耶馬台国群は中国の出先機関

『古代史入門』
八切止夫作品集 – より
 

 古代史探求にとって邪魔というか、妙な変てこな引っ掛かりになるのは耶馬台国の存在だろう。

 昔は国といってもアフリカの部落なみの聚落で、魏志倭人伝の卑弥呼の君臨の状態の仰々しさから文字に書かれている故とし、さも大きな国だったような錯覚をしてはならない。

 自己に臣従して貢物をたえず献上しているのが、あんまりみすぼらしいのでは国威にかかわると、誇張して書かれたものと判断すべきで、それでなければ魏書の中に倭人伝は加えられていない筈である。書く者にとって、採録されれば名誉にもなるし銭にもなる。不採用では一文にもならぬ。それゆえの記述とみて、あまりこだわったり、とらわれてはいけないと想う。問題にならぬ。

 その記事よりも問題は、耶馬台国群と対立して戦っていた八幡国群である。「バハン」と呼ぶのが正しく、現在のマレーシアである。私なんかは学校では馬乗半島の当て字で教わり、ゆえに騎馬民族が此処から日本へ渡ってきたものかと、ずっと思い込まされていたものである。

 さて「バハン」は英語読みで、ラテン語では「ヤバアン」なのである。それゆえ、「日本人とはヤバアンから渡った民族」というので、ドイツでもアラブやインド各国では、「ヤバーン」「ヤバアナ」とよび、ソ連でも「ヤポン」と今でも、どこでも呼ばれているのである。

 紀元前三世紀のアレキサンダー大王遠征で首都スサを陥落されたペルシアの民は、みそぎをするヤサカ川からGIONの神を奉じ、スメラ山脈のならぶアブタビ海より、当時は、「ガレリーナ」とよばれた「バハン」のニコパルへ、開拓奴隷として送られ、そこから今の北ベトナム雲南へ送られる途中、黒潮暖流にうまく乗れたのは生魚をとって海水で味つけして噛り、日本列島の瀬戸内海を抜け阿波の鳴門から出てゆく前に、陸へ這い上がったのが今の日本人とされる。

 「聖戦」と、かつての大東亜戦争を呼んだのも、シンガポールよりニコパルを先に占領した為。そこから銀輪部隊でシンガポールの背後をついたからである。つまり後には「八」とよばれる古代海人族はここよりの南方民族にあたる。彼らは魚をとり塩もつくるし、漂着地で農耕もする。

 ハングリーの時代である。「バハン」又は「ヤバアン」とよばれる村落には、塩もあるし乾魚もあり、粟も収穫がしまってある。だが襲って奪うのには武器がいる。かつては喰いつくだけの攻撃だったから、歯が唯一の武器で、捕虜は前歯を石で叩き折られて武装解除し使役にされていた。

 しかし西南よりの渡来の聚落では、大きな貝を探してきて貝刀を作り、真竹をもちこんできて植えて増やし、弓矢を作って武器にしている。後に竹薮の多い所を八幡の薮知らずというのもこれからで、ヤワタとは耶馬台国群と対立の八幡国群の名称からの伝承である。

 耶馬台国に連合している各村長というか国群のボスが、牙をむくみたいに前歯をつきだし、「貝刀に弓矢に、歯では喰いついてゆけんから、中国から何でも斬れるときく鉄の剣を・・・」とヒミコのもとへ集まってきて、戦う武器援助を申しでてきた。

 今でいえば超能力の霊媒で、占い専門のヒミコにしても、まさかお祈りでは中国の鉄剣はアラビアの魔法のランプはないから無理。そこで北東に風がふき潮流が流れる時を見計って使者をたて、泣きつくようにして、「武器か、さもなくば食料のどちらを供与されたし」と入手したい旨を手真似で相手に伝えさせた。

 「食料を運ぶのには多くの船がいる。臣従するならば我が国より武器援助のほうもしようぞ」となった。

 もちろんヒミコが美女だったら、まず彼女を武器援助の見返りに求めたかも知れぬ。しかし、そうしなかったのは、使者の話でよくよくのブスだと判っていたせいかも知れぬ。

 だから鉄剣は木箱一つぐらいで貸与されなかったらしいが、それまでは喰いつくために突撃して近寄る前に弓矢で射られ動けなかったところを、鋭利な貝刀で血の脈を斬られ殺されていた耶馬台国群のボスたちは、ひとふりずつでも鉄の剣を貰うと旱天の慈雨のごとく感激した。

 この貝刀は八幡国群だけで、ペルシャやアラブでは多く作られ戦闘に使用されていたから、今でも切れ味の良さを貝のマークにした安全剃刀の刃も輸入されて出廻っている。

 サンカも焼印を五つ、柄につけた山刀をウメ貝とよぶ。しかし薄い貝刀と分厚い鉄剣では勝負にならず、八幡国群は一つずつ略奪され、せっかく貯えた食料も奪われるようになった。

 そればかりでなく黒潮で流されてくる途中、インドの背丈1メートル余りのピグミーが逃げてくるのを助けてきていたから、貯蔵食料の他にインドのピグミーをも捕虜としヒミコの許へ伴ってつれ戻ってきた。恐らく助けられた八幡国群のために彼らピグミーも戦ったのだろう。

 当時はビデオも車もなかったから、武器援助の見返り進貢として背丈は小人だが顔が小さく五体満足の珍しい生物として送った。魏志倭人伝に「生口」として出ているのがこれである

 現代でもカルカッタやボンベイへ行けば、幼い少女みたいのが、客とみるとパアッと前をまくって黒々したものを見せ、一人前の女であると安心させるピグミー達が屯している。

 つまりそうした倭人の群れを貢進していたので、向こうでは「倭人国」とよんだものらしい。

 でなければ中国人に比べて耶馬台国群より使者として行ったものが、ぐっと背が低かったわけでもなかろうから、頭ごなしに倭人とか倭国とか向こうが決めつけて呼ぶ筈もないのである。

 さて、鉄剣が耶馬台国群に武器援助される迄は、八幡国群の方が弓矢と貝刀で優勢で、食糧を略奪にくる耶馬台の各聚落の者を撃退していたのが、鉄武器をもってこられてはかなわぬ。貝刀や弓矢は一撃のもとに叩き折られ、食糧だけでなく聚落の男女が倭人と共に連行されてゆき、奴隷として彼らの為に食糧作りをさせられた。古代史の耶馬台国は奴隷国家の元祖といえる。

 そして日本列島には鉄資源が埋蔵されていないことが判ったので向こうの屑鉄を送りこんできて、此方の山金と同量で交換し、その屑鉄を精練する多治比人を伴い南西の潮流で日本へ入ってきたのが、ヤマトタケルを毒害し崇神王朝を倒した日本名竹内宿弥らその人である。

 藤原鎌足と改名した郭務ソウのように、前名は判っていないが、彼が北陸及び東北へ巡って歩いたのは、鉄資源探しで自給自足の為らしく、山師の元祖ともいえる。

 日本書紀では西暦95年のことだが、その五年前の景行二十年には「二月四日皇女五百野姫をして、天照大神を祀らしめ」の記載がある。既にその一世紀前に天照大神を伊勢大神宮として倭姫命に祀らしめ、89年前に天照大神は封じ込めで祟りをせぬようにと、今の奈良磯城郡織田に、とうにもはや祀られている。

 「倭」つまり中国からみて日本原住民系の倭姫を、祟りをせぬよう封じ込めていたというのは、『日本書紀』では神話に入る時代にもう原住系の「八」の女将であった大神は謀殺されて、化けて出てこぬように奈良に葬られていた事になる。

 今でも伊勢大祭は中国道教によって取りおこなわれているから、中国大陸の派遣勢力が初めから日本原住民の大女将を葬ったものかとも推理される。

 が資源も何もない土地なので三韓の奪略や進攻にまかせて竹内宿弥の頃までは放りっぱなしにしていたのかも知れぬ。

 『日本書紀』とは違うが、耶馬台国群に鉄剣をわたしていた時より、遥か以前らしい。

 もちろん東北といっても古い崇神王朝のごときは東北三省の沿海州や羅津からの日本海よりの来攻ゆえ、後の白系ロシア人も入ってきた。だから、新潟や秋田にはその落し子が多く今も肌の白い新潟美人や秋田美人が混血で生まれてくるのだが、中国本土となると違うらしい。

 つまり騎馬民族が、都井岬の野生馬なみのロバを伴って日本海を渡ってくる前から、彼らは鴨緑江経由でなく親潮の潮流によって、日本列島へ前から渡来していたものとみられる。

 「何ものがおわしますかは知らねども、ただ有難さに涙こぼるる」と五十鈴川畔で江戸時代によまれた句が有名である。

 つまり今から三世紀前にあってさえ、天照大神さまの御正体は判っていなくて、何がおわすのか不明だった、ということへの裏書きにもなるのではあるまいか。

 それに大神にお仕えする皇女が、名前からして日本原住系とみられる夷のつく御方だということは、親魏政権の耶馬台国のヒミコではない。滅ぼされた八幡国群の女王さまという事になる。

 耶馬台国群が中国より鉄剣の武器援助を得て、食いつくだけしか武器のなかった彼らは強力になった。ゆえに、それまでは食糧を充分に収穫し勢力をはっていたものの、中国輸入の鉄剣によって滅ぼされ殺された女王であったとみるべきではないか。

 天変地異の災難は、みな女王の怨念とみて、祟りよけの封じ込めに、大和の磯に宮をたて、やがて夷瀬(伊勢)の夷須津川(五十鈴川)畔へ移したらしい。

 だから「八」の民らが、天照大神は平政子さまであると思いこみ、またそう信じ込んで、おかげ詣りと称して、日蔭の身の立場から一日も早く助け出してもらいたいと各地より群れをなしたのだ。

 そこで「四つ」の騎馬民族系の子孫も、お伊勢詣りの近くの二見が浦に「松下神社」をたて、「蘇民将来之子孫也」といった平泉や八坂さんのような、六角棒の身分証明書は出さずだが、「蘇民将来、来福之符」という紙の御幣をくばっている。現在でも伊勢松坂市内の旧家には入口にみな掲げてある。

 官製歴史では歴史百科辞典の類にも、これを包み隠してしまい、「昔、疫病が流行した時、蘇民と将来の兄弟(蘇民将来:兄と巨丹将来:弟?)が厄よけに薬草をとって治して廻った事から、疫病よけに兄弟の名を軒ごとに貼りだして、まじないとする」などと、まったく出鱈目が書かれている。

 「蘇民」とは後の源氏の祖先にもあたる蘇我入鹿や蝦夷(毛人)の氏人のことで「四つ」の騎馬系末孫である。

 「東海道膝栗毛」によって、「四つ」も「八つ」と力を合せ世直しをせねばならぬと黄表紙本で一般に広められた宣伝から、「八つ」の者も松下神社に、ついでに参拝するようになる者が増えだした。

 こうした土地柄ゆえ、伊勢松坂からは『古事記伝』がうまれたり、本居宣長の死後も太平の許へ、伴信友らも弟子として集まってきて、はじめ明治新政府の太政官の上の神祇省のもとをも作った。この場合の「祇」とは祇園さんの「祇」で、「宮」とか「八」とよばれる意味でもあり、神は「カラ(韓?)神」で「四つ」。

 しかし新政府は「四つ」と「八つ」の大衆動員を、巧くして世替わりさせたからして、太政官の上に初めは神祇省を設けたわけ。

 廃仏毀釈の世となって、それまでは寺の私有財産として、かつて寄進された奴婢の人別帳をもとに、雪どけして人買いがくると、馬なみに「青」とよんでいた彼らの子女を売っては寺の収入としていたから、それゆえ「青春」の言葉も残るが、今は美化されている。[注記]

 これは『庶民史辞典』に詳しく出ているが、つまり日本での古代史とは『ウエツフミ』は『ホツマツタエ』。『竹内文書』の世界では木村鷹太郎の『海洋渡来日本史』や『旧約聖書日本史』の方が、今イタリア語フランス語で訳され出廻っているのもあるが、判りやすく難解でなく楽に読め入ってゆけるが、その後の西暦一世紀から「倭の五王」までの時代となると、学校歴史とは全然相違していても、『天の古代史研究』(八切氏の著書)から読んでゆくしかない。真実の探り出しは他書では無理だろうと想う。

 この『古代史入門』と『天の古代史研究』の二冊しか、前人未到の分野の解明に突入のものはないからである。つまりわけのわからぬ謎ときを何とかできる手引書は全然ないゆえである。

 なにしろヨーロッパなら近接諸国の歴史からでも、ある程度の分析はできる。しかし日本は明治大帝の仰せをかしこみ朝鮮までゆき、都合の悪い石碑の文字は削ったり、史書は集め伊東博文が焚書し、ハルピンで安重根に暗殺されている。

 中国にあるものはヒミコの出てくる魏誌倭人伝だけで、明確に現存の15世紀のイエズス派史料は参考にせぬ万邦無比の、ひとりよがりの歴史。

 だから今でも、天から高千穂の峯へ落下傘もつけずスーパーマンのごとく、来臨された天孫民族であるとする藤(唐)の勧学院製を下敷きにした江戸期の後西さまの『日本書紀』を金科玉条としている学校歴史では、悲しいが、本当のところは何とも探求しようもない。

 もちろん後述のごとく焚書につぐ焚書の運命に史書はあってきていて、いつの時代でも日本という国にあっては、「歴史」とは過去の真実を解明するような、一銭にもならぬ無駄な徒労をする事ではなかった。

 リースを伊東博文が招いたのも、明治二十二年の憲法発布に利用するだけが目的であった。ところが突然に日本へ来たばかりのリースは、天孫民族説の神話を鵜呑みにしてあっさりと、「大和民族は単一民族なり」と発表し、当時大陸進出を志していた明治軍部にすっかり歓ばれて、「対外戦争をするには国民の一致団結が必要。よって国定教科書の歴史は彼に一任すべし」となって出来たのが、彼の門下三上参次や小川銀次郎、重田定一による、今も検定教科書とされるもので、学校歴史とよばれる。

 つまり戦争目的に作成されたものゆえ、国民精神作興に利用できれば可といったものだけゆえ、真実追求とは全く縁遠いのも、これまた無理からぬ話である。

 戦前は国定教科書で丸暗記だったから、天孫降臨でよく紀元節とよぶ日に、紅白の饅頭を貰えた義理で、私も昔は頭から信じていたが、テレビで「ルーツ」など放映されだし皆も変ってきた。

「単一民族と学校の歴史では教わったが、鹿児島県人と青森県人がはたして一緒なのだろうか?」

「同一民族というのは、同一宗教で同一通貨というが、日本では仏教に神道に富士講、四方拝講から、若狭の神宮寺講に伊勢講中と数も知れないし、明治までは箱根から東は金本位。西は九州まで銀本位と、まっ二つに分かれていて、とても同じ民族とは思えない」

という事になってきた。

 『契丹日本史』(日本シェル出版)を一読すれば、日本古代史の謎も解ける。だが、自分ら日本人のルーツ探しに、あまりに従来の通俗史は都合よく、きわめて美化され恰好良くされすぎているのを読んでいては、どうも徒労で誤ってしまい、真実の裏目ではなかろうかと疑心暗鬼になる。

 もっともらしくされすぎの歴史ではない真実をという方には、記紀に誤まされぬようにするための『天の古代史の研究』にあるごとき「天の何々」とされた遠い先祖のための挽歌としたい。

 
 
注記:

『庶民日本史辞典』(日本シェル出版)という八切氏の著書に、この「青春」について解説されてますので、御参考の為に以下に転載しておきます。なお、適当に用字を変えている個所もあります。(例:符ちょう→符牒)

青春
 
 現代では良い言葉だが、幕末までは、お寺の隠語で「見頃食べ頃」の少年少女を、人買いが雪どけを待って訪れてきた時に渡すため寺人別帳に記入していた符牒

 親の為に身売りをするとか、年貢を納める為に女郎屋へ売られてゆくといったようなプロセスは、ずっと後世の江戸期に入ってからのことです。

 それより昔は飼っている牛や豚に子をうませたのを、市場へだしてせりで売るようにしていたのです。つまり庭子とよばれたのが男女別々に寝泊りさせられていたのも、女達を主人専用にする為だったと歴史家は説明していますが、そういうことも実際は当然あったでしょうが、改良品種を市場へ出して値を良く売る為に、主人の眼鏡にかなった男と女だけが、時々交配させられたのは、種とりが目的でもあったのです。

 つまり雪どけの春がくると人買いが、せり市へ出す為に、器量の良い少女や働き者らしくみえる少年を求めに訪れてきます。ですから食物なら食べ頃というのでしょうが、青の子供の「しし」たちの売り頃が、青春なのでした。

 唐突のように思われるかもしれませんが、その為にこそ寺人別帳なるものが明治まであったのです。

 荘園はなくなっても寺院はずっとあったので、各寺の和尚さんは私有財産の台帳として、太郎兵衛とお花の間に生まれたのが、ぼつぼつ十三、四になるから値をよく売ってやろうと筆を動かし勘定をしていたのです。なにも御慈悲で親切に戸籍係のような帳面をつけていたのではありません。

 『野史辞典』の巻末には、天平十八年頃の25歳の娘の奴婢として値段がキビ千束とありますが、本当の処は高梁の束のことで、奴隷市では売買されていた実存の奈良東大寺の売買記録もでています。

 恰好よく使われても、本当の歴史で真実をたぐってゆくと庶民には哀れ悲しい苛酷な恥辱の語源。

 「本当のことを言ってしまっては、実も蓋もない」と古来よく言い伝えられてきているのも、こうした訳け合いからでしょうし、「木が沈み、石が流れるのが世のならい」とも賢しい方はおっしゃっています。

 
 

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