古代史入門 1.2.1

〈歴史まがい〉に注意

 「昔のこと」をやっているのだから歴史だろうと、テレビを視る人もいる。昭和の敗戦までは、やはり「昔のこと」を講じるのだから「講談」は歴史だろうと、寄席でも「昔噺」をする講釈師と浪花節語りは「紋付羽織」姿で、「着流し」で出る落語のような「色物」を演ずる人々からは、「先生、先生」と呼ばれたものである。もちろん「講釈師、見てきたような嘘をつき」とは、江戸時代の「川柳」にもある。

 「何々に拠れば…」と、〈裏書き〉するみたいに援用・引用する例も多いが、平田門下で『日本書紀』をも書いた伴信友 にしても若狭人ゆえ、事更に「水上のオンボ(隠亡)」を隠して、「水上は、雨降りの阿夫利神」などと曲筆する。郷土愛と言ってしまえばそれまでだが、〈藤原系〉となると、「御所」全体をもって一致団結して同じように筆を揃えて書くのは、公卿「日記」がどれもみな「将門謀叛」と筆を揃えてデッチあげを、それぞれがみな「記録」しているような例でも良く判り得る。会社の「社史」みたいに藤原王朝の全てを「美化」してしまい、「例証」として引用した本などは「まんまと罠にはまった」みたいで、読むに堪えない本になってしまう。

 が、日本人の「御都合主義」というか長いものには捲かれろで、過去に文字で書かれたものは頭ごなしに、郭務悰 こと藤原鎌足 の法令の昔から、「お上」の「布令」と信用してしまうように今も教える側が仕向けてしまう。文字で残されているということ自体が、そうする必要があったからである。

 つまり、これでは「真実」など判りっこはありはしない。その時代その時代の「お上」の都合の好いようにしてしまい、過去は全て「美化」して葬り去り、訳が分から無くしてしまいたがるのだから仕方がない。また「庶民」も、過去の惨めさは知りたがろうとはせず、「嘘」とは薄々は内心では疑っていても、「美化」された過去の方が恰好が良いみたいだと、それを信用しているに過ぎない恨みがある。

 何しろ、江戸の享保二十年(1735)頃までは、「庶民」の先祖は「大名領」でも「天領」でも居付き部落に収容されていて、「逃散」すれば「斬罪」になる閉じ込め暮し。その昔寺へ寄進された子孫が、その寺を「ダンナ寺」と呼んで台帳に書き込まれ、「寺奴」にされ百姓をし「奴百姓」…つまり「ドン百姓」と呼ばれる。海浜で漁を為して「アー元」…つまり今で言う「網元」に人頭税として納めるのは、「ヤン衆」と見做されていた。
 

 
 喜田貞吉 「全集」がいま刊行されているが、『民族と歴史~特殊部落研究』も含まれているが、大正八年七月には「二十五銭」…現在の五百円で雑誌を出した途端に勤務先の大学を追われ、その雑誌も「発禁処分」となったのは前述。が、「特別部落」の研究を発表をした「反体制的」な存在と、今も見られている。

 しかし、翌年の大正九年一月一日に半年足らずで、最後の313頁から318頁の読者の投稿の「紀伊の特殊部落~土井為一」の、一文だけを削除しただけで「発禁解除」となり、今度は定価を四倍とし「壱円」としたから小冊子でも二千円の高値になって、雑誌だが「発禁本」というので六版から十八版まで「古紙型」で次々と刊行。喜田貞吉 の「日本学術普及会」で出したのだから、一冊千九百円の差益の「七掛け」でも数が多いので莫大な…今ならば数億円の儲けと、初めから作為が見えそうである。

 が、この一冊で反体制歴史家として令名が大いに広まり、菊池山哉『日本の特殊部落』の原稿を「文学博士」の彼を信用し次々と送ったが、大半を握り潰されて使えるものだけを自分の名で発表したから、堪りかね菊池は送稿を止め自分も「雑誌」をと、「多摩史談」を自費で次々と出し、まだ無名だった棟方志功 が毎号の表紙をその版画で飾った。『長吏と長吏部落』はその「合本」所産。

 大正年間で一度発禁になった「雑誌」は、「紙型」も没収され処分のもので、(喜田のように)末尾の数頁のみの一部削除だけで「紙型」もそのままで返されて、十余万冊も新しく再発行出来たというのは、内務省警保局傘下の「民族事業融和会」の前身である「同情融和会」や、官製の「大日本公道会」の「御用」を勤める事を条件にしての、内務省の特別考慮による特殊な計らいだったものであるらしいと考えられる。
 

広く日本民族といっても、数百十万(実際は大正初年でも約五百万人)にも達する特殊の一大部落あり(中略)明治四年エタ非人の称を廃されてから、半世紀もたつ今日なのに、まだ特に限定社会とされ、その必要なき者まで一括して救済改善をいうのは、まったく無用な事である。

 
…と、彼(喜田)は巻頭言で、「被差別」して何が悪いのかと極言までし、日本人でない他民族だと決めつけ…
 

彼らは貧困、汚らしくトラホームやカサ(瘡)っかきの患者多く、その品性下劣にして犯罪者が多いといった理由の他に、深い昔からの因縁が、その根底に存する為で犯罪人が多く検挙者が多い。

 
 つまり、犯罪を犯すのは彼らゆえ、全部が彼ら犯罪予備集団だから、「疑わしきは捕え罰せよ」との論を彼は言っているけれど、何も判っていない。幕末まで〈八つ〉の部落の「道」とか「堂」の者が、朱鞘と捕縄を亨保年間から渡されていた。「本可打ち」と呼ばれた二足草鞋の「親分」が、今で言う「地方警察署長」

 「警察庁」に当たる大目付の配下の「町奉行」では、非農耕漁業の〈四つ〉の飼戸の民を「千金の子は盗賊に死せず」の中国の格言で、「捕物課役」には部落に人数を割り当てて、「御用ッ、御用ッ」と捕方にした。〈四つ〉や〈八つ〉が「目明し」や「捕方」にされ、「その筋の者」と呼ばれていたからして、明治までは「おのれっ、不浄の縄目に掛かるかっ」と、バッタ、バッタと斬り倒しても、彼らは「寺人別」にも「町人別」にも入っていないから、「殺人罪」にはならなかった。

 ところが「岩倉訪欧団」が戻って来て、「警察国家」にすべく「警視庁」が出来、旧士族が「羅卒」となった。そこで以前の警察勢力であった彼ら〈四つ〉や〈八つ〉の者らを新しい「威信」を示す為に、片っ端からデッチあげで検挙し犯罪者にしたのである。
 

 
 彼(喜田)は解放のためと称し、己が雑誌への各史料の投稿を読者に呼び掛けその「所見」や「成果」を集め、それで他人の褌で相撲を取っているのだが、数十年前の明治初年の「警察権の異動」も知らぬ男が…
 

一学究の自分は平素より研究してきた日本民族成立上の知識から、何故に彼らが「被差別」されてきたか(中略)と彼らに自覚反省するの資料にさせよう(中略)と過去の特殊の部落の由来を明らかにして、その調査をすべく、諸氏の投稿を待つ。長く「世の落伍者」として悲境に沈んでいる条理を、これは内務省地方局に於て開催された「細民部落改善協議会」席上における講演なしたる筆記。

 
…と、自ら「官製歴史」の立場に立ち、〈四つ〉〈八つ〉は縄文原住日本人なのに「高千穂」に降臨されたとする唐(トウ)の「天孫民族」を純日本人化し、「被差別」の社会への落ちこぼれが「落伍者」と決めつける。つまり「天孫民族」と自称したのは、郭務悰 こと日本名…藤原鎌足 だったとはご存知無かったらしい。

 講演の速記だけを「自説」として雑誌の巻頭から掲げているが、「秩父事件」に次ぐ「富山の米騒動」部落民の蜂起となれば、治安維持上、何らかの名称を付けて区別排斥する必要もあるとして、「細民部落」「後進部落」「密集部落」と改名するべきかとも述べ、不潔不衛生とも極限して「差別」を説く。

 が、「特殊部落という名称には少しも悪い意味はない」と言い切っているが、私の『特殊部落発生史』でも読み比べればいくら「官制歴史」でも酷過ぎ、また、「大宝律令」の「良・賎」まで持って来るものの、藤(唐)体制の「大宝律令」での「良」は唐渡来の〈大陸系〉、日本原住民は前からゆえ「賎」の差別も知らぬ。

 しかし「官制」というか、不勉強のゆえ何も判らぬみたいに匿したがり、エタと非人の区別も出来ぬ。

 が、まさか大儲けするための「発禁処分」とは知らずに、「特殊部落研究」の〈反体制歴史屋〉のごとく一般い思い込まれて、大正九年からの信奉者も多く、大研究家のごとく信用している向きも多いからして、その講演部分を分析して彼の誤りを訂正しておかねばならぬと想うのである。が、予め言っておきたいのは、彼の趣旨はあくまでも…
 

「特殊部落」でも「新平民」でも良いではないか。真の部落開放とは、彼らが犯罪を犯さぬ「善良な民」となり、信頼すべき部落となって、被差別された「新平民」のままでも良いからして、「新進気鋭の人民なり」との心意気を持ち、実質を改良するよう心をみな入れ替え、内からのもので部落開放はなされるのである。

 
…という、きわめて「高尚」な国益に繋がる説で、この論説のため上海の「爆弾三勇士」に部落民はなるのである。つまり郭務悰 は「武力」をもって原住民を討伐し「王化」しようとしたが、「筆は剣よりも強し」のやり口なのである。
 

 
 さて、大正九年一月一日発行の喜田貞吉 主筆の『民族と歴史特殊部落研究』日本学術普及会発行の20頁より、漢字はみな「当て字」ゆえ判り易く直して引用して、この部分を見ると…
 

特殊部落は、大部分もとの「江田」(穢多)であります。もと「江田」と非人とはどちらが卑しかったかと申すと、徳川時代の「法令」の上では同一に「越多・非人」と並称しまして、もし区別するならば、むしろ非人の方が低いものになって居りました。
 
その制度は、江戸を中心にした「関東」と、京を中心とした「関西」とでは相違もありましたが、大体「非人」は共に天下の「公民」として認めて居りませぬ。さうでありましたから、幕府の「法律」は直接「越多・非人」には及びませぬ。彼等にはそれぞれ「頭」がありまして、「人頭税」をとってその「自治」に任して居りました。よって「越多・非人」の犯罪者でもそれぞれ此の「頭」に引渡して、彼等の仲間の刑法に任すといふ有様であったのであります。
 
 その「越多」と「非人」とどちらが多かったかと申すと、今日正確な数を知る事は出来ませぬが、少なくとも京都附近では、「非人」の方が非常に多かった。正徳五年(1715-今より二百四年前)の調べに、洛外の「非人」の数八千五百六人に対して、「越多」の数は僅に二千六十四人しかありません。その後「非人」といふ方はだんだん減じまして、明治四年「非人」開放の際には、全国で「越多」二十八万三百十一人、「非人」二万三千四百八十人、「皮作等雑種」七万九千九十五人とあります。この「皮作」はやはり「越多」の仲間です。
 
つまり「維新前」に於て既に多数の「非人」が消えてしまった、つまり「良民」に混じてしまった証拠であります。「維新後」に於て既に多数の「非人」といふ方は解放され、もはや世の人は彼らを「特殊部落民」であるとは、考へなくなつて居るのが多いのであります。
 
京都附近でこれまで「小屋者」と言はれて居た悲田院の部落のものの中で、今でも「特殊部落」として認められて居るものは、僅に柳原の一部に住んで居るもののみで、一般民からはなほ多少の区別をするのがあつても、今は公署の統計上にも区別は認めて居らんのであります。
 
これらのもと「非人」と言はれたものの中で、最も種類の多いのは雑多の遊芸者でありますが、その中でも「散楽」(さるがく)即ち「能役者」のごときは、「室町時代」から解放せられて、立派な身分となって居るのであります。もっともこの仲間にも、手猿楽(てさるがく)・辻能(つじのう)などと称して、後までも「非人」扱いになつたのもありますが、近ごろ著しいのは「俳優」即ち歌舞伎役者であります。彼らは、もとは「非人」の一つに数えられて、河原者・河原乞食などといふ名称があつたのみならず、名優であっても、もと「非人」部落と言はれて居た中から出た者も多いのでありますが、今日では芸術家といふことになりまして、貴頭紳士とも交際し、だれも特に賎しいものだとは認めなくなりました。
 
かうなつてまいりますると、もとからの「非人」でない、立派な身分の人々までも、進んで仲間に入つて参ります。某文学博士の令息とか、某代議士の令嬢とかいふ方まで、「俳優」となつて少しも恥かしいとは思いません。もとは河原乞食と言われて居ても、今は「俳優」として立派に大道を濶歩して行けるやうになつて居ります。
 
近ごろ世にもて囃される少女歌劇も、昔であれば「乞胸」(ごうむね)と云つて、その「頭」の仁太夫の支配を受けなければならなかったのでありませうが、今日では、よい身分の娘さんの寄り合いで、監督も厳重だし、教育の手当もよく行き届き、内容実質共まったく賎しいものでありません。これは…「役者」という者が事実上、「非人」階級から解放された結果であります。今日に於てだれも、「役者」を以て「特殊部落」の仲間だなどと考へる者はありませぬ。
 
しかし地方に依りますと、彼等がまだ「非人」時代からの、もとの部落に住んで居るが為で、附近のものからは、「特殊民」の待遇を受けて居る例がないでもありません。播磨・但馬などにも、この例があるさうであります。

 
 屋根付きで興行するのが「弾家」の〈四つ〉の支配。「乞胸」と呼ばれる青天興行〈八つ〉の方で、「東」は車善七、「西」は山崎仁太夫 の取締を受けていたのを、喜田博士は誤っている。また、「越多」と「非人」との区別もてんで判っていないのは、大正初年ゆえ仕方がないとしても引用を続ければ…
 

皮作りはもと「賎民」の仲間ではありません。彼等は「雑戸」と申して、「賎民」よりは資格のよいものでありました。「賎民」といふのは此の以外にあります。

 
…とも「喜田貞吉説」では説明される。その雑誌の26頁にはっきりと言い切っているが、誤りである。江戸時代の五街道地図にも「かわた」の地名は多い。「四つ足」の獣の皮を剥ぐゆえに〈四つ〉と彼らは呼ばれる、〈騎馬民族系〉。かつて裏日本から入って来た部族で「蘇我氏」となり、「白」を民族カラーとして後の「源氏」となる。

 「雑戸」とは「雑色」の名で呼ばれる、騎馬系や古代海人族より先に日本列島に住みついていた種族であって、「朽葉色」を民族カラーとしていたが、「大宝律令」ではいずれも「先住日本原住民」として「賎」。それなのに、「賎民」とは「皮作り」や「雑戸」では無いと言うのは、「暴論」というか事実誤認でしかない。訳が判ら無くするのが目的なのか、「賎民」の解明はせずに「奴婢」と呼ぶが、やはり「賎」のことである。
 

「官戸・家人」は「奴婢」よりも資格がよく、同じ「奴婢」でも「官の奴婢」は「私の奴婢」よりも資格がよい。それで「官戸」や「家人」と「公私奴婢」との間にも、結婚は出来ぬといふことになつて居ります。これらの「家人」「奴婢」は一国の元首たる御方の御眼から御覧になれば、「陪臣」とも云うべきもので、「公民」の資格は認められません。中でも「私奴」の如きは、すべて主人の財産で売買譲渡も出来る、殆ど人間としての権利は認められて居なかったのであります。
 
この外には「陵戸」というのであります。即ち墓守で、後世で云へば「穏坊」の類です。この「陵戸」は屍体に触はり、葬儀に係るものでありますから、次に申す「雑戸」の中に属すべきものではありながら、特に賎しいものとして、「五種の賎民」の中に置かれる事になつて居ります。即ち「陵戸」らは職業が賎しかつたからして、「賎民」として蔑められたのでありますが、「家人」「奴婢」に至つては、まったく社会上に於ける境遇上の問題でありまして、人その物が特別に卑しいとか、汚いとかいふ訳ではありません。
 
当初「賎民」ができた時には、「良」は「被征服民」とか、「被掠奪者」とかいう者であつたでありませうが、それも「民族」の別からではない。後には貧乏して金が返せぬとか、父兄に売られたとか誘拐されたとかの原因で「奴婢」になるのもあれば、みずから好んで「家人」になるのもあります。

 
…とまで出鱈目喜田貞吉 は述べています。「陵戸」が「穏坊」と同じというのは酷い。

 「陵戸」は騎馬民族で、非農耕・非漁業・非製塩の「遊牧の民」で、大江匡房『くぐつ記』にあるような有様だったのは、初めは捕えられて「副葬品」として生きながら埋められていたのが、「飼戸」の民として奈良王朝の頃から馬飼いをさせられ、食糧作りをせぬから「シコの御楯」として「防人」として出征させられ、普段は「陵の番人」として森林の中に住まっていたから、「森戸」「守戸」と言うのがこれで、「血税」を払う「賎民」として、江戸期は奉行所の「捕方」の〈四つ〉である。

 「穏坊」は「隠坊」とも書くが、彼らは「四方拝」の中でも火を崇ぶゆえ、その火で屍体も葬ったので「髪剃り法師」とも言われ、「素焼きの土器」もその火で焼くところの〈八つ〉の民で、全然相違するのである。

 つまり、江戸末期の「ヤジさんとキタさん」を一緒くたにしている〈歴史まがい〉であるから、これで「古代史」を勉強しようとしても、根本的にどだい無理な話と言わざるを得ないとしか書けぬ。何しろ「官戸」「奴隷」や「家人」とかの家の子郎党、「蘇我氏」の頃の「氏人・氏族」とは、その部落に捕えられて「臣属」した連中で、「奴隷市場」で購入の「奴婢」とは違うが、「官戸」や「家人」は働き者を増やすため結婚は許されたが、捕虜とされた「奴婢」は、男は生涯酷使されるだけで、生涯に亘って独身。女は買主の慰安用で、双方の結婚などは無く、男女共に結ばれたいとの「悲願」「信仰」が、今も残る「コケシ」なのである。
 
 

目 次