古代史入門 1.2.6

エタは「四」でも「八」でもなく「エ」の民

 「古代史」はもちろん「近代史」を調べてゆく上にも、「良」「賎」からどうしても入ってゆかねばならない。東北へ追い払った日本原住民の団結一帯進攻が、富士王朝復活のために静岡の田子浦まで追って来たので、「桓武帝」即位から〈百済系〉だけは「賎」から「良」に変ったが、後は戦国期で「下克上」と称された時代。ブシン(不信)の飼戸の者の生き残りが、武力によって武士や武将になったからである。

 「維新もの」と「戦国もの」が一般受けするのも、救いのない底辺の庶民の「賎」の者が、どうにか「陽のあたる場所」へ浮き上れる機会の夢が、そこにはあるからであろう。何しろ、江戸の貞亨年間に「居付き部落」から大多数が都市に脱出して、銭で「町人別」「寺人別」に入るまでは人口の八割以上は限定収容されていて、逃げ出せば「逃散」の咎めで殺される「奴隷」だったからである。

 つまり、部落から出ることも叶わずで、死なぬ程度に酷く搾取されてきた「名残り」が、今になっても、「他所者(よそもの)」として新入りを排斥する風習を残している。

 東京近辺にもマンションが建ち並び、新居住者が入って来ると「毛嫌い」して反感を持つのは、「来り人」意識からなのである。「見かけ銀」というのを新しく入って来た者は納めねば、そこの土地では住めなかった。それでも外来の新しく住みついた者は、前からの者たちに「その筋の者」と被差別された。

 江戸末期になると、怠けていないかどうかと「見廻り」だけでは判らぬから、「その筋の者」を紛れ込ませて目を光らせていた。つまり警戒され、用心していたのだが『民族と歴史』では誤って…
 

 空き地に住まわせて貰い火の番や泥棒番とか人の嫌がる仕事をうけもたされ、「あるき筋」とか「番太すじ」、「掃除すじ」と言われ、「来たりびと」、として差別されている。
 

 
…と、さも後から来たのが「エタ」みたいな書き方をしているが、村落の方が昔からそうだったのを知らぬせいらしい。また、「遠州地方の足洗い」として同書には…
 

 「エタ」は「非人」の上にたって、これを支配監督するが、「非人」は足を洗って常人になれるが「エタ」は皮や肉を扱うからして駄目であるとして、例として、「打上げ」と称して、足洗いの出来る道が設けられて居つた。

 「全国民事慣例類集」に遠江国敷知郡地方では、三代皮剥ぎの業をなさざれば、平民となるの例あり。「穢多」は所持地多分ありて、貢租を納め、中には富豪の家あり。平民へ金銭を貸附る者もあるなり。

 
…と見えている。幕府の「制」では弾左衛門の主張のままに、「絶対に足洗ひを許さぬ方針を定め」と出ているのに、〈四つ〉と〈八つ〉とを混同している。弾左衛門は〈四つ〉の長吏で「人頭税」を取っていたから、足を洗って抜けられては収入が減る。だから差別されても良いから、自分らの資金源を減らさぬようにした。

 が、根本的な「官制歴史」の誤りは〈四つ〉と〈八つ〉の区別を知らぬのか、知っていながら知らないそぶりか、故意にごちゃ混ぜにしていることである。〈八つ〉の古代海人族は、「農耕」「漁業」「製塩」から「川守り」と呼ぶ渡し船と、仕事が山ほども押し付けられている。決して獣を捕え皮など剥がぬ。ところが遊牧民族の〈四つ〉は何もしない。明治になっても、浅草新地より小菅から奥州まで弾左衛門地一帯には、ただ草のみ茂っていて何も生えていなかったのは有名で、色んな本に出ている。

 つまり「製革業」は弾左衛門支配の〈四つ〉だけの限定職で、〈八つ〉は野兎すら捕ってもいかぬ事になっていた。「公儀」においては藤原王朝の採っていた「夷を以って夷を制する」方式を、前述の如く〈四つ〉の弾左衛門の下には〈八つ〉の車善七、その下に「四谷者」や吉原四郎兵衛手下、その支配下に「谷津」の〈八つ〉者の各部落といった「組み合せ」にして、相互に憎しみ合せて一つにならぬようにした

 「官製歴史」の困ることは、〈四つ〉の弾左衛門からは集めた「人頭税」の内より「冥加金」を、「台所入り」として年に五万両ずつ献金させ、「年賀」と「八朔」には十万石の格式で千代田城へ「伺候」をしていたのを匿す。だから「人頭税」が減少せぬよう、〈四つ〉の部落よりの「抜け人」は厳しく取締りをし、「洗足」を認めなかった理由はそこにある。

 明治になって矢野内記 と改名の弾左衛門は、大江卓造 と「民政省」の御用係と高等官員となり、六人の手代はそれぞれ新設の東京府庁の助役になったのは『サンカ生活体験記』にある。

 表面では差別しているようでも「関東のカネ」を全て握っていて、「蔵前の札差し」も弾家の資金だったのは三田村鳶魚「江戸考証随筆」にも書かれている。つまり、大公儀に献金しているゆえ「便宜」を図られ、心中の仕損いの生き残りや破戒僧として「人別」から削られた連中の、「払い下げ」で儲けていた。「非人」…つまり「人非人」というのはこの手合で、海藻みたいなボロを着て裸馬に乗せられた死刑囚に付き添っていた連中だが、身寄りの者が「首代」として「黄金五枚」を何とかして作って持って行けば、「地獄の沙汰も金次第」で許され「非人」の境遇から足を洗って「常人」に戻れた

 「穢多・非人」と一律に言うが、〈八つ〉の「穢多」だけを目の敵にしているのは、〈四つ〉の弾左衛門体制側ゆえ〈四つ〉は表面に出ず、「穢多・非人」と二大区別に「官製歴史」が誤魔化しているのはこの訳である。東京にも浅草に「洗足」の当て字の千束町や、鈴ヶ森に近い大森には洗足そのままの地名が残っているのは、「人頭税」をボチボチ取るより大きくカネを取れるので、「非人」を次々と戻したからである。
 

 
 明治四年の「壬申戸籍」で、非人の親類が身受けに来ず残った非人が穢多の一割近くもいたと発表されるのは、さも彼らが「四つ」みたいに取り繕うためのものだったろう。実際は百倍はいた。「四民平等」とは公家・武士・穢多・非人の四民でなくして、元の「源」、ペルシャの「平」、唐の「藤」、契丹の「橘」の四つの民族のことだが、その最底に位置して明治になっても被差別されているのを、「帝国公道会」とよぶ前の民部省で、当時の内務省の外廓団体とし設立した経緯を、大江卓造は…
 

 徳川氏が穢多に対する取扱いのことだけは『落穂集』であるとか、『地方大成録』であるとか、其他の書類によってぼんやりと分かつたのである。これは御誓文の「陋習を破り天地の公道に基くべし」と云う御趣旨に従つて、改革せんければならぬ。それには、とても神戸でこんなことを言つて居つたのではいかぬからと思うて、私は東京へ出て第一に大隈重信の所に行つて話をしたのである。
 
 すると大隈もそれは至極よい思付きである、つい忘却し、その侭にして居つたのである。しかし、これは民部省の取扱うものであるから、お前も行つて話をして呉れと云うことで訪ねた。所が大隈からも聴いたが実に今の侭に差置かれぬことである。良い気付けをして呉れた。平民籍に編入すると云うことにしなければならぬが、その方法について、なにか考えがあるかときかれた。

 
…と回顧録として『民族と歴史』の第二巻第一巻に収載されている。当時、江戸城西の丸で新政府は…「帝国公道会」を設けて、「徳川時代は「四つ」だけを懐柔し、味方につけただけだつたが、新政府は「八つ」も手馴けるようにと試み成功をした…と自画自賛。
 

 神武天皇御陵のある処は洞(ホーラ)と云う。御維新までは、その部落が御陵の番をしていた。御維新後は宮内省の出張所が出来て、昨年その土地を宮内省へ献上して皆他に引越したのである。

 洞部落は如何なる人民かと云えば、神武天皇の大和征服の場合に、彼の長随彦に一味して神武天皇の官軍に抵抗した所の居勢祝(こせのはふり)・猪祝(ゐのはふり)の子孫であらう。祝(はふり)は『古事記』にも『日本書紀』にも出て居るけれども、前にも其後にも多く出て居らぬが、「ハフリ」と云うのは人種の名ではあるまいかと云うが、「ハフリ」と云う言葉は「ホーラ」と同系で、又「ホフル」と云う言葉とも同じ、物を投げることの「ホール」とも同じ。「葬ル」と云うことも同じ言葉。

 さうしてこれがもし、人種であると云うことであれば、旧約聖書にある「ヘブライ」人と同じことではないか。「ハ」が「へ」になり、「へ」が「ハ」となると云うことは、ハヒフヘホの行で何時もよくある変化である。「ライ」「リ」になる。「ブ」の濁音が「フ」の清音になると云うことも往々にあることである。文字のない時には言葉がさう云うように訛つて変ることが少くない。いわんや日本では濁音と清音は唯だ点の有無によって見得るので、相混ずること頗る多いのであるから、「ハブリ」が「ハフリ」になつたのであらうと思う。「ヘブライ」と同じことであつたならば、どうして「ヘブライ」人が我国に来たかとなる。

 「ヘブライ」人は御承知の通り印度の「セヌ」人種の一派である。一時はなかなか盛んな人種であったが、昔からどうも一ヵ所に永住するという事の出来なかった人種で、本国を逃げて阿弗利加に往き、又阿弗利加を逃れて本国に帰り、「シリア」人から追い出されて処々方々に散在した、その散乱した一族は行く所を知らずという日本に来たのであらう。

 年代を追うて見れば、神武天皇の日本を統御遊ばすより余程前の数百年前のこと。海流の関係或は風の関係で、熊野辺に漂着して大和に蕃殖をした第一の移住民。天孫人種が第二の移住者である。その第二の移住者が勢力が強かつたから、やがて第一の移住者を征服して仕舞つたものらしい。

 
…と木村鷹太郎著作集のようなことをのべている。つまり大江はいとも簡単に第二移住者を「良」となし先住民を「賎」にする。

 が、印度のセヌ系のヘブライではなく、アラブ方面からマレーシア経由の黒潮で流入。熊野浦に集団上陸したのは後世の新平氏の忠盛らで、(古平氏の者らもアラブ語のアの水の意味をもつ各地)へ這い上つた。「安房」、「淡路」、「明石」、「阿波」、「安濃」といった太平岸の各地に漂着。西南よりの先住民でエケセテネの記号を苗字とし(江藤、千田、手塚などの意味)、後にはつけられた先住民と共存共栄し、彼らに魚とりや焼畑、水田から製塩を教えて使った。

 つまり、この第一の移住者よりも先にいた「エの民」こそ、本当の「エタ」なのである。「根津権現」を江戸でも特に「エタ」の宮とよんでいたのも、彼らこそ「エタ」第一号だからである。

 第二の移住者は太平洋岸へ黒潮で入ってきた古平氏の「八」だが、第三は日本海の能登半島や昔は白山島とよばれた新潟に沿海州からベーリング寒流の親潮で入ってきた騎馬民族の「四つ」。その後から入ってきて鉄武器でみな征圧した第四が、天孫民族と称するのが正しい処である。
 

 
 大挙して騎馬系が入ってきたのが「越前」「越中」「越後」だから、「越多」と本物の「エケセ」と混同され、「餌取り」から転化したものとされる。騎馬系は皮をなめすし鷹の餌とりもし辻つまが合う。

 ところが「四つ」の彼らの弾左ヱ門が、財政不如意になった公儀の台所入りに、人頭税の一部を年々納入し大名なみの格式をうけるようになると、彼らに無償で払い下げられた「非人」をもって総称とし、「エタ」の蔑称はゲットーに入れられ奴隷課役を、ずっとさせられている「八つ」に冠せられた。だから「エタ」と「非人」の差別が判らなくなり、ごっちゃにされてしまい故三浦周行博士でも…
 

 エタ・非人と江戸時代の賎民は一緒にエタ・非人の称で呼ばれた。「エタ」は皮革類から竹皮草履・裏付細工・燈心細工・破魔箭・茶筅等の簡単な手工芸を製造販売し、「非人」は各種の演芸により、又は吉凶の事のあった家に行きて施興を請う「物貰い渡世」の徒であった。「エタ」に類するものに 「長吏」「夙」、「非人」に類するものに「乞胸(ごうむね)」「猿飼(さるかひ)」などがある。地方によって名称を異にするものがあるが、大体に於てエタ・非人の外を出ない。

 
…とまず述べてから…
 

 エタは古くから皮革を扱つたが南北朝頃には井戸掘を家業としたものも見える。彼等は都鄙ともその一隅に、城下町では外に、部落をして「良民」と隔離されて居た。非人は室町時代にも乞食とされていた。

 
…と、これも、やはり間違えている。屍馬の革はぎは「四つ」の限定職である。
 
 弾左衛門とは江戸に於ける賎民自治体で浅草新地の統轄の下にみなあった。弾左衛門は徳川家康江戸入府の後、「長吏」以下の支配を命ぜられた。当時小田原の長吏太郎左衛門が北条氏直の証文により、又元禄五年に上野下仁田村の馬左衛門が、武田信玄の証文を提出し、弾左衛門から独立したいと訴えたが却下になって、幕府はその証文を弾左衛門に下附したとの事である。
 
 弾左衛門は浅草に一区割をなし新地とよび部下と共に住んでいた。これを「囲内(かこひうち)」と云い、他の地方の管轄下のものを合せて「差配場」と云った。その部下は「手下(てか)」と云い、「手代」「書役」「役人」がある。寛政十二年八月の届出によると、囲内なる手下が、すべて二百三十戸、其の中手代及び書役が七戸、役人が六十戸で、其の余の百六十五戸が「平の者」であった。

 そのほか弾左衛門差配場たる関八州及び甲斐・伊豆・陸奥・駿河の十二箇国内長吏の総戸数が、五千四百三十二戸あったという。「長吏」はもと地方の「エタ頭」で、その下に「小頭」あり、小は1ヶ村、多きは二十余ヶ村をも支配し、「行事役」をして実務に当たらしめ、「組下」の人別なども、これを弾左衛門に届出る制度であった。

 かかる制度が、みな江戸を中心とする地方に限られて居るのを見ても、その管轄区域が、幕府創立以来次々定められたものだとの事が知られる。弾左衛門の事を、公儀では浅草弾左衛門と云ったが、諸大名・寺院・町家では、矢野弾左衛門と云い、その部下をも「矢の者」と云つた」つまり今いうヤーさま。ヤア公である。
 

 
 浅草新地の弾左衛門は、「非人」をも支配した。「非人」は各地に隔離させられて「部落」を作ったが、江戸では「浅草・品川」等の四ヶ所に居た。「非人頭」が統率し、下に「小屋頭」がある。「非人頭」中の最有力者は、浅草の車善七と品川の松右衛門である。「非人頭」は弾左衛門に属し、手下の出入は弾左衛門に一々届ける。亨保七年(1722)に、善七弾左衛門の支配から脱けようとして果たせなかったらしい。駿河の「非人」の犯罪者を弾左衛門に引渡さなかったので、大いに揉めた例がある。
 

 地方での管轄は弾左衛門に属しない地方にあっては「エタ」は、所在の「長吏」「頭」「年寄」等の支配を受けた。「非人」も同様で、京都では「非人頭」の水上のオンボ「悲田院年寄」と云い、「山城・丹波・近江」やその外、「美濃・遠江・駿河・甲斐・丹後・因幡・美作・河内・摂津」を支配した。

 その中で、摂津は大阪長吏と「共同管轄」であつた。これを「手下」とも「支配下」ともいう。ここにも「小屋頭」があって、毎年一回年寄方に出頭せしめた。

 「国制記」によると、京都の「エタ」は「三条余部村・六条中島村・田中川崎村・東山龍口村・蓮台村・北小路村」の六箇村で、部落民は千七百二十一人、「悲田院年寄」に属せる「非人」の人口や八千三百十四人あつたという。

 
…となしてから…
 

 「エタ・非人」と「良民」が混同せぬよう、「非人」には物品の施与の強請を禁じた外、家業に就いては放任した幕府も、社会階級の維持上、武士は勿論、町人・百姓と彼らの混同を厳重に取締まつた。
 

 

 「非人」は斬髪し、元結を掛け結髪する事ができなかった。後にこの制度がややゆるんだので、亨保八年十一月、将軍吉宗は「先手頭」山川安左衛門忠義の建議によって、「非人頭」及び「組頭」の外は髷を切り、これを束ねる事を禁じた。「頭巾」其の他の「冠り物」も許さなかった。

 これは、彼等が囚徒を預るなどの「公務」に当るので年と共に豪奢に流れ、美服を着けて「良民」と区別しがたくなったからという。「先手組」から建議したのも、主として罪人検挙目標を必要とした為と解せられる

 

 「非人」の住宅を「小屋」という。天井のない小屋掛のことだ。よって彼等を「小屋者」という。文化二年十月、善七の手下の「非人小屋頭」三助事三右衛門が居小屋に天井を張り、障子・襖を建て、絹紬を着し「平人」と音信を通じ、料理茶屋で交際したというので、江戸町奉行は、「非人」の掟に叛したものと認めて検挙した事がある。

 又、文政十二年八月、永田興左衛門の「仕置」伺(しおきうかがひ)に、「非人」がその身分を秘して武家の「中間」となり、更に「侍」となつて勤め中に、同僚の衣類を盗んで逃亡し売払つて消費したので、「入墨の上で叩き」に相当する刑に処する事を命じて、弾左衛門に引渡し「非人」にすべきことを載せて居る。

 大名の領分に於ては、合戦の際には、彼らを軍役其の他には使用してもよいが、平時は「良民」と同一に使用することは、絶対に禁ぜられた。

 
…とは言うが、江戸の金は弾左衛門支配で、みな、蔵前の「札差」も入用の時には金を借り交際があったのは、三田村鳶魚の考証にも(前述したが)出ている。
 

 処罰としては、「非人」の犯人は遠島処分以下は弾左衛門に引渡して相当の刑に処せしめ、地方は所在の「頭」に委かす事になつて居る。しかし事実は「穢多・非人」共に死罪・遠島は幕府が処刑し、その遠島以下は刑の軽重を示して相当の処刑を命ずる事となつて居た。「仕置」なるものの内容はまだ詳らかにせぬが、その中には「非人」を普通刑法の入墨刑に処した事もあつた。

 しかし自然に幕府の刑法と違つたものもあつたらしく、重叩き刑に相当すべく処刑を命じた囚人を、弾左衛門は叩きは五十日、重叩きは百日の「牢者」にして居つたので、亨和元年七月江戸町奉行から共に命令通りに執行せしめる事となつた。

 しかしこれでは、「公儀お仕置」によつて言渡しをなすと同じく、「非人」の処刑を弾左衛門に委任した精神にもとり、叩き以外に「公儀お仕置」との間に相違も多かろうから、叩きのみ幕府の法によらしめるのは不可とのべたものもあつた。

 現に普通刑法の「追放刑」の如きも、「江戸払い」は江戸から二、三里を離れて地方の「非人」の手下とし、「江戸十里四方追放」は、八、九里乃至十二、三里、「中追放」は十八、九里から二十四、五里に、「重追放」は凡そ二十五、六里から三、四十里離れた地方の「非人」手下とする事になつて居た。

 
…と述べ…
 

 「良民」が「非人」となり、「非人」が「良民」となり得る場合もある。「良民」は本人の希望により「非人」になれる。この場合「非人頭」に於て、本人及び親族の意志を確かめた上で「非人」の掟を示して手下とし、「小屋頭」を定め、その「人別」に編入して弾左衛門は更にこれを江戸町奉行に届ける。

 また不倫な情交、不義の情死未遂、主人と下女の情死未遂の際の主人、離婚した妻に負傷させたもの、取引き無き尽での空札売りは、弾左衛門立合の上で「非人頭」に引渡してその手下とする。十五歳未満の「無宿」の盗人は、「遠国非人手下」とする為に、地方に遣はすべき旨を弾左衛門に命じて引渡す。

 

 「無宿」の男女で「非人」であつたものを、後日その親族から「素人」に引き立てんことを「小屋頭」に申し出ずる場合には、「非人頭」から弾左衛門に届け出て、「引立人」から抱え主たる「小屋頭」に「証文」を入れさせて許す。

 十年以上「非人小屋」に居たものは、「原則」として復帰を許さぬのが「掟」の次第だが、申請の切な場合に限っては特に許した。しかし「非人」であつた間に「非人」の女を娶つて、子を生んだ場合には、その「妻子」は夫と共に「良民」となる事は出来なかった

 
…と、「小判」で「抜け人」を認めたことを言い…
 

 「非人」に対しても、「非人頭」から「ご政道廻り」を出して、毎日市中を巡邏せしめ、放浪の無宿者は「野非人」と取り締らしめ見付次第に適宜に処置させた。これをば「刈込」とか「片付」とか云つた。幕府の無宿取締りの方針から出たものだが、一つは「非人」の「持場」を荒されない為である。

 彼等の「野非人」等がもし「非人」の手下たらんと望む場合は、一定の手続をへて許す。京都では、「無宿」の「非人」は「悲田院年寄」に引渡さずして、京都町奉行で処分した。

 それでも他から「地方非人」の「持場」、即ち「勧進場所」に来たつて「施与」を乞おうとするものは、必ず所在の「非人小屋」に「渡り」を付ける必要がある。「諸勧進無用」の縄につけた「札」は、つまり村の入口に土地の「非人」等が、他からの「非人」侵入を防がんが為に掲示したものだからである。

 

 「乞胸」なる者は「乞胸頭」磯右衛門に属し、身分はもと「町人」でも、社寺の境内や空地で演芸見せ物を業とし、その営業が「非人」に同じなので、慶長年中「非人頭」からその停止を迫られ、遂に営業のみは「非人頭」善七の支配を受ける事となった。

 それから新たに加入する者は善七に届出で、ショバ代を払い、善七は日々「手代」を出して社寺の境内や市中を巡視せしめ、「鑑札」を持たぬものは営業用の物品を没収し、「詫証文」を出さなければ追払って叩きだし、その荷物は返付しなかつた。

 
 テレビなどでは、「物売り」しているのを「何々一家」と、絆天を着たのが取締まっているのがつまり「それ」だし、「非人」に対して「神皇」(今では神農)と称して指図していた。「御政道廻り」といった市中見張りをさせたのは、「朱引」内の「御府内」は定廻り同心六名きりで手が廻らず、彼らに同心作付の「鑑札」を与え、彼らの「持場」の新吉原と類似行為をする岡場所を見つけて、女たちを捕えて来て「吉原会所」に出し、「やっこ女郎」にして四郎兵衛溜の「礼金」を貰っていた。

 日本では「奴隷」と言わず「やっこ」と言い、「やっこさんは辛いね、雨がふるのに蓑つけず」と唄にもされて、踊りにされている。「奴隷」とはっきりさせたのは阿部弘蔵『奴隷史事典』からで、それゆえ「喜田説」は全人口の5%しか「ヤツコ」はいなかったなど、まるで逆に間違えている。「良」と「賎」の二大分類するのが「大宝律令」からの「日本史」ゆえ、「良」が95%で「賎」が5%ではおかしい

 何しろ「良」は、西暦663年に初めに二千から四千に増え、軍夫・軍属八千の最低一万二千から二万とはっきりしている。だから、その5%では僅か六百名にしかならぬ。七世紀で千名足らずしかいない人種といえば、今でも「有名人」は多い割りに人口は極めて僅かな、「エ・ケ・セ・テ・ネ」の発音が「姓」の上に付く、第一次に日本列島へ漂着して来て移住の西南よりの、最も日本列島では古い民族を指しているのか知れない。いわゆる「雑戸」とか「雑色」と呼ばれる、頑なな人々である。
 
 

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