古代史入門 2.3

庶民は占領下の混血児子孫奴隷

 さて、この時に、日本人の中で「本当の原住民」という言葉を使うならば、「女が進駐軍の自由にされるより前に、男共に連れられて逃げた連中」を指します。

 三角寛 さんは「朝日新聞」の〈サツ廻り〉の記者で警察情報を基にし、後に内務省警保局の「民族事業協和会」の金で牛肉を馬車いっぱい持って行くのですが、〈シノガラ〉と言われる「サンカ」の連中は絶対に彼らの方からは何にも言わない訳で、牛肉は腐るからと仕方なさそうに受取っても、渡した現金は返し写真も撮させません。

 まぁ、〈溶け込み〉になる前に〈セブリ〉は目に見えて非常に減ったと三角氏の本にはありますが、あの数は実数の十分の一以下です。今、『サンカ生活体験記』を書き出版したが、これを書くと自分の死んだ母親のことを書かなきゃならないので、だから書き難くてしょうがなかった。

 前述のごとく「散所奉行」というのを〈歴史屋〉さんは何を間違えたか、足利家の奥方さまが子どもをお産みになる時に、「お産」する所を作る奉行喜田貞吉 も言うのだけれど、それだったらば、忙しい高名な偉い武将を使うことはない。それに昔から「取上げ婆さん」はあるが、「取上げ爺さん」などは聞いたことも無い。真実はようするに、明国から例のインドのカースト制度が入って来て、最初には前体制の「北条氏」の人間を入れ、次には足利創業の時に刃向かった「南朝方」

 『野史辞典』には出て無いけど、次の『庶民日本史辞典』にはあるが「楠木合戦注文」といって、湊川で「楠木側」に着いた人間の名が明細に出ているもの。歴史書には、流石の「足利方」も「楠木方」の忠勇に感心しその名前を書き留めたもの…と言うのだが、本当は今で言うところの「札持ち」で、全国的な指名手配だから数多く「筆写」されて、今でも残っているのです。
 


湊川の戦い

 
 例の、紀伊国屋文左衛門 みたいに出身は湯浅です。「湯浅」というのは居付地で、楠木正成 に味方をした湯浅定仏残党の子孫が収容されていた限定地。山口瞳 のテレビドラマの『血族』に出て来る脇屋というのは、ただ、母の里が「女郎屋」だというだけを秘密にしているがそうじゃない。つまり、「脇屋」というのは脇屋義治子孫が入れられていた居付地で、はっきり言えば特殊部落。

 新しく土地を開墾し新田だと言うけども、新しく土地を開墾するということは、旧幕時代は届け出ねば絶対に許されないこと。荒地があるからとて、気ままに今みたいに勝手にできなかった。「新田」の名の付くのは全部が新田義貞 の一族。だから「尾張万歳」なんかは、愛知県の今は名古屋市北区味ま町の「楠木」になるのです。つまり、「南朝方」が足利の「散所奉行」によってその子孫が次々と捕えられて、特殊地へ入れられて「非人」とされたのが本当のところ。つまり、「新田」とか「脇屋」というのは幕末までは部落地名

 「明治史学の目的は南朝を解明することである」と言って、「長慶天皇」だけは引っ張り出しはしたが、その残党たちや子孫に対しては明治史学は解明も何もできなかった。「徳川公爵家」が華族会長となり、「学士会」もその下に入ったから「義理」と「人情」を秤にかけりゃ金を貰っていたせいか…それとも頭を押えられていたせいか…「徳川時代」そのままの歴史となり今日になったと言える。
 

 
 さて、日本の「高度成長」というのは、ようするに「島国」というのは黒潮が太平洋岸へ流れ、ベーリング海流(リマン海流)が裏日本へ突き当たるけれども、日本を「起点」にしてはどこにも流れて行かないのを知らなかったらしい。日本列島は吹き溜りの土地なのです。アメリカみたいにカナダへ逃げるとかメキシコへ逃げるとか、そんなことは出来はしません。それなのに当時の首相池田さんは、全然この「海流学」の知識が無かったから悲劇だった。

 ミシシッピーで、ビニール加工とか今の化学処理のものを始めてから、青少年が川で泳いだりなんかすると非常に頭がおかしくなってしまい、「ヒッピー」になる。公害で「ヒッピー」が生まれてきた訳ですからどうしようもなく、「マリファナ」は今ミシシッピーの沿岸は全部解禁です。「マリファナ」を喫ってる時の方が化学中毒はまともになるから、一種の「治療薬」としての解禁です。池田勇人 さんはそういうことを知らなくて、日本は「島国」だから海へ流せば全部流れて行ってしまうと、公害産業の下請けをやったわけです。それがいわゆる日本の「高度成長時代」です。

 現実においては、水俣では全部が「ヘドロ」になって戻って固まっちゃうし、田子の浦だって、毎年毎年流した「ヘドロ」が固まって流れて行かないんだから、海の中でタンカーから石油が流出すれば、その石油は全部が日本の沿岸に流れて来て貼り付いてしまう。日本から海流はどこへも流れて行かない。旅路の果ての人間です、日本人という人種は。だから逃亡が効かぬからして、昔から「反抗」ということは全然、あくまでも出来ないんです。

 さて、昔は新鮮な川だとか池だったが公害になってから水も飲めず魚も食えなくなった「サンカ」は、そこで都会に〈溶け込み〉。が、表面では総人口の一割五分程度の存在。〈四つ〉の騎馬民族の方は、昔は弾左衛門が人頭税を全部取っていた。それから〈八つ〉の方は、今では「網元」という言葉を使うが、昔は遠洋漁業も無ければ、そんな大きな「地曳網」なんてのは江戸時代にも無い。「アワモト」さまです。「アワ」というのはアラブ語の水のこと。フランス語だって水はみんな「アクバ」とか「ア」を付けますけど、「アワモト」さまに魚で人頭税を払っていた訳です。

 ところが「サンカ」の〈シノガラ〉の方は、原始無政府主義っていうんですか、「オオモト」さまが集めたのは幕末までは「蓑一つ」、明治初年は「二円五十銭」、今は身分に応じて出します。だからある有名な上場一流会社の社長なんか、五百万とか一千万ぐらい出してますね。「オオモト」さまからこの金が、交通遺児だとか母子家庭に廻るんです。

 そして明治の開化の世になりますと、各大学の育英資金にもなるんです。私の親父が鵜沢総明 博士の門下で、お陰で大正二年に東大の「独法」で銀時計を貰ったんですけども、親父が、「俺の同級生で成績の良い奴は、五、六人どっからか知らんけども局止めで学費 が来て(当時はアルバイトと言わずに「苦学」と言うんですが)苦学しなくても済む、うらやましい、うらやましい」と言っていたのは、あれはどうも〈シノガラ〉学資金です。これを真似て現在の共産党の不破兄弟が、各大学の成績優秀なのに共産党の金を廻しています。

 だから、名前を挙げると大変だけども、日本の「有知識階級」と言われる連中、それからよく「日本の頭脳」が流出と言って、アメリカとか外国に行ってしまう大学教授や研究者が多いのも、あれは本当に頭がいい有能者です。そういうのが、いつ日本がどこの国から原爆でやられるか分かるでしょうけども、その時の用心に全部あれは〈シノガラ〉の金で退避させられ、家族もろとも行ってるんです。

 だってスイスの銀行で日本御三家と呼んでるのがある。かつては一位が岸信介、二位が「宮内庁」だったんだけど、今は〈シノガラ〉の方が多いんです。なぜかというと、かつてニクソンの時に、ドルが下がってもなりふり構わずに「石油」を買い漁ったことがある。日本政府はアメリカさんの命令で、「石油」を買わずに下落のドルの買い支えをしたことがある。それが現在の赤字公債の初めの五兆円で、この時に「サンカ」は、逆にドルを売って利を得たのです。

 〈シノガラ〉はもっと分かり易いことを言いますと、大東亜戦争が始まる以前から「日本の研究」はアメリカの方が進んでおった。さてです…一般の向こうへ行ってる「移民」というのは、日本人の「棄民」でした。満蒙開拓団と同じように、いらない人間を向こうへやっていた。だから、例の石川達三『蒼氓』みたいに悲惨なものですけど、〈シノガラ〉の方は違うんです。「つながり」の金を旅費に行ってます。ちょっと時代錯誤の感になるけど、まだ「打倒藤原」がモットーなんです。「藤原氏」によって日本は奪われたから、これを「藤原氏」から取り返すんだと。藤原弘達 あたりが聞いたら怒るだろうけど、彼らは必死になって純日本人の子孫を作っている。
 
 
 
・ 藤原というのは結局、郭務悰 の流れということですね。

 そうです、「唐」です。軍人は前後ともで四千人です。これをみな「防」と言んです。これの隊長が「防主」なのです。それがいつの間にか「坊主」になっちゃったから…判らなくなる。
 
 
 
・ その「藤原氏」の流れが「偽史」シンジゲートと言いますかね、日本の「歴史偽造」の…

 「偽造」じゃなくて、彼らの都合の良いように「創作」しただけの話です。「偽史」と言うと、何か「正史」があって「偽史」があるみたいだけども、「創作史」ですよ。勧学院というものが出来ましたのが西暦八百年頃です。今で言うと「各種学校」で、英語の学校が出来るみたいに各地に設立。
 
 
 
・ そうすると、藤原家の政権が確立されてから1300年ぐらいなりますか。この1300年間の日本の権力構造というのは唐の占領軍ですね、大体多くみて二万人ぐらいですか…

 兵隊は合計で四千人ですが、軍人・軍属が倍の約八千人。それにくっ付いて来た「一旗組」がいっぱいいる訳です。だから武力で「御所」を押えてしまい、危なくなると〈百済系〉の天皇を持って来たり、これは吉川弘文館から出てた『和気清麿』を見ても良く判るけれど、この「桓武天皇」の皇后から御所全部の監督する女官までが、みな百済人です。ずっと代々に亘って80年程は続く。

 やがて足利中期になってからだが、当時はっきり言って、日本には山金がゴロゴロあった。「南部馬追唄」に、「田舎なれども南部の里は黄金の山…」が何とかとか、それから「会津磐梯山は黄金の山よ…」など、他に何も特産物は無いけど山金だけはゴロゴロしておったんです。言うなれば黄金咲く陸奥(みちのく)ですね。だが金というものは結局、軟らかいだけで刃物にもならなきゃ、鍋にもならないんです。だから「金売り吉次」が当時の消費都市である京都へ持って行き、金を売りに行った訳ですけども、当時は「金歯」も無けりゃ「金時計」も無いし、うっかり、装具に儀礼用は好いけど実戦用に刀なんかに付けたら、ピカピカ光って敵にすぐ目を付けられてしまうからさっぱり金は売れない。だから代わりに、歩き連れて行ける人間をかっぱらって行った訳。「奴隷商」というのが一番、当時はいい商売になったからです。

 さて、余った金はどうしようもないから、金色堂を造ったり金の瓶を作っただけです。何しろ日本では、金と銀の価値を今も全然反対に間違えている。ひどい例が「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉。あれを言ったのは誰かといえばギリシャのセネカ。アテネの国会議事堂の前へ行くと銅像がちゃんとあります。あの人は「雄弁家」という商売。「沈黙は金で雄弁は銀」だって「雄弁家」がね、言う訳無いです。自分の商売の反対だから。大いに喋れ、喋るために俺に月謝払えと言うんだから、金と銀との価値はこれでは全然反対です。

 それが日本へ来ると変わってしまって、「沈黙は金、雄弁は銀」で、「物言えば唇寒し秋の風」となるのです。昔の日本は銀の方が評価されていたことになる。「木の葉が沈み石が流れるのが世の倣い」とか、「本当のことを言えば身も蓋も無い」とか、「お上」の言いなりにみな奴隷根性です。マッカーサーに占領され一回もレジスタンスをやらなかった、珍しいこんな国は世界史上どこにもないので、その点はよく分かります。

 だから各国で日本を占領したがってる訳です。日本だけが「憲法九条」で戦争放棄してますと言ったところで、他の国はどこも放棄してないんだから、誠に無理な仕方もない話。学校で子どもが、暴力反対だから僕は絶対にケンカしませんという子がいたら、どうなるかといえば、よってたかって苛められる。あいつは絶対に刃向かって来ないんだと言って、高を括って苛められるだけ。マージャンやる時だって強い奴を誰が誘いますか、「カモ」になる奴を誘うのと同じ。日本の国民は非常に危険な奴隷根性が凝り固まっていて、昨日までは親方「日の丸」でも、終戦となって今度は「星条旗」となれば、その言う通りのままです。

 さて、かつての執筆の禁止第一号は私です。北原白秋 の弟の「東方社」が『現代ユーモア全集』を出して、ユーモア小説をその第14巻に書いたのが、「陸軍報道部」の西原少佐に密告されて、市ヶ谷に呼び出され木刀ピンタや本でぶん殴られて、お前は「反戦主義」の持ち主であると、以後の執筆発表を禁止すると命令され、「東方社」の方で紙型(しけい)はくれたが、行く処が無いから満州へ行ったらばこれが大変。長谷川少将という関東軍の「報道部部長」の命令で、零下38度の夜から朝にかけ野外の営庭へ一晩中放っとかれた。立ってりゃ足からずうっと凍ってしまう。だから一晩中ずっと休み無しに駆けておった。朝になったら憲兵中尉が出て来て、「なんだ…お前まだ生きとるのか」ということになった。虎の威をかりるというか。「職業軍人」が絶対的に威張りたがるのは「防人」の時代の昔の「良」の感覚で、一般は「賎」扱いなのが身に染みたものです。
 
 
 
・ 日本へ進駐し支配した郭務悰の軍隊が来た時、日本の人口というのはまぁ、六百万ぐらいいたんじゃないかしら…何かの本に奈良時代六百万とか出てたんだけど。

 それはウソ八百です。〈学校歴史〉で教える奈良時代は違い、本国百済が滅びるまでが本当の奈良時代で、せいぜい百万だと思います。それくらいでないと、奈良王朝マザーランドへ救援に行くため必死になって狩り集めた「防人」と呼ばれていたのが、それでも二万七千しか集まらなかったんだから、「壮丁」に使える人数は全人口の50分の1が妥当。最高でも百三十五万です。まぁ、その二万七千は相当無理して連れて行っているから、四分の一とまで見て百万ぐらいと見るべきじゃないでしょうか。

 有名な歌で…「いにしえの奈良の都の八重桜きょう九重ににおいぬるかな」…みんなきれいな歌だと思っていますが、桜の匂いを嗅いだことがありますか。桜には匂いはないです。「いにしえの奈良の桜の八重桜…」というのは、「YAE」というのは女のことです。で、「桜」というのは、柴又のトラさんたちが使っているところの人集め、「群がる」ということです。奈良人の女たちを集めて来たことは良いけれども、彼女たちは今まで食ってたものが粟で、コウリャンは食って無かった訳です。それが今度は、「進駐軍」の命によって今はコウリャン食わされているゆえ、消化不良を起すからその「最中」でもブウブウとやると、いにしえの奈良の都の八重桜、きょう九重…「九重」というのは九重(きゅうじゅう)にもバリケードの張ってある所、つまり厳重な所といったら「御所」だけです。

 「歌」ってのは嬉しくて作るもんじゃないです。小学校の子どもは遠足に行って、ああ嬉しかった面白かったと言うけれど、大体、大人になって物を書いたり歌に詠むというのは、それは「怨歌」でしかありません。

 郭務悰 の率いる先発軍は、白村江大勝の翌年五月に「御所」に入って来る。それで「則天字使用令」。後に漢学といわれる「唐」の文字のことです。つまり「唐」の字と書くと非常に当たり障りがあるから、遡って「漢字」と言います。そして縄文時代が弥生時代に変わるんです。ようするに、「石の斧」と「貝殻の刃物」しか持って無い日本原住民が、「鉄製の鉾」とか「青竜刀」でアッサリやられちゃったからです。

 それで、これから「鉄文化」になるんです。岡山の方へ行くと鉄がいくらか採れると言うけど、今だって戦前の八幡製鉄だって、全部「大治鉱山」から入れ、今の新日製鉄だってクズ鉄以外は全部が輸入でしょう。「金」はあったけれど、昔から鉄資源はない。だから「足利時代」というのは「金」を輸出して、向こうから「鐚銭」(ビタセン)を同量貰っていた。表向きは二百万枚ですけど、「大正時代」の僕らの子どもの頃まであの「穴あき銭」は使ったんだから、その十倍か百倍ぐらいじゃなかろうか。それだけの「金」がみな向こうへ行った訳です。だけど日本では、「金」は全く使い道が無かった訳です。まだハングリーの時代だから、「金」じゃ飾りだけで「実用」に何も作れなきゃ何も出来はしない。
 

 
 さて、金が無くて倒産することがあるけど、金があって倒産するってことは無い。ところが「大坂城」は、落城の時には天守閣には「竿金」とか「分銅金」は山ほど、天守閣が傾くぐらいにまで積まれたままで、あっさりと大坂城は「金」があったのに落城してます。足利期からの蜷川体制で、幕末まで箱根以西では「金」はカネでは無かった。後には三島を境にして、西は三島から全部が銀本位体制だから、「西鶴」ものや「近松」ものはみな銀何匁と出ている。

 「信長殺し」にしても本当の原因は、マカオ貿易のため金本位体制に変えようとした為で、蜷川道斎 の姪が、謀反随一の斎藤内蔵介 の女房で、やがてその末娘が「於福」で後の徳川家「春日局」になる。

 さて浪人を集めたものの、「金」があっても蜷川の権勢でカネに使えず、大坂城三の丸まで、「桂」から「四条」にかけての遊女を二万人ぐらい収容。というのは、「金」を持って表へ出て行って、「金」では何も通用しないということが分かると、浪人たちがみんな辞めていく気遣いがあるから、大坂城の中で「金」が使えるようにしたのが大遊郭を作った理由で、大坂城は広いから出来た訳です。が、「夏の陣」では外濠・内濠も埋められたから遊郭は廃止。それで落城。従来の日本史は肝心な「貨幣制度」を、カネとは「阿堵物」とでも卑しめる精神からか無視して掛かる。それゆえ判っても良い事がさっぱり判らないままなのであります。
 
 
 
・ 「下克上」のいわばピークに立ったのが織田信長と見れば、かなり荒っぽく、その既成の体制を破壊してますね。だから、藤原体制とか、御所の権力の側もかなり恐怖に陥ったでしょう。

 信長は「天下布武」を一つの旗印に、「富士王朝復活」をイデオロギーに、近江王朝の昔に戻そうと安土城を建てたんでしょう。何も記録は残っていませんが、今でも織田信長のことをみな「前右府」などとの言葉を使うけど、天正六年に「内大臣」を辞めた後、天正七年に「右大臣」にされたけれども、半年でこれも辞め、それ以降は藤原体制に反発し、無位無冠になっていた訳です。
 
 
 
・ 信長は律令体制の「根幹」というか、土台をひっくり返そうとする意図はあったんでしょうか。

 これは『フロイス日本史』にも出ているように、「安土」から「京都」までは「幅四間」の12メートルの軍用道路を造って、もし藤原体制が背反すれば、三時間で京都へ入れるようにしていた。だから山科言継 の「日記」を見ると、天正十年五月二十九日に京都へ信長が早駈して来て本能寺へ入って来ると、真っ先に疎開したのは誰あろう「御所」の女御たちです。大変事が「御所」で起きるだろうと周章狼狽したのでしょう。女御たちが衣装を牛車に積んで次々と逃げだしたくらいだから、「四条」も遭難をなされる筈だったと想像でき得ます。

 死ぬ前、天正九年の「馬くらべ」…つまり、今の「観兵式」が京で催された際、信長は「鉄砲隊」三百を率いて「御所」の門から入り、バンバン実砲を射ちまくって、「御所」の建物を穴だらけにしてしまった程の示威行動をやっているのです。

 後に幕末の「蛤御門の変」の際、松平容保 が「御所」を警備するために入ろうとした。彼は「孝明天皇」の非常に信任が厚い守護職。「仙台」という所は多賀城の後で〈中華系〉だから「御所」とは近い関係です。それでも尚かつ、絶対に「御所」に実弾を持ち込んじゃ困ると、公家衆はこぞって阻止したくらいです。当時の信長の「デモンストレーション」は、大変なものだったようです。
 
 
 
・ 僕は八切先生の歴史学というのは、やっぱり戦国時代ですね。ここに狙いをつけたというのが、僕はすごいことだと思っているんですけれども、やはり当時来日していたイエズス派史料の裏付けがあったからですか?

 日本史の〈裏付け〉になるものは『魏史倭人伝』『契丹日本史』と、戦国時代に日本へ来ていて、本国へ「レポート」を送り続けていた「イエズス派資料」しかなく、『不可思議な国ジャポネ』で歴史学博士ケントの本を訳していますが、何しろ錦県から引き上げてきた「安土」という所は、当時は国鉄の駅があったけど旅館がな無かったんです。そこで總見寺に泊めてもらったんです。約一ヵ月おったんです。そうすると夜の明け方か夜中に「ドカッ」と、本堂の方じゃなくて僕の寝てる所の縁側へ大きな肉の固まり。当時は貴重品です。同じように「銀シャリ」と呼ばれた白米が「ドカッ」と置いてあるんです。食料不足の終戦時ですから薄気味悪くて、ある時、目ざとく追っかけて行ったら相手は何も言わないんですよ。それでも次々と足音を聞きつける度に、違った人だが追いかけ五、六回目にやっとのことで何度も尋ねたら、「信長さま」があんなお寺に祀られる筈はない、だから「信長さま」のお供えは本堂へ出したくないから、彼の所へみんなが置いて来るんだと、うつむいたまま早々に言い残して足早に立ち去った。物資不足の折柄あり難い話だが気味が悪くなったものの、今考えてみれば「反仏派」の居付き部落からの「密殺」した牛や馬の肉で、米もそれとの交換品らしかった。まぁ、「信長教」といったものが彼らには根強く残っているようだ。

 前の戦争中に、「またも負けたか三師団」という言葉があった。名古屋の兵隊というのはあまり強くは無いんです。名古屋や京都の兵隊は昔から弱い兵隊で、永禄四年から永禄六年まで三年間も戦争をやっても美濃が落とせなくて、奥さんの「奇蝶」の実父の故「まむしの道三」のお陰で、謀略戦術で美濃三人衆を篭絡買収して占領したぐらいです。
 
 
 
・ 近江の八田別所の出身で、平氏であるから原住系であるとお書きになってる。あれはどういうことですか。普通われわれは越前の織田庄の出身だという風に、普通の本には書いてありますけども。食い違っています。

 それは勝手に書いているので、「上織田」と斯波家に仕えていた、前からの「織田」が本家です。信長の方は、父信秀も勝幡城の城番に登用された時は八田信秀 で、「織田」姓になったのは賜姓です。「八田」というのは弁天涯のあの一帯を、今でもあの辺に住んでる人のことを「ヤッタモン」って言うんです。安土城を作った弁天涯の絶壁、「八田」なんです。越前から出る訳は無く、「下織田」と呼ばれた信長は近江です。だから後に、信長が殺された後は、あそこの連中たちは追われて、近江乞食って言われるんです。

 太田亮『姓氏辞典』なんか見ると、加賀に入った藤原氏が加藤であるとか大真面目に書いていますが、「京」を固めるのに精一杯の「進駐軍」がわざわざ雪深い加賀へは行きません。浄土宗が加賀に入って一向宗道場を作った時の作り話です。「語源」は簡単で、仏教が浄土で上等なのに、反仏教徒の「アウトロー」は下等の意味です。何しろ「漢字」は郭の時代からみな当て字で、自由に勝手に付けているので、文字通りに読んでゆくと日本の歴史は全く判らなくなってしまいます。
 
 

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