「ナウシカ」復活上映に寄せて

「ナウシカ」復活上映に長蛇の列
スポニチ 5月20日6時5分更新

 第59回カンヌ国際映画祭で18日夜(現地時間)、宮崎駿監督(65)の「風の谷のナ ウシカ」(84年)のニュープリント版が上映された。

 往年の名作や名優の作品を上映する「カンヌ・クラシック」部門に選出。宮崎アニメ人気は欧米でも絶大で、開場の1時間前から行列ができた。約450人収容の劇場がほぼ満席になり、上映後は拍手喝采。エンドクレジットで宮崎監督の名前が出ると、 歓声まで上がった。

 一番乗りで並んだドイツ人記者は「ビデオでしか見たことがなかったので、劇場で見 られてよかった」と感激。フランス人男性は「ファンタジーだけど、人間と環境の関係の大事さを描き、とても深みがある」と話した。

 
 22年の時を経た作品にも拘わらず今の時代にも受け容れられるのは、時代や地域を超えた普遍的なテーマがあるからで、視点を変えると、世界には宮崎監督が提示したテーマ(問題)が存在し続けているというコトなんでしょう。

 で、「ナウシカ」の世界を今の「日本」の状況に重ね合わせると…

最終戦争 ⇒ 北朝鮮の核の脅威
環境問題 ⇒ 水俣病やアスベストの被害患者
民族紛争 ⇒ 靖国問題
新種の疾病 ⇒ AIDS患者の増加

…といったトコロかと?おそらくこうした問題は何処の国にもある程度当て嵌まる問題であり、「ナウシカ」がベトナムで上映されたなら、ベトナムの若者も物語を自分の国に重ね合わせ、何がしかのメッセージを受け取るハズ。

 ところで劇場版の「ナウシカ」では、オーム(王蟲)は人間の創造物だということに触れられていません。オームに限らず腐海とその周辺に棲息する全ての蟲もそうです。さらには人間すら…。

 「ナウシカ」の原作は「MATRIX」(1999年公開)のように、今まで「現実」だと信じていた世界が、実は人工的な「虚構」だと気付いたとき、何を頼りに生きて行けばイイのか?ということを問いかけます。
 

 
 原作の中でナウシカはこう言います(うる覚えですが)。
 

「オームが人間(火の7日間後の世界再生計画を立てた科学者たち)によって造られたとしても、オームに宿る高貴な魂はオーム自身のものだ。」

 
 生命科学が進歩すればするだけ「魂(霊魂)」の存在と向き合わざるを得なくなります。現代の生命科学テクノロジーは原始的な生命であれば創造可能なレベルに到達し、クローン技術は既にブレークスルーしたと思われます。

 しかし「器」を造ることはできても…

「中身」は?

…という話で、もし?「魂」を創造することが可能になったら、人間は「神」と肩を並べる存在になるのでしょう。もう…

「ガフ(魂の部屋)」が空っぽ

…になることは無いワケですw。
 

『風の谷のナウシカ』を批判する

(前略)

宮崎はこう語っています。

「いちばん大きな衝撃的だったのは、ユーゴスラビアの内戦でした。もうやらないだろ うと思っていたからです。あれだけひどいことをやってきた場所だから、もうあきてるだ ろうと思ったら、飽きてないんですね。人間というのは飽きないものだということがわか って、自分の考えの甘さを教えられました」

「『ナウシカ』を終わらせようという時期に、ある人間にとっては転向とみえるのじゃないかというような考え方を僕はしました。マルクス主義ははっきり捨てましたからね。捨てざるをえなかったというか、これは間違いだ、唯物史観も間違いだ、それでものをみてはいけないというふうに決めましたから、これはちょっとしんどいんです。前のままの方が楽だって、今でもときどき思います。…労働者だから正しいなんて嘘だ、大衆はいくらでも馬鹿なことをやる、世論調査なんて信用できない」

 ドルクの初代皇帝が「墓所の主」から知と技をうけとり、進歩の理想にもえながら、 最後にはドルクが巨大な抑圧帝国に変質していくのはソ連の歴史に重なります。また宮崎はこんなことも言っています。

「自分の観念で、自分の感じたものをなんとかねじ伏せようとしてきた。それもやめた。今の政治家でも、ただ印象だけで見てます。…政治家としての能力がなくても、この人、いい人だと」

 ここには、理論への不信、自分の実感(好きだとか愛しているとか)への信仰、人間の進歩への懐疑といった、ナウシカが最後に主張したことがすべて顔を出しています。

 この批判はくりかえしませんが、マルクスについては一言いっておきたいのです。

 マルクスは、理想社会の絵図はまったく書きませんでした。彼の残した大著『資本論』は徹頭徹尾、現実の分析です。労働者階級だからいつも正しいなどという見方と も無縁でした。蜂起した民衆の未熟が、革命を失敗に終わらせたことも冷静に分析します。「利潤追求にふりまわされる社会をのりこえて、人間が社会の主人公になる」というマルクスの次社会の大まかな特徴づけと、ソ連はまったくかけ離れたものとなり、それ自体、マルクスと無縁のものでした。

 そういう意味では宮崎のいっている「マルクス主義」とは、宮崎のもっていた貧しいマルクス主義観であり、それが「崩壊した」にすぎません。しかしいいたいことは、そのことではありません。

 マルクスは、現実(資本主義)の格闘やたたかいのなかで、人権や民主主義、経済運営感覚にすぐれた人間の個性が準備され、次の新しい社会をになう基礎が、資本主義そのもののなからつくられることに注目しました。

 つまり、「墓所の主」のしめした理想や進歩と、ナウシカが直視した人間の現実を、いっそう高い立場で統一させたすぐれた理論家であり、私たちの答えもそこにあるような気がしています。

(後略)

 
 「ナウシカ」の原作を読んでいない人にはチンプンカンプンでしょうし、マルクスについてはワタシも門外漢なので何も言えませんw。
 


風の谷のナウシカ (7)
宮崎 駿 (著)

 
 原作のエンディングは劇場版と大きく違い、劇場版ではオームの触手の集まりが「金色の大地」に見立てられていますが、原作では巨神兵が焼き尽くした「墓所」の荒涼とした跡地が「金色の大地」であり、そこで蟲使い(被差別民)たちが「再生の踊り」を舞うというもの。

 そして劇場版が「伝説の成就」という「HAPPY END」?なのに対して、原作は…

「宿命を背負え」

…という重wいエンディングになってますw。

「宿命」を背負い前へ進め、たとえそれが絶望的な未来であっても…。

…と。

 「絶望」すると人は「虚無」に囚われるもので、だからこそ、「虚無」から逃れるために目先の「享楽」に溺れるのかも知れませんw。

 そういえば?やはり昔wし読んだリチャード・バック(「かもめのジョナサン」の著者)の「イリュージョン」という本の「あとがき」で、訳者の村上龍(敬称略)が…

「人生は退屈との戦いだ!」

…と書いていましたw。

 ま、「ナウシカ」は多くのメタファー(暗喩)を含んでいるので、別な機会にもう少し掘り下げてみたいと思いますw。
 
 

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