『1984年』 第二部 第九章

ウィンストンは疲労でゼラチンになってしまった。ゼラチンという言葉がまさにふさわしい。それは突然、彼の頭に浮かんだ言葉だった。彼の体はゼリーのようにもろく、さらには透き通ってしまっていた。手を上げればそれを透かして灯りが見えるだろうと彼は思った。過酷な労働の大盤振る舞いによって、神経と骨と皮でできた弱々しい塊を残して全ての血液とリンパ液が流れ出してしまったようだった。全ての感覚が過敏になっている。オーバーオールが肩に重くのしかかり、舗道が足をさいなむ。手を開いたり閉じたりするだけのことさえ関節がきしみ、億劫だった。

彼は5日間で90時間以上も働いていた。省庁の他の者も皆そうだった。そして今、全てが終わり、やらなければならないことも党の書き仕事も文字通り無くなったのだ。少なくとも明日の朝までは。隠れ家で6時間、さらに自分のベッドで9時間は過ごすことができるはずだ。

午後の温かい陽光の中、薄汚れた通りをチャーリントン氏の店に向かって彼はゆっくりと歩いて行った。片目ではずっとパトロールを警戒していたが、今日の午後に限っては誰かに邪魔される危険は無いだろうという理由のない確信が彼にはあった。手に持つ重いブリーフケースが一歩ごとに膝に当たり、足の皮膚のあちこちに疼きを与える。その中にはあの本が入っていた。それを手に入れてから今日で6日が経っていたが彼はそれを開くことも、見ることもしていなかった。

憎悪週間の6日目。行進、演説、絶叫、歌、横断幕、ポスター、映画、蝋人形、こだまするドラムに高鳴るトランペット、行進の足音、戦車のキャタピラーの軋む音、飛行機編隊のたてる轟音、轟く銃声…6日間が過ぎたあと、強烈な興奮は最高潮に達しようとわななき、ユーラシアに対する強烈な憎しみが沸騰していた。もし最終日に公開のもと吊るし首にされる予定の二千人のユーラシアの戦犯を群衆に投げ与えれば、間違いなく八つ裂きにされただろう。…まさにその瞬間、オセアニアはユーラシアとはまったく戦争状態にない、と発表がされた。オセアニアはイースタシアと戦争状態にあり、ユーラシアは同盟国であると。

もちろん何か事態が変わったことが認められたわけではなかった。とんでもない速さですぐにそこら中にユーラシアではなくイースタシアこそが敵である、と知れ渡っただけだ。

それが起きた時、ウィンストンはロンドン中心部の広場の一つでおこなわれていたデモに参加しているところだった。それは夜のことで、参加者の白い顔と真紅の横断幕が投光器の光に不気味に照らされていた。広場は何千もの人々でいっぱいで、その中にはスパイ連盟の制服を着た千人ほどの小学生も含まれていた。

真紅の幕がかかる演壇の上では党内局の演説者が群衆に向かって熱弁を振るっていた。不釣合に長い腕と、まばらな髪の毛が張り付いた大きな禿げ上がった頭をした小柄な痩せぎすな男だった。小さなルンペルシュティルツキンのような体が憎しみで身悶えする。片手はマイクの首をつかみ、もう片方の骨ばった腕の先の大きな手のひらは頭の上で威嚇するように空を引っ掻いていた。

拡声器によって金属的に変わったその声は残虐行為、虐殺、国外追放、略奪行為、レイプ、囚人の拷問、市民に対する爆撃、嘘だらけのプロパガンダ、不当な侵略、条約破棄、と終わること無く大音量で列挙していった。聞けばその内容に同意し、激怒せずにはいられなかった。数秒おきに群衆の怒りは沸騰し、演説の声は何千もの喉から思わず沸き起こる野獣のような怒声にかき消された。なかでももっとも獰猛なわめき声は小学生からのものだった。

それが起きたのは演説が始まって20分ほどが過ぎた時だった。急な使いが演壇に駆け上り、演説者の手に紙切れを滑りこませた。彼は演説を続けながらそれを開いて読んだ。声も話し方も、そのしゃべる内容も何も変化はなかった。ただ突然、演説に出てくる名前が変わったのだ。言葉に出さずとも理解の波が群衆の中ををさざめいていった。オセアニアはイースタシアと戦争しているのだ!

次の瞬間、途方もない混乱が起きることになった。広場に飾り付けられた横断幕もポスターも全て間違っている!そのうちの半分には間違った顔が描かれている。これは破壊工作だ!ゴールドスタインの工作員がやったんだ!壁からポスターが剥がされ、横断幕がずたずたに引き裂かれて踏みにじられるという騒がしい幕間劇が演じられた。

スパイ連盟は屋根に這い登り、煙突の先でたなびく吹流しを切って落とすという驚異的な行動を演じてみせた。しかしそれも数分で全て終わった。演説者はまだマイクの首を握り締め、肩をいからせ、手で空を引っ掻いていた。彼は演説をずっと続けていたのだ。さらにその一分後には野蛮な怒りの声が再び群衆から沸き起こっていた。憎悪は以前と全く同じように続いていった。ただその相手だけが変わっていた

後になって振り返ってみると、演説者が途中で話を止めることも、言葉を言い直すこともなく話の内容を変えたことはウィンストンに強い印象を与えた。しかしその瞬間には彼の頭は他のことでいっぱいだったのだ。

それはポスターが引き裂かれている混乱の真っ最中のことだった。見知らぬ男が彼の肩を叩き、「失礼、ブリーフケースを落としましたよ」と話しかけてきたのだ。彼は何も言わずに無意識にブリーフケースを受け取っていた。中身を確認するまでには数日かかるだろうことはわかっていた。

ちょうどその時、デモが終わったので彼はもう23時近い時刻だというのにまっすぐに真理省に向かった。省の職員も皆、同じようにしていた。彼らに自分の職務を思い出させるために、既にテレスクリーンを通して指令が出ていたがそんなものを待つまでもなかったのだ。

オセアニアはイースタシアと戦争状態にある。オセアニアはずっとイースタシアと戦争を続けてきたのだ。ここ5年間の政治文書の大部分がもはや完全に使い物にならなくなってしまった。新聞や書籍、パンフレット、フィルム、録音音声、写真などあらゆる種類の報道記録…全てを電光石火のはやさで修正しなければならなかった。指示がないにも関わらず、局長たちが一週間以内にユーラシアとの戦争やイースタシアとの同盟についての記録の存在を、一つ残らず消し去ろうとしていることを皆が知っていた。

仕事の量は圧倒的で、その作業過程を本当の名前で呼べないことがその困難さに拍車をかけた。記録局の全員が一日になんとか2、3時間の睡眠をとるだけで、18時間も働いている状態だった。倉庫からマットレスが引っ張り出され廊下の至る所に放り出された。食事はといえば食堂の係員がカートで運んで回るサンドイッチとヴィクトリー・コーヒーだけだった。

目の前の仕事を全て片付けてひと眠りしようとデスクを離れるのだが、眠気と目の痛みに襲われながらのろのろと席に戻ると、そのたびに別の書類の束がまるで雪の吹き溜まりのように机を覆い、口述筆記機を半分飲み込みながら床へと溢れ出しているので、働くためのスペースをつくるためにいつも手始めにそれをきれいに積み直さなければならなかった。

最悪なのはその仕事を完全に機械的におこなう方法が無いということだった。ほとんどの場合はたんに名前を入れ替えるだけでいいのだが、事件の詳細な報道では注意力と想像力が要求された。戦争の場所を地球上のある場所から別の場所に移すために地理の知識さえ必要になった。

3日目には目は耐え難いほど痛み、数分おきに眼鏡を拭かなければならなかった。それは激しい肉体労働で悪戦苦闘するのに似ていた。拒絶する権利があるにも関わらず、神経症的なまでにその達成を切望してしまうのだ。後になって思い返してみると、彼は自分が口述筆記機に吹き込んだつぶやきやインク鉛筆で書いた文章が、手の込んだ嘘であるという事実に思い悩んではいなかった。他の局員と同様に偽造が完璧であることことだけを望んでいたのだ。

6日目の朝には書類の洪水が目に見えて減り始めた。30分ほども何もエアシューターから吐き出されないこともあった。それからひとつだけ書類が届き、また沈黙した。同じ頃、そこら中で仕事が減り始めていた。深い、密かな安堵のため息が局内を通り抜けていった。決して語られることのない大事業が達成されたのだ。今では記録された証拠によってユーラシアとの間で戦争があったということを証明することは誰にもできない。

12時ちょうどに省の全職員に明日の朝まで休暇が与えられるという予想外の告知があった。働いているときには足の間に置かれ、眠るときには体の下に敷いていたあの本が入っているブリーフケースを持ってウィンストンは家に帰った。ひげを剃り、ぬるま湯と変わらない風呂につかると眠りこんでしまいそうになった。

関節をどこか心地良くきしませながら、彼はチャーリントン氏の店の階段を上がっていった。疲れてはいたがもう眠たくはなかった。窓を開け、コーヒーをいれるために汚れた小さなオイルストーブに火を入れて、水の入った鍋をかける。ジュリアも今に到着するだろう。それまではあの本だ。無造作に置かれたアームチェアに腰掛けると彼はブリーフケースの留め具を外した。

それは素人じみた製本の重くて黒い分厚い本で、表紙には名前もタイトルもなかった。印刷もかなり雑だ。ページは端が裂け、簡単にばらばらになってしまいそうで、この本が多くの人の手を経てきたことが想像された。タイトルページにはこう書かれていた。

少数独裁による集産主義 理論と実践
エマニュエル・ゴールドスタイン著

 
 
 
 
ウィンストンは読み始めた。

第一章 無知は強さ

有史以来、おそらくは新石器時代の終わり頃からだろう、世界には三種類の人々が存在した。上層、中間層、下層である。それはいろいろなやり方でさらに細かく分類される。無数の異なる名称が産まれ、その相対的な数も、他の層への態度も時代によって変化した。

しかし本質的な社会構造は決して変わらなかった。とてつもない社会変化が起こり、一見して不可逆な変化が起きているように見えたとしても、常に同じパターンが再現された。それはちょうどジャイロスコープがどちらか一方に強く押されても、常に平衡状態に復帰するのと同じことだ。

これらの集団の目標は、全くもって相容れないものである…

ウィンストンは読むのを止めた。快適な場所で安全に自分が読んでいることに感謝するためだ。彼は一人きりだった。テレスクリーンも、鍵穴から聞き耳をたてる者も無く、肩越しに盗み見られないかと神経をとがらせたり、腕でページを覆う必要もなかった。夏の心地いい風が彼の頬をなでた。どこか遠いところから、かすかに子供の叫ぶ声が聞こえてくる。部屋の中は時計の秒針が進む音以外には何も聞こえない。彼はアームチェアに深く座りなおし、足を炉格子の上に置いた。至福に満ち、永遠が感じられた。本を一語一句残らず完全に読み込む時にそうするように、唐突に彼は本の別の場所を開き、第三章という文字を見つけた。彼は読み進めた。

第三章 戦争は平和

世界が三つの超大国に分裂することは起こるべくして起きたことであり、二十世紀の中盤にはすでに予測されていた。ロシアによるヨーロッパの併合とアメリカ合州国による大英帝国の併合によって三つの既存勢力のうちの二つにあたるユーラシアとオセアニアは既に実質的には存在していたのだ。三番目の勢力であるイースアタシアが国家単位として成立するまでには十年に及ぶ混迷した戦闘が続いた。

三つの超大国間の境界線は不安定であり戦争の情勢によって変動するものの、全般的には地理的な区分に従っている。ユーラシアはポルトガルからベーリング海峡にいたるヨーロッパとアジア大陸の北部全土から構成されている。オセアニアはアメリカ全土、ブリテン諸島を含む大西洋の島々、オーストラレシア、そしてアフリカ南部によって構成されている。他よりも小さく、西側の境界線が不安定であるイースタシアは中国とその西側に位置する国々、日本列島、そして広大ではあるが不安定な地域である満州、モンゴル、チベットから構成されている。

敵味方の組み合わせは様々だが、この三つの超大国は永続的な戦争状態にあり、それはすでに過去25年に及んで継続している。しかしながら戦争は二十世紀の初頭の数十年に見られたような絶望的で殲滅的な闘争では無くなっている。それは交戦国間での限定的な目標をめぐった武力衝突であり、それらの国が相手を打ち負かすことは不可能であるし、それらの国には戦闘を引き起こすような資源も無く、両者の間に純粋なイデオロギー上の相違も見られない。

しかしこれは、戦争行為やそれに向けられた戦意高揚の野蛮さが減少し、より文明的になったことを意味しない。それどころか、戦争におけるヒステリー状態は全ての国で一般化し、継続し続けている。レイプ、略奪、幼児の虐殺、全人口に対して課せられる重労働、捕虜に対する報復措置としての生茹で、生き埋めは一般的に観察されるし、敵国を唾棄し、自身の国に献身することは大いに賞賛される。

しかし物理的な意味においては、戦争に携わる人間は減少した。ほとんどの人間は高度な訓練を受けたスペシャリストであり、引き起こされる死傷者数も比較的少なくなっていると言える。

戦闘が起きるとしてもそれは普通の人間には想像するしか無いような不確定な国境線上か、シーレーン上の戦略地点を防御する浮動要塞の周りでのことである。文明戦争の主要部分は日用品の継続的な不足や、少数の死傷者を出すときたまのロケット弾による空襲以上のことを意味しないのである。実際のところ戦争はその性質を変えたのだ。より正確に言えば戦争が引き起こされる理由において、その重要性の順位が変更されたのだ。二十世紀初頭の大戦においてもわずかながら存在していた動機が支配的になり、意識されるようになり、影響を与えるようになったのだ。
 
 
 
 
現在起きている戦争の本質を理解するために…数年ごとに勢力の再編が起きるがそれは常に同じ戦争なのだ…まず了解しなければならないのは、決定的な事態は起き得ないということである。例え他の二国が協力しようとも、三つの超大国のうちどれかが決定的な征服を受けることはない。それぞれが非常に拮抗しており、またそれぞれの防衛能力がとても強固であるためだ。ユーラシアは広大な大地によって、オセアニアは大西洋と太平洋によって、イースタシアはその繁殖力と住民の勤勉さによって、それぞれ守られている。

第二に、もはや物質的な意味では争う理由はないのだ。自己完結した経済の確立によってその経済圏内での生産と消費は互いに一致するようになり、資源の争奪はもはや生死の問題ではなくなり、過去の戦争で主要な原因であった市場の混乱は終りを告げた。どのようなものであれ、三つの超大国はその域内で必要とされる資源のほとんど全てをまかなえるだけの広大さを持つ。

戦争が直接的な経済目的を持つとすれば、それは労働力のための戦争である。どの国にも永続的には属さない超大国間の国境は、大まかに言えばタンジール、ブラザビル、ダーウィン、香港を頂点とする四辺形を形作り、その域内に世界人口の五分の一が含まれる。

この人口過密地域の所有と北極圏をめぐって、三つの超大国は常に争いを繰り広げているのだ。実際のところ、どの国も今までこの紛争地域全体を統治下に置くことはできていない。そのうちの一部地域は常に三国の間を行き来し、唐突な裏切り行為によってその地域の断片を奪う機会を互いに狙い合っていることこそが、この果てしない同盟の変遷を呼び起こしているのだ。

紛争地域はどこも貴重な鉱物資源があり、また一部の地域においては、寒冷な気候帯では比較的費用のかかる方法でしか合成できないゴムを産出する、天然ゴムのような重要な植物も生産される。しかしとりわけその地域には、底なしの安価な労働力が存在するのだ。

赤道直下のアフリカ、中東諸国、南インド、インドネシア諸島、どの超大国が統治しようとも、多数の人間、何百万もの低賃金労働、重労働の日雇い労働者が使い捨てにされるだろう。これらの地域の住民は程度の差はあれ公然と奴隷の身分に落とされ、征服者から征服者へひっきりなしにたらい回しにされている。彼らは軍備拡張、領土拡大、より多くの労働力の支配、そしてまた軍備拡張、領土拡大という風に、無限の競争の中で大量の石炭や石油と同じように消費されていくのだ。

戦闘が紛争地域の境界を超えて広がることは現実問題としてあり得ないことは特記すべきだろう。ユーラシアの前線はコンゴ流域と地中海北岸の間を行ったり来たりしているし、インド洋と太平洋の島々は常にオセアニア、イースタシアによって占領、再占領を繰り返されている。ユーラシアとイースタシアの間の国境上にあるモンゴルは安定化したことがない。三大国全てが実質上の領有を主張する南北極の周囲の巨大な地域の大部分には住民はおらず、よく調査もされていない。しかし勢力バランスは常にほぼ均衡し、各超大国の中枢を構成する地域は侵犯されることはない

さらに言えば赤道付近の搾取された人々によって得られる労働力は、世界経済からすれば本当は必要なものではないのだ。それによって世界の富に付け加わるものは何も無い。なぜならばそれによって産み出される財は何であれ戦争目的に使われるものであるし、繰り広げられている戦争の目的は常に他の戦争で良い立場に立つことであるからだ。その労働によって奴隷たちは、継続する戦争行為のテンポを速めることを可能にしている。しかし彼らが存在しない場合でも世界社会の構造やそれ自身の維持プロセスは、本質的には何も変わらないのだ。
 
 
 
 
近代の戦争の第一の目的は(二重思考の原理に従えば、この目的は党内局の首脳陣の指導によって認識されていると同時に認識されていないのだ)一般の生活水準を向上させること無く機械生産物を消費することにある。十九世紀の終わりから、消費財の余剰が引き起こす問題は工業化された社会において潜在的に存在していた。現在では十分に食べられる人間すら少数になり、この問題は明らかに危急のものではなくなったし、たとえもし人為的な破壊活動が行われなくなっても、それが問題になることは無いだろう。

今日の世界は1914年以前に存在した世界と比較しても、殺風景で飢餓の蔓延した荒廃した場所となっている。その時代の人々が夢みた想像上の未来と比較すれば、なおいっそうそうであると言えるだろう。二十世紀の初頭、信じられないほど豊かで、ゆとりがあり、秩序正しく、効率的な未来社会のビジョン…ガラスと鉄と雪のように白いコンクリートでできた光り輝く消毒された世界…は教養ある人物であればほとんど全員が思い描いたものだったのだ。科学と技術は驚異的な速度で発達しており、その発達がそのまま続いていくという考えはごく自然に思われた。

それが破綻したのは、一部は長期にわたる戦争と革命によって引き起こされた貧困のためであり、一部は科学的進歩、技術的進歩が実証的な思考に依存していたためである。厳格な管理社会において実証的な思考は生き延びることができなかったのだ。

今日では世界全体としてみれば50年前よりもずっと原始的になっているといえるだろう。特定の未発達領域では進歩が見えるし、戦争と警察の諜報活動に何らかの関係を持つようなさまざまなデバイスは発達しているが、実験と発明はその大部分が停止し、1950年代の核戦争による損害は決して完全に復興されることはない。
 
 
 
 
しかしながら、機械に内在する危険性は依然として存在し続けているのだ。人間による単調な重労働の必要性や、人間の間の大きな不平等の存在が消えて無くなることは、機械が初めて姿を現した瞬間から考えのある全ての人々にとって明らかだった。もし機械を慎重に扱えば、飢餓や過重労働、汚れ仕事、無知や病気は、数世代のうちに一掃されるだろう。また実際、そういった目的に使用される場合以外でも、自動化された作業などによって…ときには分配しないわけにはいかないような富の生産によっても…機械は平均的な人間の生活水準を、十九世紀の終わりから二十世紀のはじめまでの50年間にわたって、飛躍的に引き上げたのだ。

しかし全体的な富の増加によって階級社会の破滅…そう、ある意味でそれは破滅なのだ…が迫っていることもまた明白だった。誰もが短い時間だけ働き、十分に食事を摂ることができ、バスルームと冷蔵庫のある家に住み、自動車や果ては飛行機まで所有する世界ではもっとも明白で、おそらくはもっとも重要な不平等の構造は消え去っているだろう。

いったんそれが現実となれば、富は全くもって重要でなくなる。個人の所有と贅沢という意味での富は公平に分配され、その一方で、権力は少数の特権階級の手の中にあるという社会を想像することは確かに可能であろう。しかし実際のところ、そのような社会は長期的には安定であり得ない。

もし余暇と安全が等しく享受されるようになり、通常であれば貧困によって茫然自失している大多数の人間が教養を身につけ、自分のことについて思考する方法を学ぶようになったとしよう。いったんそうなれば彼らは遅かれ早かれ特権をもった少数派が何の機能も果たしていないことに気づき、それを一掃するだろう。

長期的に見ると、階級社会は貧困と無知を基礎にしてしか存在し得ないのだ。二十世紀の初頭に一部の思想家が夢みたような過去の農耕文明への回帰は、実際的な解には成り得なかった。それはほとんど全世界的に広がる半ば本能と化した機械化への傾向と競合するし、さらに言えば工業的に遅れをとった国はどこであれ軍事的な意味で無力となり、直接的であれ間接的であれ、先行する競合相手に支配される運命にあるからだ。

また商品の生産を制限して大衆の貧困状態を維持するというのも十分な解ではない。これはおおよそ1920年から1940年の間の資本主義の最終段階において大規模におこなわれた。多くの国の経済は停滞状態に置かれ、土地は耕作放棄され、資本設備には新たな追加がなされなかった。人口の大部分が職を失い、国からの施しによってなんとか生き延びている状態だったのだ。しかしこれもまた軍事的な弱体化を招き、またそれによって負わされた欠乏が明らかに不必要なものだったことから、不可避的な反動が起きた。

問題は、世界の実際の富を増加させずに、いかに産業の両輪を回転させつづけるか、ということなのだ。商品は生産しなければならないが、それを流通させてはならないのだ。そしてこれを達成する実質的に唯一の方法が、永続的な戦争状態であった。

戦争の本質的活動は破壊行為だがこれは必ずしも人間の命だけに限定されず、人間による労働の生産物も対象となる。戦争は資材を粉々に砕いたり、成層圏にちりぢりにさせたり、深海に沈めたりするための方法なのだ。そうしなければその資材は大衆を過度に裕福にしてしまい、その長期的な結果として、彼らに過度の知性を与えることになってしまうのだ。

戦争兵器が実際には破壊されなくとも、その製造は消費に供される製品を一切生産せずに労働力を浪費するためには依然として適した方法であると言えるだろう。例えば一つの浮動要塞は数百隻の貨物船を建造することができるだけの労働を奪い取る。最終的にそれは時代遅れとなったことを理由に誰にも物質的な便益をもたらすこと無く廃棄され、より大量の労働を必要とする別の浮動要塞が建造されるのだ。
 
 
 
 
原則的には、人々が最低限必要とする要求が満たされた後に残る余剰を使い尽くすよう、戦争の継続は常に計画されている。実際には人々の需要は常に少なめに見積もられ、結果、生活必需品の半分は慢性的に不足状態に陥る。しかしこれは良いことであると見なされているのだ。恵まれている集団ですらどこか困難の瀬戸際に追いやられてしまうのも意図的な政策である。なぜなら一般化した貧困状態はわずかな特権の重要性を増大させ、これはある集団と別の集団の間の違いを明確するからである。

二十世紀初頭の水準から見れば党内局のメンバーでさえ簡素で苦労の多い生活を送っていると言えるだろう。しかしそうは言っても広くて設備の整った住居、肌触りのよい衣服、質のよい食事や飲み物やタバコ、2、3人の使用人、個人所有の乗り物…自動車やヘリコプター…といった彼らが楽しむぜいたく品によって、彼らは党外局のメンバーとは異なる世界に生きている。そしてその党外局のメンバーも我々が「プロレ」と呼ぶ極貧にある大衆と比較すれば同じような優位性を手にしているのだ。

社会的な雰囲気は敵に包囲された街のそれと同じである。そこでは馬肉の塊を持っているかどうかが金持ちと貧乏人の違いなのだ。それと同時に、戦時下にあるという意識とそれによる危機感のせいで、全ての権力を少数の社会階級に委ねることが自然で不可避な生存条件であるかのように思えてくるのだ。
 
 
 
 
通常、戦争では不可避的に破壊が起きるが、それは心理的に受容できるやり方でおこなわれる。原理的には世界の余剰労働力を浪費するには寺院やピラミッドを建設したり、穴を掘っては埋め戻したり、あるいは大量の商品を生産した直後に焼却したりする方が簡単だろう。しかしそれは経済学的に見たときだけの話であり、階級社会の基礎となる感情という観点から見れば成り立たたないのだ。

ここで言っているのは大衆のモラルのことではない。彼らの態度というのは彼らが着実に働いている限りは重要ではない。しかし党自身のモラルとなると話は別だ。たとえもっとも等級の低い党員であっても有能かつ勤勉で、ある限られた範囲内においては知性的であることすら要求される。しかしその一方で騙されやすく、無知で、狂信的であり、その支配的な心理状態は恐怖と憎悪と追従、そして熱狂的な勝利の興奮に満ちていることが必要なのだ。言い換えると戦争状態に適した性格であることが必要なのだ。

戦争が実際に起きているかどうかは重要ではないし、決定的な勝利があり得ない以上、戦況が有利か不利かも重要ではない。必要とされるのは戦争状態が存在するということだけだ。党がそのメンバーに求める知性の分裂、それによって戦争のムードはよりたやすく達成されるのだが、それは今やかなり普遍的なものになっている。しかも地位が上がるにつれてそれはより顕著なものになるのだ。

戦争の興奮状態と敵に対する憎悪がもっとも強くなるのは党内局においてであることは間違いない。行政官であるという立場上、党内局のメンバーは時に戦争報道のいくつかが真実ではないという事を知っている必要がある。また戦争全体が欺瞞であることや、ときには起きてすらいないこと、あるいは宣言されたこととは全く違う目的のためにおこなわれていることを知ることも多い。

しかしそういった知識も、二重思考の技術によって容易に無効化されるのだ。そして戦争が現実のものであり、最終的には世界全体の明らかな主人であるオセアニアが勝利するのだ、という超自然的な信念が一瞬でも揺らぐ者は党内局には一人もいない。

党内局のメンバーは皆、この来るべき勝利を信仰にも似た思いで信じている。徐々に領土を拡大して圧倒的な力の優位を築くか、あるいは何か新しい決定的な兵器を発明することによってそれは達成されると考えているのだ。新しい兵器の研究は倦むこと無く続けられ、それは独創的、思索的な頭脳がはけ口を見つけられる今も続く数少ない活動の一つとなっている。
 
 
 
 
現在のオセアニアにおいては過去の意味での科学はほとんど消え去ってしまっている。ニュースピークには「科学」にあたる言葉は存在しない。過去の科学的な達成がその基礎としていた実証的な思考はイングソックのもっとも基礎的な原理に反するのだ。技術的進歩が起きる場合でもそれは人間の自由を減少させることができるようなものを生産する場合に限られている。

この世界における有用な技術とは、現状を維持するものか、あるいは後退を促すものなのだ。耕作地が馬に付けられた鋤で耕される一方で書籍は機械によって執筆されている。

ただし必要不可欠な重要事項…つまり、実質的には戦争と警察による諜報活動…では実証的な手法はいまだに奨励されているし、少なくとも容認はされている。地球全土を支配すること、独立した考えというものの可能性を完全に消滅させること、その二つが党の目標なのだ。そのためには党が解決を考えなければならない大きな問題が二つ存在する。

一つ目はいかにして他の人間の考えを、当人の意思に反して明らかにするかということであり、二つ目はいかにして事前に警戒されることなく、一瞬で数億もの人々を殺すかということである。科学的研究がまだ続けられているとすればこれがそのテーマなのだ。

ごく普通の微細な表情やしぐさ、声の調子の意味を研究し、薬物やショック療法、催眠そして肉体的な拷問が自白に与える影響を試験する心理学者と宗教裁判官を兼ねた者か、あるいは生命を奪うことに関連する細分化した専門領域のみに心を砕く化学者、物理学者、生物学者か、今日の科学者はどちらかしかいない。

平和省の広大な研究室、そしてブラジルの密林やオーストラリアの砂漠、南極圏の孤島に隠された実験施設では専門家チームが日夜精力的に研究をおこなっている。ある者は純粋に未来における戦争の兵站計画について考えているし、ある者はより大きなロケット弾、より強力な爆弾、より強固な防御素材を開発している。またある者はより新しく、より致死性の強い毒ガスや大陸全体の植生を破壊することができるほどの毒性を持つ水溶性の毒物を生産する方法、全ての免疫系に対抗し得る病原菌の育成について研究している。

他にも潜水艦が水をかき分けるのと同じように地面の下をかき分けて進む乗り物や帆船と同じように基地を必要としない航空機を開発すべく懸命に努力している者もいるし、高度数千キロの宇宙空間に設置したレンズを通して太陽光を集中させたり、地球の中心に刺激を与えることで人工の地震や高波を起こそうというような実現の可能性が低いことを研究している者さえいるのだ。

しかしこれらの計画の内には実現に近づいたものさえ無いし、この三つの超大国の内に他に対して大きく先行した国も無い。さらに注目すべきことはこの三大国全てが、現在の研究者が発見しようとしているどの兵器よりも強力な兵器、原子爆弾を既に保有しているということだ。党はいつものように自分たちがそれを開発したのだと主張しているが原子爆弾が初めて姿を現したのは1940年代と早く、それが大規模に使用されたのはそれから十年ほど後の事だ。

当時、数百もの爆弾が主にヨーロッパ・ロシア、西ヨーロッパそして北米といった産業の中心地に落とされた。その威力はこれ以上の原子爆弾の使用は組織された社会の終焉、つまり彼ら自身の権力の終わりを意味すると全ての国の統治者集団に確信させるのに十分だった。

かくして公式な合意がなされたり、示唆されることすらなかったにも関わらずそれ以上の爆弾の投下は無くなったのだ。三大国全てがただ原子爆弾を製造し、彼らが信じる遅かれ早かれ来るであろう決定的な機会に備えてそれを貯蔵するだけとなった。

その一方で戦争で使用される技術はここ3、40年の間ほとんど変わらずにいる。たしかにヘリコプターは以前より多く使われるようになり、大部分の爆撃機は自律推進する砲弾にとって代わられ、脆弱な移動戦艦はまず沈むことの考えられない浮動要塞にその地位を譲り渡した。

しかしそれ以外にはたいした発達は見られない。戦車、潜水艦、機雷、マシンガン、さらにはライフルや手榴弾さえいまだに使われている。そして報道機関やテレスクリーンが終わることのない殺戮をレポートしている一方で、過去の戦争で見られた数週間のうちに何十万人、ときには何百万人が殺される血みどろの戦闘は一度も繰り返されていないのだ。
 
 
 
 
三つの超大国のうち深刻な敗北のリスクがあるような軍事作戦をおこなった国は一つもない。大規模な作戦が実行される時でもだいたいは同盟国に対する奇襲なのだ。三つの大国が従っている、もしくは従っているふりをしている戦略は全く同じものである。

つまり戦闘と 交渉、それにタイミングを見計らった裏切りによって他の敵国の基地の周囲を完全に取り囲むように手中におさめ、敵国と友好協定を結び、不信をなだめるための平和な期間を数年続ける。その間に原子爆弾を搭載したロケットを全ての戦略地点に建造するのである。最終的にそれが一斉に発射されれば報復が不可能なほどの破壊をもたらすことができるだろう。それから次の攻撃の準備のために残りの大国と友好協定を結ぶのだ。

言うまでもなくこの計画は単なる絵空事で実現は不可能である。さらに言えば赤道と南北極付近の紛争地域を除けば戦闘が起きたことはないし、敵の領土に対する侵略がおこなわれたこともない。これは超大国間の国境が絶えず揺れ動いているという事実を説明してくれる。

例えばユーラシアは地理的にはヨーロッパの一部であるブリテン諸島を容易に制圧できるはずであるし、一方でオセアニアがその国境線をライン川、あるいはビスワ川にまでさえ押し広げることも可能だろう。しかしそれは決して明言されることのないあらゆる側面の文化的整合性の原則に反しているのだ。

もしオセアニアがかつてフランスやドイツとして知られていた地域を制圧すれば物理的に非常な困難を伴う仕事であるが、その住民を根絶するか、あるいは技術的レベルでは少なくともオセアニアとほぼ同等のレベルにある、一億人近い人々を同化させる必要が生じるだろう。この問題は三つの超大国全てで同じである。戦争捕虜や有色人種の奴隷という限られた例外を除けば、外国人との接触を排除することが、これらの国の体制にとっては絶対的に必要なのだ。

そのときどきの公式な同盟国であっても暗い疑いの目で見られるのが常である。戦争捕虜は別として平均的なオセアニア市民がユーラシア市民やイースタシア市民を目にすることは決してないし、外国語の知識を持つことも禁じられている。

もし外国人と接触することが許されれば、その人物は相手が自分と似たような生き物であり、自分が彼らに関して聞かされていたことのほとんどが嘘であることに気づくだろう

彼が生きてきた閉塞された世界は破壊され、彼のモラルが依って立つ恐怖と憎悪と独善は霧散してしまうだろう。それがわかっているからこそペルシャやエジプト、ジャワやセイロンの領有が二転、三転しようとも主要な国境を爆弾以外のものが超えることは、あってはならないのだ。

この虚構の下では事実は決して大きな声では言及されないが、三つの超大国の生活状態がほぼ同じであることはそれとなく理解され、影響を及ぼしている。オセアニアで支配的な思想はイングソックと呼ばれている。それはユーラシアではネオ・ボルシェヴィズムと呼ばれ、イースタシアでは普通、「死の崇拝」と翻訳される中国語の名前で呼ばれている。しかしこれは「自己の滅却」とした方がより近い表現だろう。

オセアニアの市民は他の二つの思想の教義については一切知ることを許されておらず、それらをモラルと常識を踏みにじる野蛮なものであると非難するよう教えこまれている。実際のところは三つの思想はほとんど大差ないし、それが支える社会システムは全く区別がつかない。どこも同じようにピラミッド構造が存在し、同じように半神化した指導者を崇拝し、同じように延々と続く戦争による戦争のための経済が存在しているのだ。

その結果として三つの超大国はお互いを征服することができないばかりでなく、そうしようとしてもリードを広げることすらできないでいる。反対に争い続ける限りはちょうど三つのトウモロコシの穂のように相手を利することしかできないのだ。そして例によって三つの大国の指導者グループは、自分たちが何をしているのかに気づいていると同時に気づいていないのだ。

彼らは人生をかけて世界の征服に打ち込んでいるが、同時に勝利がもたらされることなく、戦争がずっと続くことが必要不可欠であるということも知っている。一方で征服の危険が存在しないという事実は、イングソックやそれに敵対する思想体系の特徴である現実の否認を可能にさせている。ここで先に述べたことを繰り返す必要があるだろう。継続的になった戦争は、根本的にその性質を変化させたのだ。
 
 
 
 
古い時代において戦争とはいつかは終結し、通常は明白に勝敗が決するものだった。過去においては戦争もまた人間社会が肉体的な現実感を保つための主要な装置の一つだったのだ。

いつの時代においても権力者たちはその支持者に対して誤った世界観を押し付けようとしたが、軍事的能力に損傷を与えるような幻想を奨励することは容認できなかった。敗北が独立の喪失や一般に望ましくないと思われるような結果を意味する以上、敗北に対する警戒は深刻にならざるを得なかったのだ。

また物理的な事実を無視することもできなかった。思想、あるいは宗教や道徳律や政治においては2足す2は5にもなろうが、銃や飛行機を設計する場合にはそれは4でなければ困るのだ。

非効率な国家は遅かれ早かれ常に征服されてきたし、努力して効率を高めることは幻想と相性が悪い。さらに言えば効率的であるためには過去から学ぶ必要もある。つまり過去に何が起きたのかを正確に理解する必要があるということだ。もちろん新聞や歴史文献はいつの時代でも偏見が入り混じり、偏っているものだが、現在おこなわれているような改竄は不可能だっただろう。

戦争は正気を保つための安全装置であり、支配階級はそれを安全装置の中でもっとも重要なものだと考えていた。戦争に勝つにしろ負けるにしろ、完全に責任から逃れられる支配階級というものは存在しなかったのだ。

しかし戦争が文字通りずっと続くようになると、それもまた危険でもなんでもなくなる。戦争が続いている間は軍事的困窮などというものは存在しない。技術開発の中止や、もっとも明白な事実の否定や無視が可能になるのだ。これまで見てきたように科学的と呼べるような研究者はまだ戦争目的のために働いているが彼らは本質的には白昼夢のようなものであり、彼らが結果をだす事に失敗しようがそれは問題ではないのだ。効率はそれが軍事的な効率である場合でさえ、もはや必要とされていない。オセアニアにおいては思想警察を除けば効率的なものなど存在しない。

三つの超大国はどれも支配不可能なのだから、事実上それぞれの国はほとんどどのような思想的こじつけであっても安全に実践できる独立した世界であると言える。現実は日常生活で必要となる場合だけ影響を及ぼす…つまり飲食の必要、寝床や衣服を見つけること、毒物を飲み込んだり高い窓から落ちることを避けることなどだ。生と死、肉体的な喜びと肉体的な痛みの間にはまだ区別が存在するが、それが全てだ。

外界と過去から遮断され、オセアニア市民は宇宙に投げ出された人間のようになっている。どの方向が上でどの方向が下かを知る方法を持っていないのだ。このような国の統治者は、ファラオやカエサルでさえ及びもつかないような完全な存在である。彼らは不都合を生じるほど支持者が大量に飢え死にすることは防がなければならないし、敵対する相手と同じ程度になるように軍事技術を低く保たなければならない。しかし、いったん最低限のことが達成されれば、あとはどんな風にでも好きなように現実をねじ曲げられるのだ。

従ってもし過去の戦争を基準とするのであれば、現在の戦争はたんなる欺瞞行為に過ぎない。それはちょうど相手を傷つけない角度に角を生やした、ある種のウシ亜目動物の間の戦いのようなものなのだ。

しかし本物でないとしても無意味というわけではない。消費財の余剰を消耗するし、階級社会が必要とする特殊な心理環境を維持することに役立つのだ。戦争は今や純粋に内政問題なのだ。
 
 
 
 
過去においてはどんな国の統治者集団であっても共通の利害関係を持ち、それゆえ戦争の破壊を抑制しながら互いに戦い、勝者は常に敗者から略奪をおこなってきた。

我々の時代においては彼らがお互いに争うことはありえない。現代の戦争は各自の目的に対して、各自の統治者集団によっておこなわれており、その目的は侵略したりそれを防いだりすることではなく社会構造を無傷で維持することになったのだ。従って「戦争」という言葉は完全に誤解を招くものとなってしまった。継続しておこなわれることによって戦争は存在しなくなった、と言う方がおそらくより正確だろう。

新石器時代から二十世紀初頭の間、人類にその影響を及ぼしていた特有の圧力は消え去り、全く違うものに置き換わったのだ。仮に三つの超大国が相争う代わりにそれぞれの境界を侵犯せずに恒久的に平和に暮らすことを合意したとしても、その結果はほとんど同じことである。

その場合でもそれぞれは自己完結した世界でいられるし、外部の危険による冷徹な影響を受けることも永遠にないだろう。完全に永続する平和は、永続する戦争と同じことなのだ。これが…党員の大部分が表面的にしか理解していない…党のスローガンである「戦争は平和」の隠された意味なのだ。

ウィンストンはしばらく読むのを止めた。どこか遠くでロケット弾の爆発音が聞こえる。テレスクリーンの無い部屋で一人、禁じられた本を読むという幸福感は少しも減ってはいなかった。一人居と安心感というものは肉体的な感覚だ。それは体の気だるさといすの柔らかさ、頬をなでる窓からのかすかな風の感触が混じり合ったものなのだ。

その本は彼を魅了した。より正確に言えば彼に自信を与えた。ある意味でそこに書かれたことで彼にとって目新しいことは何もなかったがそれも魅力の一部だった。もし彼の未整理な考えを順序立てて述べることが出来れば、それはまさにこの本に書かれたことになるだろう。

それは彼によく似た考えの持ち主によって書かれたものだった。ただし彼よりもずっと力強く、論理的で、恐れ知らずな人物だ。最良の本とは、既に知っていることを教えてくれる本だ、ということが彼にはわかった。

階段を上がってくるジュリアの足音が聞こえてきたとき、彼はちょうど一章に戻ったところで、彼は彼女を迎えるためにいすから立ち上がった。彼女は茶色の道具かばんを勢い良く床に下ろすと彼の腕に飛び込んできた。最後に二人が会ってから一週間以上が過ぎていたのだ。

「あの本を手に入れたよ」彼女から体を離しながら彼は言った。

「あら、そうなの?それは良かったわね」彼女は興味なさそうに言うと、コーヒーを淹れるためにすぐにオイルストーブのそばにしゃがみ込んでしまった。

二人がその話題に戻ったのはベッドに入って30分ほど経ってからだった。夕方の空気はベッドカバーを引っ張り上げてちょうどいいくらいに涼しかった。

階下からは聴きなれた歌声と、敷石の上でブーツがたてる音が聞こえてくる。初めて訪れたときにウィンストンが目にしたよく日焼けした女は、まるでずっと中庭にいるかのようだった。彼女は日中はいつでも洗濯かごと洗濯ひもの間を行き来し、洗濯ばさみを咥えるか色っぽい歌を大声で歌うかどちらかをしているように見えた。

ジュリアは横になって既にうつらうつらしている。彼は床に置かれていたあの本に手を伸ばすとベッドの頭板に持たれて座った。

「二人で読まなければ」彼は言った。「君もだ。ブラザーフッドのメンバーは全員これを読まなければならないんだ」

「読んで聞かせて」彼女が目を閉じたまま言った。「それが一番いいわ。そうすれば読みながら私に説明できる」

時計は6の数字を指していた。つまり18時だ。彼らに残された時間は3、4時間だった。彼は本を膝の上に置くと読み始めた。

第一章 無知は強さ

有史以来、おそらくは新石器時代の終わり頃からだろう、世界には三種類の人々が存在した。上層、中間層、下層である。それはいろいろなやり方でさらに細かく分類される。無数の異なる名称が産まれ、その相対的な数も、他の層への態度も時代によって変化した。

しかし本質的な社会構造は決して変わらなかった。とてつもない社会変化が起こり、一見して不可逆な変化が起きているように見えたとしても常に同じパターンが再現された。それはちょうどジャイロスコープがどちらか一方に強く押されても常に平衡状態に復帰するのと同じことだ。

「ジュリア、起きているかい?」ウィンストンは言った。

「ええ、聞いているわ。続けて。とてもすごい話だわ」

彼は読み進めた。

これらの集団の目標は全くもって相容れないないものである。上層の目標は自分たちの位置を維持することであり、中間層の目標は上層の地位を得ることである。また下層の目標は、もし彼らに目標があるとすれば…というのも下層の普遍的な性質として彼らは単調な重労働によって疲弊し、日常生活の外にある物事について考えを巡らせることが難しいからだが…全ての区別を廃止して、全ての人間が平等である社会を作ることである。

有史以来、ほとんど同じような闘争が繰り返し起き続けてきた。上層は長期間にわたって安穏と権力の座にあるように思われるが、遅かれ早かれ彼らが自身の信念や効率的に統治する能力、あるいはその両方を失う時が必ず来る。

その時になると彼らは自由と正義のために戦っているふりをして下層の支持を得た中間層に打ち倒されるのだ。目的を達成すると中間層は、かつての奴隷の地位を下層に押し付け、自身が上層になり変わる。

やがて新たな中間層集団が上層か下層、あるいはその両方から分離し再び闘争が繰り返されるのだ。

三つの集団の中でも下層は、一時的にですら自らの目標の達成に成功したことが無い

有史以来、物質的な発展がなかったといえばそれは大げさすぎるだろう。衰退の時代である今日でも平均的な人間について言えば肉体的には数百年前と比べてずっとましな状態にある。しかし、いかなる富の進歩、習俗の洗練、改革や革命をもってしても、人間の平等へ1ミリメートルたりとも近づくことはなかったのだ。下層の立場からすれば、歴史上の変化は彼らの主人が変わったという以上の意味は持ち得なかった

十九世紀の後半からこのパターンの循環は多くの観察者によって明らかにされてきた。歴史を循環的なプロセスと解釈する思想家の学派が現れ、不平等は人間の生命における普遍の法則であることを証明すると主張し始めたのだ。もちろんこういった学説はこれまでも支持を集めてきてはいた。しかしそのやり方は今や大きく進化したのだ。

過去においては社会の階層構造を必要とするのは上層に固有の学説だった。それは王侯貴族、僧侶、法律家や彼らに寄生している者によって主張され、想像上の死後の世界での報酬を約束することによって穏便化を図るのが一般的だった。中間層は権力との闘争において常に自由や正義、友愛といった言葉を使ってきた。

しかし今や人類愛という概念は指導的な立場にいる者にだけでなく、長い間それを望んできた人々にも激しく非難されるようになり始めたのだ。過去においては中間層は平等の御旗のもとに革命を起こしては古い圧政を打ち倒すと同時に新しい圧政を確立してきた。新しい中間層集団は実際にはその圧政をあらかじめ宣言しているのだ。

十九世紀初頭に現れ、古代の奴隷による反乱にまで遡ることのできる鎖の最後の輪である社会主義は、まだ過去の時代のユートピア主義に深く侵されていた。しかしその一方で1900年頃から現れたそれぞれの社会主義の分派においては、自由と平等という目標の放棄がますますあからさまになっていったのである。

今世紀中盤に現れた新しい運動であるオセアニアのイングソック、ユーラシアのネオ・ボルシェヴィズム、イースタシアの一般に死の崇拝と呼ばれるものは、不自由と不平等を意識的な目標としている。

もちろんこれらの新しい運動は過去の運動を発展させ、その名前を受け継ぎ、上辺だけはその思想を褒め讃えている。しかしその目標はどれも発展を停止させ、選ばれたある瞬間に歴史を留め置くことにあるのだ。

いつもの振り子の運動がもう一度始まり、そして停止する。いつものように上層は中間層によって一掃され、中間層が上層になるだろう。しかし今回は意識的な戦略によって、上層は永久にその地位にあり続けるのだ。
 
 
 
 
新しい学説が産み出された原因の一部は歴史的知識が蓄積されたこと、また歴史的感覚が発達したことにある。これらは十九世紀以前には存在し得なかった条件だ。歴史の循環運動は現在では明確なことのように思われる。そして明確であるならばそれを変えることもできるのだ。

しかし新しい学説が産み出された根本の原因は、二十世紀はじめ頃に人間の平等が技術的に可能になったことにこそある。

もちろん生まれ持っての才能について言えば依然として人間は平等でないし、ある能力に特化することで他の者よりも利益をあげる個人がいることも事実だ。しかし実を言えば、もはや身分差や富の大きな格差を設ける必要はないのだ。

過去の時代においては身分差は不可避というだけではなく望ましいものでもあった。不平等は文明化の代償だったのだ。しかし機械生産の発達によって事態は変わった。たとえ未だに人々が異なる種類の仕事をすることが必要であったとしても、もはや彼らが異なった社会階級、経済階級のもとに生活する必要はないのだ。

それゆえ権力を掌握する新しい集団からすると、人間の平等はもはや戦いのための理想ではなく、回避しなければならない危険になったのだ。

平和な社会が事実上まったく実現不可能だった原始的な時代においては、それを信じることは非常に容易だった。法律も、動物じみた労働もなく人々がまるで兄弟のように一緒に暮らす地上の楽園という理想は、数千年に渡って人間の想像力にとり憑いてきたのだ。

そしてそれぞれの歴史的変化によって、実際には利益を得てきた集団でさえある程度はこのビジョンを共有していた。フランス、イギリス、そしてアメリカでの革命の継承者たちは人権や言論の自由、法の前の平等といった自分自身の言葉を部分的には信じていたし、ある程度はそれに影響された行動さえした。

しかし二十世紀も40年を過ぎるころには、政治思想の主流全てが独裁主義へと変わってしまった。地上の楽園はまさにそれが実現する瞬間になって疑惑の目を向けられたのだ。新しい政治理論はたとえそれがなんと呼称されようと、全て階級と厳格な組織化への後退を促すものだった。

そして1930年ごろに将来展望が厳しくなる中、ものによっては数百年もの長い間廃止されていた行い…裁判なしでの勾留、戦争捕虜の奴隷労働、公開処刑、自白を引き出すための拷問、人質の使用、そして住民全体の国外追放…が再び公然と行われ、さらには高い教育を受け進歩的であるとされる人々によってそれが容認、あるいは擁護さえされたのである。

イングソックやその対抗勢力となる教義が政治理論の十全な結果として産み出されたのは、世界各地で国家間の戦争、内戦、革命、そして反革命が吹き荒れてからほんの十年ほど後のことだった。

しかしそれらは、一般的に全体主義と呼ばれる今世紀初頭に姿を現していたさまざまな体制に既に影を落としていたし、混沌を深める世界情勢もずっと以前から明白だった。そしてどのような人間がこの世界を制御できるのかも、また同様に明らかだったのだ。
 
 
 
 
新しい貴族階級は官僚、科学者、技術者、労働組合の組織者、広報の専門家、社会学者、教師、ジャーナリスト、そして職業政治家によってその大部分が占められていた。もともとは雇われの中産階級や労働者階級の上部に属していたこうした人々は、寡占産業と中央集権的な政府という不毛な世界によって先鋭化し、組織化していった。

過去の時代に彼らと同じ地位を占めた者たちと比べれば彼らは強欲でなく、贅沢もしようとしなかったが、純粋に権力に飢えていた。とりわけ彼らは自分たちの行いや敵対者を打ち負かすことに神経を集中した。

この最後の点がもっとも重要だった。現在と比較すれば過去の圧政はどれも生ぬるく、非効率だったと言える。統治者集団は常にある程度はリベラルな理想に感染しており、至る所で中途半端な処置をおこなってそれで満足していた。自分たちが相手をしている者のあからさまな行いのみを見て、彼らが何を考えているのかには興味を持たなかったのだ。

中世のカトリック教会ですら、現代の基準から見れば寛大だったと言えるだろう。過去においてはその市民を常に監視下における力を持った政府が存在しなかったということも理由の一部ではある。

しかし印刷の発明が世論の操作を容易にし、フィルムとラジオがその流れを加速させた。テレビの発達、そして一つの機器に送受信を同時に行わせることを可能にさせる技術の開発によってプライベートな生活というものは終わりを迎えた。すべての市民、少なくとも監視するに足る価値がある全ての市民を24時間、警察の監視と公式なプロパガンダ放送の下にさらし、他のコミュニケーション手段を閉ざすことが可能になったのだ。ここに至って国家の意思に対する完全な服従と、全ての問題に対する意見の完全な均一化が初めて可能になったのである。
 
 
 
 
50年代、60年代の革命の時代の後、社会はまたいつものように上層、中間層、下層に再編成された。しかし新しい上層は今までのものとは異なり本能のままに行動することをせず、またその地位を守るためには何が必要かを熟知していた。安定した基盤を持つ少数独裁は集産主義だけであることは以前から気づかれていた。

富と特権はそれらが一緒に保有された時に、もっとも守ることが簡単になる

今世紀の中頃に盛んに叫ばれたいわゆる「私有財産の廃止」は、実際には以前よりもはるかに少ない人間へ富を集中させることを意味していた。

しかしこれまでとは異なり、新しい所有者は大勢の個人ではなくひとつの集団である。個人として見た時には、党員はちょっとした所有物を除いて何も所有していない。集産主義においては党がオセアニアの全てを所有しているのだ。なぜなら党が全てをコントロールし、党の考えに合えば製品が廃棄されることもあるからだ。

革命後の数年で党はほとんど独壇場といってよいその指導的立場を手に入れた。全てのプロセスが集産主義の活動として行なわれたからである。

資本家階級がその富を没収されたあかつきに到来するのは社会主義でなければならないと常に見なされてきたし、資本家がその富を没収されたことは疑いない。工場、鉱山、土地、家屋、輸送機関…全てが取り上げられた。それらは私有財産ではなく、公共の財産でなければならないと考えられたのだ。

以前の社会主義運動から生まれ育ち、その用語を受け継いでいるイングソックは実際、社会主義の綱領の主要項目を実行に移している。その結果、あらかじめ予見し、計画された通りに経済的な不平等は永続化されているのである。

しかし永続化する階級社会の問題はさらに深刻になるだろう。統治者集団が権力の座から追いやられるのは四つの場合しか無い。外部から侵略されるか、大衆が反乱を起こすほど統治が非効率的か、強い力を持ち不満を溜め込んだ中間層集団が現れるのを許すか、統治に対する自信と意志を失うかである。

これらの要因は単独で働くわけではなく、常に四つの全てがある程度は存在する。これら全てを防ぐことのできる統治者集団のみが永続的に権力を維持することができるのだ。とりわけ決定的な要因は支配者階級自身の精神的な姿勢である
 
 
 
 
今世紀の中盤を過ぎた後、最初の危険は事実上消え去った。現在、世界を分割している三大国のそれぞれは事実上、侵略不可能だし、ゆっくりとした人口の変化によって侵略可能になるとしてもそのような変化は幅広い権力を持つ政府にしてみればやすやすと回避できるものである。

二番目の危険もまた理論上の物に過ぎない。大衆は決して自発的には反乱を起こさないし、自らが抑圧されたというだけで反乱を起こすことはないのである。さらに言えば彼らが比較対象を持つことを許されていない以上、自らが抑圧されているということにすら、気づかないだろう。

過去に繰り返し起きた経済危機は全くもって不必要なものであったし、現在では二度と繰り返されることも無いが、政治的な結果をもたらさない他の事柄であれば同じくらい大規模な変化は十分に起き得る。なぜなら不満が明確化されるような手段が他に存在しないからだ。

機械技術の発達以来、我々の社会に潜在的に存在する過剰生産の問題は継続的戦争行為という手段によって解決された第三章を参照)。そしてそれはまた公共のモラルを必要な程度まで緊張させるのにも役に立つのだ。

従って現在の支配者から見ると残った本当の危険は、有能だがその力を発揮できておらず権力に飢えている人々が新しい集団に分離し、彼らの中で自由主義と懐疑主義が成長することだけなのだ。

問題は教育である、と言えるだろう。指導組織とその直下に存在する巨大な執行組織の意識をいかに結合的に形成するかという問題だ。大衆の意識については鈍化させておけばそれで十分である。
 
 
 
 
このような背景を理解すれば、オセアニアの社会の全体構造を知らない者にもそれを推察することができるだろう。ピラミッドの頂点にはビッグ・ブラザーが存在する。ビッグ・ブラザーは絶対であり全能だ。全ての成功、全ての成果、全ての勝利、全ての科学的発見、全ての知識、全ての英知、全ての幸福、全ての美徳は彼の指導力とインスピレーションによってもたらされる。

ビッグ・ブラザーを見た者は誰もいない。顔を見ることができるのは掲示板上でだけだし、声はテレスクリーンを通してしか聞くことができない。彼が決して死ぬことがないことを我々は薄々気づいているし、彼が生まれたのがいつなのかということにいたっては、全くもって定かでない。ビッグ・ブラザーは、党が世界の前に姿を現す為の現身でしかない。彼の役割は愛、恐怖、畏敬の念といった感情の焦点として振舞うことなのだ。感情というものは、組織に対してよりも個人に対しての方が容易に喚起されるものだ。

ビッグ・ブラザーの下には党内局が位置する。その数は六百万人程度、オセアニアの全人口の2パーセントよりすこし少ないくらいだろう。党内局の下に位置するのが党外局で、もし党内局を国家の頭脳とするならば党外局はちょうどその両手に例えることができる。

その下には我々が普通「プロレ」と呼んでいる声なき大衆が存在し、その数は全人口の85パーセントにも達する。先に述べた分類で言えばプロレは下層にあたる。常に征服者の手から征服者の手へ揺れ動いている赤道付近の奴隷人口は、構造の一部としては流動的であるし必要でもない。

原則的にはこの三つの集団に対する所属は世襲的なものでは無い。理論的には党内局の両親を持つ子供と言えども党内局の一員として生まれる訳ではないのだ。党のどちらの機関に入るかは16歳の時に受ける試験によって決まる。

同様に人種による差別や特定の地方の者が目立って多いといったことも全くない。ユダヤ人、黒人、純粋なインディオの血筋の南アメリカ人、いずれの人種も党の最高階級の中に見つけることができるし、どの地区の行政官も常にその地区の住民の中から選ばれる。

オセアニアのどこであろうと、自分たちは遠くにある首都の言いなりになるしかない植民地の人間である、という思いを住民が抱くことはないだろう。

そもそもオセアニアには首都は存在しないし、名ばかりの元首はといえば、彼がどこにいるのか誰も知らないような人物だ。その主要な共通語が英語であること、ニュースピークが公用語であることを除けば、全く中央集権的な要素をもっていないのだ。統治者たちは血縁関係ではなく、同じ主義を保持することによって連帯しているのである。

しかし我々の社会が階層構造を持ち、その階層構造が強固であること、そしてそれが一見すると世襲のように見えることは確かである。

異なる集団の間の流動性は資本主義、あるいは産業化以前の時代と比べてもはるかに少ないだろう。党の二つの機関の間ではある程度の入れ替えはおこなわれるがそれも党内局から劣った者を排除し、また昇格させることによって党外局の野心家を無害化するためだけにおこなわれている。

プロレタリアは原則的には入党を許されていない。彼らの中でももっとも才能に恵まれ、不満分子の中心となりそうな者は単に思想警察にマークされ、取り除かれるだけだ。しかしこの状況は必要不可欠なものでは無いし、原理的な問題が存在するわけでもない。

党は過去の言葉の意味での階級ではないのだ。権力を自分の子孫に移譲することは目標とされておらず、トップに立つ有能な人間を確保する方法が他になければ、新世代の指導者全員がプロレタリア階級から採用されるということも十分に考えられる。

過去の重要な時期においては党が世襲でないことは対立相手を黙らせるためにもおおいに役立った。「特権階級」と呼ばれるものと戦うための訓練を受けてきた古いタイプの社会主義者は、世襲でないものは永続し得ないと考えたのだ。少数独裁の継続に血縁は必要ないということを彼らは理解できなかったし、カトリック教会のような世襲でない組織が数百年、数千年も続くことがある一方で、世襲貴族は常に短命であったということを立ち止まってよく考えることもできなかったのである。

少数独裁による統治で必要不可欠なものは父から子への世襲でなく、特定の世界観と生活習慣の継続を、死にゆく者が生者に強制することなのだ。統治者集団はその後継者の任命権を持つ限りに置いて統治者集団足り得る。党はその血統の維持ではなく、自身の維持を考えるのである。その階級構造が常に同じように維持されるならば、誰が権力を行使するかは重要なことでは無いのだ。
 
 
 
 
我々の時代を特徴付ける全ての信念、習慣、体験、感情、精神的な態度は、党の神秘性を維持し、現在社会の真の姿を覆い隠すように入念に設計されているのだ。物理的な反乱や反乱の準備のための活動は現在では不可能である。

プロレタリアにしても恐れる必要は何もないのだ。彼らは働き、子を産み、死ぬということを何世代にも何世紀にも渡って続けるだけで反乱しようなどという衝動も、今とは異なる世界を作り上げるために権力を手にしようなどという気も全くないのだ。

彼らが危険な存在になるとしたら、それは産業技術の発展によって、彼らにより高い教育を与えなくてはならなくなった場合だ。しかし軍事競争、商業的競争がもはや重要でなくなったために、人々の教育レベルは実際には低下を続けている。大衆がどのような意見を抱くか、あるいは抱かないかは大して重要なことではないと見なされているのだ。

彼らには知的自由が与えられている。なぜなら彼らは全く知性を持っていないからだ。その一方で党内では、もっとも瑣末な問題に対しても、ほんの少しの意見の相違も許されてはいない。

党員は生まれてから死ぬまでの一生を、思想警察の監視下で過ごす。たとえ一人でいる時も、自分が本当に一人なのかどうか確かめるすべはない。眠っている時も起きている時も、働いている時も休んでいる時も、風呂の中でもベッドの中でも、何の警告も、またその自覚もなく監視されている可能性があるのだ。

見過ごされる行動など一つも無い。友達付き合い、気晴らし、妻や子供への態度、一人でいるときの顔の表情、寝言、体の特徴的な動きでさえ注意深く調べられている。実際に何か悪いことをおこなったかどうかだけでなく、不審な挙動、習慣の変化、精神的苦悩の兆候と見なされ得る神経的な脱力はどんなに小さなものでも検知される。選択の自由は一切無いのだ。

一方で行動を制限するような法律や明文化された行動規則は存在しない。オセアニアには法律は存在しないのだ。見つかれば確実に死を意味するような思想や行動でも公式には禁じられておらず、際限なく続く粛清、逮捕、拷問、拘束、そして蒸発も正式に認められた刑罰としておこなわれるわけではない。ただ将来的に犯罪を犯しそうな人物を一掃するというだけのことなのだ。
 
 
 
 
党員には正しい意見だけでなく、正しい本能を持つことが要求されている。しかし求められる数多くの信念と態度についてはっきりと規定されたことは無いし、イングソックに内在する矛盾に触れずにそれらを規定することは不可能だろう。だが、もし生まれながらの正統な人間ニュースピークでいう良性思考者だ)であれば、全ての状況で考えるまでもなく何が正しい信念か、何が適切な欲求かを理解することができるはずだ。

また、いずれにしても党員はニュースピークで犯罪停止、黒白、二重思考と呼ばれる幼少期の入念な精神訓練によってどんな物事についても深く考えることができなくなるし、そうしようとする気も起きなくなる。

党員は個人的な感情を持たず、常に熱狂的であることが求められる。狂ったように敵国と内部の裏切り者を憎悪し、勝利に歓喜し、党の権力と英知の前にひれ伏しながら生活するべきだと考えられているのだ。

荒涼とした不快な生活によって生まれる不満は、二分間憎悪などの装置によって意図的に放出、解消させられるし、疑いと反抗の態度を生み出す可能性のある考えは、幼少期の精神的な訓練によって前もって抹消されている。

訓練のもっとも簡単な一段階目はニュースピークで犯罪停止と呼ばれ、非常に幼い子どもに対しても教えられるものだ。犯罪停止とはどのようなものであれ危険な考えが一定の限度を超えた瞬間にまるで本能のように考えを停止する能力を意味する。

これにはアナロジーを理解しない能力、論理的な誤りを見過ごす能力、イングソックに反する主張に対してはどんなに簡潔なものでも誤った解釈を下す能力、異端へと導く可能性のある思想に対して退屈あるいは不快感を感じる能力が含まれる。

犯罪停止とは簡単にいえば愚かさを維持することだ。しかし愚かなだけでは十分ではない。反対に完全な意味での正統においては、曲芸師が自らの身体を操るのと同じくらい完璧に自らの精神の動きを操ることが要求される

ビッグ・ブラザーは全能であり党は絶対的なものである、という信念の上にオセアニアの社会は存在する。しかし実際にはビッグ・ブラザーは全能ではないし党も絶対的ではない。現実に対処するためには常にしなやかで、疲れ知らずである必要があるのだ。ここでのキーワードとなるのが黒白である。

多くのニュースピークの単語と同様、この言葉には二つの互いに矛盾する意味がある。敵対者に対して使われる場合にはあからさまな事実に反して厚かましくも黒を白と言い張ることを意味する。しかし党員に対して使われる場合には党の規則がそれを要求するときには黒であっても白と断言する忠誠心を意味するのだ。そして、それは同時に黒を白と信じる能力、さらに言えば黒を白と識別し、かつて反対のことを信じていたということを忘れる能力をも意味するのだ。

これには絶えざる過去の改変が必要になり、それは他の全てを完全に包含する思想体系によって可能になる。それこそがニュースピークで二重思考として知られるものである。
 
 
 
 
過去の改変は二つの理由から必要とされる。そのうちの一つは補助的なもので、わかりやすく言えば予防のためだ。党員はプロレタリア同様、現在の状況を黙認しているがその理由の一つは、比較する対象を持っていないことにある。つまり外国から隔離するのと同様、過去からも彼らを隔離しなければならないのだ。自分は祖先より良い状況にあり、物質的な快適さの平均水準は常に増大していると信じるためにはそれが必要になる。

しかしそれよりもはるかに重要な過去を再調整する理由は、それが党の無謬性を守るために必要だということなのだ。党の予測が全て正しかったことを示すために常に演説や統計、あらゆる種類の記録を最新の状態に保ち続けるというだけではない。政策や政治上の協力関係には一度の変更も許されないのだ。考えを変えることや方針を変えることは、自分の弱さを告白することに他ならない

例えばユーラシアかイースタシア(どちらでも良い)が現在、敵であるのならば、その国は常に敵であったことにしなければならないのだ。そしてもし事実がそれに反するのであれば、その事実は改変されなければならない

こうして歴史は絶えず描き直されていくのだ。真理省によって日々繰りかえされる過去の改竄は、愛情省によって実行される弾圧や諜報活動と同じように体制を安定させるためには必要不可欠なものなのだ。

過去の可変性はイングソックの中心教義である。過去の出来事は客観的存在ではなく、記録や人間の記憶の中にのみ存在すると主張される。過去とは記録と記憶が一致するものを指すのだ。だからこそ党は全ての記録と党員の記憶を完全にコントロールするのである。それによってどのような過去であっても党が好きなように作り出すことができるようになるのだ。

また過去が変更可能であっても特定の場合に変更されるわけではないということも言える。そのときどきの必要に応じて過去が新しく作り変えられたときには、その新しい形が過去となり、それと異なる過去は今まで存在していなかったことになるのだ。

これは出来事を一年に何度も全く違う形に改変しなければならないという、しばしば起きる事態の際によくあてはまる。党は常に絶対的な原理を握っており、その原理が現実と異なるなどということは絶対にあり得ないのだ。

また過去のコントロールはとりわけ記憶の訓練に強く依存していることもわかるだろう。全ての記録とその時々の正統な説との一致を確かめることは、たんに機械的な作業に過ぎない。必要なのは、同時にその出来事があったことを適切なやり方で思い出すことだ。

さらに言えば、もし記憶を書き換えたり記録を改竄したりすれば、同時に、自分がそれをおこなったことを忘れなければならない。この芸当は他の精神的技術同様、学習によって習得することが可能である。

党員の大半はこれを身につけているし、正統でなおかつ知識階層に属する者であれば間違いなく全員これをおこなうことができるだろう。オールドスピークでは、これは実に端的に「リアリティー・コントロール」と呼ばれる。ニュースピークでは、これは二重思考と呼ばれるが、二重思考が意味するものはそれに留まらない。
 
 
 
 
二重思考は一つの精神の中で、二つの相反する信念を同時に保持し、その両方を受け入れる能力を意味する。党の知識階層はどちらの方向に自らの記憶を改変しなければならないかを理解している。従って自分が策を弄して現実を改変していることも理解しているが、同時に二重思考の実行によって現実は侵犯されてはいないと自らを納得させるのだ。

その作業は意識的におこなわなければならない。さもなければ十分な正確さでそれをおこなうことは不可能だ。しかし一方で、それを無意識におこなう必要もあるのだ。そうしなければ欺瞞的な感情とそれによる罪悪感が湧き出てしまうだろう。

二重思考はイングソックのもっとも核心に横たわっている。党の本質的な活動は完全な誠実さで確固とした目的に向かって前進し続けながら、一方で自らの意識を騙すことにあるからだ。

心からそれを信じながら手の込んだ嘘をつくこと、不都合になった事実を全て忘れること、そして後になってそれがまた必要になった時にはそれが必要な間だけ忘却の彼方からそれを引っ張り出すこと、客観的な現実の存在を否定しながらも、否定した現実に絶えず気を配ること…その全てが必要不可欠なのだ。二重思考という言葉の使用においてさえ、二重思考の存在が必要である。

つまり、この言葉を使うことは現実を改竄していることを認めることになるが、二重思考を活用することによってその記憶を消去するのだ。そして真実の一歩手前を常に嘘が先行する状態が続いていく。

党が歴史の進行を停止させられる…我々全員が理解しているように、おそらくは数千年でもそれは可能だろう…のは完全に二重思考という手段のおかげである。

過去の少数独裁は全て、硬直化か軟化によって権力の座から転げ落ちていった。愚かで尊大になり、周りの環境への適応に失敗して打ち倒されるか、さもなくばリベラルで臆病になり、力を使うべき時に躊躇することで打ち倒されたのだ。つまり考え深くなることか、考えが浅くなることで失脚したと言える。その両方の状態を同時に持つ思想体系を生み出すことに党は成功したのだ。

これ以上に党の統治を磐石にする知的基盤は存在しないだろう。もし統治し、その統治を持続させるのであれば、現実感をかき乱す必要があるのだ。統治者である秘訣は自らの絶対性を信じることと、過去の失敗に学ぶことの両方をおこなうことにあるのだ。

二重思考のもっとも巧妙な熟練者は、二重思考を考案した者たちであり、彼らはそれが精神を欺瞞する巨大な体系であると、自覚していることは言うまでもないだろう。我々の社会においては、何が現実に起きつつあるのかをもっともよく理解している者は、同時にありのままの現実からもっとも遠い場所にいる人物なのだ。一般的に言って、より理解力が高く、より思い込みが激しい者ほど高い知性をもち、正気を失っているのである。社会的地位が高いものほど戦争に対する興奮の度合いが強いという事実は、これをよく表している。

戦争に対してもっとも理性的な判断を下せるのは、実は紛争地域にいる当事者たちだ。彼らにとって戦争とは、純粋に自分たちの身に津波のように襲いかかる止むことのない災難でしかない。どちらが勝っても彼らにとっては何の違いもない。統治者が変わっても自分たちを以前の主人と同じように扱う新しい主人の元で以前と同じ仕事をするだけのことだ、ということを彼らは理解している。

我々が「プロレ」と呼ぶ彼らより少しだけましな労働者にしたところで、戦争についてはときどき意識に上ってくるだけだ。必要とあれば恐怖と憎悪を燃え上がらせるように仕向けることも可能だが、放っておけば戦争が進行中であることなど思い出しもしないだろう。

戦争に対する真の熱狂が存在するのは、党に属する人々、とりわけ党内局に属する人々の中である。そんなことは不可能だとわかっている人々にこそ、世界の征服はもっとも支持されているのだ。正反対のもの…知性と無知、冷笑と狂信…の奇妙な結合こそがオセアニア社会の特徴の一つなのだ。
 
 
 
 
公認されている思想は必要とも思えない矛盾に満ちている。そして社会主義の名のもとに活動をおこなっているというのに党は社会主義運動が本来土台として持っていたあらゆる原理を拒否し、口汚く罵っているのだ。過去数世紀を見ても類の無いほどの労働者階級に対する侮蔑を説きながら、かつて単純労働者の特徴とされた制服という代物をまさにその理由から党員に着させている。組織的に家族の絆を蝕みながら、まさに家族的忠誠心を表す名称でその指導者を呼ぶ。

我々を統治する四つの省庁の名前にすら厚顔無恥で意図的な事実の逆転は表れている。平和省は戦争を、真理省は虚偽を、愛情省は拷問を、豊富省は飢餓を取り扱うのだ。これらの矛盾は偶然のことでも、ありがちな子供だましの結果でもない。二重思考を入念に実行した結果なのだ。矛盾を調和させることによってのみ権力は永続し得る。他の方法では古代から繰り返される循環を打ち破ることはできないのだ。

もし人類の平等を回避したいのであれば…もし我々が呼ぶところの上層がその地位を永続させたいのであれば…人々の間で支配的な精神状態は、制御された狂気でなければならないのだ。

しかしここに今まで無視してきた一つの疑問がある。なぜ人類の平等は、回避されなければならないのだろうか?今まで述べてきたプロセスの仕組みが正しいとして、特定の瞬間に歴史を留め置くという、この巨大で精密に計画された大事業の動機は何なのであろうか

ここに来て我々は最中枢の秘密に到達した。先に述べたように党の、とりわけ党内局の神秘性は二重思考によって支えられている。しかしその虚言の更に奥底には大元となる動機、決して問われることのない権力掌握へと導く本能が存在し、それが二重思考を、思想警察を、止むことのない戦争を、そしてその存続のために必要とされるその他の道具立てをもたらしたのだ。

その動機とは…

 
ウィンストンは辺りが静まり返っているのに気づき、それと同時に何かの音に気づいた。ジュリアは少し前から全く身じろぎしていないように見える。彼女は上半身裸のまま腕を枕にして横になっていて黒い髪が一房、目にかかっていた。胸はゆっくりと規則的に上下している。

「ジュリア」

返事はない。

「ジュリア。起きているかい?」

返事はない。彼女は眠ってしまっていた。彼は本を閉じて注意深く床の上に置くと上掛けを二人の上に引っ張ってかぶせた。

自分はまだ最高機密を理解してはいない、と彼は思った。どのようにしてかは理解できたが、なぜかは理解できていない。第三章と同様、第一章は彼が本当に知らないことについては何も教えてはくれなかった。ただ既に持っていた知識を整理してくれただけだ。しかしそれを読んだ後には、自分が狂っているのでは無いということが以前にも増して確信できた。少数派であっても、例えたった一人の少数派であっても、狂っているわけではないのだ。真実と虚偽が存在する時に全世界を敵に回して真実にしがみついたとしても、狂っているわけではないのだ。

沈む太陽の黄色い光が窓から差し込み枕にあたっていた。彼は目を閉じた。顔にあたる陽の光と若い女性のなめらかな肌の感触が、彼に強く気だるい満足感を与えた。自分は安全だ。全てがうまくいっている。「正気かどうかは統計で決まるものではないんだ」彼はそうつぶやきながら眠りに落ちていった。その言葉にこそ深遠な英知があるような気がした。
 
 
 
 
目覚めた時にはずいぶん長い間眠っていたように感じたが、古い時計に目をやるとまだ20時30分だった。彼がしばらくウトウトとしていると、いつもの力強く低い歌声が下の庭から聞こえてきた。

「本当に儚い夢ってやつさ。
4月の一日のようにあっという間に通り過ぎた。
だけどその姿と言葉と呼び覚まされた夢よ!
そいつらが私の心を奪っていった!」

その流行歌はいまだにその人気を保っているようで、まだ至る所で耳にした。憎悪の歌よりも息が長かったのだ。ジュリアが物音に目覚めると、大きく伸びをしてベッドから出た。

「おなかが空いた」彼女は言った。「またコーヒーを淹れましょう。あら!ストーブが消えてお湯が冷めちゃった」彼女はストーブを手にとって振った。「オイルが切れちゃってる」

「チャーリントンじいさんにいくらかもらえると思うけど」

「おかしいわね。いっぱい入ってたと思ったんだけど。服を着なくちゃ」彼女は付け加えた。「少し寒くなってきたみたい」

ウィンストンも起き上がると服を身につけた。歌声は飽きること無く続いていた。

「時間が全て癒すってあいつらは言った。
全部忘れることができるってあいつらは言った。
だけど何年分もの笑顔と涙。
それが今でも心を締め付けるんだ!」

オーバーオールのベルトを留めながら彼は窓の方へ歩いて行った。太陽は家々の背後に隠れてしまい、庭にはもう陽の光は差していない。敷石はまるで洗われたかのように濡れていて、まるで空まで洗われたようだと彼は思った。煙突の合間から見える空はそれほど淡く澄んでいたのだ。

あの女は疲れを知らないかのように歩きまわっては身を屈めたり伸ばしたりして、歌ったり黙ったりしながらおしめを次々に干していった。彼女は洗濯の仕事で生活しているのだろうか、それともたんに2、30人もの孫のための下働きをしているのだろうか、と彼はぼんやりと考えた。

ジュリアが彼の横にやって来ると二人は一緒になって、まるで魅了されたかのように下に見える頑健な体をみつめたのだった。女の特徴的な姿勢や洗濯ひもに伸びる太い腕、力強い雌馬のように突き出た尻を見ているうちに、彼は初めて彼女を美しいと思った。

出産によって大きく太り、労働によって硬く、熟れすぎたカブの表面のようになるまで荒れた肌の50代の女の肉体を美しいなどと思ったことは、彼には今までに無かったことだった。しかし彼にはそう思えたし、それが当然のことに感じられたのだ。がさがさの赤い肌をした花崗岩の塊のような強張って形の崩れた肉体と少女の肉体の関係は、薔薇の実と花の関係と同じことだ。果実がその花より劣る理由があるだろうか?

「彼女は美しい」彼はつぶやいた。

「おしりの周りが1メートル以上もあるわ」ジュリアが言った。

「それが彼女の美しさのあり方なのさ」ウィンストンは言った。

彼は腕で簡単に抱きしめることができる細いジュリアのしなやかなウェストを抱いた。彼女の腰から膝までが彼に向く。彼らが子供を産むことは無いだろう。それは彼らには決してできないことの一つだった。言葉によって頭脳から頭脳へ彼らの秘密を受け渡すことができるだけだ。

下にいる女に頭脳は無い。彼女が持っているのは力強い腕と温かい心、それによく太った腹だけだ。彼女は何人の子供を産んだのだろう、と彼は思った。15人は固いだろう。おそらく1年かそこらのつかの間だけ野生の薔薇のように花咲き、それから突然、熟れた果実のように膨れ上がって硬く赤茶けた花崗岩のようになったのだろう。

それからの彼女の生活は30年間以上休むこと無く、洗濯、繕い物、料理、掃き掃除、磨き仕事、繕い物、洗濯物の連続となり、全てが子供のために、そして孫のためのものになったのだ。その最後の時まで彼女は歌い続けるだろう。彼が彼女に感じた神秘的な畏敬の念にはどういうわけか、煙突のむこうに無限に広がる青い、雲ひとつない空に対するものが混じっていた。

ユーラシアだろうとイースタシアだろうとこの場所であろうと、目にする空は皆、同じだということが奇妙に思われた。この空の下にいる人々は皆、よく似ているのだ…ここにいるのと同じような人々が、世界中のいたるところに何億、何十億もいる。人々は他の者の存在を知らないまま、憎しみと嘘の壁によって分け隔てられている。しかし、それでも彼らは皆同じように暮らしているのだ…人々は自分の頭で考えることを決して学ぼうとはしないが、その心臓には、肉体のうちには、筋肉には、いつの日か世界を変える力が蓄えられているのだ。

もし希望があるとするならそれはプロレの中にある!あの本を最後まで読むまでもなく彼にはゴールドスタインの最後のメッセージがわかった。未来はプロレのものだ。それでは党の支配する世界で彼、ウィンストン・スミスが感じる違和感は彼らの時代が来たときに、彼らが作り上げる世界では消え去るのだろうか?その通りだ。少なくともそれは正気の世界なのだから。平等があれば正気になれるのだ。遅かれ早かれそれは起き、強靭さは思慮深さへと変わるだろう。

プロレは不滅だ。あの庭にいるすばらしい姿を目にすれば、それを疑うことなどできないだろう。ついには彼らの目覚めが訪れるだろう。それが起きるまで千年かかろうとも彼らは小鳥たちのように全ての危機を切り抜けて生き延び、その肉体から肉体へ生命力を伝えていくだろう。その生命力は、党には取り込むことも消し去ることもできないものだ。

「君は」彼は言った。「初めての日に林の端で、僕たちに歌を歌ってくれたつぐみを憶えているかい?」

「私たちのために歌ってくれていたんじゃないわ」ジュリアが言った。「自分が楽しむために歌っていたのよ。いえ、そうですらない。ただ歌っていたのよ」

鳥たちは歌い、プロレは歌う。だが党が歌うことはない。ロンドンにニューヨーク、アフリカにブラジル、前線に浮かぶ謎めいた閉ざされた島、パリやベルリンの通り、無限に広がるロシアの平原にある村々、日本や中国の市場…世界中のいたるところで、同じように頑強な不屈の姿がそびえ立っている。その姿は労働と出産によって奇怪に変わり、生まれてから死ぬまで過酷な労働は終わらない。

しかしそれでもなお彼らは歌うのだ。その強靭な腹から必ず意識ある人類が誕生する日が来る。それが起きるのは、今生きている者が皆いなくなった未来でのことだろう。しかし肉体が生き続けるように精神が生き続けるのであれば、そして2足す2は4であるという秘密の教えを伝え続ければ、その未来を共に手にすることができるのだ。

「僕たちは死人だ」彼が言った。

「私たちは死人だわ」ジュリアが律儀に繰り返した。

「君たちは死人だ」背後から鉄の声が響いた。

二人は弾けるように飛びさすった。ウィンストンの体の芯が氷のように冷えていく。ジュリアの目が大きく見開かれたのが彼に見えた。その顔色が黄色っぽい乳白色に変わっていく。両頬にまだ残るチークが際立ち、まるでその下の肌から浮き上がっているようだった。

「君たちは死人だ」鉄の声が繰り返す。

「あの絵の後ろ」ジュリアがささやく。

「あの絵の後ろ」声が言った。「その場を動くな。命令されるまでじっとしていろ」

ついに、ついにその時が来てしまったのだ!二人にできるのは互いの目を見つめながら立ち尽くすことだけだった。生き延びるために走りだすこと、手遅れになる前に家の外に逃げ出すこと…そんなことは彼らの頭には浮かばなかった。壁から聞こえる鉄の声に背くことなど思いもよらなかったのだ。留め具が外れるような音がしたかと思うとガラスが盛大に割れた。あの絵が床に落ち、その後ろにあったテレスクリーンがむき出しになった。

「これであいつらは私たちを見ることができるようになったわね」ジュリアが言った。

「これで君たちを見ることができるようになった」声が言った。「部屋の中央に立て。背中合わせでだ。手を頭の後ろで組め。互いの体に触れるんじゃないぞ」

触れていなくても彼には、ジュリアの体の震えが感じ取れるようだった。あるいはたんにそれは彼自身の震えだったのかもしれない。彼はなんとかカチカチとなる歯の震えを止めたが、膝の震えは止めることができなかった。下の方からブーツの足音が聞こえて来る。家の中からも外からもだ。庭は男たちでいっぱいだった。何かが敷石の上を引きずられていく。あの女の歌声は不意に途切れたままだ。洗濯用たらいが庭を転げていくような長い金属音が響き、それから怒りで叫びあう声が苦痛の叫びと共に止んだ。

「この家は囲まれている」ウィンストンは言った。

「この家は囲まれている」声が言った。

ジュリアが歯をカチカチと鳴らす音が彼には聞こえた。「さようならを言っておいた方がいいと思う」彼女が言った。

「さようならを言っておいた方がいいだろうな」声が言う。その次に聞こえてきたのは全く違う声だった。細い、教養を感じさせる声でウィンストンには聞き覚えがあった。「ところで本題にはいる前に。『ベッドを照らすろうそくが来るぞ、ほら、おまえの首はねに首切り人が来るぞ!』

ウィンストンの背後のベッドで何かが砕ける音がした。はしごの先端が窓を突き破って架けられ、窓枠が砕け散った。誰かが窓からよじ登ってくる。階段に殺到するブーツの足音が聞こえた。そして黒い制服を着て鉄の板がついたブーツを履き、手には警棒を握ったいかめしい男たちで部屋はいっぱいになったのだった。

ウィンストンはいつまでも震えてはいなかった。目さえ動いてはいない。大切なことは一つだ。動かないこと。動かないで、彼らに自分を殴らせる理由を与えないことだ。滑らかな、賞金かせぎのボクサーのようなあごに、細い切れ目のような申し訳程度の口がついた男が、彼の前で立ち止まった。考え事でもしているかのように親指と人差指で手にした警棒のバランスをとっている。

ウィンストンと男の目が合った。丸裸の気分だった。手を頭の後ろに組み、顔と胴体を無防備に晒すことは耐え難かった。その男は白っぽい舌先を出すと、本来は唇がある場所を一舐めし、通り過ぎた。また何かが壊れる音がした。誰かがテーブルからガラス製のペーパーウェイトを取り上げ、床石に叩きつけて粉々にしたのだ。

ケーキにのった砂糖でできたバラの蕾のような、ピンク色の小さなひだの珊瑚のかけらが絨毯の上を転がった。なんて小さいんだ。ウィンストンは思った。あんなに小さかったとは!彼の背後で喘ぎ声と鈍い音がしたかと思うと、膝を乱暴に蹴られてよろけそうになった。男の一人がジュリアのみぞおちを殴りつけ、彼女が折り畳み式の定規のように体を折り曲げたのだ。彼女は床の上でのたうち、必死で息をしようとした。

ウィンストンは1ミリも頭を動かさないように我慢したが、彼女の青ざめた苦しそうな顔がちらちらと彼の視界に入ってきた。ひどい恐怖にも関わらず、彼はまるで自分の体に痛みを感じたかのように思った。致命的な痛み、それにも増した呼吸困難の苦しみ。彼にはそれがどのようなものか理解できた。恐ろしい苦痛だ。だがそれで終わりではない。何をおいてもまずは息ができることが必要なのだ。

二人の男が膝と肩をつかんで彼女を抱え上げ、ずだ袋のように部屋の外に運びだした。ウィンストンは彼女の顔を盗み見た。逆さまになってたその顔は黄ばんで歪み、その目は閉じられている。そして片頬にはまだチークが付いたままだ。そしてそれが彼女を見た最後となった。

彼はずっと死人のように立っていた。今のところは誰も彼を殴っていない。彼らには何か考えがあるようだが、どうやら彼を取り調べることには全く興味がないように見える。彼らはチャーリントン氏を捕まえるだろうか、それに庭にいた女に何をしたのだろうかと彼は取りとめもなく考えた。間の悪いことに彼は尿意を催し、そのことに対してかすかな驚きを感じた。ほんの2、3時間前に用を足したばかりだったのだ。

マントルピースの上の時計が9、つまり21時を指していることに彼は気づいた。しかしそれにしては明るすぎる。8月の夜の21時であれば、もっと暗いのではないだろうか?自分とジュリアは時間を間違えたのだろうか…時計の針が一周する間ずっと眠り続け、本当は次の朝の8時半だというのに20時半だと思い込んだのだろうかと彼は考えた。しかし彼はそれ以上考えるのをやめた。無意味なことだった。

廊下から別の軽やかな足音が聞こえてきたかと思うと、チャーリントン氏が部屋に入ってきた。黒い制服の男たちの態度が変わり、突然おとなしくなった。チャーリントン氏の外見も何かが違う。彼の目がガラス製のペーパーウェイトのかけらに向けられた。

「この破片を拾え」彼が鋭く言った。

一人の男が立ち止まって指示に従った。ロンドンの下町訛りのアクセントは消えている。さっきテレスクリーンから聞こえた声が誰の声なのか、ウィンストンは突然、気がついた。チャーリントン氏はあの古いベルベットのジャケットを着ていたが、ほとんど白くなっていたその髪は黒く変わっていた。眼鏡も掛けていない。確認するかのようにウィンストンを鋭く一瞥すると、後は一切関心を払おうとしなかった。

彼であることは間違いないが、もはや同じ人物では無かった。背筋はまっすぐに伸び、体が大きくなったように見える。顔はわずかにしか変わっていないにも関わらず、全く違って見える。黒い眉毛は短く整えられ、しわは消え失せている。顔の輪郭が変わっていて、鼻も短くなっているように見える。それは用心深く冷たい顔をした35歳くらいの男だった。それとわかる思想警察の人間を見たのは、記憶している限りではウィンストンの人生で初めてのことだった。
 


【目 次】

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