東南アジアと日本人

 今回は歴史のお勉強として、参考文献を丸ごと張り付けますw。学校の授業では教わらなかった鎖国以降の日本と東南アジアの係わり、そして、東南アジアで植民地支配を強めつつあった欧米と日本の係わりなど、現代まで引きずる因縁を紐解き、これからの日本とアジア、ひいては世界の在り方を考えてみようかとw。
 

経済メモ

東インド会社

高校時代に、「東インド会社が世界最初の株式会社」と習った記憶がある。ところが調べてみると「東インド会社」は一つではなく、イギリスオランダスエーデンデンマークフランスの各国に存在した。

各国が東インド会社を作ったのは、それ以前はアジアで交易会社が乱立し、過当競争に陥っていたのを防ぐためだった。そしてイギリスがイギリス東インド会社を最初に作り、アジア地域との貿易を独占する権利をエリザベス一世から与えられた。当時「インド」とはヨーロッパ・地中海絵庵癌地方以外の地域を指していた。1600年のことである。これに驚いたオランダは1602年により大きな資本でオランダ東インド会社を作ってイギリスに対抗する。

当時はポルトガル・スペインの黄金時代で、オランダとイギリスは新しい会社組織に国の力を集結し、ポルトガル・スペインの牙城に食い込んでいく。これらの会社はそれぞれの母国が発行した特許状を持ち、貿易の他、条約の締結、軍隊経営、植民地経営、などの権利も与えられていた。その点では現在の株式会社とは大いに異なっている。対象地域はアジアである。

また、株式会社の起源はオランダ東インド会社であって、イギリス東インド会社ではないようである。
 
 
1.イギリス東インド会社

概要

自前の従業員を持っており、主業務は貿易。本社はロンドン、当初の株主125人、資本金7万2千ポンドであった。

インドネシアでの香辛料(当時の主要貿易品目)貿易をするためにジャワ島やインドに拠点を置き、マレー半島やタイ、日本の平戸、台湾にも商館を設けたが、オランダ東インド会社との競争に負けて、インドに力を集中することになる。インドではカルカッタ、マドラス、ボンベイ(ムンバイ)に拠点を置いた。会社はフランス東インド会社との競争に勝ってインド全域を手中に収めた。ナポレオン戦争後は再び東南アジアに進出してペナン島、マラッカをはじめとする元オランダ領東インドの各地、シンガポール、を手に入れて、1826年、これら三植民地を統合して海峡植民地とした。

1819年、イギリス東インド会社のラッフルズは、東西貿易の中継地を求めて人口わずか数百人のシンガポールに上陸した。数年後には、イギリスの旗のもと、シンガポールはイギリスにとって、マレー半島植民地化の基地となっていたのである。

(「シンガポールに立つラッフルズの銅像」出典)

サマセット・モームが滞在したことで有名なラッフルズ・ホテルは、ラッフルズの名前にちなみ、1886年にオープンした。

(「ラッフルズホテルのドアマン」出典)
 
 
アヘン戦争

18世紀以降には、中国の広東とも貿易を始めた。この時の主要な貿易品目がアヘンであった。中国はアヘンの弊害を見てなんとかこれを禁止しようとしたが上手く行かず、特命された大臣 林則徐は1839年、アヘン商人たちに「今後一切アヘンを持ち込まない」と言う誓約書を出す事を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収し、これをまとめて焼却処分した。この時のアヘンの総量は1400tを越えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。(アメリカ商人は誓約書をすぐに出して巨利を得ていた。)イギリスはこれに対して、直ちに戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にはイギリス本国の議会でも、野党であった後の首相ウィリアム・グラッドストンなどが『恥さらしな戦争だ』として反対したが賛成271票、反対262票の僅差で承認された。1842年に清国の敗北を認める条約が両国によって調印された。

イギリスがこれだけアヘンに拘ったのは、当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していたが、逆にイギリスから清へ輸出できるものが少なくて、イギリスの大幅な輸入超過であったからである。そこでイギリスが目を付けたのがインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易をすることにした。これによってイギリスは空荷で舟を運行する必要がなくなったのである。

(「アヘン戦争」出典)

(「林則徐の銅像」出典)

イギリスはアヘン戦争に勝って、多額の賠償金、香港の割譲を受けると共に、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認められ、治外法権関税自主権の放棄最恵国待遇条項の承認を獲得した。しかし、これらを定めた条約は、戦争の原因となったアヘンについては特には触れていなかった。さすがのイギリスも戦争の真の原因を文書上に残すことに躊躇したためであると言われている。

しかし、イギリス製の靴下を中国に輸出しようと言う望みは叶わなかった。中国製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからである。これが第二次阿片戦争とも言われる1859年のアロー戦争へとつながっていくことになったと言われている。

このときに阿片貿易で儲けた資金を安全かつ迅速にイギリスに送金するために、ロスチャイルド一族のユダヤ系イギリス人アーサー・サッスーンが設立したのがHSBC(香港上海銀行)である。HSBCは現在でも健在で日本にも支店をだしているのでご存知の方も多いだろう。

そして1857年~1859年のインド大反乱・・・シパーヒー(セポイ)の乱、第一次インド独立戦争とも言う・・・が起る。
 
 
セポイの乱

(「セポイの乱の漫画」出典)

イギリスは、インドを原料供給地であるとともに、自国の綿製品を売り込む市場としたので、インドの資源はイギリスに吸い取られ、インド国内は混乱するとと同時に土着の綿工業は急激に衰退した。このため多くのインド人がイギリスへの反感を持つに至り、反乱への参加者の増加につながった。そのため、この大反乱はインドで初めての民族的反乱とされている。

この大反乱は、1857年5月にインド北部の都市でシパーヒー(sipahi)が蜂起したことに始まる。シパーヒーとはイギリス東インド会社が編成したインド人傭兵のことで、セポイ(sepoy)ともいわた。多くはヒンドゥー教徒とイスラム教徒からなっていた。彼らが反乱を起こした直接的な原因は、イギリス軍が新たに採用した銃の薬莢にヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂とイスラム教徒が不浄とみなしている豚の脂が使われていた。当時の薬莢は紙製であり、弾薬には防湿油ないし潤滑油として脂が塗られていたが、弾丸を装填する場合にはまず口で弾薬の端を食いちぎらなければならなかったため、彼らは戦闘時に宗教的禁忌(牛または豚を口にすること)を犯すことになる。彼らはこれを宗教的侮辱と受け取って弾薬の受領を拒否するなどしたが、これらの行為は懲罰の対象とされた。こうした処置に怒ったシパーヒーは、ついに反乱を起こすに至ったのである。

翌1858年には東インド会社の軍隊の反攻が始まり、反乱軍は鎮圧された。

一方東インド会社は、インド人に重税を掛けながら自分達は汚職・着服によって莫大な私利をむさぼった。そのため会社の効率は落ち、赤字決算が続いて、再々本国政府に援助を依頼することとなった。イギリス政府は、一会社に広大なインドの領土を託すことの限界を痛感し、東インド会社を解散させ、直接統治することにした。これにより、インドの支配権はヴィクトリア女王に返上され、東インド会社は1874年に解散、274年の歴史を閉じた。
 
 
日本人傭兵

イギリス東インド会社には多くの日本人が傭兵として働いていた。鎖国が始まって日本に帰れなくなった海外在住の日本の武士が多数いたのと、更には鎖国を嫌って海外に脱出した武士がいたものと思われる。ピーター・ウォーレン・シンガーによるとイギリス東インド会社の傭兵の半数は日本人であったとのことである。

中でも有名なのがアンボイナ(アンボン)事件である。これは、1623年にモルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島、クローブなどの香料の産地)にあるイギリス商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件である。これによりイギリスの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占して、イギリスはインドへ矛先を向けることとなった。

この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形成されるほどであった。アンボイナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もいた。

1623年2月23日の夜、オランダ側の傭兵・七蔵が衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしきりに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束して拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス商館長ガブリエル・タワーソンら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。3月9日、当局はタワーソンをはじめイギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名を斬首して、同島におけるイギリス勢力を排除した。

(「当時のオランダの要塞」出典)

それに先立つ1613年イギリス東インド派遣船司令官ジョン・セーリスが日本からバンテンに帰港した時、日本人水夫15名を雇い入れている。その後1617年リチャー ド・ウイッカムは平戸を去るにあたり、日本人11名を伴い、他のイギリス船でも14名が渡航している。1621年商館長コックスの8月3日の日記には給料支払い名がある。

The Moon 乗り組   善三、三四郎、久七
The Bull         久左、 マチヤス、五郎作、
The Elizabeth     忠七郎、仙五郎、儀八、

イギリス人に雇われて海外に出た邦人もかなりいたことが分かる。

1617年7月19日、市場での些細な両商館員の諍いから、オランダ商館次席が日本人を含む20名を連れて急行して害を与えたのにイギリス側も雇員の日本人、バンダ人を引き連れてオランダ館を急襲し、黒人1名を斃し4名(日本人1名を含む)に重傷を負わせた。バタヴィア政庁はピーテル・デカルベンチールをバンテン王に差し向け、英人の不法行為を糾弾した。

この事件が決着しないうちの11月22日に、再び悶着が起こって互いに相手を殺傷するまでに発展し、イギリス側は200人でオランダ商館を襲撃した。オランダ人の大半は遁走したが、踏みとどまった日本人5名は防戦して1名即死、4名が重傷を負った。殺害された日本人の中にカピタンがいたと言う。

バンテン王は外出差し控え勧告をだしたが、この事からも同地の両商館に雇用される日本人は30~50名にものぼり、カピタンにも選任されていたことが判明する。その後両国は互いに物資搬入を妨害しあい、1621年、命令違反して出港した日本人12名が捕らえられ殺されたり、同33年オランダ艦隊のバンテン港封鎖で、数名の日本人船が拿捕されたり、自ら商船を操って独力活動した者もあった。

同年9月9日イスパニア人の拠る旧ポルトガル城塞に一番乗りの旗を翻したのは日本傭兵で、あまりに大胆剽悍なため多数の戦傷者をだしたと報告されている。

オランダ軍の出動に対抗して、フィリピンのドン・フアン・デシルバ長官が、15隻からなる艦隊をモルッカ遠征に組織した際、マニラ在住日本人の500名が応募して従軍したが、その管理に手を焼き、シンガポールで解雇し陸上に追放してしまった。

オランダ方面軍の報告には、再三にわたって日本人傭兵や大工・石 工・鍛冶職の狡猾、制御困難、危険性を指摘しているから、少なからざる日本人が雇用されていたのが判明する。1617年8月12日のテルナテ島マライユの オランダ駐在員決議録には、「今度のエーンドラハトで当地に来る日本人には、頭領を置き、それを互選させることが適当」と記している。

フレデリック・ハウトマン知事(1621年)の名簿にも、オランダ人40名、マルダイケル25名、日本人20名の名簿があり、カラマタ城塞篭城戦では、イスパニア側戦死11、負傷40、オランダはオランダ人7名、日本人3名戦死、20名が負傷している。

斬首された日本人は下記の通りである。

七蔵 Hytieso 24歳 平戸 傭兵
シドニイ・ミヒール Sidney Migiel 23 長崎 アンボン英国商館雇員
ペドロ・コンギ Pedro Congie 31 長崎 Conje、Congey
トメ・コレア Them Corea 50 長崎 朝鮮系?
長左 Tsiosa 32 平戸 傭兵
久太夫 Quiondayo 32 唐津 傭兵
神三 Sinsa 32 平戸 傭兵
左兵太 Tsavinda 32 筑後 傭兵
三忠 Sanchoe 22 肥前 傭兵
ソイシモ Soysimo 26 平戸 傭兵
作兵衛 Sacoube 40 平戸 傭兵

最後の二名は後に釈放

ヤン・ヨーステン、ピーテル・ファン・サンテンによると、日本人は常時刀を二本帯びていたこと、彼等もマレー、ポルトガル語を話すことを述べている。また事件後も日本人が30名程がいたと言っている。

アンボイナ守備隊名簿には五郎作、ヨウストJouste、長崎のLouis、庄三郎、堺の孫六などの名前がある。

参考

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 過去の因縁の上に現在があるワケで、タイにしても日本にしてもそれは同じ事。であるならば過去に目を向け、過去の過ちを悔い改めた国から先に、新しい時代へと前進して行くのではないか?

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