古代史入門 3.2

聖徳太子と出雲の聖徳王

 古代史 としては、聖徳さま が何人も…というのは『古代史入門』には 欠かせぬゆえ 引用をする。
 

 古来 工匠(大工職)は、その技術が 聖徳太子 から伝えられたものだ と思って 聖徳太子 を祀っていた。そして 二月二十二日 をその 命日 として、礼拝供養 する習慣があった。なるほどこの日は 法隆寺 の 上宮聖徳法王(今いう 聖徳太子 )の 命日 である。
 
 しかし、「日本書紀」では、聖徳太子 薨去の日は、二月五日 としている。法隆寺 の 諸文献 は、いずれも 二月二十二日 薨逝である。これらの文献が、いずれも正しいとしたならば、「聖徳太子は二人あった」ということになる。これが重要な 手掛かり の一つである。「日本書紀」に記された 聖徳太子 は、厩戸豊聡耳皇子 なのに、法隆寺の 聖徳太子 は、上宮聖徳法王 である。名が違っているばかりでなく、人間性に関し、同一人でないことが解る。上宮聖徳法王 は 大海人皇子 であり、天武天皇 であるかとも解ってくる。
 
 法隆寺 再建、非再建 の両論は、共に 法隆寺 創建 を、厩戸皇子 である 聖徳太子 が行ったとし、これを疑っていない。これがそもそも 根本的な誤り である。創建 した 上宮聖徳法王 が、厩戸皇子 と別人であるのだから、再建だ、非再建だと騒いでみても、中心の外れた 見当違い のことで、論争しただけのことである。根本問題 を究明せず、全貌 を 把握 することもなくして、枝葉末節 のことを取り上げて議論したことは、あたかも 群盲 が大象を撫ぜて、自説を 固執 したことと同様だと、批判されても、致し方のないことであるが、真面目に研究をして得たことは 貴重 である。

厩戸豊聡耳皇子 と 上宮聖徳法王 との比較

対比事項 「日本書紀」によると 厩戸豊聡耳皇子 法隆王朝 最後の王
「流紀」贈銘:東宮聖王出雲
「帝説」上平聖徳法王
薨去日 推古天皇二十九年辛巳 二月五日 「釈銘」「帝説」法興元世一年の翌年壬午 二月二十二日
王后 菟道貝鮹皇女
父は 敏達天皇
母は 豊御食炊屋姫尊(推古天皇)
「釈銘」于食王后膳大娘(出雲ノ国ノ 高橋ノ臣ノムスメ で カシハテノ臣 トモ名ヅク)
「帝説」膳夫人妻膳大刀自
講 勝鬘経
講 法華経
推古天皇十四年丙寅秋七月
同十四年丙寅
「流紀」「帝説」では後世は、戊午年四月十五日法華勝鬘寺塾
所領水田 播磨国 水田町
(推古天皇時の百町は大宝律令の百町と同一面積であるか否かは不明)
「流紀」によれば、播磨国 佐四地 五十万代としている。
(政事要略曰 五十代興令段歩積一同、即ち 百町歩 は五十万代)
水田施入の寺名 斑鳩寺 「流紀」では、出雲 の 伊河留我本寺中宮尼寺片岡僧寺
用明天皇 敗戦 にて王は死別し不明
穴穂部間人皇女 中宮(出雲 の御方)
叔母 推古天皇
即ち 用明天皇 の同母妹
欽明天皇 の中女
敗戦 にて大陸人に殺されて不明
王子 「書紀」には王子の事をわざと記さず。山背大兄 は「舒明紀」に「山背大兄 は 斑鳩宮 とあるけれども、厩戸皇子 の王子とは言えない」と否定している。
山背大兄 の叔父が 田村皇子 となす。又「犬安寺縁起」では、「上宮皇子 命じて言う 田村皇子 愛哉 善哉 汝男自来問 吾病はいかん」とあり 田村皇子 は 厩戸皇子 の甥で、即ち兄弟の子に当るとすれば、田村皇子 の甥に当る 山背大兄 が 厩戸皇子 の王子でないことは明らかである。又「日本書紀」に、二十九年春二月己丑朔発巳 半夜 厩戸豊聡耳皇子命 は発病。斑鳩宮 に歿す。是時 諸王諸臣及天下百姓 はみな哭くとあるが、王子の事は記さず。つまり厩戸豊聡耳皇子 には王子は無いとすべきである。つまり0人である。
王子は十四人あらせられる。「帝説」には詳しく、出雲で殺したのは、①膳部加多夫右臣女子名菩岐岐美郎娶る生児、春米女王。②次長谷王。③次九波多女王。④次波止利女娶王。⑤次三枝王。⑥次伊止志右王。⑦次黒呂王。⑧次馬屋古女王。⑨蘇我馬右叔尼大臣女子名負古郎聡女ノ生児、山代大兄王。⑩次財王。⑪次日置王。⑫次片岡女王。⑬尾治王女子位奈部橘王娶る生児、白髪部王。⑭次手島女王。合計聖王の遺児は計十四王子である。と明記して、出雲 で 大陸派遣軍 によってみな殺しにされたもうたと、御名を列記している。

 つまり法隆寺の 創建 の 上宮聖徳法王 は、大海人皇子 らしいようにもとられるが、大津宮 に住んでいた。この 大津宮 は、淡海大津宮 であって、天智天皇 が 遷都 した 近江宮 とは異なっていなければ理論が立たない。この故に、淡海 を 出雲 の 宍道湖 とし、近江 は 琵琶湖 とし考究してゆくべきである。
 
 出雲 は太古の頃は解らないとしても、欽明天皇 の頃から、大海人皇子 の頃までは、わが国の 首都 があり、大国主命 がいた都であるが、これを非常に古いことのように考えていることは、大きな 錯覚 である。大国主命 は、恐らく、飛鳥の時代 に活躍した王とみるべきである。これを 信仰 上の点から、あるいは非難を受けるかも知れないが、真理を探求することは、信仰 とは 別物 である。異なった方向を辿ることも、やむを得ないことである。嘘としか思われない程の 突飛 な説であるが、大海人皇子 へは、大国主命 の思いを廻らせてゆくべきである。これが法隆寺 建立発願 の 根本問題であろう。
 
 大海人皇子 が、用命天皇 のために、法隆寺 を建立したとすれば、その 動機 は明瞭ではない。用明天皇 は 池部天皇 であるが、池部大宮 御宇天皇 ではない。それは 山背大兄王 とすべきであり、薨去の後は 神として封じ込め、大国主命、大黒様 と称したのだと思ってよいのである。後に詳記するが、もし 大海人皇子 としても、当然のことである。出雲 には 大国主命 も、大海人皇子 も居たのであるから、飛鳥の時代は 出雲 に始まり、天武、天智 両帝の時に 国譲り つまり 征服 されてから 大和地方 に移されたばかりでなく、出雲 の 地名 が、みな地名変更で大和へ移っていった。後に至って 出雲 の各地の名は、大和の地名を 顧慮 し、色々と変更を加えられた。かように考察するのが真実そのものである。

 
…と 伊東氏 はその著の中で延べ、仏教側で創作 した 聖徳太子 は上宮の 聖徳王 からのものとし、現に 出雲大社町 の 稲佐の浜 の近くに今も 上宮(かみのみや)という地名が現存。また 出雲大社町 日御崎の浜 に「厩島」と呼ぶ地名があり、日本海を渡って来た 騎馬民族 の放牧地で、稲佐 には島へ行く「船つき場」があって 往古 にはここを「厩戸」と呼んでいたという。

 現在は 出雲市 に合併されている 大津町 は古代には「淡海大津宮」のあった処で、斐伊川 と 神門水海 とが一つになる 宍道湖 の「淡水海」であった処で、出雲王朝 の「大津宮殿」の 遺跡 と見られる。

 揖屋 とは 松江市 と 米子市 の中間、八束郡 東出雲町 揖屋である。『出雲風土記』の 余戸里 に含まれ、ここには「伊布夜社」として記された神社がある。『延喜式』には「揖夜神社(いふやのやしろ)」となっている。『日本書紀』には 斎明天皇 5 年…
 

狗、死人の 手臂 を「言屋社」に噛み置いた。言屋、これをば 伊浮 という。天子崩じます兆である

 
…思うにこの地は 斎明天皇 の 由縁の地である。天皇は 朝倉宮 で崩ぜたように見せかけ 密かに 出雲 へ帰り、揖屋 において戦を避けて 閉棲 したと解せられる。死んだ筈ではあるが 揖屋 へ戻っていたことを、崩御 前にもう記事に書いた事が察せられる。よって 斎明天皇 の時の都が 出雲 にあったことは、これを以てしてもはっきりと推察し得る。

 舎人郷 と『出雲風土記』に記されている。意宇郡 の内の「郷名」である。現今では 安来市 中央部に相当する処である。欽明天皇 の御代に 倉舎人君 たちの祖の 日置臣志毘 は 大舎人(おおとねり)として仕えた。志毘 が住んでいた「郷」であるから 舎人(とね)というと、『出雲風土記』は記している。欽明天皇 の宮殿はこの「郷」の付近であって、その 大舎人 がここに住んでいたのだから「郷名」となったと解すべきである。

 玉造 も「八坂瓊曲玉」を作った処と言われ、温泉としても『出雲風土記』に載せられている。大阪市 の 玉造 よりは古い名称の地で、元祖 というか移されてある筈。「四天王寺 は 玉造東岸上 に 創建された」と言われるから、出雲 玉造 の 宍道湖岸 がその初めて建てられた地であるべきである。聖徳太子 と今では誤られている 聖徳王 が、攻め込んで来た 大陸軍 との 奮戦の地 とも言える。

 神守(かんもり)の地名が 大津町付近 の地である。上古、宮中に奉仕した者に「掃部」があった。掃部 の居た処が 神守 と転訛したものだと言われている。『出雲風土記』の 出雲郡 には「加毛利(かもり)社」と 怨念封じこめ神社 がある。この地の神社のことである。思うに昔は 出雲市 付近に 聖徳王 の「淡海大津宮」があったのだから、その 掃部 が住した土地に その名が残った ものとして差支えない。

 阿宮 は 大津町 から 斐伊川 を遡った所で、川の沿岸の 景勝地 であるから「淡海大津宮」の「別宮」と見て良い所である。『出雲風土記』に「阿具社」を記している。付近の 仏経山 と共に 天穂日命 に由縁がある場所といわれる。天穂日命 は 大海人皇子 だとする『日本書紀』をば 信用 すれば、もしそうだとしても 阿宮 はその「別宮殿」の一部だと考えたい。

 『出雲風土記』に 河内郷 の名称がある。「斐伊川 の河の内にある郷」の意のようである。想像するに 斐伊川、神門川 の間の下流の地域を 河内 と称したこともあるのではなかろうか。河内磯長 は 御陵 の在った所である。河内郡 は「大和遷都」の後において 同名 が 関西 でつけられたと考えたい。

 また『出雲風土記』には 健部郷 を記している。これについては「健部」と名付ける訳は、「纒向桧代宮 御宇天皇(まきむくのしろのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと:景行天皇)」勅せられて…
 

朕の子の 倭健命 の御名を忘れないようにしたい

 
…と仰せになり 健部 を決められた。その時に 神門臣吉弥 を 健部 とお定めになった。即ち 健部臣 らは昔から今に至るまで ここ に住んでいる。それでこの「郷」を 健部 と言うというように記している。これを 側面 から考えてみれば、日本海沿岸へ入って来られたところの 騎馬民族 の 景行天皇 も ヤマトタケル も、実際は 大和 でなく 出雲 に居られたということになる。

 止屋(やむや)は『出雲風土記』には「塩治(やむや)郷」としている。止屋淵 は 倭建命 が 出雲建 を誅した場所であり、また 出雲振根 が弟 飯入根 を殺害した所 で、物凄い 魔の淵 を思わせる所のようであるが、現今では 斐伊川 の流れも変わり、神門水海 も無く陸地ばかりであって、塩治 には現今の地形では それを思わせる所 は見当たらない。ヤマトタケル は、出雲振根 と 同一人 であらせられると見られる。

 沿海州や北朝鮮から日本海を、小さな馬を小舟や筏に乗せて裏日本から入って来た〈 四つ 〉の部族が、表日本に住み着いていた 黒潮 で漂着の 古代海人族の〈 八つ 〉の部族を統合。牧草 を主として「豊葦原」となし、〈 八つ 〉の農耕する「瑞穂の国」と 建国 をしたのは判るし、中国系 の 竹内宿弥 によって 伊吹山中 で毒害されたもうた ヤマトタケル に、多くの 騎馬系子孫 である日本人が惹かれ 追慕 する気持も判り得ると言える。『忠臣蔵』でも 浅野内匠頭 の名をこれに採り、「塩治判官」ともする。

 ヤマトタケル は 小碓命 と『日本書紀』には出ているが、騎馬系 崇神王朝 の孫にあたる 景行帝 と〈 八つ 〉の「天の八坂姫」との 御子 である。だから 大陸系 の 竹内宿弥 は 騎馬系 の〈 四つ 〉と〈 八つ 〉との間の 御子 として始末を為し、出雲の国 を滅ぼして 大和 に「新国家」を建て直し『日本書紀』を作成した。
 

「国譲り」したまいて「根の国」へゆかれたもうた

 
…とする 大国主命 にしても 出雲王朝 の最後の方で、「国譲り」とは 平和裡 のものではなく、鉄製武器 に「貝刃」や「石斧」が負け殺された事を言うのである。だから今でも 出雲 では、小舟に「藁で作った屍」を乗せ、「根の国」へと海へ流す 神事 がある。

 つまり、「安来節」に「安来せん軒、日の出た処」とあるのは「千」も家があったというのではなく、「先住民族」のタウンで 敗戦 までは栄えたが、今はああした 笑い者の踊り を強いられる「奴隷」として、怨みつらみ が「アラエッサッサ」と 自棄 になるみたいな「お囃子」言葉を入れて「呪文」とす。

 つまり 大陸人 によって 弥生時代 とされるまでの日本列島は、裏日本には 出雲王朝 、今の 新潟 には 白山王朝 、表日本の太平洋沿岸には 富士王朝 、琵琶湖畔 弁天涯 には 天の王朝 と多かった。その他にも 出雲王朝 や 白山王朝 と同じ 騎馬 の〈 四つ 〉系 の、蘇我王朝 が 勢力を一番持っていた。それを ヤマトタケル を 毒害 し 出雲王朝 を滅亡させ、次に 蘇我王朝 を滅ぼして「大化の改新」と称し、出雲 の 王宮 を 大和 に移して昔からそこが都であったように取り繕い、八幡国群 を滅ぼした。

 柿本朝臣人麻呂 は 石見国 へ赴いた時の途中で「神の尊」… つまり 日並皇子尊 の 大宮 大殿 の跡形も今は全く見当たらず、何処にも無い様子を眺めて次のように 詠嘆 した。
 

淡海の国の さだなみの 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ 天皇(すめろぎ)の 神の御言(みこと)の 大宮は、此処と聞けども 大殿は、 此処と言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧(き)れる 百磯城(ももしき)の 大宮所 見れば悲しも

 
 つまり 淡海 とは 出雲 の 宍道湖 のことであって、柿本人麻呂 の時代には 最早すっかり 跡形 さえも無くされていたという、これは「裏書き」であると言えよう。

 ただ、後世の人間が 人麻呂 の作れる歌として「歌集」になした時には、権力の都合で 出雲 を故意に 近江 にしてしまっているが、石見国 というのは 山陰地方 だという事だけはわかってほしい。日本の 古代史 がわからなくさせられている起因は、淡海 が 出雲 の「宍道湖」から 近江 の「琵琶湖」へと すり替えられている 点である。『日本書紀』とはそうした 性質 のもので、全てが替えられている。

 江戸時代に 第 7 次『日本書紀』を書いた 伴信友 は「藤原」が【 唐 】であることがわからずじまいで、「藤原」は 地名 で 鎌足の土地 とするが、そうなれば、隋国人 が前から居た「桃原」はどうなるか。吉備地方 と呼ばれる 岡山 は『日本書紀』の 中ツ国 で現代でも 中国地方 と呼ばれ、そこを コロニー にして【 随 】の時代から 大陸人 は住み着いていた。

 ところが【 随 】を滅ぼした【 唐 】が 郭務悰 将軍らの 進駐軍 を派遣して来た時、郭 が 藤原鎌足 と「日本名」を名乗り、一族みな「藤原」姓を付け 御所 を占領して 藤原王朝 を確立の際に、先住の 隋人 は「桃原」… 発音は同じ「トウ」でも違う字の「桃」… を当て 通訳 にした。『群書類従』の 唐和上伝 にも出てくるのだが、『日本書紀』では 大和出身 のごとく作為。
 

 陶淵明 の「桃花源記」に、武陵 の人が 桃源 を遡って魚を捕っていたが、両岸に桃林のある所へ進んで行った。洞穴 があったのでそこへ這い上がってみると「仙境」があった。その「仙境」には 秦の乱世から逃避した人々 がおった。そして「仙境」に住んでいる人から歓待を受けたという話がある。武陵 桃源 であり、桃源境 である とあるが、不思議にも 藤原京 を音読すれば「とうげんきょう」であるから、「桃源境」ともなる。

 
…と 伊東氏 もここは書いているが、「桃太郎」というのは「藤」に 命名 された 旧隋 の 桃人 が、日本原住民残党 の「隠忍(おに)」退治の フィクション である。

 つまり 岡山 と 出雲 とが戦っている間に、神戸 三の宮 を拠点とした 三韓勢力 が(神戸)以東を次々と蚕食し、やがて 奈良王朝 を建てていた事になる。滅ぼされた 出雲人 の亡命も許した。それゆえ …
 

 河内国 の隣りは 和泉国 であるから、出雲 の 河内郷 の隣郷は 泉郷 であったであろう。泉 の名称は「出雲風土記」にも記載されていないのであるが、河内 の名称も「出雲風土記」にあるのだから、河内郷 の隣郷を流れる川は「泉の河」と称せられていたのは、当然のことのようである。
 
 昔は 宍道湖 南岸地方(現今では 玉造温泉 付近の地方)が 摂津、斐伊川 が 神門水海 に注ぐ付近(現今では 出雲市 の南部)が 河内 で、その西部の地方を 泉 と称したのであろうと思う。「出雲風土記」を書いた頃には、河内 の名だけを残し、摂津、泉 の名は消え去り、現今では 河内 の名も残っていない。
 
 しかし、大阪府 には、摂津、河内、和泉 の 三つの国 が相接して残っている。この地名の本場は 出雲 であったが、都 が 大和 に遷ったので、出雲 の地名が 奈良県 や 大阪府 に移ってしまった

 
…と 伊東氏 も『古建築秘話』の 78 頁に書いているのは正しい解釈で、これこそ作り変えられた、匿された 古代史 の真実 であるといえよう。今でも「お上」から、勝手に 町名 変更す。

 『日本書紀』では 竹内宿弥 を《 蘇我氏 》の先祖となしているが、蘇我 は裏日本より渡来の 騎馬民族 で ヤマトタケル の 後裔 である。同族 だったら 竹内宿弥 が タケル を毒害する訳はない。松江市 に 竹内宿弥 を祀る「竹内神社」はあるが、《 蘇我氏 》の先祖とする『新撰姓氏録』は デッチあげ で、竹内宿弥 は ヤマトタケル を害してから 出雲 へ攻め込んだものと見るのが、どうも正しいようである。となると 竹内宿弥 は【 隋 】の 大陸人 で、後に 大和 の 奈良王朝 にも対していた 武将 であるらしい。

 『日本書紀』では 竹内宿弥 が東の方の国を巡幸し、豊かな地方であると 騎馬民族 の 崇神帝 の孫の 景行帝 に述べ、そのくせ自分は討伐に行かずで 当時はまだ 16 歳の「ミコト」に兵も付けず、「途中で徴兵してでも行かるべし」と送り出したことになっている。という事は、「ミコト」が単身で行っても同じ 日本原住民 が「お供」になるだろうという目論見なのか、竹内宿弥 と「日本名」で呼ばれる軍団はそのままで動かさず、「三代」をもって 崇神王朝 を潰す意企らしく思える次第である。

 あるいは、景行帝 の後は 竹内宿弥 が継いだのではあるまいかと思う。つまり、自分の手兵は温存して一兵も損なわぬようにしていたのは、そうした 心積り が当初からあったものらしい。

 「出雲風土記」に記されたことから考察すれば、昔の 知井宮 の場所は、出雲地方 の東北から北には 斐伊川 があり、西北から西へかけて 神門水海 があって、「水郷」ともいうべき所である。換言すれば、知井宮 は 飽浪葦墻宮 の名にふさわしい地形の場所を占めている。

 
… と『古建築秘話』にあり …
 

 斑鳩 は、「法隆寺 伽藍縁起」「并流記 資材帳」には 伊河留(いかる)我 と記している。「日本書紀」には 斑鳩 と記し、斑鳩宮 と 斑鳩寺 のことを書いている。思うに、聖徳太子 は 推古天皇 の 小墾田宮 よりも便利な場所に居らなければ、摂政 の役目をなすことができないので、斐伊川 によって、本陸から遮られている 小墾田宮 からは離れた所にあっても、交通至便な場所に限る。知井宮 は丁度、出雲大神 の南方であって、斐伊河 や 神門水海 を距てた対岸の地であって 伊河留我 の名にふさわしい。
 
 「聖徳太子伝暦」には 太子 が 斑鳩宮 にかえったとき、推古天皇 はこれを快くしないところであるとしていたので、そこで 太子 がいうに、「別宅に居るけれども、何ぞ以て、あえて宿衛の下を離れるでありましょうか」と述べて、その後は、毎日 駒に騎乗して通い、政事を奏し、日々 斑鳩宮 へ還り、時人はこれを異とした、と記している。
 
 さて、斑鳩宮 から 小墾田宮 までの距離は、これをみれば毎日騎乗で通勤し得る程度であるらしい。思うに、その道程は 十粁以内 というところであろう。大和 の 飛鳥 の地から 斑鳩町辺 までは、おおよそ 二十五粁程 の道路で、馬でも無理といわねばならない。いくら乗馬達者の人でも、毎日通勤することは、頗る困難なことといわねばならない。時人異之とすと 文献にあって 超人的 と解釈しても実行不可能な事は承服することができない。また病弱な 聖徳太子 は超人的健康者でないようであり不可能事である。
 
 このことを 出雲 で考えてみる ならば、小墾田宮(出雲大社)と、斑鳩宮(知井宮)との間の 直線距離 は七粁程であり、この間には 神門水海 があるから、舟の利用も可能であり、陸路 でも乗馬で通ったならば、左程困難とはいわれないことである。この点からも考察すれば、奈良県 の 飛鳥 と 斑鳩 の距たりは、あまりにも遠きに過ぎることが判る。聖徳太子 が 大和国 に居住したということは、絶対真実でない とすることが、どうしても常識からも考えられることである。

 
 梅原猛 は『日本書紀』の記載通りに 法隆寺 の謎解きにかかり、聖徳太子 を実在の唯一人としているが、伊東平左衛門 の 50 年におよぶ解明で「イカルの宮」が 大和 ではなく 出雲 であって、聖徳太子 は 大和 へは全然その姿を見せていないとすると、梅原猛 の説くところの 聖徳太子 とは誰だろう。
 

 
 出雲王朝 の 聖徳王 の実存は明白にされているが、吉備地方 よりの進攻で殺されていられる。死人が蘇ってまで 聖徳太子 となって 仏教興隆 のために 大和 に出現する訳などありはしない。木村鷹太郎 著作集にあるように イエス・キリスト 降誕の話が中国に伝わり、それを日本へ持ち込んで来て 総人口の 9 割 以上を占めていた 縄文日本人 … つまり 日本原住民 を宣撫するために、『日本書紀』では 聖徳太子 は創作された 理想の存在 というように見るしかできないようである。

 さて、『出雲風土記』の「御井社」は『延喜式』では「御井神社」となっている。思うに 中臣金連 が「祝詞」を宣べたのであるから、それから「神社」になっていたのであろう。『風土記抄』には「漆沼郷 直江村 に在り」とし、この 神社 の祭神は 木俣神 とする。境内 には「生井(いい)」「福井(さくい)」「綱長井(つながい)」の三つの 井戸 がある。が、『日本書紀』では 近江 の「三井寺」と、故意にとり違え、変えている。そして『元亨釈書』は、天智 … 天武 … 持統 …「三皇」の 産湯の井 としている。これに関しては 江戸後期の『日本書紀』の作者の 伴信友 も …
 

三皇 ともに、大和 で誕生せられたのに、何の理由あってか、おかしく想える。三代 も相続いて、はるばるこの 出雲 の地の井水 を、わざわざ 大和 まで運び 御産湯 に用い給うのであるか

 
… と疑って、「まったく信じえぬこと」としているのである。「皇国史観」の 黒板勝美 の前の『日本書紀』を纒めた 伴信友 でさえ、呆れて匙を投げている程である。

 その『日本書紀』の「崇神記」の記するところは、武日照の命 が「天」から招来した「神宝」が 出雲 の 大神の宮 に蔵してあるゆえ、天皇がそれを見たいと言った。出雲振根 がその「神宝」を司どっていた。時あたかも 振根 は 筑紫の国 へ往き不在 であった。その弟の 飯入根 が 天皇の命 を受け、弟の 甘美韓日狭 と子の 鵜濡淳(うがつくぬ)に「神宝」を付けて差し上げてしまった。

 出雲振根 は 筑紫 から還って来ると、弟の 飯入根 が兄に相談もせず 勝手に「神宝」を渡した後であるから、それを恨み、憤り、遂に「倒す計画」をして 止屋(やむや)の淵(塩治の淵)で共に 游泳 し、兄は 木刀 を用意しておき 水から上がって弟の 真剣 と取り替えて帯び、知らずに弟は 木刀 を取りそこで相打ち合った。弟は 木刀 であるため刀を抜くことができず、兄は弟の 飯入根 を討ち倒した。ゆえに時の人が歌って言うに …
 

やくもたつ 出雲 梟帥 が はける太刀 黒葛 多巻き 身無しにあはれ

 
… と、こうした具合に『日本書紀』に書かれたことを もし そのままに解釈すれば、出雲振根 は「神宝」を無断で他へ渡した弟の処置を怒って、肉親 を害したことになるのである。これは 現代人でも想像もできない 極悪非道 のことである。

 しかし、個人的のことではなく 権勢 にありがちな 勢力争い であって、余儀なき 骨肉の争い となったのであろう。『日本書紀』の 出雲振根 の行動は『古事記』の ヤマトタケル の行為と同じであって、振根 が即ち ヤマトタケル であると考えてみても、まぁ良いようでもある。ゆえに 神門臣古禰(ふるね)は 出雲振根 で、どうも本当は ヤマトタケル の作り変えみたいである。

 また『日本書紀』では、郭務悰 将軍が 藤原鎌足 の「日本名」となって 国務一切を仕切り 藤原王朝 を創設した事を匿すみたいに、臆面もなく開き直った書き方をして…
 

天智天皇 の喪を 郭務悰 らに告げ、甲冑弓矢を 郭務悰 らに賜い、この日、郭務悰 らの賜いし物はすべて 粗絹一千六百七十三匹、布二千八百五十二端、綿六百六十六斤 である

 
… と記されている。これは 全くの作り話 である。「絹布」や「綿布」は中国が本場であって向こうから 輸入 していた品なのに、それを 贈って喜ばれた などという事はあり得ない。

 本国 へ引き揚げたはず の 郭将軍 は 九州 から 5 月には 御所 に入って、「漢字使用令」や「積石供出令」を 布告 しているのである。「絹」「布」「綿」等、婦人の喜ぶ品 を莫大に贈与されたことで 彼らは満足して 本国 へ引き揚げたと出ているが、「白村江の戦い」で大勝して 日本へ進駐 して来たのに「甲冑弓矢を賜い」というのはおかしい。

 事実は、取り上げられ 武装解除された 事であろうし、「粗絹」や「布」や「綿」を出したにしても 数がみな 半端 過ぎるのは、御所 にあっただけ をすっかりみな 没収された ものとみるべきだろう。何千も兵 を伴って進駐して来て「布」を貰っただけで戻る訳など無いのは当然である。

 つまり、郷土史家 までが 盲信的 に「金科玉条」としている 黒板勝美 の『日本書紀』も、こうした 矛盾だらけ の辻褄の合わぬものである。だからして 本当に 古代史 をやってゆこうとす志す者にとっては、あまり参考にならぬ事は紛れもない(戦前の 三省堂歴史年表 には 郭将軍 のことが詳しい)。

 しかし前述のように、西暦 720 年の〈 第一次 〉から始まって 次々と焚書 され、そしてまた「時の権力者」によって改め、また書き直されてきた『日本書紀』は、内容は 如何であれ「国書」としての 必要性 があったからであろう。でなければ、今見られる「決定版」のようなものも生まれなかったろう。
 
 

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