原発国民投票の件

 IWJの動画を見て思ったんですけど、所謂「選挙」って…

一発勝負

…みたいなもので、「博打」に近いように感じたワケです。

 民主党に投票してガッカリした人が多いと思いますが、ワタシもそのひとりです。「半」に賭けて「丁」が出たような心境?です。

 で、何故?そのような心境になるのか自己分析してみるに、そこに「期待値」が多分に含まれていたからであり、この「期待値」とは何か?というと、「他力本願」に他なりません。

誰かが代わりにやってくれる。

…という思い。そうした思いが裏切られたことに、「失望感」を覚えるワケです。

 「政治家は公僕である。」…その所以は前にもお話したように、「社会は分業で成り立っている」…という現状を鑑みれば、「分業体制」から離れた「非日常」の存在でしか社会全体をマネージメントする余力は持ち合わせていないワケで、したがってそうした「非日常」の存在=「政治家」や「公務員」に、みんなが「給料」=「税金」を払って社会全体のマネージメントを委託しているワケですよね?

日本国憲法

前文抜粋

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民のためにこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」

第十五条 第二項

「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」

 日本国憲法にここまで明確に条文化されていながら、何故?主権者であるワタシたちの思いとかけ離れた政治が行われてしまうのか?そこに「選挙」の弊害があるのからではないのか?…というのがワタシの見解です。

 「B層」という言葉をよく見かけますが、先のグラムシの論によれば、「文化的ヘゲモニー」を持たない層と言えます。つまり、「無言の圧力」に囚われている層でもあります。

 「無言の圧力」から抜け出せないひとたちが「選挙」に参加したとしても、その結果は、「文化的ヘゲモニー」を確立している側(原子力村など)の手の内にあると言えます。

 「選挙」は「民主主義」の正当な手段である。…と言われ、ワタシも永らくそう信じてきました。もっと言えば、「民主主義」=「選挙」と単純化してきたワケですが、「選挙」が「民主主義」の…つまりワタシたちの総意の表明であるならば、先ず問われなければならないのは、ワタシたちの「意識」の在り方です。

 未熟な「意識」のままで「選挙」に臨み重大な決定をするなど、子供と大人が同じ責任を負わせれるようなもの。

 したがって「投票原理主義」は非常に危険だということになり、「選挙、選挙」と声を荒げる前に、自らの「文化的ヘゲモニー」を確立する方が急務だと思うワケです。 

 「国民投票」にしても、「一発勝負」=「博打」にしてはいけないワケで、山本太郎氏が言うように「最後の手段」であるのが、正しい手続きである様に思えます。

 ワタシたちには「ヴィジョン」があります。原発にしろ、増税にしろ、TPPにしろ、「こう在って欲しい」と思い描く「未来の姿」があります。そうした「ヴィジョン」が十分に共有された時=文化的ヘゲモニーが確立された時に、「総意の確認手段」として「投票」を行うのが、「正しい民主主義」の在り方ではないのか?と。

 「投票原理主義」は、そうした「ヴィジョン」が未熟であるにもかかわらず「決定」を急がせ、「少数派の意見」を排除しかねない危険な「似非民主主義」のようでもあります。

 今井一氏は、「自分たちの思い通りにならないからと言って、選挙(投票)を否定するのは間違っている。」と言いましたが、これこそ「博打」の発想です。

チガウでしょ?

 ワタシたちは、ワタシたちが望む社会にする為に選挙(投票)をするのであって、「投票」を一か八かの「博打」と同列で考えている「原発国民投票」は、早急すぎると言わざるを得ません。

 ワタシたちに求められているのは、「投票」=「民主主義」という短絡的な考え(投票原理主義)を改め、「投票」=「総意の確認手続」であり、様々な意見の調整こそが「民主主義の本懐」であることを理解し、意見調整は「文化的ヘゲモニー」に依らなければならない。…という事です。

 「現実・事実」を、「正しく・広く」共有し、問題に対する認識の共有が形成されたうえで意見の集約を図り、最善と思われる対策を取捨選択をし、最後に「総意の確認手続」として「投票」を行う。

…というのが、「選挙」なり、「国民投票」というシステムの「民主主義的利用法」に思えるワケで、当然、決定までに時間が掛かるでしょうが…

それがどうした?

 分刻みで右往左往する「株」や「外為」の金融トレーダーじゃあるまいし、「バスに乗り遅れるな!」とかね?もう…

アwホwかw?

…と、呆れるしかありません。

 ちなみに、「バスに乗り遅れるな!」というキャッチコピーを見て(聞いて)反射的に危機感を抱いた人は、「文化的ヘゲモニー」に操作(洗脳)されていると言え、「無言の圧力」に支配された状態にあります。

 ところで?グラムシを知ってから「ヘゲモニー」という言葉が気に入ってしまったワタシですが、言葉の響きがね?「屁毛モニー」と脳内で勝手に変換され、クセになりそうですw。

 それはさて措き、世界中で発生する様々な大問題…例えば「リーマンショック」だとか、「地球温暖化サギ」だとか、「戦争」だとか…「ショック・ドクトリン」と見なされる諸事件も「ヘゲモニー」という観点から見れば、その発生理由が理解も推察できます。

 そうした「ショック・ドクトリン」に惑わされ、「無言の圧力」に負けない為に日本には…というか、武士道では…

平常心

…というものを説いています(禅だったかも?)。

 そしてワタシの我流(こじつけ)の解釈になりますが、「平常心」は何に立脚するか?といえば、「揺ぎ無い自分」に立脚し、繰り返しになりますが、「揺ぎ無い自分」を確立するには武士であれば「武術」の修行であり、ワタシたちであれば「知識」の学習になるワケです。

 グラムシの「陣地戦」=「ヘゲモニーの確立」=「揺ぎ無い自分」=「平常心」=「武士道」と、一直線に繋がるというのがワタシの解釈で、つまり…

優れた思想は繋がっている!

…という話なワケですw。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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