七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰えず。

 このたびの「東日本大地震」にて被災された方々にお見舞いを申し上げるとともに、災害にてお亡くなりになられた方々のご冥福を、心からお祈り申し上げます。


 脳科学者茂木健一郎氏が、自身のブログ「クオリア日記」にて孔子の「論語」について言及しているのですが、それに絡めてワタシなりに思う出来事がつい最近あったので、その事を少し書きます。
 

茂木健一郎 クオリア日記

2011/10/01
宮野勉と老荘思想

(前 略)

 人間にとっての倫理は、この世界において「生き延びる」ためにこそ進化して来た。現世人類に至る長い進化の歴史においては、自分の欲望が満たされることよりも、むしろ満たされないことの方が多かった。マルサスの「人口論」を引くまでもない。「食べたい」という生物として最も基本的な欲望でさえ、満足できずに死に瀕することは普通だったのである。私たちの脳は、欲望が必ずしも満たされないという条件の下で進化して来た。欲望を周囲の環境に合わせて調整する脳の仕組みがあることはむしろ当然のことである。倫理は、何よりも生物学的な必要の下に進化してきたのである。

(後 略)

 
 先日、VISAの更新に毎度お願いしているローカル旅行会社を訪ねると、ナント!移転して事務所はもぬけの殻。ま、それでも社長の携帯の番号は知っていたので電話してみると、知らない若者(ベトナム人)が出て「ワタシ英語ワカリマセンw」と。

 ワタシもベトナム語が達者な方じゃないのでつっ込んだ状況を電話で聞き出す事もできず…

さて、どうしたものか?

…と空き家になった事務所の前で当惑していると、スグ横のカフェのおじさんが、「つい最近ひっこしたよ。」と教えてくれました。で、「携帯に電話してみなさい。」と。

 「電話したけれど本人が出ないんです。」と答えると、「じゃあ、別な電話番号を教えてあげよう。」と言ってカフェの奥から娘さん?を呼び出し、彼女の携帯にメモリーされている別な番号を教えてくれ、その番号に電話してみると聞き覚えのある声がw。

 かくして無事にVISAの更新をお願いすることができたワケですが、(引っ越す前に連絡のひとつもチョーダイよ)と思ったところでベトナムのことですから?こういった突発的な事態は頻繁に起こるので、連絡が取れただけでも「好し」と言えます。

 で、ワタシとしては(ラッキー!)と思ったのですが、「ラッキー」=「幸運」て誰に感謝すればイイんですかね?みんな「幸運」を願いに神社とか?お寺とか?パワースポットとか?に行きますよね?

 しかしワタシを助けてくれたのは神様じゃなくてカフェのおじさん。従って(感謝すべきなのは、カフェのおじさんだよなw。)と思った次第です。

 ワタシに限らず困ったときに思いがけない人に助けられた経験は誰にでもあるんじゃないかと?茂木氏が言うところの「寓意性」「不確定性」によって、救われる事もあれば災難に遭う事もあります。

 ワタシの場合は「救われた」ワケですが、考えてみれば何故「カフェのおじさん」が親切にしてくれたのか?不思議と言えば不思議。今まで一度たりともお隣のカフェに入ったことは無く、当然、言葉も交わしたことも無いのに…。

 以前フエを旅行で訪れた時に王宮の外辺を一周しようと歩いていたら、自転車のチェーンが外れて困っている女の子に2回も遭遇しました。もちろん2回とも手を油だらけにして外れたチェーンを掛け直してあげたのですが、ワタシはベトナム語が未だ話せず、女の子の方も日本語が話せないワケですが、もうね?その場の状況で察しはつくワケですよ…

自分は今、何を為すべきか。

 カフェのおじさんもきっと同じだったんじゃないかと?何と言うか…

やるべき事があり、やるべき事をやる。

 その瞬間には国籍だとか、性別だとか、年齢だとか、そうしたものは吹っ飛んでしまうんじゃないかと?つまりそこに在るのは…

同じ人間としての共感

…なんじゃないかと?簡単に言えば…

困ったときはお互い様

…なのではないかと?

 この「お互いさま」という感覚…さらに言えば「お陰さま」という感覚は、拡大すれば「個でありながら全体であり、全体でありながら個である。」という事に繋がるように思えます。

 人は単独では生きられません。特に現代社会では他人との互助関係無くして生活、社会は成り立たず、食事にしても食糧を生産してくれる第三者がいるからこそ「グルメ」とか言ってられるワケです。
 


孔子 – Wikipedia

 
 齢70歳に達した孔子は「死」を意識したことでしょうし、同時にその対極に在る「生」を振り返った時、「人間の集団」の中で生きて来た自分の人生が「走馬灯」のように過ぎったのではないかと?
 
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰えず。

 「人間の集団」を俯瞰することで、「自分という存在と他人という存在は繋がっている」という思いに至り、それを「矩(のり)を踰えず」=「過剰なエゴを追求せず」と表しているのでは?

 欲望が文明を進化させたのは事実にしても、「進化の在り方」も重要です。個人的な進化(エゴの具現化)なのか?それとも社会的な進化なのか?と。

 「ヤマアラシの夫婦」の話は有名ですが、人は皆「エゴという棘」を持っていて、お互いの「棘(エゴ)」間合いを見計らいながら身を寄せ合って社会を形成しているワケで、おそらくそれはある程度の痛みの我慢を伴いつつ、「生き残る」ために=倫理的に身を寄せ合っているという話。
 

 
 「矩(のり)を踰えず」=「許容範囲を踰えず」とは自らの棘(エゴ)をわきまえる(自制する)事に他ならず…

個でありながら全体であり、全体でありながら個である。

…という境地に至るには、人生70年を経ないダメなんですかねw。

 ちなみに現在、東京電力の企業体質が問題になっていますが、東京電力は「矩(のり)を踰えた」と言え、一企業のエゴ(利益追求)のために原発を推進して「人間の集団」を苦しめているワケですが、こうしたコトは東京電力に限らず…

全ての企業に問われている

…と思う次第です。はい。
 
 
 
 
でわっ!
 
 

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