古代史入門 3.3

高天原は無数にある

 宝塚 といえば 関西 だが、別名「佐与布の墓」と呼ばれ 出雲地磯長六陵 の近くにもある。出雲 より名前だけ勝手に持ってこられた 名残り であろう。居付地 で、「お上」が 二束三文 で払い下げたから 故 小林一三 が買い占めて、「宝塚少女歌劇団」の 劇場 を作って 商才 を大いに発揮していたのは有名である。

 継体王朝 は裏日本から「帝」を迎えて 新王朝 を建てたと 早大 の 水野教授 は説くが、継体帝 の皇子 安閑天皇 は 越(コシ)の国 … つまり「越前」「越中」「越後」の 親潮寒流 が ベーリング海 から流れてくる、当時の 白山島 の 渡来者の血統 だった証明に「コシ」… つまり当て字は「古市」「古志」で、越前 高向 の 能登半島 からのお方が 継体さま であるらしい。

 これも『日本書紀』では、出雲 なのに 大阪 河内 の 古市 としているが、河内 は 韓国の 百済のコロニー ゆえ、その土地へ 騎馬民族 の 沿海州 や 蒙古、北朝鮮 の者らが入り込める訳はない。当て字を うまく使いこなしての 作為 としか考えられはしないのである。つまり、大陸勢力が 騎馬系 の 〈 四つ 〉を 手馴ける ための政策で 継体さま を立てたらしい。さて …
 

新 宮 殿

天皇名 宮殿名称 付 記
聖武天皇 恭仁(くに)宮 久迩宮 或は 布当の宮人 という。大宮の名称あり。清流、青山 の地にあり。
全右(上) 近求紫香楽宮 近江国 甲賀郡 紫香楽村 にあり。琵琶湖 に近い所である。
全右(上) 難波(長柄)宮 味原宮 ともいう。海辺の地にあり。今は大阪市内。

 

古 宮 殿

天皇又は
皇子名
宮殿名称 付 記
舒明天皇 百済宮 出雲の大宮 の名称あり。出雲 の 青山 の地にあり。
斉明天皇の代
大海人皇子
草壁皇子尊
淡海大津宮 出雲 の 宍道湖 に近い所にある。
孝徳天皇 難波長柄豊崎宮 出雲 恵曇町 附近の地と思われる。日本海の港。

 
… との「対比表」を『古建築秘話』の 199 頁 に 伊東平左衛門 はわかり易く付けているのである。
 

 出雲「佐太神社」では、十一月二十一日から二十五日まで、「お忌み祭」の祭事が行われる。出雲地方 では「お忌みさん」と称している。これは 出雲大社 に集まった 怨念の八百万の神々 が、この 神社 に立寄られて相い集われ、そしてまた一斉に たち去ってゆかれる を称しているのである。
 
 出雲大社 の方にも「御忌祭」がある。旧暦十月十日、神迎祭 が行われ、翌十一日から十七日までの七日間、合せて八日間 出雲大社 に神集いがあると、神在祭(かみありさい)が行われる。「日御崎神社」でも同日に 神在祭 が行われる。故に 素戔嗚尊 が祀ってある 神社 で行われると称してよい。古来 旧暦十月を 神無月 というが、出雲 では 神在月 と称している。この祭事中には、謹慎斎戒、歌舞音楽 を停止し、庭を掃かず、春杵き もせず、最も 静粛 に祭祀をする という習慣になっている。旧幕時代 まで、出雲大社 の勢力を そぎ取る ため、「佐太神社」を盛大ならしめる政策 を取ってきたので 出雲大社 の「御忌祭」を、「佐太神社」にも なさせたのだ、との「説」もある。旧幕時代 には政策として、「御忌祭」を双方に行わせたか どうかはわからないものであるが、「佐太神社」にも「お忌み祭」を行うことの理由があったろう。また両神社に「御忌祭」があるのが 敗戦国 の 出雲 として当然のことだろう。
 
 「お忌み祭り」とは、思うに「忌中の祭事での祭」の意味である。歌舞音曲 の 停止 につき想い出すことは、明治天皇、大正天皇 の 崩御 の際には、「諒闇」と称し国内一斉に 歌舞音曲 を 停止 し、国民悉く 喪章 をつけ、謹慎静粛 にし、哀悼の意 を表わした。まずこれと 同様 のことを 祭事 として毎年繰り返えされてきたのが、「御忌祭」であるとみるのが妥当であろう。察するに、素戔嗚尊 が 他界 したので、その「葬儀」が執行されたことを、祭事 として毎年続けてきたもののようである。

 
…と「お忌み祭」前記書の 200 頁 には出ているが、この出雲「佐太神社」の北側に「難波宮」がある。『日本書紀』では今の 大阪 にあったものとするが、その以前に 出雲 に「難波宮」は存在したのである。

 なにしろ「宮」とか「社」とか「寺」といって区別しても 往古 は大きな建物であれば、住居とすれば「宮殿」、神祇 の 一室 を設ければ「宮」か「社」、仏像 を置けば「寺」となってしまうから、「佐太神社」にしても「難波宮」の 別殿 を「社」に変えたものらしい。また、佐太大神 は 猿田彦 とも言われる が、孝徳帝 らしい。

 「隠れ丘」と言われる スサノヲさま の 前方後円墳 は 島根半島 西海岸の 山頂 にあり「大坂」と呼ばれ、古墳 のあたりは「山崎」と言う。後に そっくり『日本書紀』に合せるために 関西 に移入。今でも各都市で住民の意向を無視しても 地名変更 を強行している所が多い。どうもこれは 伝統精神 かも知れないが、大和 や 京、大阪 の地名が悉く 出雲 より そっくりそのまま で移し替えられた『日本書紀』は、〈 第三次 〉の 勧学院派創作 のものらしいが、巧妙に作為されているのは えらい もの。

 しかし 50 年におよぶ 実地探索 で、出雲 が紛れもない古都で「高天原」であると解明されると、富士王朝 の「高天原」、近江 琵琶湖 弁天涯の「高天原」、それに『日本書紀』で 一般化 されている 高千穂峯 の「高天原」と 少なくも 四つ以上 があるし、これに 白山王朝「高天原」も 実存 は明瞭ゆえ 五つ となる。日本全体の 統一 がまだ取れていない 古代 ゆえ各地に 王朝 があって、後世 其々を「高天原」と称しても 差支えは無い。何も「高天原」を 一つ に絞ってしまう事は無い。問題 はそれが 何系 の「高天原」であるかということではなかろうか。わかり易く列挙 して解明をしてみれば …
 

高千穂高天原 天孫民族 が空から降りたったという『日本書紀』の記載で〈 学校歴史 〉となる。
出雲高天原 ヤマトタケル の死をもって滅ぼされ、継体帝 は 後に出る裏日本 騎馬民族系。
白山高天原 白頭山信仰 を 白山信仰 に変えた、日本海渡来の 菊理姫 の裏日本 騎馬民族系。
富士高天原 『宮下文書』で有名な、黒潮渡来 の 太平洋沿岸 に這い上がった 古代海人族 八幡国群。
近江高天原 最後まで 中ツ国 の 吉備王朝 と戦い、弁天涯 より 投身玉砕 した 最後の〈 天 〉の王朝。

 
 もちろんこの他にも 東北に追われた日本原住民を組織化 し、百済人 征東大将軍 紀ノ古佐美 の率いる 5 万の大軍を 北上川 で全滅させ、鉄武器 を奪って 田子の浦 へ攻め込んだ「アテルイ」。

 江戸時代の 奥州 の 義満 が「鹿島神宮」へ奉納した 「アテルイの首」 を 河北新報 が 複製 して、水沢市 と 多賀城市 東北歴史資料館 に「悪路王の首」として 寄贈 されているが、夷(胆)沢城主 として アテルイ王朝 を、藤原王朝 から《 夷 》として 東北 へ追われた 日本原住民 の 大同団結 を図り「強力な王国」を作り、延暦八年(789)から 12 年間に亘り 攻め込んで来る 坂上田村麻呂 と次々戦ったのだが、大陸の 援助で 鉄製武器 を大量に補給 された、進攻の 百済部隊 に 制圧 され滅びた。
 

鹿嶋デジタル博物館

 
 アテルイ は、今の 大阪府 枝方市 の 杜山 まで連れて行かれて 斬首 晒し首 にされたが、東北 に残っていた 残党やその妻子 は、大きな穴 を掘らされて 生きながら埋められ 惨殺されたのは、「パレスチナ難民」の群れを ユダヤ人 の イスラエル兵 が 皆殺し にしたのと まるで同じ状態だった。

 ただ 違い は、生き埋め の上に土をかけ その上を、出てこられぬように 降伏 し 奴隷 となった者らに 踏みつけるようにさせた。これが今の 東北三大奇祭 の「ネブタ」。つまり、「根(死)の国」 へ追いやる ための 土かぶせ の「蓋」ゆえ、そっと 踏んづける恰好 をするだけの踊りで、土地の 各会社 より 寄贈 の「坂上田村麻呂の山車」が 賑々しく色どりを添える。

 「エルサレム難民」が 惨殺 を指揮の「キリスト教右派の少佐の山車」を担ぎだし、「ワッショイワッショイ」とは まさか やる訳は無いだろう。万邦無比 の 日本人の勤勉さ というのも、「真実」は 反抗 すれば「反体制」として徹底的に苛められ「非国民」あつかい されるから、やむなく 奴隷的 従順さ で「お上」の言いなりになってきた「伝統」だろう。

 犬は 他所 へ貰われて行っても、元の主人 を恋しがって また戻ってきてしまうと言われる。ところが、アメリカの奴隷 だって「A家」で可愛がられていても「B家」に 奴隷商人 に売られてゆくと、いくら「A家」が恋しくても戻るような事はない。

 「牧師」に お説教 されるみたいに「主のお召しがあるまでは」… つまり、「自然死」をするまでは いくら 仕事 が辛くとも「自殺」などせず 一所懸命 に働け、「御主人」の言いなりに 何でも抗らわずに 仕事 をせねばならぬ … というのが「黒人讃美歌」なのである。
 

 
 かつて『戦陣訓』で「虜囚の辱めを受くるなかれ」とされ、野戦病院 の動けぬ 患者 にも 自決用 の手瑠弾が渡された。何故かと言えば、「戦奴」の 日本兵 は「親方日の丸」の時は 絶対服従 だが、「捕虜」になると 今度は「親方紅旗」であって、学歴 のあるのは 延安 へ送られ 野坂参造 の教育を受けた。

 そうでないのでも 飯を喰わせてもらっている義理 なのか、「捕虜」にされたのは すぐさま勝手知ったる味方の陣地へ 手引き をして、先頭に立って 真っ先駆けて突入する。「文禄の役」でも 加藤清正 を 篭城 にまで追い込んだのは、「降倭」と呼ばれた 元日本軍 だった。

 「特別攻撃隊」として「日の丸」や「海軍旗」を振られて出撃したはずの 捕虜第一号 となった S大尉 は、「姓名S、認識番号は何番」とだけ答えれば好いものを 進んで今日からは顧みなくて、「親方は星条旗」とばかりに「海軍特別暗号」から 日本海軍の 微 に入り 細 に入ったレポート を提出した。後に、山本五十六 元帥を 撃墜 した時には「勲章」の代りに シャンペン を届けられたとさえ伝わる。「戦奴」の兵だけでなく、「大尉」でさえ好かれようと 媚びる みたいに 奴隷根性 そのままである。

 だから「捕虜」にされたら、「将棋の駒」みたいに 進んで向こうの ご機嫌取り に使われる「国民性」ゆえ、「捕らえられずに自滅してくれ」と「口封じ」に、身動きできぬ 怪我人 さえも 自殺 させたのが 皇軍。

 どうして「国民性」が 万邦無比 な 奴隷根性 なのか?という 根本的な問題 を 歴史屋 が解明しないから、軍人 はその「奴隷性」の謎解きはせず「忠誠心」と 曲解 して、ぶん殴る 事で鍛えに鍛えた。つまり 言って聞かせる のではなく、殴打することで「命令」に従わせ 軍隊 の末端に 組織化 した。
 

  7 世紀から始まった 藤原王朝 の 日本原住民 捕虜奴隷制 が今の 20 世紀になって続いている。だから日本の 古代史 は、「縄文時代」が 武力 で「弥生時代」に変えられた 7 世紀 以前 を調べてゆかねばならない。
 

 
 が、『日本書紀』や『古事記』などは 藤原王朝 になってからのもので、しかも 江戸時代 に 完成 というか出来たものだが、この「徳川時代史」というのを 明治新政府 が 解明 を全然せずに、華族会長 に 徳川公爵 がなり「史学会」を 統轄 したので、「徳川家」の 会社の社史 みたいなものが そのままで 確定史料。家康 は 世良田 の 二郎三郎 だったことも「死人に口無し」のままで 押し通されている。

 藤原王朝の「公家日記」も、戦国時代の 山科言継 や 山科言経 父子の「日記」ぐらいしか 信用 はおけぬ。火山灰地 だったのが 農地 に変わった 坂東八ヶ国 を、各々その「荘園」にせんと「討伐」のデッチあげ の「天慶の乱」のごときは、当時の公家の「日記」が「将門の乱」とするも 己 が「領地」にしたからの 誤魔化し である。

 だから「何処に出ている」「何処にも書かれている」といったのは 全く信用できぬ。「書き残された」という事は 恰好づけ というか、そうせねばならなかった せいも思うべきだ。それゆえ「…によれば」と 援用 するのはその お先棒を担ぐ に過ぎないだけの話。

 なのに 歴史の話 となると決まって「何々によれば」と「裏書き」みたいに引用 援用され、勿体つけるみたいに 信頼性をつける。これはダマシである。『古代建築秘話』にあるみたいに 出雲 の地名がそっくり 関西 に移されて、地名変更 されたものなど 引っぱり出して 来て 立証 しても、今では「嘘の積み重ね」みたいになってしまう 恐れさえある。

 だから「史書」を読むより「常識」に頼るべきだ。そうでなくては、次々と「権力者」によって書き改められ 都合良くされ 伝えられてきたもので、「真実」の 古代史 の 解明 などは到底できはしない。安易に『日本書紀』などを 絶対視 すべきではない。

 もちろん 調べる のは自分の 足 と 眼 で、それで自分の体内の 血の流れ による 常識 によって、それを判断してゆくしかない。つまり、『日本書紀』を「一」として そこから始めたのでは 駄目 で、「ゼロ」から出発してゆかぬと、聖徳太子 が 出雲 の 聖徳王 の名を借りた 何者かも わかりはしないのである。
 
 

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