中東史概略

 現代にまで影響を及ぼす中東の歴史をどの時点から捉えるか?となると、やはり「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」の三大宗教が揃った時点あたりからが適当に思えるので、それ以前の「ゾロアスター教」「ミトラ教」「マニ教」などはひとまず脇に置いて話を進めます。
 

 
 三大宗教が中東発祥であることに何か?因縁を感じずにはいられませんが、「キリスト教」にしてもアングロサクソンの宗教のように思われてはいても、そもそもは中東の新興宗教がローマ帝国に受け容れられ、その領土の拡大につれて地中海沿岸部から欧州にまで広まったワケです。
 

西暦117年当時のローマ帝国の最大版図

 
 キリスト教会の主導権がエルサレム派からローマ派(パウロ側)に移った後にイスラム教が勃興し、ローマ帝国とサラセン帝国(ウマイヤ朝:661年 – 750年)両雄が並び立つようになります。
 

キリスト教:諸教派の系統図

 
 ウマイヤ朝の最盛時には西ーマ帝国は既に消滅していて、AD700年から750年頃の間はこんな↓感じで日本だと奈良時代にあたり、「白村江の戦い」の敗戦処理をしつつ遣唐使から大陸の文化を取り入れている最中ですw。
 

ウマイヤ朝(緑)と東ローマ帝国(オレンジ) – 750年頃

 
 ウマイヤ朝は首都を現在のシリアの首都ダマスカスに置きその勢力を拡大しますが、イスラム教徒の統率者=カリフの地位を巡って内紛が絶えず瓦解(750年)。その際に「スンナ派」「シーア派」に分裂し確執は現在まで続いているという話。
 

アッバース朝 (750年 – 1258年)

 
 ウマイヤ朝の領土の殆どは反乱を起こしたアッバース家(シーア派)に引き継がれて「アッバース朝」となり、王族(スンナ派)はイベリア半島に逃れて「後ウマイヤ朝」を建国。
 

後ウマイヤ朝 (756年 – 1031年)

 
 アッバース朝は1258年にモンゴル帝国に滅ぼされ、方や後ウマイヤ朝はまたしてもカリフ後継問題が拗れて1031年に瓦解。

 アッバース朝最後のカリフはエジプトのカイロに首都を置くマムルーク朝に庇護されますが、モンゴル帝国を退けた(1260年)マムルーク朝も1517年にオスマン帝国に大敗して滅亡。カリフは廃位されてしまいますw。
 

マムルーク朝 (1250年 – 1517年)

 
 オスマン帝国が登場する頃になると時代は「近代」へ移るワケですが…今回はこれにて。
 

オスマン帝国 (1281年 – 1922年)

 
 ひとつ言えることは…

「イスラム教」だけでアラブをまとめるのは難しいんじゃないの?

…というコトで、どうも?「アラブの誇り」とやらと「イスラム教」とは…

別問題

…のように映るワケです。

 ザックリ歴史を俯瞰してみるにアラブの民はそのほとんどが「遊牧民」だったワケですよね(今でも)?で、モンゴル帝国にしてもオスマン帝国にしても同じく「遊牧民族」の国であり、遊牧民族どうしの勢力争いの結果オスマン帝国が最終勝者になったというコトでしょ?

 で、「遊牧民族」は地域に根付か無い民族なワケですから、侵略した地を支配するには「地域性を越えた文脈」が必要になり、そうした「文脈」として「イスラム教」は機能したのではないか?と思えるワケです。

 例えばインドネシアはイスラム教を「国教」としていますが「アラブの誇り」とは無縁であり、「民族」と「宗教」が別問題であるのは明白。

 であるならば?中東においても同じ事は言え、アラブの諸部族は各々のアイデンティティーにしたがって行動していると考えるのが妥当で、「イスラム教」という括りにスンナリ収まるとは思えないという話(ワタシには)。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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