蘇我氏はローマ人だった?

 過去何度か藤原氏~天智天皇~天武天皇の関係について考察しながら未だに答えを見出せないワケですが、お偉いセンセ方も喧々諤々やりあっているワケですから?ワタシ如きにそう易々と答えが見出せるワケが無いw。

 「鹿男あおによし」というドラマで示された京都=狐難波=鼠奈良=鹿という象徴が何を暗示しているのか?気になって、気になって夜も…。

 そんな中、とても興味深い動画を見つけました。
 

 
 「ローマ製のガラス器」を糸口に…

蘇我氏と新羅は関係が深いのでは?

…というコトで、検証を進めると意外?な事実が明らかになります。

 蘇我氏のルーツは武内宿禰とされていますが、一説には武内宿禰は神功皇后の「愛人」ともウワサされ、夫である仲哀天皇が急死した後に神功皇后は応神天皇を身篭り(武内宿禰との間に?)、身重の体で新羅征伐に向かうというフツーでは考えられない行動に出ます。

 その「新羅征伐」は『古事記』『日本書紀』でその内容は大きく違います。
 

神功皇后の新羅征討とは何か?
「縄文と古代文明を探求しよう!」 2008年11月14日
 
『古事記』の場合、神功は新羅へ渡って新羅国王との間に平和的に国交関係を樹立したことがのべられているだけであって、戦闘描写は全くない。
 
これに対して、『日本書紀』の場合、朝鮮半島南半部各地に転戦させ、新羅側と戦い、百済に占領地を与えた(その領有を承認した)旨が記されている。

 
 もし?神功皇后の帰属意識(ルーツ)が新羅側にあれば故郷に里帰りして出産するのは理に適った行動です。そのほかにも日本国内で出産できない事情があったのではないか?そのひとつとして考えられものに…

生まれてくる子どもの容姿

…が挙げられます。
 

【玄松子の祭神記】 神功皇后
 
第十四代・仲哀天皇の皇后。第十五代・応神天皇の母。息長宿禰王の娘
 
第九代・開花天皇-日子坐王-山代之大筒木真若王-迦邇米雷王-息長宿禰王-息長帯比売命。
 
息長宿禰王は、葛城の高額比売と結婚して一男二女をもうけた。 長女は息長帯比売命(のちの神功皇后)、二女は虚空津比売命、第三子が長男の息長日子王は吉備(吉備国)品遅君、針間(播磨国)阿宗君の祖。

 

近江史を歩く 41.湖北の古代豪族息長氏(米原市)
  
息長氏の先祖は開化天皇の皇子「日子坐(ヒコイマス)王」とされる。息長氏には、新羅から渡来したという天日槍(アメノヒボコ)伝承が結び付けられる。天日槍から数えて4代目・多遅摩比多訶(タジマヒタカ)の娘が息長宿禰王(オキナガスクネオウ)と結婚し生まれたのが息長帯比売(オキナガタラシヒメ)。神功皇后である。米原市能登瀬にある山津照(ヤマツテル)神社は、神功皇后の出陣・凱旋時に訪れたゆかりの神社とされる。しかし、皇国史観に利用された「神功皇后の三韓征伐」の真相は不明である。神社の境内に山津照神社古墳がある。神功皇后の父・息長宿禰王の墳墓と伝えられている。横穴式石室から銅鏡・金銅製装身具・朝鮮系冠帽・馬具・刀など多くの副葬品が発掘されている。

 

アメノヒボコ – Wikipedia
 
アメノヒボコは、記紀等に伝わる古代朝鮮からの渡来人または渡来神。
 
『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」「天日槍命」「天日桙命」「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。
 
『日本神話』『古事記』等では新羅王子、『播磨国風土記』では神と位置づけて記述される。

 
 新羅出身の武内宿禰と、同じく新羅をルーツに持つ神功皇后が惹かれ合っても当然でしょうし、武内宿禰に白人の身体的特徴(金髪、蒼い目、白い肌etc)があればその子供にも同じ特徴が顕れるでしょう。
 


応神天皇を抱く、武内宿禰と神功皇后

 
 つまり神功皇后が朝廷内で出産し赤子の容姿を第三者が見たら、だれの子かバレてしまう危険があるワケですw。
 
応神天皇- Wikipedia
 
 それを避けるために新羅で出産しようとワザワザ妊娠中に海を渡ったのではないか?

 ちなみに武内宿禰は「300歳まで生きた」と伝えられますが、「金髪」を見たことのない日本国内の豪族の目には「白髪」のように映り、そこから長寿伝説が生まれたのかも知れませんw。
 
 以上が武内宿禰についての推測ですが、子孫の蘇我氏は朝廷内でおおいに権力を振るい、最大の業績はナンと言っても「飛鳥京」の建設であり、「飛鳥京」には「石造り」の遺跡が多く残されています。
 


石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)

 
 飛鳥京に「石造り」の遺跡が多く見られるのは蘇我氏のローマ風文化への郷愁がそうさせたのかも知れませんw。
 


新羅人の微笑 石窟庵

 
 一方で蘇我氏は「仏教」を広めたワケですが、権力を掌握するための「道具」として利用したことで、後になって宗教観に齟齬が生じ聖徳太子と蘇我入鹿が対立することになるのかも知れません。

 「飛鳥の宮」の寺院の多くは「高句麗の建築技法」で建てられているそうで、そもそも?新羅風の木造建築技法があったかどうかも定かではなく、先の「石窟庵」に見られるように「石工」の技術に長けていても、「木工」の技術を持ち合せていなければ「高句麗」から職人を呼び寄せるしかありません。
 

 

妙見信仰とは
 
 この北辰・北斗信仰がわが国に入ったのは推古天皇のころというが、その真偽は不明。ただ、奈良・明日香の高松塚古墳の天井に北斗七星が、北壁に北斗の象徴である玄武像(ゲンブ、亀と蛇とがかみついた像)が描かれ、また正倉院御物にも金泥・銀泥で北斗七星が描かれた合子(ゴウス)があることなどからみると、奈良時代に知られていたのは確かである。

 
 妙見信仰のルーツは古代バビロニアにまで遡るらしく、それがギリシャ・ローマへと伝わった可能性は高いと言えます。
 
妙見菩薩 – Wikipedia
 

 
 蘇我氏や新羅人が純粋なローマ人であったかは分かりませんが、少なくとも「石窟庵」の遺跡を見る限り「高度な石工技術」を持っていたことは疑いようも無く、そのための道具も発達していたハズ。

 ペルシャ人も同等の「石工技術」は持っていたのでしょうが、現在の日本文化に影響を及ぼした度合いは「ギリシャ神話」と「日本神話」の類似性を鑑みても、ローマ系の文化のほうが影響が色濃いと言えます。
 
 ワタシ的には蘇我氏=新羅系≒ローマ系と仮定すると、「乙巳の変」にはじまり「白村の江の戦い」を挟んで「壬申の乱」に到るまでの歴史の「流れ」が、新羅系の渡来人の栄枯盛衰物語のように映ります。

 蘇我氏宗家は滅ぼされ宗家に所蔵されていた歴史書も焚かれてしまったとのコトですが、その中に「ギリシャ神話」に関する書物があって焚書を免れていたら、それを「雛形」に「日本神話」を創作して「日本書紀」が編纂されたのかも?

 ヒョとして?「原書」は案外何処かに保管されているかも知れませんw。宮内庁の書庫の奥深くとかw。

 ところで「新羅」といえば、埼玉県の旧新座群一帯と東京都の清瀬市の一部は古くから「新羅」の渡来民が住みついた土地であり、「新座」の旧地名は「新羅座」で、なおかつ埼玉県高麗川周辺は高句麗渡来民の領地であり、多摩地区と古代朝鮮半島との繋がりも深いワケです。

 古代朝鮮史は「百済」と皇室の関係に比重が置かれがちですが、先入観を排した歴史検証により「歴史の真実」を見極めることが大切ではないかと?
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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