塩尻百巻』、そして明治以降となると『日本奴隷史』に私の『野史辞典』『庶民日本史辞典』菊池山哉『賎とされし先住民族…日本部落史料』『長吏部落 – 日本の特殊部落』だけが主らしい。

 しかし国定教科書編集委員だった喜田貞吉 だけが学会では評価され、部落者の著としては、二十歳前後の若さで柳瀬勁介 が書き残したところの『特殊部落一千年史』や、『エタ及び非人 – 社会外の人』

 明治時代までは〈口伝え〉に残っていた「ユーカラ」の殆どを書かせ、その中で「皇道史観」に合致するものだけを己が名で発表し、アイヌ研究の権威となった金田一京助 に対し、「アイヌの遺産」を返すようその伜の金田一春彦 に何度も求めたのが、新泉社よりユーカラの残りを訳し「三部作」を出しているポン・フチである。

 はじめ、東大出の教授の肩書きの喜田を信用し、研究を発表してやると甘言でそそのかされ、三脚カメラを担ぎ日本全国の特殊部落研究をした菊池山哉 は、いくら「草稿」や「写真」を送っても自分の名は全く出してくれぬからと、「東京史談会」を作ったのである。
 

 
 さて、『日本部落史料』の中に掲出してあるが、昔の荒川三河島は川の中州の特殊部落地で、戦国時代の村山七党の流れを汲む武蔵党がいた(※)。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康 は彼らを新規にみな召し抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。『野史辞典』に「三河(出身の)の旗本は二名」とは、それゆえである。

 今は「一向一揆」とされているが、三河人は他所者世良田二郎三郎 こと家康を入れまいと国中で迎え討ち、駿河や三重、浜松や渥美らの家康軍と戦った時、この時裏切って味方したのは彼ら二人で「恩賞」の為である。他の三河人は商人になったから、「三河屋いなりに犬のくそ」とまで言われる。

 岡崎城も「御三家」どころか、僅か五万石の水野の城。渥美半島出の大久保彦左 が書いたものとは思えぬ『三河物語』や、〈贋系図作り〉沢田源内『後三河風土記』が広まったのも、「三河(島)旗本」が、生国「尾張三河」と系図をみな作らせるのが流行したのに合わされた。だから今も誤られている。
 

 
 さて、部落出身者は立身すると同じ出の者を忌み嫌う。「旗本」になった連中は後から採用された三十人扶持程度の「奉行所同心」や、「材木座火盗同心」の連中へ、「不浄役人め」とか「溝さらえ」とはっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や大製陶会社では、「興信所」を使い部落出身者の就職差別をし不採用にする。

 明治新政府が「徳川家」へ「汝その祖宗の地へ戻るべし」と、駿河七十万石へ移封したのは、家康が「徳川」の出だが、浜松の七変化部落に売られてきて育ったのを薩長では知っていたからである。そこで勝海舟 ら旧幕臣が、「人の一生は重き荷を背負いて…」といった『家康遺訓』を創っては各社寺へ奉納し、「家康神話」を創り上げ、徳川家達 を「公爵」にし華族会長にまでした。それを「尾張徳川家」で、旧幕臣松田の贋作と暴露

 尾張は宗春の時に…松平蔵人元康 と「権現さま」は別人で、両者が戦った古戦場が石ヶ瀬その他に現存する…と『章善院目録』の中に発表。宗春は素行不良とされ、閉門後殺され元康の血統は断絶。その後は徳川吉宗 の孫の「田安」や、「一橋」から交互に尾張藩主に入っていたのへの、怨みであろう。

 日本人の九割を占める庶民とは、江戸時代亨保期(徳川吉宗 の治世)に部落を脱出し、「寺人別」を銀や銭で購入した〈八つ〉の者や〈四つ〉の連中なのに、最後まで残ったのを部落者あつかいで人非人して「非人」と誤る。「破戒僧」とか「心中し損ない」を、「非人頭」へ生涯奴隷として着のみ着のままで払い下げ、ボロを着て引き廻しの罪人について廻る姿を、映画でも見ての連想らしい。

 彼らの人口が増加というが、明治四年の「壬申戸籍」に申告したのは本願寺派に帰依した者だけ。無申告の方が遥かに多くて百倍もいた。「明治革命」には「ヤジ」の〈八つ〉や「ウマ」の〈四つ〉を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して、口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ、次々と島原娘が身売りしていた。

 が、まだ思いの外に原住民が多いのが分かり狼狽。治安維持のため、男は「島流し」みたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦として「輸出」して「外貨」を稼がせ、「国益」とした政策である。国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と、居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。

 江戸時代は、「大蔵省」が国民皆税で片っ端から搾りとるような時代はかつてなかったから、「戸籍」は坊さんの私有財産を守る為の「寺人別帳」が主であり、「町人別」は銭さえ包めばすぐにも認めたから、紀州「湯浅」の居附地で、死なせてもよい奴隷水夫として、荒天の海へ出す蜜柑船に乗せられた文左衛門 らだけが沈没しなかったため、船底に繋がれていた者共は命拾い。漂着した相州の浜で蜜柑を売り江戸へ出ると、同じ山者ゆえ各地の材木を「後払い」で集めたのが大火で大儲け。銭を出し「町人別」や「寺人別」も購い、ついでに限定収容で残っている「湯浅」の者もみな呼び寄せたから、『東京都江東区史』には別所文左エ門 の名前ではっきり今も残っているのである。
 

 
 こうした複合民族の分類が全く判らずじまいで、七世紀の〈良〉〈賎〉の「大宝律令」のままで解明しようとするから、全く〈学校歴史〉は「本当の事を言えば身も蓋もない」こととなってしまう。彼ら「歴史家」は崇神王朝系騎馬民族の〈四つ〉と呼ばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の〈八つ〉との区別もできずに、十世紀に夥しく日本海を渡ってきた「唐」を滅ぼして取って代わった契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であろうと、「指が八本」との妄説まで立てる。江戸時代の戯作者でさえも「和藤内」とし、『国姓爺合戦』に「清」に滅ぼされた「明」の彼が、台湾を基地に本国へ挑戦の話を書いているのに喜田貞吉 らは気づかず…
 

特殊部落とは、社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜

 
…としてしまう。「三韓征伐」は全く逆で「馬韓」「弁韓」「辰韓」が日本列島を三分し、「コロニー」の時代。

 「特殊部落」は、西暦663年に世変わりした時に、仏教の「宣教師坊主」を真っ先に送り込み徹底的に「教化」しようとしたのに、あくまで抵抗した連中がまたしても収容されたのが、「ゲットー」の居附部落と知らぬらしい。続いて藤原王朝が、「中華の風俗」に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を「橋のない川」へ追いたて、貝を食わせ尽きると自滅させた。『日本後紀』『続日本紀』に記録されている。

 〈八つ〉は「マレーシア語」の黒潮渡来族ゆえ、農耕漁業製塩をなし食料増産奴隷とされ、東海地方三河の「額(ぬか)田の王」に率いられ、「中大兄」の韓国系に食料確保の政策上から子を産まされたり、「大海人皇子」には政略結婚で妃にされたが、終いには岡山の「ゲットー」へ収容。「奴可(ぬか)郡」の地名を今も残す。

 〈四つ〉は、崇神御孫「景行帝」が〈八つ〉の「八坂姫」に産ませた「日本武尊」の死からは、共に反体制視される。彼らは「韓国勢力」「大陸勢力」に追われて「山がつ」「餌取り」と差別とされ、特殊部落民とされてゆく。畏れ多くも「陽成帝」でさえ藤原基経 に追われ、山へ逃げて「木地師」とならせたまう。

 が、十一世紀は「青眼」の賊船が次々と来襲。山から原住民を〈人間狩り〉してきて出征させたが、戻ってから叛かぬよう片刃の刀を持たせた。「一」を唐語で「イ」と呼ぶから「刀伊(イ)の乱」。この時「頼光四天王」として坂田金時 らも現れるが、唐語の「ブシン(不信)」から出たのが「武士」ゆえ、「従五位」止りで昇殿は不許。

 ようやく「文治革命」で夷津(伊豆)の、夷頭(伊東)の北条政子 の世になると「京」を征伐し、「尊い方」を隠岐や土佐へ流罪にし「御所」への目付に「六波羅探題」を置くが、世変わりして足利期になると新しく散所奉行ができ、「北条氏」の残党と共に、足利創業時に邪魔した「南朝」方の子孫をも特殊部落にしたから「地名」にも残る。『天の古代史』『庶民日本史辞典』『野史辞典』の三冊をぜひとも順に読んで、「散所」を「産所」と誤らぬ為にも「真相」を把握して欲しい。

 また、「イザナギ」「イザナミ」の二神が「天の浮橋」で互いに見染められたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、〈エの民〉の多い処を「エ多」と呼ぶのも語源。

 また、騎馬民族の「蘇我」の末裔が「吾こそミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の「源氏」である。先住民族の「セン」を「千」に換えて「千軒」と、「ゲットー」だった地域の押し込め居附地を呼ぶのと、これまた同じである。

 俗に言うところの「非人」とは騎馬民族の末裔。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる〈八つ〉の民が働くのに、彼ら〈四つ〉の遊牧民族は違うからとの命令で、藤原体制に北方に追われ「キタ」ともいう。

 「ヤジウマ」と庶民を呼ぶのは〈八つ〉と〈四つ〉を併せた呼称だが、山野に昔から自生の「草木」や「土」や「石」を切り出したり、「人」や「獣」を扱うのが原住民系の限定職種。それを加工するのが〈良〉の舶来職だった。「除地」として「大名領」でも「天領」でも年貢なしだったのが、明治新政府が収穫物にのみに対してではなく、土地を私有化にし地租課税。よって河岸や山頂を当てがわれた部落は、「納税」のために貧窮化した。

 「八母音」を使う名古屋弁のような、太平洋岸から日本列島に這い上がって住み着いたのが〈八つ〉の民。今もイランの「ヤスド」に祀られている、天地水火を拝む祭壇があるゆえ「ヤー公」とか、「ヤジ」と呼ぶ。

 裏日本へ「ベーリング寒流」で入って来たのが騎馬民族で〈四つ〉と呼ぶゆえ、今いう「白系ロシア人」も入っていたので、新潟や秋田では白人の肌を今も伝える「色白な美人」を産出するのである。
 

 
 治安維持のため、江戸期になっても「夷をもって夷を制す」で、〈八つ〉と〈四つ〉は交互に互いに監視し牽制しあうように、〈四つ〉の弾左ヱ門 の下に〈八つ〉の車善七、その下に「四谷者」またその下が「谷津者」とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので「共に仲良くしあって、世直しを」と煽動された。その結果幕末からは、「ポルノ」でもない『東海道膝栗毛』の貸本に影響され、「キタ」の騎馬系の末孫の馬方が〈八つ〉の大井川の「赤褌」の川越人足のために、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と「白褌」を振りつつ、向こうでは酒手を弾むようにと旅人に「馬子唄」で勧めもしたものである。

 「伊勢神宮」を北条政子 と思い込んでいた大衆へ「お札降り」(ええじゃないか)の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの、裸一貫で馬方や川越人足をしていたのを一つに結びつけさせての大衆動員の策は、「討幕」の大動力となった。頭が良い人が昔もいたものであると感心させられる。

 己が家系の「ルーツ」調べに〈学校歴史〉では納得できず、あれこれ本を読まれる人が多い。人情として美化したがるのなら別だが、もし「真実」をと想うなら道標は「八切史観」だけだろう。
 
 
 
※ 村山七党の流れを汲む武蔵党 → 誤
  武蔵七党の流れを汲む村山党 → 正
 
 

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