1984年 3 – 1

第 一 章

 彼には自分がどこにいるのかわからなかった。おそらくは 愛情省 の中だろうが、確認する方法はない。彼がいるのは天井の高い、窓の無い監房で、その壁は光り輝く白いタイル貼りだった。どこかに隠されたライトが部屋を冷たく照らしていて、何か空調なのか 低いうなるような音 が鳴り続けていた。

 部屋の壁の内周には座るのにちょうどいい大きさの、ベンチとも 棚 ともつかないものが取り付けられ、部屋の扉とその反対側のトイレに続く扉のところでだけ 途切れている。その便器には木製のシートは ついていなかった。そしてそれぞれの壁には 4 台の テレスクリーン が取り付けられていた。

 腹が鈍く痛む。密閉された護送車に放りこまれ、連れ去られてからずっとそうだった。さらには腹もへっていた。不快で健康的とは言えない飢餓感だ。最後に何か食べてから 24 時間は経っている。もしかしたら 36 時間かもしれない。自分たちが逮捕されたのが朝のことなのか夜のことなのか、いまだに彼にはわからなかったし、それがわかることは今後も無いだろう。

 捕まってから今まで食事は与えられていなかった。彼は手を膝に当て、できるだけ身動きをしないようにして狭いベンチに座っていた。すでに体を動かさないで座ることを学んでいた。もしフイに動けば テレスクリーン を通して怒鳴りつけられるのだ。

 しかし食べ物への欲求はどんどん彼の中で大きくなっていった。何よりもパンのひとカケラが欲しい。オーバーオール の ポケット に、パン屑が少しあるのではないかと彼は思いついた。時々彼の足をチクチクと刺激するようすから見て … かなり大きいパンのカケラがありそうだ。ついに誘惑が恐怖に勝り、彼は手をポケットへと滑りこませた。

“ スミス!”

 テレスクリーン から声が怒鳴った。

“ 6079 番、スミス・W!手をポケットから出せ!”

 彼はまた膝に手を当てて、身動きせずに座った。

 ここに連れて来られる前、彼は他の場所に連れていかれた。そこは通常の囚人や、一時的な拘置のために パトロール隊 によって使われている場所に違いなかった。どれくらいそこにいたのか彼にはわからなかった。とにかく数時間だろう。時計も陽の光もない状況では時間を測るのは難しい。

 そこは騒がしく、酷い悪臭のする場所だった。押し込まれたのは今いるのと同じような監房だったがもっと汚らしく、いつも 10 人から 15 人の人間で混み合っていた。大部分は一般的な犯罪者だったが、その中に 政治犯罪者 が数人いた。

 彼は汚れた体に揉みクチャにされながら、壁を背に静かに座っていた。恐怖と腹の痛みで周りに関心を払う余裕は無かったが、それでも党員の囚人とそれ以外の者の態度の驚くべき違いには気づいた。党員の囚人は怯えて常に静かだったが、普通の犯罪者は全く周りを気にしていないように見えた。彼らは攻撃的に看守にわめき、所持品を押収されるときには抵抗した。卑猥な言葉を床に落書きし、持ち込んだ食べ物を洋服の隠し場所から取り出して食べ、命令を守らせようとする テレスクリーン を怒鳴りつけて黙らせさえしたのだ。

 また彼らのうちの何人かは反対に看守に取り入り、あだ名 で看守を呼び、何とかドアの覗き穴からタバコを手に入れようとしていた。看守の方にしても彼らを手荒に扱わなければならない時でも、普通の犯罪者に対してはいくらか手加減して扱っていた。

 話されることといえば、大部分の囚人が送られるであろう 強制労働キャンプ のことで持ちきりだった。彼が聞いたところによると良いツテを持っていて、コツ さえわかれば キャンプ は居心地が良いのだという。賄賂や差別、あらゆる種類のゆすりがあり、同性愛や売春、さらにはジャガイモで作った密造酒もあるのだという。信頼されるのは普通の犯罪者だけ、とりわけ ギャング と殺人者で、彼らは一種の 貴族階級 なのだそうだ。汚れ仕事は全て 政治犯 に押し付けられるということらしかった。

 あらゆる種類の囚人が常に出入りをしていた。ドラッグ の売人、窃盗犯、強盗、闇市場の人間、酔っ払い、売春婦。酔っぱらいの何人かは暴れるので、他の囚人が縛り上げて抑えつける必要があるほどだった。

 60 歳くらいの巨大な汚らしい女が大きな乳房を揺らし、白髪の巻き髪を振り乱しながら運び込まれた。叫んだり、あたりを蹴りつけたりしているのを 4 人の看守に 四方 から押さえつけている。彼らは自分たちを蹴ろうとする彼女の足から ブーツ をねじ取って、彼女を ウィンストン の膝に放り投げた。おかげで彼は足の骨が折れるところだった。女はすぐに体を起こすと「この●●●●野郎ども!」という喚き声を看守たちの背に投げつけた。それから自分が何か 凸 凹 したものの上に座っていることに気づき、ウィンストン の膝からベンチへと座る場所をずらした。

「こりゃ失礼、だんな」

 彼女が言った。

「あの野郎どもにやられただけで、あんたの上に座るつもりはなかったんで。やつら レディ の扱いも知らんようでね?」

 そこで言葉を止めると、自分の胸を叩きゲップをした。

「失礼」

 彼女が言った。

「本当、私のせいじゃないんで」

 彼女は前にかがむと床の上に大量に嘔吐した。

「チョットはマシになった」

 目をつぶったまま体を戻しながら彼女は言った。

「いつまでもへこたれてちゃダメってことさ、私が言いたいのは。こうやって胃をスッキリさせたら立ち上がらなくちゃ」

 彼女は 生気 を取り戻すとまた ウィンストン の方を向き、すぐさま彼を気に入ったようだった。その巨大な腕を彼の肩に置き自分の方に向き直らせると、ビール と嘔吐物の匂いのする息を彼の顔に吹きかけた。

「名前はなんていうんで?だんな」

 彼女が尋ねた。

「スミス」… と ウィンストン は答えた。

「スミスだって?」

 女は言った。

「そりゃ面白い。私の名前も スミス なのさ。ああ」

 彼女は感傷的に付け加えた。

「私はあんたの おっかさん かも知れないね!」

 本当に彼女は自分の母親かもしれない … ウィンストン は思った。歳と背格好は丁度そのくらいだし、20 年も 強制労働キャンプ で過ごせば、人間はこれくらいは変わっても おかしくなさそうだった。

 他には誰も彼に話しかけようとしなかった。党員の囚人に対する普通の犯罪者の無視のしようといったら驚くほどだった。「政治屋」…彼らは無関心と軽蔑を込めてそう呼んでいた。党員の囚人は誰かと喋ることを … とりわけ他の党員の囚人と話をすることを恐れているように見えた。一度だけベンチの近くに一緒に押しやられた 2 人の党員 … 両方女性だった … が周りの騒音の中、早口で 2 、3 言ささやいているのを彼は漏れ聞いた。それは「 101 号室」と呼ばれる何かについての話だったが、彼にはそれが何のことなのかわからなかった。

 それからここに連れて来られたのだった。2 、3 時間ほど前のことだ。腹の鈍い痛みが消えることは無かったが、時おり回復したり悪化したりを繰り返し、その度に彼の考えは彼方へいったり此方へいったりした。悪化している時には、彼の頭の中は痛みと食べ物への欲求だけになった。回復しているときには パニック が彼を襲った。これから実際に自分の身に起こることを考えると、心臓の鼓動が早くなって息が詰まった。肘を警棒で殴りつけられ、鉄板の付けられた ブーツ ですねを蹴りつけられる感触を感じ、床に這いつくばって、歯が折れた口で慈悲を乞う叫びを上げる自分の姿が見えた。

 ジュリア のことを考えるのは難しかった。彼女のことを考えようとしても、頭の中からすぐ消えてしまうのだ。彼は彼女を愛していたし裏切るつもりはなかったが、それも たん なる一つの事実に過ぎなかった。丁度、計算の規則を知っているようにそう知っているというだけだ。彼女に対する愛を感じることはなかったし、彼女の身に何が起きているのかも考えなかった。

 時おり瞬くような希望と共に オブライエン のことを考えることはあった。オブライエン は自分が逮捕されたことを知っているはずだ。《 ブラザーフッド 》は決してその メンバー を助けようとはしないと彼は言った。しかし 剃刀 の刃がある。可能な場合には 剃刀 の刃を届けてくれるのだ。看守が監房に駆け込んでくるまでおそらく 5 秒くらいはあるだろう。刃は焼けるような冷たさで彼に喰い込み、掴んでいる指の骨までも食い込むだろう。そして そこまで考えると、すべては彼の調子の悪い体へと戻ってくるのだ。この体は僅かな痛みでも 震えて縮こまる。もし チャンス があったとしても、自分が 剃刀 の刃を使うかどうか彼には確信が持てなかった。確実に最後には拷問が待っているとしても、細々とあと 10 分、あと 10 分と生き続けるほうが自然に思えたのだ。

 時々彼は監房の壁のセラミック製の タイル を数えようとした。簡単なことのはずなのに、いつも途中で数がわからなくなった。しかしそれ以上に 自分がどこにいるのか、今何時なのか を考えている時間の方が長かった。ある瞬間には 外では太陽の光が照りつけているだろうと考え、次の瞬間には 闇に包まれているだろうと考えた。この場所では明かりは決して消されないことを彼は本能的に悟った。

ここが暗闇でない場所だったのだ。

 なぜ オブライエン があの喩えを理解したのかが、今では彼にはわかった。
 
 
 
 
 愛情省 の中には窓が一切無い。彼がいる監房は建物の中心部にあるのかも知れないし、反対に外側の壁付近にあるのかも知れなかった。地下 10 階かも知れなかったし、地上 30 階かも知れなかった。彼は心の中で自分の場所を色々変えてまわり、体の具合から自分が空高くに座っているのか、地下深くに埋められているのかを判断しようと試みた。

 外で ブーツ の足音が聞こえ鉄の扉が音を立てて開くと、若い執行官が軽やかに扉をくぐって入ってきた。いたるところツヤツヤと光る革の黒い制服をキチンと着て、その青白い面長の顔は蝋でできた マスク のようだった。彼が外の看守に連れてきた囚人を入れるように身振りで示すと、あの詩人の アンプルフォース がヨロヨロと監房に入ってきた。そして再び扉が音を立てて閉まる。

 アンプルフォース はまるでどこかに別の出口があるとでもいうように 1 、2 度左右にフラフラと動きまわり、それから監房の中を歩き回り始めた。まだ ウィンストン がいることには気づいていなかった。彼の不安そうな目は ウィンストン の頭の 1 メートルほど上の壁を見つめ続けている。彼は靴を履いておらず、大きな汚れたつま先が靴下の先に空いた穴から突き出していた。髭も何日か剃っていないらしく、頬骨を覆う無精髭がまるで悪党のような雰囲気を与え、それが彼の大柄だが線の細い体格と、神経質な動きと相まって奇妙な印象を与えた。

 呆然としている彼を見ていると ウィンストン は少しだけ落ち着いてきた。テレスクリーン に怒鳴りつけられる危険を犯してでも アンプルフォース に話しかけなければ。アンプルフォース が 剃刀 の刃の 運び屋 であることもあり得るのだ。

「アンプルフォース」

 彼は言った。テレスクリーン からの怒鳴り声は無かった。アンプルフォース が少し驚いたようにして立ち止まった。彼の眼の焦点がゆっくりと ウィンストン に合う。

「ああ、スミス!」

 彼が言った。

「君もか!」

「どうして入れられたんだ?」

「実際の話し …」

 彼はぎこちなく ウィンストン の反対のベンチに腰を下ろした。

「犯罪は一つしか無いだろう」

 彼は言った。

「本当にやったのか?」

「ああ、確かにやった」

 彼は額に手をやり、何かを思い出そうとするかのように暫く こめかみ を押さえていた。

「こんなことが起きたのは …」

 彼は曖昧に話し始めた。

「ひとつ心当たりがある … 多分あれだ。本当に馬鹿なことをしたもんだ。キップリング の詩集の 最終版 を作っていたんだ。
ある〈 行 〉の最後に God という言葉があったのを、そのままにしてしまったんだ。どうしようもなかったんだよ!」

 彼は顔を上げて ウィンストン を見ると、怒ったように付け加えた。

「その〈 行 〉を変えることは不可能だった。rod と 韻 を踏んでいたんだ。言語の中でも rod と同じ 韻 のものは 12 しかないって知っていたか?何日も 脳みそ をふり絞ったよ。他の 韻 は無かったんだ」

 彼の表情が変わった。苛立つ表情が消え、束の間、嬉しそうにさえ見えた。知的な興奮、何か役に立たない事実を発見した学者が喜ぶようなようすが、汚れて絡まり合った髪の合間から垣間見える。

「君はこう思ったことは無いか?」

 彼が言った。

「英語は 韻律 を欠いているという事実によって、英語の詩の歴史のすべてが規定されている」

 そんな考えが ウィンストン の頭に浮かんだことは一度もなかったし、こんな状況では それがとても重要なことだとも 興味深いことだとも彼には思えなかった。

「今何時かわかるかい?」

 彼は言った。

 アンプルフォース がまた驚いたように見えた。

「全くわからないよ。逮捕されたのは … 2 日ほど前 … いや、たぶん 3 日前だった」

 彼の目が、どこか窓はないのかという風に壁の上を飛び回った。

「ここには夜も昼も無いんだ。どうやって時間を計ったらいいのか全くわからないよ」

 彼らは数分の間 取り留めもなく話し続けたが、何の前触れもなく静かにするように テレスクリーン からの怒鳴り声に命じられた。ウィンストン は腕を組んで静かに座った。アンプルフォース は狭いベンチに落ち着いて座るには体が大きすぎたので、彼方此方へモゾモゾと動きながら、ひょろ長い手を最初は片方の膝の辺りに置き、それからもう片方の膝の辺りに乗せ換えたりしていた。テレスクリーン がジッとしているように彼を怒鳴りつけた。

 時間が過ぎてゆく。20 分か、1 時間か … 判断するのは難しかった。また外で ブーツ の足音が聞こえた。ウィンストン の内臓が締め付けられる。すぐ … 本当にすぐ、多分 5 分以内に … いや、今すぐにも ブーツ の足音は彼の番が来たことを告げるだろう。扉が開く。冷たい顔をした若い執行官が監房に入ってきた。そっけない動作で アンプルフォース を指し示す。

「 101 号室だ」

 執行官が言った。

 アンプルフォース は両脇を看守に挟まれ、ぎこちない動作で歩いて行った。その顔はどこか不安げだが、これから何が起こるのかを理解している顔ではなかった。
 
 
 
 
 長い時間が経ったように感じられた。ウィンストン の腹の痛みは ぶり返していた。ボール が何度も何度も同じ穴に落ちて行くように、彼の思考は何度も何度も同じ場所を堂々巡りした。彼の頭にあるのは 六つ だけだった。腹の痛み … パンのかけら … 血と絶叫 … オブライエン … ジュリア … 剃刀の刃。重い ブーツ の足音が近づいて来たとき、彼の内蔵はまた痙攣を起こした。扉が開けられるとその風にのって冷えた汗の むっとするような匂いが立ち込め、パーソンズ が監房に入ってきた。彼は カーキ色 の短パンと スポーツシャツ を着ていた。今度は ウィンストン も我を忘れて驚いた。

「君もここに!」

 彼は言った。

 パーソンズ は ウィンストン に目をやったがそこには何の関心も驚きも見えず、ただ悲壮感だけが漂っていた。彼は体を震わせながら歩きまわりはじめた。ジッとしていられないようだった。ずんぐりとした膝が伸びるたびに 震えが露になる。目は大きく見開かれ、まるで何かから目が離せないとでもいうように前を見つめている。

「どうして入れられたんだ?」

 ウィンストンは聞いた。

「思想犯罪だ!」

 パーソンズ が泣きじゃくるように言った。その声から彼が罪状を完全に認めたことや、そんな言葉が自分に使われていることに対して驚き、恐怖していることがすぐにわかった。ウィンストン の前で立ち止まると、彼は熱心に訴えはじめた。

「彼らは俺を撃ち殺したりしないよな?なあ、実際に何かしでかさなければ … 無意識に考えただけ だったら撃たれたりしないよな?わかってるんだ。ちゃんと話を聞いてくれるんだろう。ああ、俺は彼らを信頼している!
俺の経歴を知っているんだ。そうだろう?あんただって俺がどんな奴か知っている。俺は悪い奴じゃないんだ。もちろん頭は良くない。だけど何事にも熱心だ。党のためにベストを尽くそうとしている。そうだろう?
5 年ブチ込まれるのがせいぜいだ。そう思うだろう?それとも 10 年かな?俺みたいな奴は 強制労働キャンプ では結構便利だからな。一度ヘマをしたからって撃ち殺されたりしないよな?」

「罪を認めるのか?」

 ウィンストンは聞いた。

「もちろん認めるとも!」

 へつらうように テレスクリーン に目をやりながら パーソンズ が叫んだ。

「党が無実の人間を逮捕するなんて考えられないだろう?」

 彼の蛙のような顔がいくぶん穏やかになり、どこか聖人のような表情にさえなった。

「思想犯罪 は恐ろしいものなんだよ、相棒」

 彼はもったいぶって言った。

「油断ならないものだ。知らぬ間にそいつに捕まっちまうのさ。どうやって俺がそいつに捕まったかわかるか?寝ている合間のことさ!本当さ。
俺は自分の仕事をちゃんとやろうとしていたのに … 頭の中に悪い考えがあるなんて全くわからなかった。それが寝言で出ちまったのさ。なあ、俺が何て言ったかわかるか?」

 彼は医学的な理由で、猥褻なことを言わなければならない人間のように声を潜めた。

「ビッグ・ブラザー をやっつけろ!だ。そう言ったのさ!何度も言ったらしい。あんたと俺の間だから言うがね、相棒、実はことが酷くなる前に彼らが捕まえてくれて俺は喜んでるんだよ。
法廷に行ったら俺がまず何と言うつもりかわかるかね? ありがとうございます … そう言うつもりさ。手遅れになる前に助けていただいて感謝します … ってね」

「誰に告発されたんだ?」

 ウィンストン は尋ねた。

「下の娘さ」

 パーソンズ は憂鬱そうに、しかし誇らしげに言った。

「鍵穴から聞き耳を立てていたのさ。俺の言っていることを聞いて次の日、すぐさま パトロール まで走っていったってわけだ。7 歳の子供にしちゃ、チョットばかり賢いだろ、ええ?あいつに対しちゃなんの恨みも無いのさ。
実際のところ、あいつのことを誇りに思ってるんだ。このことはともかく、俺があいつを正しく育てられたってことを証明しているからな」

 彼はまた数回、震えるような動きを繰り返し、便器に物欲しげな目をやった。そして突然、短パンを下ろし始めた。

「失礼、相棒」

 彼が言った。

「もう我慢できん。漏れそうだ」

 彼はその巨大な尻を便器の上にドスンと落とした。ウィンストンは手で顔を覆った。

“ スミス!”

 テレスクリーン から怒鳴り声が響く。

“ 6079 番、スミス・W!顔を覆うな。監房内で顔を覆ってはいけない ”

 ウィンストン は顔を覆うのをやめた。パーソンズ は大きな音をたてながら盛大にトイレを使っている。それが終わっても排水管に問題があるのか監房はその後、数時間酷い悪臭で満たされた。パーソンズ は連れて行かれた。

 それからも意味ありげな多くの囚人が出入りした。その内の一人の女性は「 101 号室」に連れて行かれたが、その言葉を聞いた瞬間、彼女の顔色が変わり 生気 が抜けていったことに ウィンストン は気がついた。
 
 
 
 
 ここに連れてこられたのが午前であれば午後に、連れてこられたのが午後であれば真夜中になるくらいの時間が過ぎた。監房には六人の男女の囚人がいた。皆、じっと座り込んでいる。ウィンストンの前には一人の男が座っていた。あごが無く大きな歯の目立つその顔は、まさに巨大で人畜無害なげっ歯類といった感じだ。太ってしみのできた頬は袋のように垂れ下がり、何か食べ物でも溜め込んでいるのではないかと思わずにはいられなかった。淡い灰色の瞳は怯えたように周りの人間の顔の上をふらふらとうかがっていて、誰かと視線が合うと急いでそらされるのだった。

扉が開き、また一人の囚人が連れて来られた。その姿はウィンストンをぞっとさせた。彼はよくいる平均的外見の男で、エンジニアか何かの技術者であるように見えた。しかし恐ろしいのはその顔のやつれ具合だった。まるで骸骨だ。あまりにやせ細っているために口と目が不釣合に大きく見え、その目には誰か、あるいは何かに対する残忍で決して治まることのない憎悪が満ちていた。男はウィンストンから少し離れたところにあるベンチに座った。ウィンストンは二度と彼を見なかったが、骸骨のような顔はまるで目の前にそれがあるかのように頭に鮮明に焼き付き、彼を苦しめた。唐突に彼は問題に気づいた。あの男は飢え死にしかけているのだ。監房にいる全員がほとんど同時に同じことを思い浮かべたように見えた。ベンチに座る全員にかすかな動揺が走った。

あごの無い男の目が骸骨顔の男をちらちらと見つめては罪悪感からそらされ、そしてまた見ずにはいられないというように引き寄せられていた。やがて彼は自分のシートでそわそわし始めた。そしてついに立ち上がるとよたよたとした足取りで監房を横切り、オーバーオールのポケットを探るとばつの悪そうな様子でかびかけたパンのかけらを取り出し骸骨顔の男に差し出した。耳をつんざくようなすさまじい怒鳴り声が「テレスクリーン」からあがり、あごの無い男はその場で飛び上がった。骸骨顔の男はまるでその贈り物を拒絶することを全世界に示して見せるかのように、すばやく自分の手を後ろに隠した。
 

バムステッド!

 
声が叫んだ。
 

2713番、バムステッド・J!そのパンのかけらを捨てろ!

 
あごの無い男はパンのかけらを床に落とした。
 

その場から動かずに立っていろ

 
声が言う。
 

顔を扉にむけろ。動くんじゃないぞ

 
あごの無い男はそれに従った。彼の大きな垂れ下がった頬は抑えがきかないほど震えている。扉が音をたてて開いた。あの若い執行官が入ってきて脇によけると、彼の後ろから巨大な腕と肩を持った背の低いずんぐりした看守が現れた。看守はあごの無い男に向きあって立ち、執行官の合図と共に全体重をかけた恐ろしい一撃を全力であごの無い男の口元に放った。その力は彼を床の上から浮き上がらせんばかりだった。彼の体は監房を横切って吹っ飛び、トイレのシートの足元にぶつかって止まった。

しばらくの間、彼は呆然としたように横たわり、口と鼻からはどす黒い血が流れだしていた。無意識なのだろうが、かすかなすすり泣きと軋るような声を彼はたてていた。それから彼は寝返りを打つと、ふらふらとしながらも手と膝をついて起き上がった。血と唾液にまみれて二つ割れた入れ歯が彼の口から落ちた。囚人たちは手を膝の上に置いたまま身じろぎもしなかった

あごの無い男は這うようにして自分の場所に戻った。顔の片側の下の方の肉の色がだんだん薄黒くなっていく。その口はピンク色に醜く腫れ上がり、その中央に真っ黒な穴があるといった様子だ。ときどきオーバーオールの胸元に血が滴る。彼は以前にも増して後ろめたそうにその灰色の瞳を顔から顔へと移してゆき、その様子はまるで自分の不面目を他の者がどれだけ軽蔑しているかを測ろうとしているかのようだった。

扉が開いた。執行官がわずかなしぐさで骸骨顔の男を指し示し、言った。

「101号室だ」

ウィンストンの横で喘ぎ声と狼狽が起きる。男が文字通り膝から床に崩れ落ち、手を合わせた。

「同志!執行官殿!」

彼は叫んだ。

「私をあの場所へ連れてゆく必要などないではないですか!私はもう全てをお話したでしょう?他に何を知りたいというんですか?自白することなどもう何も無い…無いのです!知りたいことをお教えください。そうすればその通りに自白いたします。書面でいただければそれに署名いたします…どんな内容でも!101号室だけはいやだ!

「101号室だ」

執行官は言った。

すでに青白かった男の顔色が変わる。ウィンストンはその顔の色に目を疑った。絶対に、間違いなく、暗い緑色だったのだ。

「どうにでもしろ!」

彼が叫んだ。

「もう何週間も飢え死にしそうなんだ。終わりにして俺を死なせてくれ。俺を撃て。吊るせ。懲役25年でも宣告しろ。あんたには誰か俺に密告させたい奴はいないのか?誰か言ってくれればあんたの好きなように話す。それが誰かも、あんたがそいつらをどうしたいのかも気にしない。俺には妻と三人の子どもがいる。一番大きい奴でも6歳にもなっていない。全員捕まえて俺の目の前で喉を掻き切ってもいい。俺はそれを黙って見ている。だが101号室だけはいやだ!

「101号室だ」

執行官は言った。

男はまるで他の犠牲者に自分の立場を押し付けられないかとでも言うように、必死になって他の囚人たちを見回した。彼の目があごの無い男の殴られた顔に止まった。彼は痩せた腕を振り回した。

「あんたが連れて行くべきなのはあいつだ。俺じゃない!」

彼は叫んだ。

「あんたは殴られた後にあいつが言ったことが聞こえなかったんだ。俺にチャンスをくれればそいつを一言違わず教える。党に対する反逆者はあいつだ。俺じゃない」

看守が前に進み出た。男の声は大きな金切り声になった。

「あんたにはあいつの声が聞こえなかったんだ!」

彼は繰り返した。

「「テレスクリーン」がどこか故障したんだ。あいつこそがあんたのお望みのもんだ。俺じゃなくてあいつを連れていけ!

二人の屈強な看守が彼を捕まえるために屈んだ。しかしその瞬間、彼は監房の床に身を投げ出し、ベンチを支える鉄の脚の一本にしがみついた。彼は獣のような言葉にならない雄叫びをあげ始めた。看守たちは彼をつかんでねじりあげるようにして引き剥がそうとしたが男は驚くべき力でしがみつき続けた。20秒ほどの間、看守たちは彼を引っ張り続けた。囚人たちは黙って座り、手を膝の上に置いたまま前を見つめ続けた

雄叫びが止んだ。男はしがみつくのに精一杯で声を上げる余裕もなくなっていたのだ。そしてまた違った種類の叫び声が上がった。ブーツを履いた看守の蹴りによって片方の手の指が折れたのだ。看守たちは彼の足を引っ張った。

「101号室だ」

執行官は言った。

ふらふらとした足取りで、頭はうつむき、折れた手をかばうようにしながら男は連れて行かれた。全ての気力が彼から消え去っていた
 
 
 
 
 長い時間が過ぎた。骸骨顔の男が連れて行かれたのが夜中だったらもう朝だろうし、連れて行かれたのが朝だったら午後になっていた。ウィンストンは一人だった。もう数時間もの間、一人だ。狭いベンチに座り続ける痛みのあまり、テレスクリーンに叱責されない時には、ときどき立ち上がって歩きまわらなければならないほどだった。あのあごの無い男が落とした場所にまだパンのかけらが落ちていた。始めのうちはそれを見ないようにするのに大変な努力が必要だったが、今では飢えよりも渇きの方がひどかった。口がねばねばとし、気色の悪い味がする。

うなるような音と変わることのない白い光が彼の頭に虚無感と脱力感を誘った。骨の痛みに耐えきれずに立ち上がっては、すぐにめまいで立っていることができずにまた座り込むことを繰り返していた。肉体的な感覚が少しでもおさまると、すぐに恐怖が戻って来る。ときどきかすかな希望と共にオブライエンと剃刀の刃のことを考えた。もし食事でも与えられれば剃刀の刃が食べ物に隠されて届けられるということも考えられたのだが。

ほんの時折、ジュリアのことを考えた。どこか別の場所でおそらく自分以上に彼女は苦しんでいるだろう。今この瞬間にも痛みに悲鳴を上げているかも知れない。
 
《 もし、自分の痛みが二倍になることでジュリアを助けることができれば、自分はそうするだろうか?もちろんそうするだろう 》
 
彼はそう考えた。しかしそれはたんなる「机上の空論」に過ぎず、自分がそうすべきだということをわかっているから、そう言うだけのことだった。心からそう思ったわけではなかったのだ。この場所では苦痛と、いずれ訪れる苦痛の予感以外考えることができなかった。さらに言えばもしそれが可能だとして、まさに苦しんでいるその瞬間に、さらに苦痛を増やすことを願うに足る理由などあるのだろうか?しかしその疑問にはまだ答えられていなかった。

ブーツの足音が再び近づいて来た。扉が開く。オブライエンが入って来た。ウィンストンは思わず立ち上がった。目にしたものの衝撃で彼は我を忘れた。ここ何年かで初めて彼は「テレスクリーン」の存在を忘れた。

「あなたも捕まったのですか!」

彼は叫んだ。

「もうずっと以前に私は捕まっているんだ」

オブライエンが落ち着いた悲しげで皮肉めいた声で言った。彼が脇によけると、その背後から手に長くて黒い警棒を持った胸の厚い看守が現れた。

「君は知っていた。ウィンストン」

オブライエンが言った。

「自分に嘘をつくな。君は知っていたに違いない…ずっと知っていたんだ」

そう、今では彼にはわかっていた。自分はずっと知っていたのだ。しかしそのことについて考える暇は無かった。彼の頭は看守の手に握られた警棒のことでいっぱいだった。それがどこかに振り下ろされるのだ。頭か、耳の先か、二の腕か、肘か…

肘だ!

彼は殴られた肘をもう片方の手で押さえて麻痺したように膝をついて崩れ落ちた。全てが爆発して黄色い光になった。信じられない…たった一撃でこんな痛みがするとは信じられなかった。明かりは鮮明で彼には自分を見下ろす二人の姿が見えた。看守は顔を歪めて嘲笑している。少なくとも一つの疑問に答えがでた。地球上のどんな理由であれ、苦痛が増えるよう願うことなど絶対できない。苦痛に対して願うことができるのは一つだけ。それが止んでくれることだ。この世で肉体的痛みよりもひどいものは無い。苦痛の前には英雄などいない。一人たりともだ。使い物にならなくなった左腕を空しく押さえて床の上でもがきながら彼は何度も何度もそう思った。
 
 


 

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