風知空知

マカオ・カジノ帝王の死

樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
WEDGE Infinity 2020年 6月 3日

 


(bingfengwu/gettyimages)


 人の死は飽くまでも個人的なものである。だが個人的である死が、時として彼を育み、生きた社会環境、つまり一つの時代の終焉を暗喩することもあるだろう。

 2020年 5月 26日、香港島のハッピーバレー(跑馬地)に在るサナトリウム・ホスピタル(養和医院)で 98年の人生を閉じた スタンレー・ホー(何鴻燊)の死を、内外のメディアはこぞって「マカオの帝王の死」「マカオのカジノ王の死」と報じた。

 だが、一族の「家系」を遡り波瀾の生涯を振り返るならやはり彼の死は、「金の卵を産む鶏」を演じ続け一世紀半を超える繁栄を謳歌してきた香港に、黄昏が迫っていることを告げる「晩鐘」にも思えてくる。

 スタンレー・ホーは、上海の「フランス租界」の一角で中国共産党が結党された 1921年、上海を遠く離れたイギリス殖民地の香港の超富豪一族に生まれた。共産党イデオロギーの対極にあった環境で生まれ育った彼だったが、その後半生を彩った華麗な企業家人生は、不思議なことに「共産党政権」と歩調を合わせてこそ築かれたのである。

 祖父の ホー・フック(何福)の兄に当たる サー・ロバート・ホー・トン(何東卿)は 19世紀末から 20世紀前半の英国殖民地行政を支え、「影の総督」として香港における政治 = 経済活動の全般にわたって、圧倒的影響力をふるっていた。香港の「超エリート」として … あるいは「名誉英国民」として …「一族」は殖民地香港に君臨し、栄耀栄華を誇っていたのである。

 中国にとっては「屈辱の近代」の起点でもある「アヘン戦争」の結果、1842年にイギリスと清朝の間で結ばれた「南京条約」によって清国から切り離された香港は、イギリス殖民地としての歩みを始めた。

 18世紀半ばにイギリスで起こった「産業革命」が作り出した大量の「綿製品」の販路を、マンチェスターの生産業者は膨大な人口を抱える清国に求めた。清国の対外閉鎖体制を軍事力でこじ開け、国際市場に引きずり出し、巨大な消費市場に変質させる。殖民地化した香港を貿易拠点として「マンチェスター産」の綿製品の売り込みを狙った。これが「アヘン戦争」開戦への動機の一つだった。

 殖民地化された香港には、「一攫千金の夢」を胸に抱く野心に充ちた欧州の若者がやって来た。大英帝国の圧倒的軍事力を背景に、彼らは中国に「アヘン」を売り込み、中国から「苦力」と呼ばれる無資本労働者を海外に送り出す。これが中国南部の「名も無き小島」を「金の卵を産む鶏」へと飛躍させ、莫大な富を生み出すキッカケだった。

 香港に住み着いた彼らが広東人女性との間でもうけた英中混血児の多くは、家庭の外ではイギリス人としての教育を受け、家庭の内では中国人として育てられる。英中両言語を巧みに操り、英中両文化を身に付けた彼らはイギリス商社の買弁(代理商人)に就き、殖民地経営を下支えし、不動産 = 海運 = 保険などのビジネスに進出し、やがて香港経済の根幹を握ることになる。

 彼らの子弟は「もう一つの祖国」に送られ英国紳士として育ち、弁護士 = 医者 = 学者 = 企業家となって世界各地に移り住み「一族」のネットワークを広げる。娘たちはイギリス人や中国人はもちろん、ユダヤ人やポルトガル人などと結婚し、様々な民族の血が入り混じった大家族に成長を遂げる。

 やがて香港を舞台にして R・S・エレガントが描いた『DYNASTY 大王朝』(TBSブリタニカ 1981年)のような、華麗なる「一族」―― 世界の王族と親交を結び、列強首脳と太いパイプを持ち、地球規模に張り巡らした人脈・情報ネットを駆使して国際ビジネスを展開する ―― が生まれるのであった。

 その「頂点」に立ったのが、当時の東アジア一円に強固なビジネス・ネットワークを張っていた「ジャーデン・マセソン商会」で総買弁を務めた、サー・ロバート・ホー・トンだった。彼はホー・ダイナスティー(何王朝)の「初代皇帝」としてイギリス殖民地の香港に君臨することになる。

 1927年に香港を訪れた 魯迅は当時の殖民地香港の姿を …

中央には幾人かの「西洋のご主人サマ」がいて、若干のおべんちゃら使いの「高等華人」と「お先棒担ぎ」の奴隷のような同胞の一群がいる。それ以外の凡ては、ひたすら苦しみに耐えている土地の人(原文は「土人」)だ。

(『而已集』人民出版社 1973年)

… と綴っている。魯迅が「高等華人」の代表に サー・ロバート・ホー・トンを思い描いていただろうことは想像に難くない。

 スタンレー・ホーに冠された「苗字」の ホー(何)には香港に君臨した 何一族の栄光が鋳込まれているゆえに、彼は香港を代表する企業家の誰にも真似のできないような「由緒正しき血統」を誇っているのだ。単なる「マカオの帝王」「マカオのカジノ王」ではないという「強い自負」が彼を支えていたはずだ。たとえ「高等華人」の「高等」に、魯迅特有の鋭い「皮肉」が込められていたとしても … である。

 

父親が全財産を失う

 10代になった スタンレー・ホーを「悲劇」が襲う。殖民地経営の一翼を担っていた父親の 何世光が株取引に失敗し全財産を失ったばかりか、一家は栄光の「何一族」から放擲されてしまう。日頃は「相互扶助」を掲げる「一族」の在り方に反するようだが、あるいは 何世光が「一族」の「家訓」を破ったことで、「溝に落ちた犬に石を投げろ」とばかりの過酷な仕打ちを受けざるをえなかったのかもしれない。

 この時 スタンレー・ホー少年の心に芽生えたであろう二律背反的な心情 ――「何一族」に対する誇りと恨み ―― が、あるいは後の企業家人生を支えていたようにも思える。

 苦学して香港大学(理学部)に進んだ頃、日本軍統治下に置かれた香港を離れマカオに移る。彼の回想録からは、当時の彼が日本軍と蔣介石軍の「権力の真空地帯」を利用して密輸に励んだ姿が浮かび上がってくる。

 第 2次大戦が終わりイギリス殖民地として再出発した香港に戻り不動産業を始めたが、1960年代初頭には再びマカオへ。「愛国企業家」として親中姿勢を貫いた 霍英東(ヘンリー・ホック)や 鄭裕彤らと共に「澳門旅遊娯楽公司」を設立し、「黒社会」に牛耳られていたカジノを誰もが遊べる健康的な娯楽産業へと生まれ変わらせ、マカオを総合リゾートに大変身させたのである。

 彼にマカオでの成功をもたらした要因の一つに、中国人の「バクチ好き」という民族性を挙げておきたいが、カジノ経営から「黒社会」の暗い影を一掃したことも大きかったはずだ。

 血で血を洗うような死闘の末に「黒社会」のゴッド・ファーザーを排除し、ラスベガスを超える世界的規模のカジノ・ビジネスをマカオに打ち立てた手腕は、サー・ロバート・ホー・トンのビジネスに対する荒々しいまでの執念を思わせるに十分だ。やはり 何王朝の威光と伝統というものだろう。

 だが「黒社会」を捻じ伏せた背景に、マカオ = 香港の両殖民地当局のみならず、中国政府の「暗黙の了解」があったであろうことは否定し難い。

 彼が築いた「信徳集団」はマカオと香港を拠点に、カジノと不動産開発ビジネスを「柱」にして航空 = 海運 = 港湾施設 = インフラ建設 = 石油 = 発電 = ショッピング・モール = ホテル = レストラン = ゴルフ場などを経営する一方、中国、カナダ、ポルトガルに加え、タイを中心とする ASEAN(東南アジア諸国連合)に活動の輪を広げた。

 1997年の香港の、そして 1999年のマカオの、中国にとっての「屈辱の近代史」の象徴でもある二つの殖民地の「中国回帰」に際し、彼は中国政府を積極支持する立場を貫いた。マカオの「宗主国」であるポルトガル政府に対する「強い影響力」を行使し、北京とリスボンの仲介役を務めたとも伝えられる。

 彼は自らが築き上げた莫大な資産を使って、19世紀末期から 20世紀初頭にかけ西欧列強が中国から奪い去った清朝の秘宝の数々を買い取り、中国に「里帰り」させている。

 かくて彼は「愛国企業家」の列 ―― しかもその最上位 ―― に位置づけられることになるのだが、他の「愛国企業家」と同じように「企業家」であればこそ、彼の「愛国事業」はなによりも「投資」に通じていた。もちろんそのことは中国政府も充分に織り込み済みであり、かくて中国政府と「愛国企業家」との間で「双嬴(ウイン・ウイン)関係」が成り立つことになる。

 例えば 1999年の「返還」から 2002年にカジノ経営が「自由化」されるまで間も、中国政府からは スタンレー・ホーに「カジノ経営権」が独占的に与えられていた。

 

「粤港澳大湾区」構想

 1990年代半ばに完成したマカオ空港関連プロジェクトと、これを補完する形で進められた「マカオ再開発事業」なども、やはり「愛国ビジネス」の典型と言えるだろう。周辺海域を大規模に埋め立てマカオの面積を 20%ほど拡大させ、マカオを香港に次ぐ中国南部への「第 2のトールゲート」に変貌させることを目指したのである。

 この巨大プロジェクトを推進する「南湾発展有限公司株式」の 49%は中国側が保持し、スタンレー・ホーが 25%を押さえ「筆頭個人株主」に就いた。中国と スタンレー・ホーとのジョイント・ベンチャーに近いような同社の事業が、中国政府が近年になって強く推し進める「粤港澳大湾区(広東 = 香港 = マカオ・グレーターベイエリア)構想」に繋がっていると見做すなら、彼の「愛国ビジネス」は企業家としての彼にハイリターンをもたらすことになるはずだ。

 こう見てくると、彼はマカオに第 2の何王朝を築いたとも言える。かくて個人的には、幼き日に味わった屈辱を晴らしたようにも思える。

 スタンレー・ホーもまた、同世代の他の華人企業家の例に違わず艶福家として浮名を流してきた。前後して娶った妻はポルトガル人や中国人を合わせて 4人で、17人の子供がいるとされる。

 華人企業家一族が多く経験するように「家長」の高齢化に伴って権威低下が見られるようになると、家族の間で経営権と資産を巡って争いが起きる。大家族であればあるほどに争いは複雑化し、泥沼化するのが常だ。スタンレー・ホーの家族も例外ではなかった。だが 2009年に脳疾患で倒れた後、彼は財産の均等配分を打ち出した。かくて「一族」内の争いは終息に向かった。

 彼の事業を引き継いでいるのは 2番目の妻である ルシア・ラム(藍瓊瓔)との間に生まれた長女 パンシー(何超瓊)、次女 デイシー(何超鳳)、それに後継者として育てられた ローレンス・ホー(何猷龍)の 3人だが、最後に娶った 4番目の妻である アンジェラ・リョン(梁安琪)も経営陣の一角に参画していると言われる。

 スタンレー・ホーによって築かれた第 2の何王朝が今後どのような道を歩むことになるのか。それは不明だ。だが、スタンレー・ホーと同じような手法がこれからも通用するとも思えない。それというのも、「特別行政区」に高度な「自治」を保障する「一国両制」の骨抜き化が 習近平政権下で急速に進んでいるからだ。

 

上下関係の色合いがより強くなる

 香港が「香港」であり、マカオが「マカオ」であった最大の要因であり、香港を「金の卵を産む鶏」として振る舞わせた経済の「自由放任主義」は、やはり共産党政権による「一元的統治」の対極に位置するはずだ。かくて政治も中央政府の「タガ」がガッチリと嵌められることになる。

 2014年秋の「雨傘運動」を起点とする一連の民主化運動は、1年前の「逃亡犯条例」反対運動に見えるように過激化・長期化の道を辿り、「金の卵を産む鶏」の魅力は色褪せ始めた。

 かつて香港と北京との間で問題が起きた場合、包玉剛(Y・K・パオ)や 霍英東のような有力企業家が「個人的人脈」をテコにして仲介役を果たし、「双嬴(ウイン・ウイン)関係」の構築を目指した。だが、時代は確実に変化する。すでに香港では彼らのような企業家は「鬼籍」に入ってしまったし、北京にも彼らを受け入れた 鄧小平のような老獪な指導者はいそうにない。なによりも共産党独裁政権の幹部 … つまりガチガチの党官僚ということだろう。

 であればこそ、これからの北京の中央政府と香港 = マカオの両地方政府の関係は、「統治機構」としての上下関係の色合いがより強くなることは避け難い。

 スタンレー・ホーの死から 2日が過ぎた 5月 28日、香港における反体制活動を禁ずる「香港国家安全法」の制定方針が、全国人民代表大会(全人代:国会に当たる)で採択されている。このニュースを聞いた時、己の尾に喰らいつき我が身を環のようにくねらせる竜(あるいは蛇)を図案化した「ウロボロス」の像 ―― 強欲に突き動かされるように我が身を喰らい、やがて心臓から脳までも喰い尽くすことになる ―― が浮かんだ。

 スタンレー・ホーの死が香港とマカオにとって、新たな殖民地の始まりを奏でるレクイエムのように思えた。

 

 

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