普遍主義

「文化的個別主義」に反対する左翼の武器・普遍主義
ヴィヴェク・チーバー (ニューヨーク大学社会学部準教授 / 著書に「ポストコロニアリズム理論と資本の亡霊」 [Vivek Chibber, Theory and The Specter of Capital, Verso, Londres, 2013]、以下の記事の一部は、Socialist Register誌2014年版に掲載された)
訳:逸見龍生
 
 
 「植民地の時代」が終わると多くの国は産業発展の途へと促され、大規模な労働者階級を産みだした。だが逆説的なことに、この発展にともなって社会闘争の浪費がみられる。急進的な知識人のなかには「階級」や「資本主義」といった概念は西洋がつくりだしたもので、西洋以外のコンテクストには適応不可能であるという者もいる。「南」の諸国の民衆は、まず自分たちの「歴史」や「文化」を取り戻さねばならないのだ…と。

 社会学者ヴィヴェク・チーバーが著作でこれに反論し、米国で大きな論争を引き起こしている。彼は、労働者階級の窮乏と反抗は「個別の地域」「個別の文化」を越えた、「普遍的な現象」であることを示している。

【フランス語版・日本語版編集部】
 

≪ 原 文 ≫

 
 
 果てしが無いかと思われた「冬」の後、「資本主義」…少なくともその「新自由主義ヴァージョン」に対する世界的な抵抗運動が復活してきている。過去40年以上もの間で、この種の「運動」がこれほど精力的に全地球規模で生じたことはなかった。確かにこの数十年来、間歇的な動乱や短期的な異議申し立ての動きが世界各地に現れ、「市場法則」の止めどもない拡大に抵抗してきた。だが欧州や近東、米大陸で2010年以来起こっている事柄は、それらと比較しようもないほど大きい。

 「運動」がこのように再出現した結果、ここ30年間のあいだの「運動」の退潮によって起きた被害の大きさにも光を当てることになった。労働者が保有する「運動」の手段はかつてないほど脆弱になっている。労働組合や政党などの左翼組織は実質を失い、財政緊縮の支配の共犯者とすらなった。さらに左翼の弱体化は政治・組織面ばかりではない。理論面でも同様である。

 「野戦」での敗北に次ぐ敗北は空前の知的衰退をもたらした。「社会の変革」という観念が「知」の風景から撤退したというわけではない。少なくとも米国では、進歩的知識人や急進的知識人がなお多くの大学で教鞭を執っている。

 だが、政治的急進性の意味そのものが変わってしまった。「ポスト構造主義」の理論の影響の下に、社会主義的伝統の諸基礎概念は疑わしきものとなり、危険なものともなった。実例を挙げれば…
 

「資本主義」は個人を抑圧する、現実の強制的構造である。

 
…とか…
 

「社会階級」の概念は、きわめて明白な搾取関係のなかにその基盤をもっている。

 
…とか、あるいは…
 

労働の世界にとって、集団的組織形態をとることが有効である。

 
…ことなどである。いずれの「命題」も二世紀のあいだ左翼には明白と見なされてきた分析であるが、今日ではあまりにも「時代遅れ」と見做されている。
 
 

ポストコロニアル・スタディーズと左翼の思想的遺産への攻撃

 「ポスト構造主義」学派によって開始された「唯物論」や政治経済学との決別は、この「潮流」の最新の殿堂において「掟」と同然の力を持つに至った。この殿堂は、アカデミズムの世界では「ポストコロニアル・スタディーズ」という呼び方の方がよく知られている。

 この二十年間、左翼の思想的遺産への攻撃はその「旗印」を変えてきた。フランスの哲学的伝統は、南アジアや「南」の諸国からやって来た、きら星のごとく並ぶ「非西欧的理論家」に取って変わられた。最も影響力を持つ(そして最も顕著な)理論家としては、スピヴァクホミ・バーバラナジット・グハ、そして「サバルタン・スタディーズ」のインド人グループ、さらにコロンビア人文化人類学者A・エスコバル、ペルー人社会学者A・キハノ、アルゼンチン記号学者W・ミニョロの名が挙げられる。

 彼らの共通点は、「啓蒙主義」の伝統を丸ごと捨て去ってしまうことだ。「啓蒙」はその「普遍主義」ゆえに疑わしい。文化や地方の特殊性とは無関係にある種の「カテゴリー」の価値を主張する…という、その傾向ゆえに疑わしいのである。

 彼らの主たる標的…それはマルクス主義者たちだ。「マルクス主義」が「啓蒙」というこの、「盲目知の発展したもの」であると見做されているからだ。マルクス主義者たちから見れば、「社会階級」「資本主義」「搾取」といった概念はいかなる地域であろうと、どんな文化にあろうと変わらず有効なものである。キリスト教の西欧、ヒンドゥー教のインド、イスラム教のエジプトと、どこであろうとこれらの概念は社会関係の理解に適切なものであった。

 だが「ポストコロニアル理論」の支持者には、これらの「カテゴリー」は理論的にも実践的にも「袋小路」に至る道だ。分析の「格子」として欠陥だらけであると同時に、反生産的でもある。これらの概念は「政治的課題」に固有の「創造的側面」と「自律的側面」を否定し、行動に必要な「知的エネルギー」をそこから奪ってしまう。

 つまるところ「マルクス主義」はヨーロッパという土壌に形成された、杓子定規な枠組みの内に各地の特殊性を押し込むに過ぎない。「ポストコロニアル理論」は「啓蒙」の伝統を批判するだけではない。まさにこの伝統に取って代わろうとする。
 

「普遍主義」という「公理」は植民者権力の中心的支柱のひとつである。なぜなら、人類は「普遍的」な特徴をもつとする考え方は、事実上支配者のものだからだ。

 
 「ポストコロニアル・スタディーズ」の代表作のひとつにはそう記してある。西欧に特有の性質を人類全般にとって正しいと主張することによって、「普遍主義」はその「支配」を固めようとしているというのだ。「普遍主義」の規律に適わない文化は劣位に置かれ、暗黙裏に「教導」すべき対象とされ、「自治権」を禁止されてしまうと。著者らの説明によれば…
 

「普遍主義」の神話は、「西欧」こそは「普遍」であるという「公理」の基盤に立った、「帝国主義」的戦略に属する。

 
 こうした論理はポストコロニアル思想の中核にある、「二つの観点」を結合させている。まず形式面では、「普遍主義」は社会の異質性を無視し、「適切でない」と判断された実践や約束事を「周縁化」してしまう…という観点だ。「周縁化」とは支配権の行使というわけである。

 第二に(これは内容にいっそう拘わる面だが)「普遍主義」が、西欧のヘゲモニーの土台のひとつをなすと見做す観点だ。「思想」の世界はもっぱら西洋で形成された諸理論を中心に作られており、政治的行動を育む知的反省や理論にとってはこれらが足枷となっている。こうして政治思想は西欧の諸理論によって、一種の「西欧中心主義」に染め上げられてしまうのだ。

 「ポストコロニアル理論」の目的とはこうした先天的な欠陥を消し去ることにある。それがなおしぶとく存続し、もろもろの結果を産みだしていることを明示するのだ。
 


カール・マルクス(1818 – 1883)

 
 「マルクス主義」と左翼思想に関わる「大きな物語」への敵意はここから説明できる。今や重視されるのは、グローバルな分析を逃れる断片的なもの、余白、そして地理的ないし文化的な特殊性に根を下ろした実践、伝統である。D・チャクラバーティが「地域固有の異質性と共約不可能性」と呼んでいるものがあるが、まさしくそこにこそ、今後の政治行動の手法を探すことが相応しいと言うのだ。
 
 

資本主義分析と政治的抵抗の実践 ─ 西欧中心主義か?

 マルクスエンゲルスが生んだ政治的伝統には「二つ前提」がある。第一は、「資本主義」は地球上に拡大するにつれて、その網に落ちた誰に対してであろうと制約を押しつけるということだ。アジア、南米、アフリカなど「資本主義」が根を下ろした地域では、至る所で「同じ一連の規則に従った生産過程」がもたらされる。経済発展の様態や成長の速度に違いがあろうとも、いずれも「資本主義」の深層構造に刻み込まれた同じようなことが起きるのである。

 第二の前提は、「資本主義」がその論理と支配を強固にするにつれ、遅かれ早かれ労働者側がそれに反旗を翻すことも既定事実とされていることだ。世界のあらゆる場所に、「資本主義」による捕食活動に対する無数の「抵抗」の実例がある。それらはいずれも「宗教」や「文化的アイデンティティ」とは無縁のもので、マルクスエンゲルスの理論の正しさを示しているように思われる。

 ゆえに各地域に固有の「共約不可能」の異質性や重要性がどんなものであれ、「資本主義」は人類全体が抱く根本的な欲求に攻撃をしかけるのである。「資本主義」に対してなされる反対運動もまた、その再生産の法則と同じように変化はほぼない。「抵抗」の様態には場所による違いはないのだ。「抵抗」に生命を吹き込むメカニズムは、個人の「幸福への希求」と同じく普遍的なものである。
 


フリードリヒ・エンゲルス(1820 – 1895)

 
 マルクスエンゲルスのこれら「二つの前提」は、一世紀以上にわたって「革命」の分析と実践の支えとなってきた。「ポストコロニアル理論」がすべてそれらを一挙に「断罪」したこと…
 

この「二つの前提」の、恥知らずな「普遍主義」的内容を許すことなどできようか。

 
…は、深刻な論理的帰結をもたらす。「マルクス主義」というラディカルな批判の理論的道具から「反資本主義」を取り除いたら、いったい何が残るであろうか。

 経済の歩みを決定している情け容赦ない利益競争を考慮に入れなければ、2007年以後世界を襲った経済危機をいかに解釈するのか。緊縮政策の意味をいかに理解したら良いのか。普遍的な利害関心の表出をそこに見て取るのでなければ、カイロやブエノス・アイレス、ニューヨーク、マドリッドで、「同じスローガン」を唱える地球規模の抵抗運動をどう考えたら良いのか。普遍主義的な枠組みを忌避して、「資本主義」のどのような分析ができるというのか。

 問題の深刻さを考えるとこんな期待をしたくなる。「ポストコロニアル・スタディーズ」の信奉者たちも、さすがに「資本主義」や「社会階級」といった概念は除外してきたのではないか。彼らだってこれらの概念は役に立つと判断しており、「西欧中心主義」などという疑いをかけたりはしていないのではないか…と。

 ところがこれらの概念は彼らの目にはいかなる意味も持たぬもの、そればかりか、「マルクス主義」の空虚さの実例そのものと映っている。例えばプラカッシは…
 

(歴史分析の基盤に)「資本主義」を据えてしまうと、それぞれが「異質」な複数の「歴史」を均質化してしまうことにつながる。

 
…と述べる。プラカッシの考えによれば次のようになる。
 

マルクス主義者が「資本主義」の動態の外部にある諸活動を理解しようとしても、せいぜい少しずつ消滅していく「過去の遺産」ぐらいにしか考えない。
 
社会構造はそれが反映している経済的動態(生産様式)を基盤に分析できるという考えは、単に誤っているだけではなく、「西欧中心主義」の産物である。
 
つまるところそれは、「帝国主義的支配」という形態と共犯関係にあるのだ。
 
他の多くの西欧的観念と同様に、生産様式の交替として歴史を見る西欧中心主義的な物語は、19世紀の領土的帝国主義と一対をなしている。

 
…とプラカッシはいう。チャクラバーティも影響力の強い彼の著書『西欧を地方化する』で同様の議論を展開している。彼によると…
 

「資本主義」の展開を通じて世界が普遍化するという主張は、地域の様々な動態を同一の主題の単なる「変異」に還元してしまう。あらゆる国が、抽象概念との適合性の程度によってのみ規定された結果、その国固有の「歴史」は、「西欧の経験」という大きな物語の脚注としてしか存在しない。
 
それに加えて、マルクス主義者は世界の発展に関する分析から、「不測の事態」をすべて排するという悲劇的な誤謬を犯した。資本の普遍的動態を信仰するあまり、マルクス主義者は「歴史的過程における断絶や亀裂、変化の可能性」に盲目となってしまった。
 
マルクス主義者の考える「歴史」とは、人間性に特徴的な、「自由意志」に本質的な不確実性をまぬかれた歴史であり、あらかじめ決めてある目的に避けがたく向かっていく「直線」に似ている
 
以上の理由から「資本主義」という概念は単に受け入れがたいのみならず、政治的には「危険」である。この概念によって非西洋社会は、「自らに固有の未来」を建設する能力を奪い取られてしまう。

 
…と。しかし以下の事実は誰も拒んではいない。すなわち、前世紀を通じて「資本主義」が地球全体に拡大し、以前に植民地化された世界のほぼ全域がそれに巻き込まれたことである。

 アジアや南米をはじめ新たな地域に「資本主義」が定着するとき、地域の「社会」「制度」にその影響が必然的に及んでいる。資本蓄積の論理は地域経済にも、また、この侵入してきた「圧力」に適合を余儀なくされた非経済的部門にも、同様に及んだのである。

 だがチャクラバーティは、「資本の頸木」が地球全体に拡大したことは認めるにしても、そこに世界の一種の「普遍化」を読み取ることは拒絶する。彼のいうところによれば「資本主義」が真に「普遍化」の媒体となるのは、あらゆる社会的実践が「資本主義」の法則に従う場合であり、そうした場合のみに起こる。

 チャクラバーティはいう…
 

資本のいかなる歴史的形態も、例えそれが世界的規模に及ぶものであったとしても、けっして普遍的なものにはなりえない。
 
「グローバル」であろうと「ローカル」であろうと、どんな資本形態も資本の普遍法則を表象したりはしない
 
それというのも、歴史的に決定された「資本主義」の形式はすべて、「ヘゲモニー」への希求と「地方固有」の慣習や約束事の抵抗との、一時的な妥協の産物なのだから。

 
…と。

 結局、チャクラバーティにとって「普遍化」を語ることができるのは、ただ「資本」が社会関係総体を制覇し、それからすべての「自律性」を奪ったときのみなのである。まるで「資本主義」の主導者たちは、「自分たちの利害」と「個々の社会的慣習」が適合しているかどうかを計測するために、手に「政治的ガイガー機器」を持って世界を踏破しているかのような物言いだ。

 「別の見立て」のほうがもっと事実に近いようにみえる。つまり、資本家は支配を拡大し最大限の投資収益を確保しようとする。特にそれと矛盾しない限りは、「ローカル」な約束事や習俗がどうであれ気にもとめない。労働者の不服従が引き起こされたり、市場の発育の妨げになったりなど、「環境」が資本家の目的にとっての障害となって初めて、「調整」や場合によっては社会的慣習の変更が必要になる

 こうした場合を除いては、地球上の様々な場所における「世界における様々な存在のあり方」に対し、資本家は王侯のごとく「無関心」である。
 
 

万人にあてはまる物語、普遍的な歴史としての資本主義

 どんな「詐術」を使ったら、「グローバル化」は世界の普遍化を意味しないなどと言えるのだろう。至る所に拡大する諸々の「実践」が資本主義的なものとして記述されることが妥当であるとき、まさにこれら「実践」が普遍的なものになったということである。「資本」は進み、人口のますます広汎な部分を隷属化させる。こうしながら「資本」は万人にあてはまる物語、普遍的な「歴史」をつくりあげる。「資本の普遍史」という歴史を。

 「ポストコロニアリズム」の理論家たちは、口先では「グローバル資本主義」の君臨を認めるがその実質は否認している。だが彼らをいっそう困惑させているのは「唯物論」的分析の第二の点、すなわち抵抗現象に関わる側面である。

 確かに彼らは「資本主義」が発達するにつれ、それに対する反抗が生じることは認めている。労働者や農民、植民地現住民による闘争の称揚は、「ポストコロニアリズム文学」がしきりに描いてきたテーマであり、この点で「マルクス主義」の分析と一致している。

 ところが、「マルクス主義」が被支配者側の抵抗を「社会階級」の利害の表現と理解しているのに対して、「ポストコロニアリズム理論」は、この客観的かつ普遍的な「力関係」の問題をわざわざ棚上げにしてきた。「ポストコロニアリズム理論」にとって「抵抗」という事象は「ローカル」で、特定の「文化」「歴史」そして「領域」に固有の現象に由来し、人類全体を特徴づけるような要求とは無縁なものなのだ。

 チャクラバーティの目には、社会闘争を「唯物論的観点」に結びつけることは…
 

(労働者に対して)ブルジョワ的合理性を割り当ることに帰する。というのも、ある行為(ないしある物、関係、制度)の「経済的有効性」を合理的なものとして成立させるのは、かかる合理性の体系の枠組みの内においてだからである。

 
 エスコバルも同様に次のように書いている。
 

「ポスト構造主義」の理論は、閉じられた自律的・合理的「個」としての「主体」という自由主義的観念を捨てるよう私たちに呼びかける。「主体」とは様々な領域において、歴史的に決定された言説と「実践」の産物なのである。
 
「資本主義」が対立を露呈するとき、こうした対立は個別的な文脈に限定された欲求の表現として理解される。この欲求は「歴史」や「地理」にあわせて築き上げられただけではない。「啓蒙主義」の普遍的物語に組み入れようとする、いかなる試みからもまぬかれている世界観によって産みだされたものである。

 
 個人の利害関心や欲望が「文化」によって決定されていることは論を待たない。ポストコロニアリズムの理論家と、より伝統的な進歩主義的理論家の間に、この点についての不一致の種となるものはない。だが一例だけ挙げれば…
 

この世界のどんな「文化」であろうと、物質的な幸福への関心を人々に持たせないようにするような「文化」は存在しない

 
 「食物」や「家屋」「安全」などへの根本的な欲求の充足は、それが「文化」の再生産にとって必要である以上、「いかなる場所」「いかなる時代」においても常に重要である。それゆえに、人間の行動のある面は各「文化」による鋳造からまぬかれていると言える。すなわち、そうした側面は「特定の共同体」に限定されるものではないのだ。「特定の時代」「特定の場所」にのみ当てはまるものを超えた、「人間の心理」「人間の本性」に属するものを反映しているのである。
 
 

人間に共通の願い

 こう言ったとしても私たちの「食物」や「衣服」「家屋」への好みが、文化的特徴や歴史的偶発時の総体と無縁であると言いたいわけではない。そもそも「文化相対主義」の信奉者たちは、われわれの欲求が文化的に構築されていることのひとつの証として、消費形態の多様性を必ず強調する。こうした主張の内容はなるほど自明ではあるが、しかし、「飢え」や「寒さ」「絶望」で死なないことが人間に共通の願いであることとは別問題である。

 まさにこうした人間的な幸福への配慮を「糧」として、「資本主義」は行く先々で成長する。マルクスが見たように、「経済関係の陰鬱な押しつけ」こそが労働者を「搾取」の連鎖に投げ込むのに十分だ。このことは「文化」や「イデオロギー」とは独立した真実である

 労働者は労働力を所有するやいなや(そしてその外には労働者は何も所有していないのだ)この労働力を売り始める。なぜならこれだけが、最低限の幸福に達するために労働者が保有している唯一の選択肢なのだから。自分の「文化環境」に照らし、自分たちの雇用主を富ませることなど止めようと思えば、労働者はもちろん「拒否する自由」がある。だがそれはエンゲルスが示したように「餓死する自由」があるというのと同じ事である。

 人間の本性にあるこうした「生存欲求」という側面は、「搾取」の基盤となると同時に「抵抗」を育むこともある。同一の絶対的な物質的必然が資本家の手のもとに労働者を追いやる一方で、労働者を隷属化へと導く諸条件への抵抗へ促すこともする。

 雇用者は強欲から生産コストの切り下げに走り、そのために賃金総額を低く抑える。「組合」が組織されていたり剰余価値の高い部門では、収益を最大限にすることに自ずと限度が生ずることになり、労働者は日々の生存のために闘うよりも生活水準の向上に専念するだけの余裕は持つ。だが「南」と呼ばれる諸国や先進工業国のど真ん中で増大しつある一部の部門では、別の事態が起きている。

 「収益最適化」のためにお粗末な賃金の他に様々な別の手段も使われる。利益優先のためポンコツになるまで使い切られる老朽した機械設備、作業計画の過密化、労働時間の拡大、病気休暇中の賃金不払い、労働災害への保障拒否、退職金や失業保険の不在などである。

 「資本」が繁栄する場の大多数で、労働者の幸福追求の夢を「資本蓄積の法則」がたえず打ち砕いている。「抗議運動」が起こるのは多くの場合は、生きるための最低限を要求するだけでそれ以上ではない。あたかも、まあまあ人並みの生活条件を望むことが信じがたいほどの贅沢だと言わんばかりだ。

 「資本主義」の進展の第一の局面である「労働契約への服従」は、「資本主義」が世界のどんな場所にも根づき大きく花を結ぶことを可能にした。第二の局面である「搾取への抵抗」は、「資本主義」が目をつけたあらゆる地域で「階級闘争」を産みだす。より正確には闘争への「動機」が産みだされる。この「動機」が実際に「集合的な行動」という「実」を結ぶかどうかは、様々な偶発的な要因に左右されるからだ。いずれにしても、「資本」の普遍化はその必然的帰結として、「生活の糧」の保障を求める労働者の、普遍的な闘争をもたらす。

 人間の本性における同一要素からこれら二つの形態の「普遍主義」が生まれると指摘するからといって、それがすべてだと言いたいわけではない。大部分の進歩主義者の目には、「個別文化の障壁」をあっさりと乗り越える「他の要素」「他の要求」も関与する。例えば「自由」や「創造」「尊厳」への希求などがそれだ。

 なるほど、「人間性」を単なる生物学的欲求に還元することはできないが、それでもなお、例え他の欲求と比べて「通俗的」なものだとしても、こうした欲求の存在を認め、「社会変革のプロジェクト」におけるそれにふさわしい場所に返してやらねばならない

 かくも自明な事柄を考慮に入れないことは、左翼の知的文化の健康状態にとって良い徴候とは言えない。
 

 
 多くの点で「ポストコロニアル・スタディーズ」は、「実り多き役割」を果たした。南側諸国の文学生産の飛躍に大きく寄与している。1980年から90年にかけての、時代を画した「知的交替」において「反植民地主義」の焔を蘇らせ、新たな帝国主義批判に影響を及ぼしている。

 ある種の西欧中心主義的な高慢さに対するその攻撃が、筋違いな結果しかもたらさなかったと言えばあまりにも事実から遠い。だがその代償も重い。息を吹き返した「資本主義」がその破壊力を以前よりもさらに過酷に繰り広げているとき、米国の大学で流行中のこの理論は、危機を理解し戦略的な見通しをつけるのに必要な概念的装置を解体しているのである。

 「ポストコロニアリズム」の支持者は夥しいインクを使って「自分たちが建てた風車」を相手に闘った。その過程で彼らは「現地主義」と「オリエンタリズム」の復活に大きな力を貸した。彼らの主張は「ローカル」なものを普遍的なものよりも優先させることだけに止まらない。政治行動の唯一の動力として提示された「文化的個別性」に関する彼らの強迫的な価値賦与は、逆説的にも、植民地権力が征服地に与えた異国趣味的で軽蔑的なイメージを再興したのである。

 20世紀を通じて「反植民地主義」運動は、猛威をふるったあらゆる場所の暴虐を非難してきた。それはまさにこうした暴虐が万人にとって共通の希望を侵害しているからであった。

 今日、「西欧中心主義」への反対という旗印の下、「ポストコロニアル・スタディーズ」は「文化的本質主義」を逆に産みだしている。左翼が「帝国主義支配」のイデオロギー的礎と、正当にも見做してきたものである。

 「ローカルな文化」と引き替えに「普遍的な権利」という観念の信用を失墜させるとは、民衆の権利を蹂躙する専制者に対する何と素晴らしいプレゼントだろうか

 「国際主義」的かつ「民主主義」的な左翼の再生は、これら古ぼけた表象にけりをつけ、われわれに共通の「人間性」と、「資本の脅威」という対立する「二つの普遍の価値」を新たに主張していかねば、ただの願望に留まるだけなのである。
 
 
 
 
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2014年5月号)
All rights reserved, 2014, Le Monde diplomatique + Hemmi Tatsuo + Ishiki Takaharu + Emmanuel Bonavita
 


※中見出し最後「人間に共通の願い」の段落途中
【元】 「労働者は、労働力を所有するやいなや、この労働力を(そしてそれだけを)売り始める」
【正】 「労働者は、労働力を所有するやいなや(そしてそのほかには労働者はなにも所有していないのだ)、この労働力を売り始める」に訂正(2014年7日1日)