歴史の中のサンカ

第1 – 発生期(武内宿弥時代)西暦2世紀

 西暦2世紀。つまりヤマトタケルが伊吹山中にて毒害され、武内宿弥が、日本歴史では「棟梁之臣」つまり今でいう首相という事になっているが、西暦95年に東国を巡察した結果、新植民地を開発せんとして住民狩り

 西暦126年8月に、彦狭島王の子の御所別王が、武内宿弥の命令により中国大陸より鉄製武器にて武装して、縄文日本原住民系を捕虜奴隷にする。

 この時、脱走して第二帝国ならぬ自由地区をと、山中で逃げ隠れて散らばった彼らの時代。
 
 
第2 – 平群真鳥父子討伐期(武烈時代)西暦5世紀

 騎馬民族の末裔や残党は討ったが、今のマレーシア経由で日本に漂着し、各所に黒潮で接岸、上陸したアマの民は、雨水と生魚をかじって漂着してきて、雲南経由の水田耕作の民と共に、漁、製塩、農耕の民として奴隷課役させられていたが、食糧確保のアマジリ(塩尻)の者らは、雄略帝が前帝を殺した西暦456年に、残された一族を滅ぼされた後に、西南よりの古代海人族の、後にいう「博士・太夫」とか「アー元」(網元)にあたる平群の真鳥を登用して使い、食糧の確保を約束させた

 ところが次の武烈王の代になると、各地の平群の庶民の蓄えていた乾魚や雑穀をみな強制没収

 次いで、また囲い地に入れて強制課役奴隷に戻し、邪魔になる真鳥とその子の鮪を、大伴金村の軍勢を遣って主だった一族と共に誅殺。大臣邸の掠奪が終わると、彼らは放火して引上げた。

 この時、武烈王の容赦ない苛酷さに縮み上がって、従順な奴隷に逆戻りして限定地へ放りこまれた者も多かったが、全部ではなかった。

 脱走を計って平の真鳥や伜の鮪の仇を討とうとした連中も、かなり相当にいたらしく、彼らは素直に武烈王の命令に従わず山へ海へと逃げた

 サンカ言葉にバビロニア語が多いのも、こうした理由から考えていくと、よく納得できる。
 
 
第3 – 蘇我氏追放(釜足時代)西暦645=7世紀

 かつては武内宿弥がヤマトタケルノミコトを毒害したまいて、皇位継承者をなしにしたという事は、本当の帝位は彼が継ぎ、その子孫が後に続いたからで、雄略や武烈までの時代を、「倭の五王」と中国大陸からは呼び、珍、讃といったような呼び名を向こうでつけるのは、それなりのわけが明白だったせいだろう。

 つまり、弥生時代へと日本列島は、武内宿弥から変わっていた

 が、改めて釜足(鎌足)が「防主」とよぶ大陸人を率いて日本列島へ入ってくると、僅かな鉄を分け合って棒の先につけて戈とよばず槍といっていた騎馬民族系の蘇我氏などは、青竜刀や金剛戈の一撃で叩き倒せて勝ったから、彼らは百済系の中大兄を立てて、進攻という恰好にはさせず内乱として蘇我王朝を滅ぼして、うまい具合にとって換わってしまった。

 これを学校歴史では「大化の改新」と、さもうまい舞台設定をして教えているが、日本書記には、誅殺のあった板ぶき宮は、その後は焼失と明記されているが、最近の発掘では焼けた痕は何処にもなかったとす。

 「六踏三略」を初めて持ち込んできた鎌足が率いて多武峯に山砦を作り、そこへ最新武器を持ち込んできた「防」の兵らを指揮し、それで蘇我の一族郎党つまり後に源氏となって蘇生してくる新羅や高麗系の一掃を企てて、貧弱な武器の騎馬民族の子孫の皆殺しを謀った。

 もちろん女だけは捕虜にして今の生駒を、当時は「夷駒」とよんで収容。「イコマは悲しきオンナまち」と現代でも演歌で謡われるような伝統を、20世紀までも残すようになっている。

 降参して捕虜となった男の者共も、農耕も漁業もやらぬ遊牧民族ゆえ、牧場の牧童にさせ、「飼戸(シコ)」と呼んで馬の世話をさせ、まぐさ刈りをさせるなどし、もし馬が死にでもすれば飼戸は罰として殺されたり生皮をはがされたりしたから、彼らも次々と脱走して山中へ逃げ隠れ住んだ。

 サンカのテンジンとよぶ幕張りが、蒙古や沿海州、北鮮での昔の包(パオ)そっくりなのをみても、当初のサンカは、平群が討伐された時に、真鳥や鮪の復讐を誓って逃げ込んだ名残りが、サンカの娘の茜色、女房らの赤ネル腰巻だとすれば、そのサンカが寝るセブリ…つまり幕は、蘇民系『蘇民将来之子孫也』という木札は京都祇園社で配っている)。

 平場では後には源平合戦など起きるが、逃げ廻る日本のジプシーみたいなサンカ社会は、この時から白の蘇我の逃げてきた連中が入りこんできて、一緒に共同生活を始めたのである。

 古代海人族のところへ、日本海を渡って騎馬民族がバラバラと入ってきて、崇神王は八ヨリ姫と婚礼され、その生れた子で孫にあたる景行帝も、アマの八坂姫にヤマトタケルらをも産ませた。

 だから両者が一つになって、山から山へセブリをはって逃げ廻っていたとしてもおかしくはないし、共に武内宿弥、藤原鎌足といった鉄製武器を持った大陸連中に潰された敗残者どうし

 追われる者として一緒にテンジンを吊って、彼らがセブリを張って夫婦になったとしても当然。
 


八切止夫 (1914年 – 1987年)

 

第4 – 日本原住反抗期(桓武帝)西暦780=8世紀

 アメリカの西部劇を例にひくと同じ様だから判りやすい。つまりリオグランデ砦みたいな多賀城ブラボー砦みたいな伊治城を奴隷使役で築いたが、後年のような城廓ではなく、矢を防ぐ鹿(ろく)さいなどで四方を囲んだだけで、中には宿舎があった程度のもので、飼戸の奴隷が馬の手入れをして、黄色のひれをつけた「防」、つまり西部劇の騎兵隊が屯所として詰めていた。

 「蜂起(宝亀)11年3月22日、陸奥上治郡大領伊治麿呂が、もともと原住民ゆえ、治安維持のため大領の官につけてもらっていたのを、百済系の按察使紀広純が、面と向かって非人とか人外者と蔑んだのに事は始まる」と日本後紀では説明している。

 が、それまで奴隷課役の監督を無理矢理させられて、憤懣やる方のなかった伊治麿呂はもはや堪忍なりがたくなって、「隠忍」…つまり「鬼」とよばれて酷使されていた連中を集めて、もうこれ以上は無理と決意を洩らした。

 「我らとて、もはや妻や娘は伊治城へつれてゆかれて騎兵隊の慰みもので、我らは死ぬまで単身でこき使われてきたものの、お頭様さえも面と向かって人外者と侮られ、クダラ(百済)にあらざれば人間にあらず、「クダラナイ、クダラヌ」と言われ続けの我ら一同も、こうなったら生きて生涯こき使われているよりは、死んだがマシでござりまする。お供しまする」

 出羽の国…つまり今の秋田の者らが先頭になって、胆沢、宇賀、江刺、雄勝の面々が角石を棒にくくりつけ、青竹で弓を作り、太竹の矢を削って火焼きをして竹槍にかため、紀広純が入った伊治城へ攻め込み、慰安婦にされていた妻や娘を救出

 城内にあった中国渡来の鉄剣を、三つ四つに折って柄をつけ槍の穂先とし、鉄楯をあるだけ分捕って、次は多賀城を攻め落とした

 スー族がカスター将軍の部隊を全滅させたよりはるかに快勝進撃で、岩手のアテルイも何千もの日本原住民を率いて駆けつけ集ってくるし、青森や山形からも次々と応援が駆けつけてきた。

 飼戸の連中は、箱根を越えて馬で食糧や占領した鉄武器を輸送。古代海人族も、かつての「富士王朝」を復活させて、クダラや弁髪進駐軍を追い払おうと、富士の裾野へ海岸に沿って今の田子浦まで進撃し、清水港の今の江尻が、富士川を挟んでの決戦場となった。

 奪った鉄棒が鍋になったために、河内にあったゲットーから、高野新笠の子を迎えて帝位に立て、自分らはこれまで蓄えてきた金目の物を牛車にのせて、高梁川を渡って中ツ国…つまり現在の岡山へ避難をした。

 インディアンは全部が集結できず、アルコールで買収されたりしたが、日本インディオは箱根以東の者はみな一致団結して、イ・アル・サン・スウの十進法でなく、アイウエオが数字の五進法で片手の指を折っての計算だが、なにしろ弁髪人が岡山へ逃げた情報も入っているし、クダラ人の敵方の中には、カネやオンナで鉄製武器の横流しをしてくる者もあって、大いに気勢が上がった。

 西の方でも因幡では、のち「水上のおん坊」とされてしまう川継らが、東国の原住民と一つになって岡山を挟み討ちにしようと、出雲方面のゲットーから収容されていた日本原住民を集めた。

 しかし、頭数は揃っても肝心な鉄製武器がなく、竹の弓矢と縄文式の投石か石斧しかない。

 そこで西暦782年初頭には、岡山よりの「防」と呼ばれる青竜刀部隊によって鎮圧された。

 現代の日本人には考えられぬ話だが、当時の事ゆえ一千万ぐらいの人口と見られる日本原住民が、これことごとく反体制勢力となって、昔の富士王朝を立て直して、搾取や酷使がなく、女をみな慰安婦とする外来者を一斉に叩き潰してしまおうと、一致団結して戦った。

 中ツ国へ避難した藤原氏は、周囲のゲットーがみな叛乱を始めたので、少しでもその血を引く者は危険だというので、三方王や妃の弓削女王は九州の日向へ配流。山上船主は水軍を握っていて剣呑だからと、騙して捕えて隠岐の島の土牢へ閉じこめて守りを固めるのに苦労。

 「向こう(大陸)より鉄武器はどんどん取り寄せ送ってやる」と約束はしたものの、岡山一帯さえ危なっかしいので、帝の方には救援武器は届かない

 そこで堪りかねて、西暦784年5月16日に、小黒麿や種継に命じて攻め込まれても安全と思われる場所を探させ、山背国乙訓郡長岡の山奥に、6月から11月までの5ヶ月間で万一に備えた宮を突貫工事で作らせて、帝はそちらへ避難された。

 昭和56年になっても、ワラビ採りに行った土地の女性が二人揃って暴行され殺害され、事件は迷宮入りという難所である。当時としても絶対安全なところだった。

 が、中ツ国の岡山の蔵人共は、せっかく身代わりに立てて、クダラ人でも兵となる者は、みな「大宝律令」の「良」「賎」の二大別の中から、良に格上げしたのに、富士川を渡って攻め込まれ、長岡の山深いところへ避難されては何ともならぬから、そこで狼狽。

 急ぎ北北東の風が吹くようになると、中国大陸へ各種の鉄武器やコーリャンの補給を頼み、西南西の風の吹く延暦四年の夏には、戦略物資の輸送船団が岡山に近いエッタ(江田)島へ次々来航した。

 クダラ系に持たせては危ない、石火弓のような最新兵器は岡山へ運んだが、鉄楯や鉄戈や青流刀は、銅羅と共に補給させて送りつけ、船で来た中国僧のために平安京を坊都とし、比叡山上に、捕虜となって送られてきた叛乱軍の原住民どもを使役して、延暦寺を建立させた。

 このため古代海人族の捕虜三千が、険しい山頂へ用材を運ぶ苦役で大半が転落死をした。後、古代海人族の血を引く八田(織田)信長がこの延暦寺を焼き討ちにして、僧俗三千を皆殺にしてのけたのは、この時の仕返しみたいなものである。

 さて、唐船は唐布や反物を持ってきたので、これを前線に送り届け、進攻してきた日本原住民の女将達に次々と贈物にした。

 「まぁ仲良くやりましょう。これはプレゼントです」と、言葉巧みにうまく機嫌をとったらしい。

 せっかく、全部まではいってないが、日本原住民の殆どが反権力反体制となって、みんなサンカみたいになっていた時に、藤づるや、樹の皮のよったのしか身につけた事のない女将達は、美しい唐反、唐布でコロリと買収されてしまった

 沢山貰って満足して、せっかく渡った富士川をとって返し戻してしまった白山島(新潟方面)の部隊すらも出てきた。

 こうなっては、せっかくアイウエオと番号をつけて快進撃を続けてきた日本原住民も、仲間割れみたいになって撤退する者が続出した。

 かつて紀古差美将軍が、5万の兵をもって進撃したのに東北の女達に男の一物をみな斬られ、道祖神の御神体とされ総崩れした実績もあるのに、赤青黄の美しい唐布や呉服に目がくらんで軟化してしまった欲の深い女将たちは、男衆はあくまで徹底抗戦を叫び、もう一息で京まで迫ろうとするのを、止めさせにかかったのである。

 この混乱に目をつけて、補給武器を渡されたクダラ軍は一斉に反撃に出た。これを…「女賢しうして牛を売りそこなう」…と、私どもの先祖は言い伝える。

 牛とは岡山から牛車で来た連中。つまり、ダイヤモンドに目がくらんだのは金色夜叉のお宮だが、唐絹に目がくらんだばっかりに、捕らえた牛まで取り戻され、弁髪人追い落としに失敗。彼女らもみな捕虜にされて開戸へ送られた

 この時の脱走者が、第4のサンカとなってしまったのである。

 どうも女性は困ったものである。
  

唱門(将門)伝説
 
 「勝って兜の緒をしめよ」というが、クダラ人の坂上田村麻呂らの軍勢が敗走する日本原住民軍を追いかけていき、原住民は「根」であるから「根蓋」をしてしまえと、谷底へ追い込んで生き埋め
 
 しかし昭和の今となると、かつて根蓋にされるのを怖れて、従順な奴隷となった者の子孫である現代の庶民どもが、東北三大祭の一つとして、土を踏みかためる型の踊りを皆して「ネブタ祭り」とし、クダラ人の田村麻呂の山車などを曳いて廻って楽しんでいる。こんなバカげた話は、歴史屋が悪いのか万邦無比。
 
 もしマッカーサー時代にレジスタンスをやって、日本人愛国者がネブタにされたら、千年後にはマッカーサーのパイプ姿の山車がくりだされ、その頃の日本人もまた、土を踏み固める踊りをするだろう。実に歴史的に珍しいお国柄である
 
 ヨーロッパ諸国が宣教師を先に送り込んで、住民をキリスト教にして植民地化を完全にしたごとく、最澄を送り込んできて天台宗。翌年には空海を派遣してきて、これが今の高野山
 
 かつて、郭ムソウこと藤原鎌足によって漢字使用が全国に布令されたが、守られていないので西暦821年には勤学院が作られ、今でいうチャイナスクールが次々と各地に建立された。
 
 というのは、桓武帝のクダラ王朝は五代まで続いたが、もはや治安が回復したので、9世紀初頭からは牛車部隊がまた戻ってきだし、帝位が代替わりしてしまっていた事になるのだろう。
 
 だから西暦884年になると、藤原基経は時の陽成帝を、「我が意に反する」とクビにする。
 
 殺されるらしいと、帝の一族は丹波山中へ逃げ込まれたので、サンカの始まりはこの時からだと決めつける歴史屋もいる。
 
 木地師となってロクロを用い、木椀や盆、コケシまで、日本全国にわたって作っているから、その当時としては二千人ぐらいが、藤原氏に睨まれたゆえ山中へ姿を消したのだろうが、次々とセブリを移動させるサンカは、決してロクロなどの道具は使わない
 
 また、現存の木地師は尊い身分の出身だと、おかしな話しだが、敵姓の藤原氏をみな名乗っている
 
 だから山者というのが、この子孫らしい。
 
 サンカと誤っては困りものである。

 
第5 – 唐滅亡契丹建国(醍醐帝)西暦897=9世紀
 
 サンカがサンカらしくなったのは、この第5期からである。というのは唐を滅ぼした契丹は日本海沿岸まで勢力を伸ばしたゆえ、半日から一日かかって裏日本へ、契丹に滅ぼされた国の者も、契丹人も、ウラジオストックの布設機雷が能登半島へ10時間で漂着している程ゆえ、当時は人間の方が先にどんどんと入ってきた。

 つまり、唐やクダラは表日本からだが、契丹からは裏日本へ夥しく流入してきたようである。則天文字(唐字)になくて契丹字の方に入っている「鈴」、「鬼」、「木」などの苗字を上に持つ日本人が東北や北陸に多いのは、これを物語っている。

 は唐が滅ぼした国ゆえ、「桃(トウ)」とは区別したが藤原氏は、進駐当時は通弁に用いたりして重宝がって、やがては藤原一門の従四位下に組み込んだ

 しかし、藤原氏の祖国を滅ぼしてとって替わった契丹からの人間は、同じ中国人とはいえ不倶戴天の敵というしかない。

 よって「契丹」の二文字を日本歴史では一切載せていない。しかし泡沫国家ではない。今も接しているインド、アラブ、アフガニスタンはキタイと呼ぶし、ソ連でもキタイスキーナである。

 歴代の中国の中で非常に文化的に優れていたようであるが、唐を滅ぼされた藤原氏にとっては絶対に許せぬ相手である。

 よって日本海を渡ってきた彼らを、坂東八ヶ国へとりあえず追い払って、同じ大陸人ゆえと、荒地ではあったが土地を与えて、それぞれにみな開墾させた

 それまで、焼畑耕作をしても水田耕作に変えても、何ともならぬ今の関東平野である。小噴火ではあるが、信州の浅間と富士の降火山灰が長年にわたって積み重なっていて、耕すのには無理な土地であった。

 が、契丹から渡ってきた頭の良い連中の事ゆえ、酸性土で火山灰を中和させる試みをして、次々と荒蕪地を田畑にかえてゆき、やがて収穫物が採り入れられるようにした

 西部劇で、インディアンを居留地へ収容。コーンを一握りずつ渡し、河から水桶で運ばせた潅漑水でやがて緑のコーン畑になって、トウモロコシがとれだすと白人の政商が目をつけ、「金になる土地に変わった」と。そこでワシントン筋へ顔をきかせ、彼らインディアンを監督している砦の軍隊に対し、ワシントンより彼らの追放命令書を送らせる。

 そこで、騎馬隊は黄色いネッカチーフを首に巻いて、せっかく生活できるようになったインディアン部落を襲撃し、反抗する者は殺し、降参した連中を次の荒蕪地へと追い込み、コーン畑となった土地は政商によって耕地として転売され、その売り上げの何割かが砦の隊長へボーナスとして手渡される。

 つまり坂東八ヶ国も、せっかく積もりに積もった火山灰をとり除き、青々とした田になりかけた頃、多賀城から、黄色い布を頭にまいたクダラ兵が契丹人を追い出しにかかったのである。

 もちろんこの危急は、契丹本国へ出された。すぐさま救援武器を積んだ船が瀬戸内海の来島、塩あくの船乗りにわたされた

 彼らの頭目の純友は、いま娘道成寺で名高い和歌山海岸まで進出し、何度も京へ攻め込んだ。そこで公家は「従五位下」の官位と、「藤原」の姓を与えてなんとか純友を懐柔しようと試みたが、とことん純友に拒まれた

 しかし、坂東方面へまで輸送するのには、ディーゼル機関が発明される前だし、蒸気で進む時代でもなく、東々北に風の吹く春しか(純友としては焦ったが)東へ出船させられなかった。

 そこで契丹からは、日本海の白山島…つまり今の新潟に軍用品を陸上げ、これを飼戸の民は馬の背に荷駄として運び、後には連雀とよばれる背負い板にくくりつけ、富士山の山梨方面から茨木の潮来へ持ち込み、小舟で運び入れた。

 どうにか鉄製武器を入手する事ができた契丹坂東人は、土地を取り上げて東北へ追い出そうとする多賀城の兵と、正面きって戦をし続けた。

 しかし、輸送路が判ってくると、京軍はこれを途中で遮断して没収してしまった。だからしてせっかく一斉に蜂起したものの、西暦938年の末に始まって、初めは勝ち戦で各地の(中)華城を占領したものの、補給がきかぬため、2年後の正月にはついに平定されてしまった。

 公家側では、契丹系の反乱とはしたくないので、平将門なる者の妻になる筈の娘が伯父の平国香に奪われたのに、坂東八ヶ国の百姓が同情して一揆を起したものとしてしまっている。

 しかし蜂起するには大量の武器が絶対に必要である。いくら人情味があつくても、一人の女を救出するために坂東八ヶ国の全住民が一斉に戦うとは、あまりに話が荒唐無稽にできすぎである。

 結局は勝てば官軍、負ければ賊軍で、せっかく苦労して耕地とした土地を奪われ、彼らは東北に追われていった

 あらゆる公家の日記にみな、平将門の乱として出ているので史実とみなされている。が、難波大助の子孫とか幸徳秋水の子孫と称する者は皆無なのに、千葉氏、相馬氏は堂々と将門の子孫と名乗っている

 と言う事は、実際は将門に似た実戦指揮者は何人もいたろうが、将門自身の存在などは全く架空で、いなかった事の裏書だったとみられる。

 新羅系の猿女が小野姓を名乗って関所を通り、語部としていろんな話をする時に、決まって「オノ」と自称して語ったから、今でも「オノの小町」とか、「オノの道風」といった名前が残っているのと同様に、契丹系の門づけは「唱門」とよばれ、自分でも「しょうもん」と自称して話して廻ったのが、今の「唱門(将門)伝説」なのである。

 それゆえ東北に「しょうもん部落」とよぶ同和地区が多く、カマド荒神をススで固めた盛岡考古館の陳列品や、「ペルシャ工芸の粋である」と人間国宝松田権六が激賞した、中尊寺金色堂の説明をなすために、何故にかくも誤られたかと、目下裁判係訴公訴中の私の「古代史料集平将門記」2900円(日本シェル出版)に詳しく出ている。

 確定史料とされている当時の公家の日記や、名古屋の真福寺に昔から蔵本とされているが、尾張藩天野信景の<塩尻百巻>に、彼が同寺を何度も訪れて蔵書一覧表を書いていて、それには出てこない「真福寺将門記」を、五柳亭の黄表紙本と並べて、これがやがて…

「比えい山上で純友が、われは関白とならん…将門どのは新皇となられよ」

…と頼山陽によって芝居にされ、「一犬嘘を吠え万犬それにならって嘘を伝える」日本史の構造を、「日本歴史集大成」の別巻として、事前連絡をし刊行をした途端に、G代思潮社(ここからは生前の八切氏と某氏との裁判に関する記述で、八切氏亡き今、何もお相手の個人名を出す必要もないと判断し伏せ字とします)K.I.から電話の一度もなく、突然に強制執行をかけられてきたので、やむなく和議に応じて本の回収を行い、原本フィルムも渡した。

 すると、K学院大学Hによって損害賠償の提訴がなされ8年たち、こちらでは将門伝説が尤もらしく出来上がるまでの経緯として、弟子にでもやらせたらしい、句読点を読み違え、間違いだらけのものだが、架空の将門が誕生する例の一つと併載。

 すると刊行もしていないのに、二版刊行の妨げとなったと損害賠償の請求。当方は実質的には千万以上の欠損。税務署提出の申告も証拠に出した。

 ただ、IやH側のK弁護士が旧検察OBなので、かつての部下だった検事に、断裁屋の調べを厳重にしたから、断裁屋が残りは恐いからと中止して戻してきた所もある。

 オカミも偽造史の側につくのであろうか。まさか刑事事件にはできずで、IやKの計算違いである。

 が、こうした「頼まれ事件」というのは多くて、検察畑のOBは他へ天下りせずともかつての地位を利用して、罪なき者に有罪起訴の手伝いを見返りするというか、教唆依頼し犯罪製造人の感さえがある。

 司法試験を合格しても検事畑を進まぬ弁護士は、刑事事件は官選弁護ぐらいで、「ヤメ検」と俗に云われる彼らの暗躍は、日本法曹界の嘆かわしい存在だが、上場の大会社の顧問弁護士は都合上、彼らが殆ど占めているのが現代の実状である。

 句読点や返り点さえろくに判らず、誤っている個所が77個所もあるものが、「30年の学識」によって3年の心血を注いだものとの慰藉料と、検事から裁判官となった方の判決主文である。
 

天神信仰
 
 寛平3年(891年)正月13日に、陽成前々帝および御一族を、位からおろし山中へ追放した権力者、太政大臣藤原基経が死んだのでほっとした宇多帝は、日本海を渡ってきた者の中から蔵人頭にした者へ、昇殿を許した。名筆の評判が高かったからである。菅原と姓を賜った
 
 翌年9月25日までに、「新撰万葉集」を編纂して参議に任官した菅原道真は、翌年9月、「もはや唐国は名ばかりにて、既に契丹の支配下に入っていますゆえ」と最新大陸情報を伝えて、遣唐船の仕度を中止させるように進言。
 
 そこで宇多帝も、「唐人ならぬ大陸人が多く都海してくるのは、そのせいなりしか」と頷かれた。
 
 が、唐を祖国と思い込んでいる公卿達は、まさかとは半信半疑でみな面食らってしまい、大いに吃驚してしまい…
 
 「あの者らは最近こっちへ来たばっかしやよって、事によったら本当の事かもしれへんな」
 
 「そやったら、わてらの御先祖の鎌足公が、郭ムソウ将軍として進駐してこられたみたいに、契丹から軍勢がやってきやはって、今度は麿達が『随々、ズッコロバシ糠味噌ズイ』になるんやおへんか」
 
…と寄り合っては心配していた。
 
 だから、西暦897年に醍醐帝が即位された途端に、「左大将藤原時平」の対抗馬に「右大将菅原道真」と、思い切った登用をされる事ができた。
 
 すっかり定着したみたいに、御所の実態をがっちり押さえている藤原体制の桎梏(しっこく:手かせ・足かせ)から、何とかして逃れようとの大御心からであろう。
 
 しかし、250年もずっと藤原体制でがっちり固められてきた宮廷内の事である。そのため、僅か4年で寄ってたかって宮中の公卿どもは…
 
 「ぎょうさん海を渡って人間が来ますよって、もし契丹の軍隊が進駐してきた時の事を心配し、麿らは菅原が豪うなるのを見過してきましたんが、どうも向こうから攻めてこうへんみたいやさかい、そやったら遠慮して小そうなっとらんかて、麿達はかまやしないやおへんか」
 
…となったので、延喜元年(901年)正月25日に、菅原道真を九州へ配流するごとく太宰権師として筑紫に左遷させ、すぐではまずいから2年後の正月に、地元の者に命じて暗殺してのけた。しかし、藤原氏は政治的に本当の発表はできないからして…
 
 「罪なくして配所の月をみる。恩賜の御衣ここにあり」
 
…といった美談になって、文部省教科書に載っていたのも、まだ藤原勢力の続いているオカミの指示によっての恰好づけらしい。
 
 つまり契丹の藤原鎌足にもあたる、派遣されてきた第一人者(菅原道真)も、唐の残存勢力によって真っ先に血祭りに上げられてしまったのである。
 
 が、ほっとしたのも束の間で次々と落雷。都は暴風雨が次々と見舞って各所に落雷。公卿邸も次々と雷火で焼けたからして…
 
 「こりゃ、あの道真めの怨霊が天界に彷徨。そして麿らの邸を狙い雷を落すんでおしゃろ」
 
 「あれは頭の良い男やったから、雷どもを指揮して太鼓をドンドン打たせ落雷さすよやろ」
 
 慌てて藤原系の公卿達は、北原の原っぱに道真怨霊封じ込めの為の天満宮を建立
 
 亡国した唐より亡命してくる連中を迎えて、最新大陸文化を採り入れ、「延喜格式」と新法を作ったりして、唐よりの亡命者の力を借りて、ますますもって御所の藤原体制をかため…
 
 「契丹人が続々と日本海を渡って渡航してきているのは、遠征してくる前の尖兵らしから、早めに掃討するが先決問題です」
 
…と帝に進言したが、藤原体制嫌いの帝は承知しなかったのである。
 
 そこでやむなく坂東八ヶ国や、紀ノ川の流域を彼らのコロニーとなし、ついに朱雀元年に帝に退位していただき、6日後に死んでいただき、8歳の新帝をいただく事によって、強力軍備を拡張しだした。
 
 「被差別歴史発生史」の私の本には詳述してあるが、日本では、天皇の謚名に「後」を上につける御方は、前の帝と同じ境遇の方に限られての命名である。これさえのみこめば判りやすい。
 
 契丹系の菅原と旧唐系の藤原氏の双方を天秤にかけられた醍醐帝に、「後」の冠称をつけられた南北朝の後醍醐帝にしても、建武の中興では足利高氏に尊氏の名を賜り、新田義貞や楠木正成と共に左右に並べて功を讃えられ、つまり双方を天秤にかけられて最後は共に御不運。
 
 さて、8歳の朱雀帝をいただき、すべて思うが侭に藤原忠平はした。鉄武器を、日本列島に当時ごろごろしていた山金と交換で入手。契丹に追われてきた亡国唐人をみな亡命させ、軍幹部にした
 
 そこで7年たって完全に武備が備わると、もはや契丹より直接に来攻はないものとみて…
 
 「彼らに賜田されし土地を返上し、新たに指示する地へ移るべし」
 
…と、ようやく収穫が順調になってきた坂東八ヶ国や、紀ノ川流域の契丹人や原住民に対して、俄かに厳重な達しとなった。
 
 菅原道真の、天界よりの怨念込めでその部族を滅ぼし得たというので、天よりの刑罰の年となし、当初は938年は天刑元年だったが、4年がかりで勝ったので「天慶」と年号も遡って変える。
 
 俗に大和民族は単一民族なりと称しても、の四姓。つまり四大部族とす。「八切裏返え史」に初め公表した時は半信半疑みたいだったらしいが、その後の14年間では、今では反論を正面きっては言えず、ヤメ検で裁判沙汰の係争を8年も繰り返しているだけである。

八切止夫作品集
『サンカ生活体験記 7』より抜粋

 
 

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