古代史入門 1.2.7

各地別の良賎制度

 岡山は今も「高梁川」の名も残る、昔の中ツ国。現在でも中国地方と呼ばれ「隋の国」の当時から大陸人が住み着き、「白村江」で大勝した郭将軍が進駐してきた時は、「ズイズイズッコロバシ、ヌカミソズイ」と。郭が「唐」を「藤」と名乗った時には「同音」だが「桃」(トウ)と名乗らせ「桃太郎」の、原住民の「隠忍」征伐の寓話も生れる。何しろ藤王朝の「基地」ゆえ、討伐され連行され「囲い地」に入れられた原住民は多い。
 

 「隠亡」と彼らを云う。一般に『オンボウ』と呼ばれ、みな「煙坊・穏坊・温坊・汚坊」などの文字を用うるが、みな当て字にて定説無し。この「部落民」は一般に「茶筅」を作って、盆暮に各家に配付するが為に『チャセン』の名あり。御津郡大野村正野田にては、『セッキャウ』また『ササラ』と云い、児島郡荘村大字木目にては『オホセ』(帆乾)と云い、吉備郡足守町深茂にては『アゼチ』と云い、小田郡吉田村にては『キセイ』と云う。共に其意を詳かにせず。『オンボウ』『亡者を葬り隠す』の意であろう。
 

 
…と、『岡山の玄石生』なる方は『地方部落研究報告』に書き、その職業の内訳を…
 

 「手工業」をなすは浅口郡黒崎村隠亡町、同三和村大字佐方字森、同鴨方村小阪西宇和部、小田郡矢掛東町、後月郡木ノ子村岩ヶ市、吉備郡穂井田村大字陶字東山等にて、「藍・茶籃・団扇」其の他の竹細工、「唐臼」の製造「貝杓子」等を造り、また「草鞋・草履」などの藁細工、竹の皮で「草履・箒」を作る。

 御津郡大野村正野田とか児島郡庄内村木目にては、鍋釜の「鋳かけ修理」また「桶直し」をなす。

 吉備郡大井村および阿会村にては、彼岸・中元・年末および追善には「墓掃除」を行い、また追善には「塔婆・花」等を墓地に持ち行く仕事も、命令されればやる。

 浅口郡長尾村後町・吉備郡下二万村萱原にては、葬儀にあたり「棺桶」その他「装具類の一切」を調達し、土葬なれば「埋葬」をなし、また墓の建造をなし、火葬なれば「茶毘・骨上げ・納骨一切」をもやる。都窪郡庄村大字下庄も同じである。

 和気郡香登村大字香登西奥や、児島郡郷内村大字林にては、行旅病者および行倒れを看護し、「身元不明の死者を埋葬」することが義務付けられている。

 上道郡高島村祇園や児島郡郷内村にては、部落内の「夜警」や「非常番」に従事す。

 
 要するに、貸し与えられた僅かな地面ゆえ農耕は「副業」とし、葬儀を「正業」とし、修理・掃除・看病および竹細工・ぞうり作り。時に夜警・非常番をなしていた。

 「年中行事」についても、「岡山の玄石生」『民族と歴史』の280頁に…
 

 吉備郡日近村大字吉村の旧「名主」役中尾氏の話によれば、同吉備郡の大井村筒井坂塚谷の「隠亡」は、年々正月二日未明に、俗に「ヒイゴボシ」とて、「仕丁」の用ゆる鳥帽子に浅黄染に直径一尺余の鶴の紋ある直垂を着用し、大小両刀を帯して「人足」を従えその檀家なる部落にゆき、予め定められたる順序により、まず「名主」の家に行く。「名主」の家にては当日主人早起きし、沐浴斎戒して出て玄関に迎え、玄関先に於て前宵来準備し置きたる銚子土器を出して、先ず一献をすすめ、次に主人盃を受く。かくて「隠亡」は「謡ひ初め」として「鶴は千年亀は万年云々」と謡うのである。

 謡い終りて後でなくは、家人歌を謡はずと云う。謡い納めて後、「夷・大黒」の木版刷の札を出す。主人は受けとり「年玉」として白米または玄米壱升と餅数個を興与う。そして受けたる「夷・大黒」の札は畳の下に入れて、性根(しょうね)を入れると称して、再三強く踏みつけて「仇」をせぬよう後に取出して、これを神棚に納めてしまい、向う一ヵ年は家内安全が襲われぬよう封じこめするものなり。

 浅口郡黒崎村隠亡町にては、正月元旦「万歳楽」とて、檀家の主人は先ず門前を清め、酒肴を準備し、鏡餅一重を盆に盛りて迎う。「隠亡」来れば「万歳楽」とて、「新玉の四角八方八ツの門開き云々」と謡いて祝意を表し、終りて玄関より表の間に上り、ここで主客賀辞を交換し、酒宴をなし去る。主人はこの時だけは門前にて送る。「隠亡」は両刀にて白衣または浅黄に黒の立烏帽子なり。

 都窪郡倉敷町字向敷舞、「隠亡部落」の森安某という七十余歳の老翁の語るところによれば、正月の装束は「維新前」までは菊の五ッ紋ある袍を用い、三月三日までは大小両刀を帯することが許されしが、「維新後」の装束は「ヒイゴエボシ」に木綿地、浅黄染、直径一尺余なる鶴の五ツ紋付たる袍を用うることもあれり、「万歳楽」の歌詞は「アータマノ(新玉の)シンシカク ハツバウ ヤツノモン(四角の八方の八の者) オシヒラキ タンマヒ(押し開き給い) シケンニタノシミ チキシノヤマ(真剣な愉みはモモシキならぬ千敷の山)ナリ」といった意味合いであるらしい。

 
 ゆっくり判りやすく解読すれば、角型のゲットーに「居付き」させられ、隠坊奴隷として西暦七世紀より閉じ込められていた「恨みつらみ」を、自分の「万歳」として唄い上げるのゆえ、彼らを先祖伝来酷使してきた「名主」や「村役」は暴れられたらと、正月だけは「客」としてもてなし機嫌を取り餅など与えていた。御津郡福浜十日市部落では、「茶せん」を持って来るのに米や銭を出していたと云。

 もちろん正月に「餅」を貰うだけでは食に事欠くから、春秋の「彼岸」にも例をひいてみれば…
 

・児島郡郷内村林にては、二季の彼岸に「シキミ」を各家に持参して戸口または軒頭に掲げて、「志し」の米銭や盆の内に乗せられたものを受く

・都窪郡加茂村大新庄字岩崎にても、二季の彼岸に「シキミ」を各自にて持参して米や銭を受く

・同郡庄村下庄にては、年頭に「夷・大黒」を配札し、彼岸・中元には「シキミ」を届ける

・吉備郡穂井村大字陶字東山、後月郡木之子村岩ヵ市にては、「シキミ・茶せん」を各家の軒頭に掲げて「札」として、米や銭を受く

 
…と、千の宗易こと利休の残党が「部落民」にされていたことを説く。
 

・同郡高松町大字和井元にては、彼岸には檀家の墓掃除をなし「シキミ」を持参する

・同郡総社町井手にては、「シキミ」二本を持参し一本は戸内に、一本は戸外に掛けて去る

・同郡二万村大昭下二万萱原にては、彼岸に「茶筅」を各戸へ持ち来る

 
 反仏派の部落者が仏前に供える「シキミ」を持って行くのは可笑しいが、食物を得る為である。テレビなどでは百姓が草鞋や草履を作っているが、雪駄と同じで足に履く物は限定職。収穫時には稲束の番人をしたり、籾をもぐ手伝いをして不用の藁束を貰い受け作った。

 岡山の特徴は、同じ大陸人でも〈契丹系〉は唐を滅亡させた国ゆえ、同じ中国人として逃げ込んで来た者らも、唐が滅した隋の者のようには「良」にはせず、「居付き地」へ収容したから「天神信仰」が固まっているのが、他の土地の如く匿さず、「ここは何処の細道じゃ…」では無くて公然だった。
 

・御津郡の石井村大字巌井字国守には、同所三門天ッ神社を氏神の天神とす。

・同 福浜村十日市にも、やはり氏神が部落には匿され天神宮あり。

・和気郡香登村大字香登西字奥部落には、氏神として祀られる天神宮あり。

・邑久郡牛窓町にては、天神山の千壷あれば、ここにも、天神宮ありしことが知られる。

・都窪郡の加茂村新庄字岩崎は、同帆崎天神宮に近し。同正清音村小屋にては、これを天神山の古墳と称す。

・吉備郡箭田村字土師谷(ひじや)には氏神として天神宮あり。

・同郡久代村土師谷には、式内社の横田天神宮あり。

・同郡大井村筒井坂塚谷には、和田天神宮あり。

 
 以上調査を了したるものに依れば、「隠亡」の大部分にほとんど、天神宮を「氏神」としこれと深き関係を有せしものの如し。つまり「天神信仰」とは藤原氏に追いこまれた〈契丹系〉の裏書である。
 

 
 四国の土佐となると、高知の寺石正路の研究がそれに続いて発表されている。旧藩の頃には、土佐の「賎民」には「長吏・非人・エタ」の三階級があった。「長吏」は其中でも取締りを勤め上級で、数も少なく、「非人」は極めて少数で、「エタ」は下級で大多数であった。其外には「夙」とか「隠坊」とか。「鐘打」とかいう者らは一切無かった。住所は左の通りに限られて居た。
 

高知高岡郡
舟戸 越知面(ヲチヨウモン) 梼原 四万川 仁井田 与津 窪川 久札 須崎 日下 佐川 戸波(ヘワ) 高岡 

高知土佐郡
森 一宮(イツク) 潮江 小高坂 朝倉 神田

高知香美郡
西野地 野地 赤岡(その部落ヲ、垣内ト称ス) 前ノ浜 古川

 垣内は関東の「開戸・皆戸・海渡」と同じで、奈良の「夷(生)駒」と同じで居付き部落は女だけで、「長いものにはまかれろ、すぐさまに前をまくれ、絶対にもたつくな殺されるぞ」という部落。

高知長岡郡
坂折(昔ハ大部落) 改田 豊永

高知安芸郡
唐ノ浜 奈半利 吉良川 羽根 浮津 領家 津呂 室津 元村 崎ノ浜 野根 安芸西浜

高知幡多郡
三原柚(ユ)ノ木 山田 黒川 宿毛(スクモ)和田 三崎 布(スノ)中村 右山 入野 佐賀 上山 十川 田野々 下川 橘

高知吾川郡
伊野 弘岡 新川 諸木 吉原 長浜(明治初期の特殊民の大同部落)

 
 高知近傍で小高坂村の者は小高坂・山西谷を占め、潮江村の者は潮江・袋野の谷を占め、「谷の者」と言えばそれかと人が合点する。吾川郡伊野町でも山谷地を占め、やはり「谷」で通ずる。

 世界でも例のない「印鑑証明」を添付させ、「サイン」などでは法的には認められぬ日本独特の「苗字」は、ここから生まれて来ているのである。「谷田」でも「谷川」でも、四国人なら特殊とすぐ判る筈である。

 旧藩の頃の取扱い振りを聞くに、何所でも同様に極めて卑下せられたもので、別居・別火はもとより普通の民を「御在家様」、または階級によりて「御侍様」と称し、たまたまその邸に参って土間に座し、或は土下座のままにて挨拶談話し、火は別火を給せられこれにて煙草など吸い、未だ縁や畳の上にあがるを許された事な無かったとの事である。それでも「郷土」と彼らは自称した。

 その頃は正月の三ヶ日には得意先の旦那の家を廻り、新年の「賀詞」を歌文句にて申し上げ餅米酒銭などを貰受く。これを「ホメ」と言う。「褒め」祝するという恰好である。また「上巳・端午・棚卸し」や「神奈・盆」の節季に、やはり得意を廻りや餅残肴など貰うを例とした。女子は後帯を許されず五寸幅位の前帯を纏い、髪は「島田・本島田」を許されず唯の結髪であったと云われる。

 安永七年(1778)といえばロシア人が国後島へ来たり、平賀源内が召捕られ翌年獄死の年だが…
 

 近頃は百姓のように化け、はたご煮売りやに入りこみ酒食をなしたり泊りこみするエタ非人共がいて、中国筋にては非人茶せんの類の悪党宿とか盗人宿まであり、そこに集っては村方へ盗みに行くは言語道断。郷土、町人や百姓の身なりをなしている者は見つけ次第に捕え仕置
 

 
…と、江戸表より土佐にも「通達」が来た土佐山内家でも、それに準じて各奉行へ「命令」を出し…
 

 部落内の風儀よろしからず、秘かに抜けだして百姓や郷土風に紛れるは不届。百姓家に入りこんだりするは、身分をわきまえぬ仕儀につき、部落よりの抜け人は、捕え即刻打首とす
 

 
 さらに差別を厳しくした。この部落から抜け出るのは『忍術論考』に詳しく、土佐の被差別地から幕末には岡田以蔵が京へ送られ「人殺し以蔵」として暴れたが、捕えられると前述通り「無宿者」と獄門晒し首にされたのも、民族差別の「その筋の者」のせいである。

 岡山の部落に「茶せん」の名がよく見かけられるのは、千の宗易が「ササラ衆」を集めて秀吉の外征の不在中に反乱するのではないかと、今は「表千家」として残っている者らを、出征に先立ち居付き部落へ「非人」として追い込んだのは、『利休殺しの雨がふる』『利休殺しの秀吉』の私の本に詳しい。
 

 
 「源=元、平=ペルシャ、藤=唐、橘=契丹の四種の他に、皮田は別にある」…と近江ではする。そして「皮田」は、「神功皇后」の三韓征伐の際に、「捕虜」として連れ戻った者の後裔ゆえ卑しめるのだと云われているが、今では…三韓の一つの「馬韓」から日本へ攻めて来られたのが「神功皇后」…だと言われる。

 すると、「馬韓」から来て「捕虜」にされた者の子孫かといえば、三韓の日本統治は彼らが互いに戦って続いたから、その子孫ならば「良」であって「賎」ではないことになる訳である。そのせいかも知れぬが、元国の「源氏」の子孫が「製革業者」になり、ペルシャの「平氏」の残党が「エタ」とされて、各部落に居付きにされ草履作りや農耕を苛酷に「課役」され、逃げられはしなかった。

 特に近江は、その昔に〈八つ〉の「高天原」があって、鉄武器を持って攻めてくる「中ツ国」…つまり中国勢の岡山軍と戦っていて、貝刀や弓矢では敵わず富士まで追われて、富士王朝を建てた由緒地。

 後に織田信長「平氏」を名乗るように、八田別所の出身の父信秀が尾張へ行き勝幡城の城番となって、「主家」の織田姓を貰って名乗り、美濃を(信長の)妻奇蝶の謀略で入手後は伊勢を奪い、やがて、「八の者に限り商売は許す」という永禄八年の信長の裁可状で、清洲を「楽市」…つまり無課税地にしたり、足利義昭に「税」を取るだけの「関所」の撤廃をさせた。〈八つ〉だけが商売を許され「無税」で示しが出来た。諸国の「八」の者たちが駆け着けて、戦には弱い尾張兵を助けて「天下布武」の世とした。

 かつて近江の「高天原」のあった琵琶湖の弁天涯に安土城を建て、敵の「坊主」を目の敵にして比叡山延暦寺を焼打ちにしたり、琵琶湖で「寺詣り」した侍女三名も打首。「甲斐攻め」では生きながら「坊主」の丸焼きもしてのけ、各地の「八」の奴隷部落を解放し、天正七年からは「右大臣」も辞め藤原王朝「御所」とは対立の立場を採り、天正九年の「馬比べ」には鉄砲隊を率いて実弾を射ち込み、「御所」へ乱入して示威行動まで敢行したのは前述した。

 信長の今でも人気のあるのは部落解放者…つまり天正六年から八年に、秀吉が千の宗易の一味の反乱防止に「刀狩り」する時に、また居付き部落へ戻してしまうまでの十五年間、全国の「八」の者らは信長を慕って近江に集まり住み着いた。恐らく「八」の者たちにとって、北条時代が去って足利の散所奉行によって「狩り込み」され、居付き部落へ入れられてから初めて自由に呼吸ができ、生きとし生きられたのも束の間の仕合せ。

 だが、足利時代の京の蜷川の「銀」で各大名の京屋敷の者が買収され、京の各山も応援して蜷川道斉の姪の夫の斎藤内蔵介が本能寺を爆発させ、毛髪一本残さず信長が吹き飛ばされて死ぬまで近江に集っていた「八」は仕合せだったが、さて秀吉の代になると、翌年には早や手廻しに「天正十一年裁可状」なるものが、各寺の本山からの政治献金を集めた秀吉によって出された。信長は「八」ゆえ絶対に反仏派だったが、秀吉も「八」なのに「銀こそすべて」と妥協したのである。

 こうなると反仏派の近江の「八」は追われて、「近江乞食」などと言われた蔑称が今だに残る。「近江における武士と旧エタ」の題名で『民族と歴史』の297頁から柏原の中川泉三の投稿では…
 

 近江に於ける佐々木・蒲生氏等の武士が、「屠児」をその居城附近に置きしは、甲冑刀弓馬具等「武具」には、必ず革工を必需とせしためなり。この意味を解して武家時代の城跡と附近の「特殊部落」とを参照すれば、はっきりと繋っていてよくわかる
 

 
…と、大正初年にもう説明している。
 

・蒲生郡に於ては中野村大字小脇に島前あり。程遠からずして野口の部落あるは、佐々木氏小脇の館と、布施氏の布施山城跡に接し、北比都佐村大字豊田の屠児は日野の蒲生氏に深き縁を有し、綿向神社の例祭には草履を納めていし古例あり

・武佐村南野の大部落は金田村の大手より移住せし伝説を存す。金田は佐々木時信の時より城館の地となり、時信を金田殿と称せし程なれば、城大手に屠児在住の必要ありしは前例通り

佐々木高頼が、足利義尚および義材の為に前後二回の討伐を受けしより、金田の城や館亡び。其子定頼・義賢に至り大に観音寺城を修築し、其の城下町に繁栄を計りたれば、金田の屠児も随うて蒲生野に移住せしは、当然の事とす。織田信長の安土城下に宮津の部落あり。現今屠獣せざるも昔は屠児なり。自からいう信長に属して此所に移住せりと。豊臣秀次の八幡山城下に大字大森の地名がある、何れも武士と革工の離る可からざる由縁を語るにあらずや

・犬上郡呉竹部落は京極氏の甲良庄に属し、坂田郡の大部落千草は上坂氏の根拠に住し、息郷村の三吉は堀氏や樋口氏に属し、浅井郡虎姫の大井は浅井家の小谷城と遠からず、伊香郡木ノ本の広瀬は千田氏の根拠に接して、革工の部落ある附近を探れば、各々城と接近するものが多い

 
 信長が安土城を築くまでは〈八つ〉よりも皮組工の〈四つ〉の部落が、当時の軍属工場として近江にはかなり多かったものとする。近江は信長が征圧するまでは〈四つ〉が多く、足利家では僧籍の山岡景隆を近江半国の守護代として、残り半国を〈仏教系〉の六角承偵とした。「小谷千人まいす」と呼ばれるように、彼らを各地の「探索方」とさせるため秘かに各地へ送り込んで勤めさせていた。

 浅井長政の城の近くの脇坂は「八」の部落であって、「小谷攻め」の信長の先手となったが、信長の死後は〈四つ〉が取って代わったから、「頭目」の脇坂甚内によって部落民は武士となったらしい。
 

 
 名古屋市というのは市章でさえ「○に八」。『塩尻百巻』の絵図を見ると「ぐるり」元禄時代は「八」の部落である。何しろ「東海道五十三次」と言っても今の鳴海球場の星ヶ崎からは舟で「宮の渡し」。そこからまた海上七里で桑名で、名古屋市内へは他国者も足を絶対に踏み入れさせなかった。

 亨保二年二月、その前月に紀州より八代将軍となった吉宗が、大岡忠相を登用して「八」の者を、「斬髪頭にしても、笠や頬かむりにて隠せば見分けがつかなくなるゆえ、首はねて処分す」と苛酷な布令に対し、兄の継友を紀州の「御庭番」村垣左太夫の手の者に毒害され、奥州梁川三万石より戻って尾張藩主となった宗春は、部落弾圧に対して拒み通して「そんなとろいこと…よぉせんでいかんわ」と、名古屋の「八」には斬髪などせずだった。

 この「布令違反」と、『章善院目録』「権現さまの唯一の曾孫として書くが、松平元康の改名でなく世良田の二郎三郎だった」の筆禍で、改易閉門。尾張藩主は、代々吉宗の子の田安家と一橋家が継いだ。

 だから、「居付地」も無しで全部が自由で、「見分けの斬髪」もしてなかったので「御三家」の家柄でも、余所者には通行はさせなかったのだろう。名古屋の三宅光華が下奥田町の部落を書いているが、「由来する処は不明」と前もって断わっているのは、尾張宗春の閉門、その子らの一斉早死を「宗春の素行不良」といった徳川家の宣伝で、今も「八」の斬髪を拒んだ真相は判らずじまいである。

 昔の名古屋の市電は西裏までで、一つ手前が私の父が弁護士をしていた車道。その電車通りを越した突き当たりが下奥田町で、私は遊びに行き東田町の白山社までの大正時代を知っている。

 明治新政府になって国民皆兵・皆税となって名古屋の「八」も生活が厳しくなり、此処へ困窮者が集まり市営アパートの建設となった。が、名古屋弁には「アラブ語」が多く混じって八母音である。『野史辞典』の「袋槍」の項に、仙台は昔の多賀城の中国軍進駐の「落し種」で一国をなし、東北地方では唯一の〈藤原王朝系〉の土地で、武士の道具も中国風の凸槍だったと書いてある。「旧仙台藩封内のエタ」として「みのかさ」との筆名の投稿にも…
 

 「非人」「乞食」の称は仙台になく、「皮坊」「ホイト」、他では「トウナイ」というのを「ジュウ」とよび、新河原町に居付地として幕末まで木戸を設けた一区画に、みな押し込めていたが、「会津戦争」に彼らは敵の西軍に味方をして、それで解放され自由となった
 

 
…と出ている。

 裏日本の越中永中見郡の「トーナイ」について鳥尾正一の「小文」は、奈良「四天王寺」の、原住民の隠忍(おに)を征圧した「勝利記念碑」とし四本指に作られているのが、「皮田」が「カタワ」と誤られているのと同じで、外から見られぬ指骨が十本無く二本足らぬと、仏像に踏まれ蔑視されたと書いてある。「神主、医者十無い」と言って「貰い」で生活するから裏日本では蔑められているが、「越の国」は日本海で渡って来た〈四つ〉の本場ゆえ、場違いの〈契丹系〉だけを特殊視した傾きがある。
 

 
 さて、京都駅の近く一帯が靴屋で〈四つ〉の旧居付地。大阪の梅田駅はその直前が渡辺橋で、「五ヶ」と呼ばれ皮なめし用に小便桶が並べられていた所。名古屋駅も明治の初めに笹島部落とされていた土地。昔の「鉄道院」は「お上」の権力で安く買い叩ける土地として、旧部落地を否応無しに駅用地にと収容したのであろう(トウナイは指が八本の意ではなく、本当は唐で無い契丹のこととは前述)。

 同じ越後魚沼地方についての「宮沢万平説」でも、明治になって初めて「番太」の制度が出来、「夏番」と「秋番」に分かれて村の「番」を取締役の指図でした。死亡者が出た時も米餅や銭を貰って始末した。「川船頭」や「橋番」となって米麦や餅を定期的に貰って暮していたが、もし誤って一度でも「常人」と交わると、やがて死んで焼いても女は陰部だけじめじめして焼け残るとの言い伝えもある。

 「播磨印南のモチ」としての投稿では、「五木の子守唄」に出て来る「オドマ勧進」の「勧進」が、代官の先導役となって大小を帯び六尺棒を携えて百姓の収穫高を調べ報告し、「手間代」としての米麦を得る。村役人も兼ねていて危険な「捕物」に当たらねばならぬので、代官に真剣の試合や棒術・捕物術の披露をして見せた。つまり幕末の剣豪はみな「賎」千葉周作にしても馬飼医の伜。斉藤弥九郎は越後高田の部落から油屋の下働きから、「賎業」の薬屋の小僧上りであった。

 アサリ河岸の桃井道場の初代八郎左は「紺屋」。伊庭軍兵衛もやはり「勧進者」の出身である。「千金の子は盗賊に死なず」の唐の諺が藤原王朝にも持ち込まれ、危ない「捕物」は死なしても惜しくない「賎」の「勧進」や、「八部」の限定職とされていた。治安維持のため「抜刀罪」と禁止されていたので、武士は刀を帯びていても抜く事は無かったのは『忍術論考』に詳しく、黒船来航の幕末までは町道場や剣術師範など、「武家法度」の法律で厳禁ゆえ幕末までは存在せず、つまり刀を差していても抜刀は厳しく取締まられていたので、小さな「十手」や「六尺棒」でも文久二年までは召捕りができた。〈四つ〉の里の柳生でさえ、ずっと伝わっていたのは「新陰流」ではなくして「山田流」の棒術だった。

 居付「勧進」は貧乏したが、大名領の「勧進」は黒船来航からは身分は足軽並みでも剣術・棒術を捕物に稽古していたから、「師範」として幕末になって初めて採用され、「勧進」の衆は改めて相撲興行などして儲けたりした。つまり町道場は、各藩の内ゲバで「上土」の暗殺防止のガードマンに就職口ができたからして、幕末から各道場が江戸でも黙認され出したので、町道場が田舎廻りの旅絵師並みから初めて江戸にも「進出」で来た。

 「剣客」という言葉は、庄屋や名主の許で客として泊めて貰らい、小作人の若者に稽古をつけていた頃の名残りなのである。「茶湯・生花・能・芝居」全ての芸術が、全人口の九割を占める「賎」の民の所産であるが、「剣だ剣だ」という「刀術」も、実際は「カンジン」とか「トウナイ」八部衆が「お上」の捕物として伝承されて来たもの。彼らが村役人として「二刀」を差し、維新後は写真を撮ったりしたから、二を抜き「三一」サンピンとの蔭口も生れたのである。
 
 

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