新羅についてアレコレ

 前回「蘇我氏はローマ人で云々…」と書きましたが、動画(TV番組)の内容をまんま受け売りするのもアレなんで少しは自分で検証してみようかと。

 それにしても新羅の時代にあれだけの石窟(751年着工 – 774年完成)が造られたのに驚くと同時に、異質(非アジア的)な文明の手によるものと直感した次第。韓国の人にはアレですが、現在の韓国人の祖先があの「石窟」を造ったとはとても思えませんw。何というか…

「美的感覚」が根本から違う

…という印象を受けます。
 

 
 ワタシが連想したのは「バーミヤン」の石窟群で、タリバンにより多くが破壊されてしまい残念ですが、カイザル政権になってからは国際協力により修復も進んでいるらしくヨカッタですw。

 件の動画では「新羅人は言葉が通じない」とナレーションが入ったシーンで、「無文字」の三文字が画面に映し出されましたが…

言葉が通じないと文字が無いのとは別問題ダロ?

…とアレコレ文献を検索。
 

「梁書」 新羅伝

新羅者,其先本辰韓種也。
辰韓亦曰秦韓,相去萬里,傳言秦世亡人避役來適馬韓,馬韓亦割其東界居之,以秦人,故名之曰秦韓。
其言語名物有似中國人,名國爲,弓爲,賊爲,行酒爲行觴
相呼皆爲,不與馬韓同。
又辰韓王常用馬韓人作之,世相係,辰韓不得自立爲王,明其流移之人故也;恒爲馬韓所制。

新羅の者、その先祖の本は辰韓種なり。
辰韓は秦韓ともいい、隔たること万里、伝承によると秦の時代に苦役を避け亡命して来る者に馬韓は適地で、馬韓も東界を居所に割譲し、秦の人を住まわせたので、これ秦韓と名づけた。
言語、呼称は中国人に似ていて、国を「邦」、弓を「弧」、賊を「寇」、行酒を「行觴」という。
お互いを「徒」と呼び合い、馬韓とは同じではない。
また辰韓の王は常に馬韓人を用いてこれを作るのが、代々継承され、辰韓自ら王が立てられないのは、流移の人なのが一目見て分かる故なり(馬韓が所を制するのを恒例とする)。
 
 
辰韓始有六國,稍分爲十二新羅則其一也。
其國在百濟東南五千餘里。
其地東濱大海,南北與句驪、百濟接。
魏時曰新盧,宋時曰新羅,或曰斯羅
其國小,不能自通使聘。
普通二年,王,始使使隨百濟奉獻方物。

はじめ辰韓は六国だったが、やがて十二に分かれ、新羅はその一国なり。
その国は百済の東南五千余里にある。
東は大海に沿い、南北は高句麗、百済と接している。
魏の時代は新盧といい、宋代には新羅、あるいは斯羅という。
小国なので、自ら通使の派遣と招聘はできない。
普通二年(521年)、王の募秦は、百済に随行して使者を遣わせはじめて方物を献上。
 
 
其俗呼城曰健牟羅,其邑在内曰啄評,在外曰邑勒,亦中國之言郡縣也。
國有六啄評,五十二邑勒。
土地肥美,宜植五穀。
多桑麻,作縑布。
服牛乘馬,男女有別。
其官名,有子賁旱支齊旱支謁旱支壹告支奇貝旱支
其冠曰遺子禮,襦曰尉解,洿曰柯半,靴曰
其拜及行與高驪相類。

その俗衆は城を「健牟羅」といい、内にある邑を「啄評」といい、外にあるのを「邑勒」というは、中国で言う郡県と同じなり。
国には六啄評、五十二邑勒がある。
土地は肥沃で、五穀の栽培に宜しい。
桑と麻が多く、薄い衣服を作る。
牛を服務させ馬に乗り、男女の別がある。
官名には、「子賁旱支」、「斉旱支」、「謁旱支」、「壹告支」、「奇貝旱支」がある。
その冠は「遺子礼」、襦は「尉解」、■は「柯半」、靴は「洗」という。
礼拝や作法は高麗に類する。
 
 
無文字刻木爲信。
語言待百濟而後通焉。

文字は無く、木に刻みを入れて信書にする。
言葉は百済の通訳を介して後に通じるようだ。
 
 
梁 (南朝) – Wikipedia

 
 「梁書」からは新羅は中国語を解さず、文字も持たない遅れた文明のように受け取れますが、件の「石窟」を見ても分かるように高度な技術を持っています。

 通訳が必要なのはやはり「異民族」だからと思われ、一見して流移の人と分かる外見(非アジア系)であるとのコト。であれば中国人には「文字」に見えなかった「刻み」も独自の文字ではないかと考えるのが妥当。

 そうした「刻み文字」を使う高度な文明として頭に浮かぶのは古代バビロニア文明の「楔形文字」であり、また「ラテン文字」にしても中国人には単なる「刻み」に見えるかも知れません…特に数字は。

 とにかく新羅の人は周辺国とは異なる外見と文明を持った人たちだったようで、そうした人たちが朝鮮半島に現われた経緯に興味が沸いた次第。
 

「北史」 新羅伝

新羅者,其先本辰韓種也。
地在高麗東南,居漢時樂浪地
辰韓亦曰秦韓
相傳言秦世亡人避役來適,馬韓割其東界居之,以秦人,故名之曰秦韓。

新羅の者、その先祖の本は辰韓種なり。
地は高麗東南に在り、漢の時代の楽浪の地に居す。
辰韓または秦韓という。
伝承によると秦の時代に苦役を避け亡命するのに適地で、馬韓は東界を割譲してこれを居住させ、秦の人であるので、故に名を秦韓という。
 
 
其言語名物,有似中國人,名國爲,弓爲,賊爲,行酒爲行觴,相呼皆爲,不與馬韓同。
又辰韓王常用馬韓人作之,世世相傳,辰韓不得自立王,明其流移之人故也。
恆爲馬韓所制。
辰韓之始,有六國,稍分爲十二新羅則其一也。
或稱魏將毋丘儉高麗破之,奔沃沮,其後復歸故國,有留者,遂爲新羅,亦曰斯盧

その言葉や名称は、中国人に似て、国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴といい、お互いを皆を徒と呼び合うが、馬韓と同じではない。
また辰韓王は常に馬韓人を用いて作るのが、代々継承され、辰韓自ら王が立てられないのは、流移の人なのが明らか故なり。
馬韓が領土を制すのが恒例。
辰韓ははじめ六国、やがて十二国に分かれ、新羅はその一国なり。
あるいは魏の将軍の毋丘儉が高麗を討ち破ると、これは沃沮に奔走し、その後故国に復帰し、留まる者あり、遂に新羅、または斯盧をなしたともいう。
 
 
其人雜有華夏高麗百濟之屬,兼有沃沮、不耐、韓、滅之地。
王本百濟人,自海逃入新羅,遂王其國。
初附庸於百濟,百濟征高麗,不堪戎役,後相率歸之,遂致強盛。
因襲百濟,附庸于迦羅國焉。
傳世三十,至真平
以隋開皇十四年,遣使貢方物。
文帝拜真平上開府樂浪郡公新羅王

その人は華夏(漢族)、高麗、百済に属す人が雑居し、沃沮、不耐、韓、濊の地を兼ねる。
その王は本は百済人で、自ら海に逃げて新羅に入り、遂にその国の王になる。
はじめは百済に臣従したが、高麗が百済に征服されると、戎役に堪えられず、後に連れ立ってここに帰還し、遂に強盛となる。
因んで百済を襲い、「迦羅国」に臣従したらしい。
三十代を経て真平に到る。
隋の開皇十四年(594年)、使者を遣わせ方物を貢ぐ。
文帝(581 – 604年)は真平を「上開府」、「楽浪郡公」、「新羅王」に拝命。
 
 
其官有十七等:一曰伊罰幹,貴如相國,次伊尺幹,次迎幹,次破彌幹,次大阿尺幹,次阿尺幹,次乙吉幹,次沙咄幹,次及伏幹,次大奈摩幹,次奈摩,次大舍,次小舍,次起士,次大烏,次小烏,次造位
外有郡縣。
其文字、甲兵,同於中國。
選人壯健者悉入軍,倶屯營部伍。

その官には十七等級がある(一番上の「伊罰干」は、相国の如く高貴で、次に「伊尺干」、次に「迎干」、次に「破彌干」、次に「大阿尺干」、次に「阿尺干」、次に「乙吉干」、次に「沙咄干」、次に「及伏干」、次に「大奈摩干」、次に「奈摩」、次に「大舍」、次に「小舍」、次に「吉士」、次に「大烏」、次に「小烏」、次に「造位」。
(城の)外に郡県がある。
文字や甲兵は中国と同じ。
壮健な者を選んで悉く軍に入れ、烽(連絡)、戍(戦闘)、邏(偵察)のすべてに屯営と隊伍がある。
 
 
風俗、刑政、衣服略與高麗、百濟同。
毎月旦相賀,王設宴會,班賚群官。
其日,拜日月神主。
八月十五日設樂,令官人射,賞以馬、布。
其有大事,則聚官詳議定之。

風俗、刑政、衣服はおおむね高麗、百済と同じ。
月はじめには皆で祝賀し、王は宴会を設け、多くの役人をねぎらう。
その日は、日月神を主に拝む。
八月十五日に行楽を設け、官人に射撃競技をさせ、衣、馬を賞品とする。
大事があれと、役人が集まり詳議してこれを定める。
 
 
服色尚畫素,婦人辮髪繞頸,以雜彩及珠爲飾。
婚嫁禮唯酒食而已,輕重隨貧富。
新婦之夕,女先拜舅姑,次即拜大兄、夫。
死有棺斂,葬送起墳陵
王及父母妻子喪,居服一年。

服色は質素(白)を尊び、婦人は編んだ髪を頚に巻き、色とりどりのアクセサリーや宝玉で飾る。
婚礼は酒食をもてなせば足り、貧富の差に応じて軽重がある。
新婚初夜、女は先に舅姑に拝礼し、次に長男、夫と拝礼する。
死ねと棺に納め、墳陵を起こして葬送する。
王や父母妻子(家族)の喪は、一年間服する。
 
 
田甚良沃,水陸兼種。
其五穀、果菜、鳥獸、物産,略與華同。
大業以來,歳遣朝貢。
新羅地多山險,雖與百濟構隙,百濟亦不能圖之也。

田は甚だ肥沃で、水稲と陸稲の種を兼ねて蒔く。
五穀、果菜、鳥獣、物産、おおよそ中華と同じ。
大業(605 – 618年)以来、歳時には遣使が朝貢。
新羅の地は険しい山が多く、百済との間に溝隙はあれど、百済がこれを包囲することは不可能なり。
 
 
南北朝時代 – Wikipedia

 


新羅 – Wikipedia
(576年頃の半島図)

 

「隋書」 新羅伝

新羅國,在高麗東南,居漢時樂浪之地,或稱斯羅
魏將毌丘儉討高麗,破之,奔沃沮。
其後復歸故國,留者遂爲新羅焉。
故其人雜有華夏高麗百濟之屬,兼有沃沮不耐韓獩之地。

新羅国は高句麗の東南に在り、漢代の楽浪の地に居住、あるいは斯羅とも称す。
魏の将軍の毋丘儉が高句麗を討ち破ると、高句麗は沃沮に敗走。
その後故国に復帰し、留まる者が遂に新羅を興したようだ。
それ故そこの人は華夏(漢族)、高句麗、百済に属す人が雑居してあり、沃沮、不耐、韓・濊の地を兼ねる。
 
 
王本百濟人,自海逃入新羅,遂王其國。
金真平,開皇十四年,遣使貢方物。
高祖拜真平爲上開府樂浪郡公新羅王
其先附庸[於]百濟,後因百濟征高麗,高麗人不堪戎役,相率歸之,遂致強盛,因襲百濟,附庸[于]迦羅國

その王の本は百済人で、自ら海に逃れて新羅に入り、遂にその国の王となる。
温祚から金真平に伝世して至り、開皇十四年(594年)、使者を遣わせ方物を貢ぐ。
高祖は真平を「上開府」、「楽浪郡公」、「新羅王」に拝命。
その先祖は百済に臣従し、後に百済が高句麗を征服すると、高句麗人は戎役に堪えかね、相次いで帰国し、遂に強勢となると、百済を襲い、迦羅国に臣従する。
 
 
其官有十七等:其一曰伊罰幹,貴如相國;次伊尺幹,次迎幹,次破彌幹,次大阿尺幹,次阿尺幹,次乙吉幹,次沙咄幹,次及伏幹,次大奈摩幹,次奈摩,次大舍,次小舍,次吉土,次大烏,次小烏,次造位
外有郡縣。
其文字、甲兵同於中國。
選人壯健者悉入軍,倶有屯管部伍。

 
官には十七等級がある(その一は「伊罰幹」、相国の如く高貴とされ、次は「伊尺幹」、次は「迎幹」、次は「破彌幹」、次は「大阿尺幹」、次は「阿尺幹」、次は「乙吉幹」、次は「沙咄幹」、次は「及伏幹」、次は「大奈摩幹」、次は奈摩、次は「大舍」、次は「小舍」、次は「吉土」、次は「大烏」、次は「小烏」、次は「造位」)。
外に郡県がある。
その文字、軍備は中国と同じ。
壮健な者を人選して悉く軍に入れ、烽(連絡)、戍(戦闘)、邏(偵察)のすべてに屯管と隊伍がある。
 
 
風俗、刑政、衣服,略與高麗、百濟同。
毎正月旦相賀,王設宴會,班賚群官。
其日拜日月神
八月十五日,設樂,令官人射,賞以馬布。
其有大事,則聚群官詳議而定之。

風俗、刑政、衣服は、おおよそ高句麗、百済と同じ。
毎正月元旦をお互いに祝賀し、王は宴席を設け、多くの役人をもてなす。
その日は日月神を拝む。
八月十五日に至ると、行楽を設け、官人に射撃競技をさせ、馬や衣服を賞品にする。
大事があるときは、役人が集まり詳しく協議してこれを定める。
 
 
服色尚素。
婦人辮發繞頭,以雜彩及珠爲飾。
婚嫁之禮,唯酒食而已,輕重隨貧富。
新婚之夕,女先拜舅姑,次即拜夫。
死有棺斂,葬起墳陵
王及父母妻子喪,持服一年。

 
服色は質素(白)を尊ぶ。
婦人は髪を編んで頭に巻き、色とりどりのアクセサリーや宝玉で飾る。
婚礼は酒食をもてなせば足り、貧富によって軽重がある。
新婚の夜、女は先ず舅姑を拝礼し、次に夫に拝礼する。
死ねと棺に納め、墳陵を起こして埋葬する。
王や父母妻子の喪は、一年の間の服する。
 
 
田甚良沃,水陸兼種。
其五穀、果菜、鳥獸物產,略與華同。
大業以來,歳遣朝貢。
新羅地多山險,雖與百濟構隙,百濟亦不能圖之。

農地はとても肥沃で、水稲と陸稲の種を兼用する。
五穀、果菜、鳥獣、物産はおおよそ中華と同じ。
大業(605年-)以来、歳時には遣いが朝貢。
新羅の地は険しい山が多く、百済との間に溝隙があれど、百済もこれを包囲することは不可能。
 
 
隋 – Wikipedia

 

「旧唐書」 新羅伝

新羅國,本弁韓之苗裔也。
其國在漢時樂浪之地,東及南方倶限大海,西接百濟,北鄰高麗。
東西千里,南北二千里。
有城邑村落。
王之所居曰金城,周七八里。
衛兵三千人,設獅子隊
文武官凡有十七等。
其王金真平,隋文帝時授上開府樂浪郡公新羅王
武德四年,遣使朝貢。
高祖親勞問之,遣通直散騎侍郎庾文素往使焉,賜以璽書及畫屏風、錦彩三百段,自此朝貢不絶。

新羅国、本は弁韓の子孫なり。
その国は漢代には楽浪の地に在り、東と南方はそろって大海に限られ、西は百済と接し、北は高句麗と隣りあう。
東西に千里、南北に二千里。
城邑と村落がある。
王の居す所は金城といい、周囲は七~八里。
衛兵は三千人で、獅子隊を設ける。
文武官はすべてで十七等級。
その王は金真平で、隋が文帝の時に「上開府」、「楽浪郡公」、「新羅王」を授かる。
武德四年(621年)、遣使が朝貢。
高祖は親身に労らいこれに問い、散騎侍郎の庾文素を往使に遣わせ直に通じたようで、璽書および書画屏風、錦紗三百反を賜い、これより朝貢は絶えなかった。
 
 
其風俗、刑法、衣服,與高麗、百濟略同,而朝服尚白
好祭山神
食器作柳杯,亦以及瓦。
國人多金、樸兩姓,異姓不爲婚。
重元日,相慶賀燕饗,毎以其日拜日月神。
重八月十五日,設樂飲宴,賚群臣,射其庭。
婦人發繞頭,以彩及珠爲飾,發甚長美

その風俗、刑法、衣服は、高句麗や百済とおおよそ同じで、朝服は白を尊ぶ。
山神の祭りを好む。
食器は柳桮で作り、おなじく銅および瓦がある。
国人には金、朴の両姓が多く、異姓との婚姻はしない。
元日を重んじ、相互に慶賀し宴に饗じて、毎回その日には日月神を拝む。
また八月十五日を重んじ、行楽を設け、群臣をもてなし、庭で射撃競技をする。
婦人は髮を頭に巻き、アクセサリーや宝珠で飾り、髮は甚だ長くて美しい。
 
 
高祖既聞海東三國舊結怨隙,遞相攻伐,以其倶爲蕃附,務在和睦,乃問其使爲怨所由。
對曰:
「先是百濟往伐高麗,詣新羅請救,新羅發兵大破百濟國,因此爲怨,毎相攻伐。
新羅得百濟王,殺之,怨由此始。」
七年,遣使拜金真平爲柱國,封樂浪郡王新羅王

高祖はすでに海東の三国の間に旧い怨恨があり、相互に攻伐をめぐらせ、互いを臣下にしようとしているのを聞き及び、和睦を仲介すべく、その使者に怨恨の理由を問う。
応対して曰く:
「先に百済が高句麗を攻伐し、新羅を詣でて救援を請うので、新羅は兵を発して百済国を大破したが、これが怨恨となり、いつも互いを攻伐する。
新羅は百済王を捕え、これを殺し、怨恨はここから始まる。」
七年(624年)、遣使の冊は金真平を「柱国」、「楽浪郡王」、「新羅王」に拝命する。
 
 
貞觀五年,遣使獻女樂二人,皆鬒發美色
太宗謂侍臣曰:
「朕聞聲色之娯,不如好德。
且山川阻遠,懷土可知。
近日林邑獻白鸚鵡,尚解思郷,訴請還國。
鳥猶如此,況人情乎!
朕湣其遠來,必思親戚,宜付使者,聽遣還家。」
是歳,真平卒,無子,立其女善德爲王,宗室大臣乙祭總知國政。
詔贈真平左光祿大夫,賻物二百段。

貞観五年(631年)、遣いの使者が女楽士二人を献上し、髪は全体が美しい色だった。
太宗が侍臣にいわく
「朕は聲色の娯楽は、德として好ましくないと聞く。
それに山川を遠く阻まれれば、郷土を懐かしがるものだ。
近日林邑(チャンパ王国)が白いオオムを献上したが、なお望郷の思いが解り、国に帰りたいと請い訴える。
鳥でさえもこうなのに、いわんや人であれば!
朕は遠来し、必ず親戚を思うであろうことを哀むので、宜しく使者に付け、家に帰すよう遣いに言い聴かせよ。」
この歳、真平は死に、子はなく、その妻の善德を王に立て、宗室(親戚)の大臣の乙祭が国政の総てを知る。
詔にて真平に「左光祿大夫」を贈り、二百段を賜物。
 
 
九年,遣使持節命善德柱國,封樂浪郡王新羅王
十七年,遣使上言:
「高麗、百濟,累相攻襲,亡失數十城,兩國連兵,意在滅臣社稷。
謹遣陪臣,歸命大國,乞偏師救助。」
太宗遣相里玄獎齎璽書賜高麗曰:
「新羅委命國家,不闕朝獻。
爾與百濟,宜即戢兵
若更攻之,明年當出師撃爾國矣!」
太宗將親伐高麗,詔新羅纂集士馬,應接大軍。
新羅遣大臣領兵五萬人,入高麗南界,攻水口城,降之

九年(635年)、遣いの使者である持節の冊は善德を「柱国」に命じ、「楽浪郡王」、「新羅王」に封じる。
十七年(643年)、遣いの使者が上に言う
「高句麗、百済と、相互に攻襲を累ね、数十城を亡失、両国の兵は連合し、臣の社稷(国家)を滅ぼすつもりです。
謹んで陪臣(仲裁)を遣わせ、大国に運命を帰すので、偏師(援軍)の救助を乞う。」
太宗は相里の玄獎を遣わせ高句麗に璽書をもたらし賜いて曰く:
「新羅は国の命運を委ねているが、王宮に朝献していない。
汝と百済は、即時に撤兵するが宜しい。
もし更にこれを攻めるなら、年があけるに当たり軍師を出して汝の国を攻める!」
太宗の将は高句麗討伐に親身で、詔にて新羅の兵馬を募り集めると、大軍となった。
新羅は大臣、領兵五万人を遣わせ、高句麗の南界に入ると、水口城を攻め、これを降伏させた。
 
 
二十一年,善德卒,贈光祿大夫,余官封並如故。
因立其妹真德爲王,加授柱國,封樂浪郡王
二十二年,真德遣其弟國相、伊贊金春秋及其子文正來朝。
詔授春秋爲特進,文正爲左武衛將軍
春秋請詣國學觀釋奠及講論,太宗因賜以所制『温湯』『晉祠碑』並新撰『晉書』
將歸國,令三品以上宴餞之,優禮甚稱。

貞観二十一年(647年)、善德が死に、光祿大夫を追贈し、その余の官位はすべて旧来の如く封じた。
その妹の真德を立てて王となしたので、柱国を加授、楽浪郡王に封じる。
貞観二十二年(648年)、真德が弟の国相、伊贊干の金春秋、子の文王を遣わして来朝。
詔を以て春秋に特進を授け、文王を左武衛將軍と為す。
春秋は国学観に訪れて釈尊(仏陀)の講義を請い、太宗は(皇帝専用の)温湯を使わせ、晋祠碑に併せて新撰晋書などを賜る。
帰国に際して三品官以上を遇する宴を催し、これの餞(はなむけ)とする。礼を尽くし優遇すること甚だしいと称された。
 
 
永徽元年,真德大破百濟之衆,遣其弟法敏以聞。
真德乃織錦作五言『太平頌』以獻之,其詞曰:
「大唐開洪業,巍巍皇猷昌。
止戈戎衣定,修文繼百王。
統天崇雨施,理物體含章。
深仁偕日月,撫運邁陶唐。
幡旗既赫赫,鉦鼓何鍠鍠。
外夷違命者,翦覆被天殃。
淳風凝幽顯,遐邇競呈祥。
四時和玉燭,七曜巡萬方。
維嶽降宰輔,維帝任忠良。
五三成一德,昭我唐家光。」
帝嘉之,拜法敏爲太府卿。

永徽元年(650年)、真德が百済の軍勢を大破、弟(弟の子)の法敏を派遣したと聞く。
真德は五言太平頌を錦糸で作り、これを献じた。
その詞に曰く
「大唐開洪業、巍巍皇猷昌。
止戈戎衣定、修文継百王。
統天崇雨施、理物體含章。
深仁偕日月、撫運邁陶唐。
幡旗既赫赫、鉦鼓何鍠鍠。
外夷違命者、翦覆被天殃。
淳風凝幽顯、遐邇競呈祥。
四時和玉燭、七曜巡萬方。
維岳降宰輔、維帝任忠良。
五三成一德、昭我唐家光。」
帝はこれを喜び、法敏に拝謁させて太府卿とする。
 
 
三年,真德卒,爲舉哀。
詔以春秋嗣,立爲新羅王。
加授開府儀同三司,封樂浪郡王
六年,百濟與高麗、靺鞨率兵侵其北界,攻陷三十餘城,春秋遣使上表求救。

三年(652年)、真德が死に、(皇帝は)挙哀(声を挙げて哀しむ=葬祭での儀礼)し、詔を以て春秋の嗣子を新羅王に立て、開府儀同三司を加授、楽浪郡王に封じる。
六年(655年)、百済と高句麗が靺鞨の兵を率いて、新羅の北界を攻め、三十余城を陥落させ、春秋は遣使に救助を上表させた。
 
 
顯慶五年,命左武衛大將軍蘇定方熊津道大總管,統水陸十萬。
仍令春秋嵎夷道行軍總管,與定方討平百濟,俘其王扶餘義慈,獻于闕下。
自是新羅漸有高麗、百濟之地。其界益大,西至於海。

 
顕慶五年(660年)、左武衛大将軍の蘇定方を熊津道大総管に任命し、水陸十万の軍勢を統率させた。
春秋を嵎夷道行軍総管と為し、蘇定方と百済を討って平定。その王の扶餘義慈を捕虜とし、王宮の門前に献じた。
これより新羅は暫く高句麗と百済の地を領有、その領界は広大で、西は海に至る。
 
 
龍朔元年,春秋卒,詔其子太府卿法敏嗣位,爲開府儀同三司、上柱國、樂浪郡王、新羅王。
三年,詔以其國爲雞林州都督府,授法敏爲雞林州都督

龍朔元年(661年)、春秋が死去し、詔を以てその子の太府卿法敏が開府儀同三司、上柱国、楽浪郡、新羅王の位を継いだ。
三年(663年)、詔を以てその国を雞林州都督府とし、法敏に雞林州都督を授けた。
 
 
法敏以開耀元年卒,其子政明嗣位。
垂拱二年,政明遣使來朝,因上表請唐禮一部並雜文章,則天令所司寫『吉凶要禮』,並于『文館詞林』采其詞涉規誡者,勒成五十卷以賜之。

開耀元年(681年)、法敏が死に、その子の政明が位を継いだ。
垂拱二年(686年)、政明の遣使が来朝し、上表して唐礼一部併せて雜文章を請う。則天武后(690-705年)は吉凶要礼の書写を所司に命じ、併せて文館に於いて詞林採其詞渉規誡者、勒成五十卷をこれに賜る。
 
 
天授三年,政明卒,則天爲之舉哀,遣使弔祭,冊立其子理洪爲新羅王
仍令襲父輔國大將軍,行豹韜衛大將軍、雞林州都督
理洪以長安二年卒。
則天爲之舉哀,輟朝二日。
遣立其弟興光爲新羅王,仍襲兄將軍、都督之號。
興光本名與太宗同,先天中則天改焉

天授三年(692年)、政明が死に、則天武后はこれに挙哀し、遣使に弔祭させ、その子の理洪を新羅王に冊立し、父の輔国大将軍、行豹韜衛大将軍、雞林州都督を踏襲させた。
理洪は長安二年(702年)に死去、則天武后はこれに挙哀、二日目の朝で止め、その弟の光を新羅王に立て、兄の将軍、都督の号を踏襲させた。
光の本名は太宗と同じだったので、先天年間(712-713年)に則天武后が改めさせた。
 
 
開元十六年,遣使來獻方物,又上表請令人就中國學問經教,上許之。
二十一年,渤海靺鞨越海入寇登州。
時興光族人金思蘭先因入朝留京師,拜爲太僕員外卿,至是遣歸國發兵以討靺鞨。
仍加授興光爲開府儀同三司、甯海軍使。
二十五年,興光卒,詔贈太子太保
仍遣左贊善大夫邢璹攝鴻臚少卿,往新羅弔祭,並冊立其子承慶襲父開府儀同三司、新羅王
璹將進發,上制詩序,太子以下及百僚鹹賦詩以送之。
上謂璹曰:
新羅號爲君子之國,頗知書記,有類中華。
以卿學術,善與講論,故選使充此。
到彼宜闡揚經典,使知大國儒教之盛」。
又聞其人多善奕棋,因令善棋人率府兵曹楊季鷹爲璹之副。
璹等至彼,大爲蕃人所敬。
其國棋者皆在季鷹之下,於是厚賂璹等金寶及藥物等。

開元十六年(728年)、遣使が来朝し方物を献じ、また上表して国人に中国の学問や教義経典を習得させたいと請い、これを許可する。
開元二十一年(733年)、渤海靺鞨が海を越えて登州に侵攻。
その時、光は族人の金思蘭先と入朝して京師に留まっていたが、太僕員外卿を拝受し、ここに至って帰国して兵を発して靺鞨を討つにおよび、光に開府儀同三司、寧海軍使を加授した。
開元二十五年(737年)、光が死去、詔を以て太子太保の位階を追贈、なお左賛善大夫邢璹、攝鴻臚少卿を遣わして、新羅に行って弔祭させ、并せてその子の承慶を冊立して、父の開府儀同三司、新羅王を踏襲させた。
璹は出発に際して、詩序を上製、太子以下と百僚が皆、これに詩を送った
皇帝が璹に曰く「新羅は君子の国を号し、頗る書記に精通して中華に類似する。卿は学術や仏法を講論し、改めて使者を選んでこれに充てる。彼の地に至って経典を宣揚し、大国が儒教の盛なることを知らしめよ。」
また、そこの人々の多くが囲碁に精通すると聞き、因って囲碁名人に府兵曹参軍の楊季鷹を璹の副として率いさせた。
璹らはここに至って、蕃人に大いに尊敬された。
その国の碁者は皆、季鷹の門下である、ここに於いて璹らに金銀宝石に医薬品を厚く支払った。
 
 
 
天寶二年,承慶卒,詔遣贊善大夫魏曜往弔祭之。
冊立其弟憲英爲新羅王,並襲其兄官爵。

天寶二年(743年)、承慶が死去、詔を以て賛善大夫の魏曜を派遣し、これの葬祭に行かせる。
その弟の憲英を新羅王に冊立、并わせて兄の官爵を踏襲させる。
 
 
大暦二年,憲英卒,國人立其子乾運爲王,仍遣其大臣金隱居奉表入朝,貢方物,請加冊命。
三年,上遣倉部郎中、兼御史中丞、賜紫金魚袋歸崇敬持節齎冊書往吊冊之。
以乾運爲開府儀同三司、新羅王、仍冊乾運母爲太妃。
七年,遣使金標石來賀正,授衛尉員外少卿,放還。
八年,遣使來朝,並獻金、銀、牛黄、魚牙納朝霞紬等。
九年至十二年,比歳遣使來朝,或一歳再至。

大暦二年(767年)、憲英が死去、国人はその子の乾運を王に立てる。なお大臣の金隱居が奏を表して入朝、方物を貢献し、冊命の加授を請う。
大暦三年(768年)、倉部郎中、兼御史中丞を派遣し、紫金魚袋を賜り、崇敬持節に冊書を持たせて行き、これを弔冊。
乾運に開府儀同三司、新羅王を賜り、なお乾運の母を太妃に冊封する。
大暦七年(772年)、遣使の金標石が来賀に参内、衛尉員外少卿を授けて、帰還させる。
大暦八年(773年)、遣使が来朝、并わせて金、銀、牛黄、魚牙紬、朝霞紬などを貢献。
九年至十二年、この歳に遣使が来朝、あるいは年に二度来る。
 
 
建中四年,乾運卒,無子,國人立其上相金良相爲王

建中四年(783年)、乾運が死去、子がなく、国人はその上相の金良相を王に立てる。
 
 
貞元元年,授良相檢校太尉、都督雞林州刺史、甯海軍使、新羅王。
仍令戸部郎中蓋持節冊命。
其年,良相卒,立上相敬信爲王,令襲其官爵。
敬信即從兄弟也。
十四年,敬信卒,其子先敬信亡,國人立敬信嫡孫俊邕爲王
十六年,授俊邕開府儀同三司、檢校太尉、新羅王。
令司封郎中、兼御史中丞韋丹持節冊命。
丹至鄆州,聞俊邕卒,其子重興立,詔丹還。

貞元元年(785年)、良相に檢校太尉、都督雞林州刺史、寧海軍使、新羅王を授ける。
なお戸部郎中の蓋塤に持節を以て冊命。
その年、良相が死去、上相の敬信を王に立てる。
その官爵を踏襲させる。
敬信は従兄弟なり。
貞元十四年(798年)、敬信が死去、その子の敬信は先に亡くなっており、国人は敬信の嫡孫の俊邕を王とする。
貞元十六年(800年)、俊邕に開府儀同三司、檢校太尉、新羅王を授ける。
司封郎中、兼御史中丞の韋丹が節を持して冊命。
韋丹は鄆州に到り、俊邕の死去を聞き、その子の重興を立て、詔を宣して丹は帰還。
 
 
永貞元年,詔遣兵部郎中元季方持節冊重興爲王

永貞元年(805年)、詔を以て兵部郎中の元季方に節を持たせて派遣し、重興を王に冊封する。
 
 
元和元年十一月,放宿衛王子金獻忠歸本國,仍加試秘書監。
三年,遣使金力奇來朝。
其年七月,力奇上言:
「貞元十六年,奉詔冊臣故主金俊邕爲新羅王,母申氏爲太妃,妻叔氏爲王妃。
冊使韋丹至中路,知俊邕薨,其冊卻回,在中書省。
今臣還國,伏請授臣以歸。」
敕:
「金俊邕等冊,宜令鴻臚寺於中書省受領,至寺宣授與金力奇,令奉歸國。
仍賜其叔彦升門戟,令本國准例給。」
四年,遣使金陸珍等來朝貢。
五年,王子金憲章來朝貢。
七年,重興卒,立其相金彦升爲王,遣使金昌南等來告哀。
其年七月,授彦升開府儀同三司、檢校太尉、持節大都督雞林州諸軍事,兼持節充甯海軍使、上柱國、新羅國王,彦升妻氏冊爲妃,仍賜其宰相金崇斌等三人戟,亦令本國准例給。
兼命職方員外郎、攝御史中丞崔廷侍節弔祭冊立,以其質子金士信副之。
十一年十一月,其入朝王子金士信等遇惡風,至楚州鹽城縣界,淮南節度使李鄘以聞。
是歳,新羅饑,其衆一百七十人求食於浙東。
十五年十一月,遣使朝貢。

元和元年(806年)十一月、王子の金献忠を宿衛より放ち、本国に帰らせ、なお試秘書監を加授した。
三年(808年)、遣使の金力奇が来朝。
その七月、力奇が上奏「貞元十六年、詔を奉じて故主の金俊邕を新羅王に冊臣、母の申氏を太妃、妻の叔氏を王妃となす。冊使の韋丹は途上で俊邕の薨じるを知り、その冊を中書省に戻した。今、臣は国に帰るを以て、臣に授けることを伏して請い願う」。
勅旨で言う「金俊邕らを冊す、宜しく鴻臚寺(外務省)は中書省に於いて受領せよ、寺に至れば宣しく金力奇に授け、奉じて帰国させよ。なお、その叔の彦昇に門戟を授け、本国の例に準じて給えよ」
四年(809年)、遣使の金陸珍らが来朝し、貢献する。
五年(810年)、王子の金憲章が来朝し、貢献する。
七年(812年)、重興が死去、その相の金彦昇を王に立て、遣使の金昌南らに哀弔を告げる。
その七月、彦昇に開府儀同三司、檢校太尉、持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使、上柱国、新羅国王を授け、彦昇の妻の貞氏を妃に冊す、なお、その宰相の金崇斌ら三人に戟を賜り、また本国の例に準じて給える。
兼命職方員外郎、攝御史中丞の崔廷に持節させて葬祭を冊立し、その質子の金士信をこの副とする。
十一年(816年)十一月、入朝した王子の金士信らが惡風に遭遇、楚州塩城県界に漂着したことを淮南節度使の李鄘が耳にした。
この歳、新羅は飢饉、一百七十人の民が浙東で食を乞う。
十五年(820年)十一月、遣使が朝貢。
 
 
長慶二年十二月,遣使金柱弼朝貢。
寶暦元年,其王子金昕來朝。
太和元年四月,皆遣使朝貢。
五年,金彦升卒,以嗣子金景徽爲開府儀同三司、檢校太尉、使侍節大都督雞林州諸軍事,兼持節充甯海軍使、新羅王;景徽母樸氏爲太妃,妻氏爲妃。
命太子左諭德、兼御史中丞源寂持節弔祭冊立。

長慶二年(822年)十二月、遣使の金柱弼が朝貢。
寶暦元年(825年)、その王子の金昕が来朝。
大和元年(827年)四月、皆が遣使を以て朝貢してきた。
五年(831年)、金彦昇が死去、嗣子の金景徽を開府儀同三司、檢校太尉、使持節大都督雞林州諸軍事、兼持節充寧海軍使、新羅王になす。景徽の母の朴氏を太妃、妻の朴氏を妃となす。太子を左諭德、兼御史中丞源寂持節弔祭に冊立。
 
 
開成元年,王子金義琮來謝恩,兼宿衛。
二年四月,放還,賜物遣之。
五年四月,鴻臚寺奏:新羅國告哀,質子及年滿合歸國學生等共一百五人,並放還。

開成元年(836年)、王子の金義琮が謝恩に来朝し、宿衛を兼ねる。
開成二年(837年)四月、放免して帰国させ、賜物をこれに遣わす。
開成五年(840年)四月、鴻臚寺が上奏。新羅国に告哀あり、質子および年期の満ちた学生ら一百五人と共に、一緒に放還させたい。
 
 
會昌元年七月,敕:
「歸國新羅官、前入新羅宣慰副使、前充兗州都督府司馬、賜緋魚袋金雲卿,可淄州長史。」

会昌元年(841年)七月、勅書で 「歸国する新羅官、前の入新羅宣慰副使、前の充兗州都督府司馬、緋魚袋金雲卿を賜い、淄州長史とすべし」
 
 
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「新唐書」 新羅伝
 
新羅,弁韓苗裔也。
居漢樂浪地,橫千里,縱三千里,東拒長人,東南日本,西百濟,南瀕海,北高麗。
而王居金城,環八里所,衛兵三千人。
謂城爲侵牟羅,邑在内曰喙評,外曰邑勒。
有喙評六,邑勒五十二。

 
 
朝服尚白,好祠山神。
八月望日,大宴齎官吏,射。
其建官,以親屬爲上,其族名第一骨、第二骨以自別
兄弟女、姑、姨、從姊妹,皆聘爲妻。
王族爲第一骨,妻亦其族,生子皆爲第一骨,不娶第二骨女,雖娶,常爲妾媵。
官有宰相、侍中、司農卿、太府令,凡十有七等,第二骨得爲之。
事必與衆議,號「和白」,一人異則罷。
宰相家不絶禄,奴僮三千人,甲兵牛馬豬稱之。

 
 
畜牧海中山,須食乃射。
息谷米於人,償不滿,庸爲奴婢。
王姓金,貴人姓朴,民無氏有名。
食用柳杯若銅、瓦。
元日相慶,是日拜日月神。

 
 
男子褐褲。
婦長襦,見人必跪,則以手據地爲恭。
不粉黛,率美髮以繚首,以珠彩飾之。
男子翦發鬻,冒以黑巾。
市皆婦女貿販。
冬則作灶堂中,夏以食置冰上。
畜無羊,少驢、驘,多馬。
馬雖高大,不善行。

 
 
長人者,人類長三丈,鋸牙鉤爪,黑毛覆身,不火食,噬禽獸,或搏人以食;得婦人,以治衣服。
其國連山數十里,有峽,固以鐵闔,號關門,新羅常屯弩士數千守之

 
 
初,百濟伐高麗,來請救,悉兵往破之,自是相攻不置。
後獲百濟王殺之,滋結怨。
武德四年,王真平遣使者入朝,高祖詔通直散騎侍郎庾文素持節答齎。
後三年,拜柱國,封樂浪郡王、新羅王。

 
 
貞觀五年,獻女樂二。
太宗曰:「比林邑獻鸚鵡,言思郷,丐還,況於人乎?」付使者歸之。
是歳,真平死,無子,立女善德爲王,大臣乙祭柄國。
詔贈真平左光祿大夫,賻物段二百。
九年,遣使者冊善德襲父封,國人號聖祖皇姑。
十七年,爲高麗、百濟所攻,使者來乞師,亦會帝親伐高麗,詔率兵以披虜勢。
善德使兵五萬入高麗南鄙,拔水口城以聞。
二十一年,善德死,贈光祿大夫,而妹真德襲王。
明年,遣子文王及弟伊贊子春秋來朝,拜文王左武衛將軍,春秋特進。
因請改章服,從中國制,内出珍服賜之。
又詣國學觀釋奠、講論,帝賜所制『晉書』。
辭歸,敕三品以上郊餞。

 
 
高宗永徽元年,攻百濟,破之,遣春秋子法敏入朝。
真德織錦爲頌以獻,曰:
「巨唐開洪業,巍巍皇猷昌。
止戈成大定,興文繼百王。
統天崇雨施,治物體含章。
深仁諧日月,撫運邁時康。
幡旗既赫赫,鉦鼓何鍠鍠。
外夷違命者,翦覆被天殃。
淳風凝幽顯,遐邇競呈祥。
四時和玉燭,七耀巡萬方。
維嶽降宰輔,維帝任忠良。
三五成一德,昭我唐家唐。」
帝美其意,擢法敏太府卿。

 
 
五年,真德死,帝爲舉哀,贈開府儀同三司,賜彩段三百,命太常丞張文收持節弔祭,以春秋襲王。
明年,百濟、高麗、靺鞨共伐取其三十城。
使者來請救,帝命蘇定方討之,以春秋爲隅夷道行軍總管,遂平百濟。
龍朔元年,死,法敏襲王。
以其國爲雞林州大都督府,授法敏都督。

 
 
咸亨五年,納高麗叛衆,略百濟地守之。
帝怒,詔削官爵,以其弟右驍衛員外大將軍、臨海郡公仁問爲新羅王,自京師歸國。
劉仁軌雞林道大總管,衛尉卿李弼、右領軍大將軍李謹行副之,發兵窮討。
上元二年二月,仁軌破其衆於七重城,以靺鞨兵浮海略南境,斬獲甚衆。
李謹行爲安東鎮撫大使,屯買肖城,三戰,虜皆北。
法敏遣使入朝謝罪,貢篚相望,仁問乃還,辭王,詔復法敏官爵
然多取百濟地,遂抵高麗南境矣。
九州,州有都督,統郡十或二十,郡有大守,縣有小守。
開耀元年,死,子政明襲王。
遣使者朝,丐唐禮及它文辭,武后賜『吉凶禮』并文詞五十篇。
死,子理洪襲王。
死,弟興光襲王。

 
 
玄宗開元中,數入朝,獻果下馬、朝霞紬、魚牙紬、海豹皮。
又獻二女,帝曰:
「女皆王姑姊妹,違本俗,別所親,朕不忍留。」
厚賜還之。
又遣子弟入太學學經術。
帝間賜興光瑞文錦、五色羅、紫繡紋袍、金銀精器。
興光亦上異狗馬、黄金、美髢諸物。
初,渤海靺鞨掠登州,興光撃走之,帝進興光甯海軍大使,使攻靺鞨。
二十五年死,帝尤悼之,贈太子太保,命邢璹以鴻臚少卿弔祭。
子承慶襲王,詔璹曰:
「新羅號君子國,知『詩』『書』
以卿惇儒,故持節往,宜演經誼,使知大國之盛。」
又以國人善棋,詔率府兵曹參軍楊季鷹爲副。
國高弈皆出其下,於是厚遺使者金寶。
俄冊其妻朴爲妃。
承慶死,詔使者臨吊,以其弟憲英嗣王。
帝在蜀,遣使溯江至成都朝正月。

 
 
大暦初,憲英死,子乾運立,甫丱,遣金隱居入朝待命。
詔倉部郎中歸崇敬往吊,監察御史陸珽、顧愔爲副冊授之,并母金爲太妃。
會其宰相爭權相攻,國大亂,三歳乃定。
於是,歳朝獻。
建中四年死,無子,國人共立宰相金良相嗣。

 
 
貞元元年,遣戸部郎中蓋塤持節命之。
是年死,立良相從父弟敬信襲王。
十四年,死,無子,立嫡孫俊邕。
明年,遣司封郎中韋丹持冊,未至,俊邕死,丹還。
子重興立,永貞元年,詔兵部郎中元季方冊命。
後三年,使者金力奇來謝,且言:
「往歳冊故主俊邕爲主,母申太妃,妻叔妃,而俊邕不幸,冊今留省中,臣請授以歸。」
又爲其宰相金彦升、金仲恭、王之弟蘇金添明丐門戟,詔皆可。
凡再朝貢。
七年死,彦升立,來告喪,命職方員外郎崔廷吊,且命新王,以妻貞爲妃。
長慶、寶暦間,再遣使者來朝,留宿衛。
彦升死,子景徽立。
大和五年,以太子左諭德源寂冊吊如儀。

 
 
開成初,遣子義琮謝,願留衛,見聽,明年遣之。
五年,鴻臚寺籍質子及學生歳滿者一百五人,皆還之。

 
 
張保皋鄭年者,皆善鬥戰,工用槍。
年復能沒海,履其地五十里不噎,角其勇健,保皋不及也。
年以兄呼保皋,保皋以齒,年以藝,常不相下。
自其國皆來爲武甯軍小將
後保皋歸新羅,謁其王曰:
「遍中國以新羅人爲奴婢,願得鎮清海,使賊不得掠人西去。」
清海,海路之要也。
王與保皋萬人守之。
自大和後,海上無鬻新羅人者。
保皋既貴于其國,年饑寒客漣水,一日謂戍主馮元規曰:
「我欲東歸,乞食于張保皋。」
元規曰:
「若與保皋所負何如?奈何取死其手?」
年曰:
「饑寒死,不如兵死快,況死故郷邪!」
年遂去。
至,謁保皋,飲之極歡。
飲未卒,聞大臣殺其王,國亂無主。
保皋分兵五千人與年,持年泣曰:
「非子不能平禍難。」
年至其國,誅反者,立王以報。
王遂召保皋爲相,以年代守清海
會昌後,朝貢不復至。

 
 
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「後漢書」 辰韓・弁辰
 
辰韓,耆老自言秦之亡人,避苦役,适韓國,馬韓割東界地與之。
其名國為,弓為,賊為,行酒為行觞,相呼為有似秦語,故或名之為秦韓
有城柵屋室。
諸小別邑,各有渠帥,大者名臣智,次有儉側,次有樊秖,次有殺奚,次有邑借

辰韓、古老が自ら言うに秦の亡命者で、苦役を避け、韓国に適し、馬韓が東界の地をこれに割譲して興る。
その名詞は国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴、相手を徒と呼ぶのは、秦語に似ていて、故に秦韓という名もある。
城柵、家屋、室(ムロ)がある。
諸々の小さい別の邑は、各々に渠帥がいて、一番上の名は「臣智」、次に「儉側」、次に「樊秖」、次に「殺奚」、次に「邑借」。
 
 
土地肥美,宜五谷。
知蠶桑,作缣布。
乘駕牛馬
嫁娶以礼。
行者讓路。
國出鐵,濊、倭、馬韓并从市之。
凡諸貿易,皆以鐵為貨

土地は肥沃で美しく、五穀の耕作に宜しい。
養蚕を知り、縑布を作る。
牛や馬に乗る。
嫁は婚礼で娶る。
道で行き合えば進路を譲る。
国は鉄を産出し、濊、倭、馬韓は揃って市でこれを求める。
すべての諸々の交易は、皆が鉄を通貨とする。
 
 
俗喜歌舞、飲酒、鼓瑟。
兒生欲令其頭扁,皆押之以石。

俗衆は歌舞を喜び、酒を飲み、鼓を打ち瑟を弾く。
生まれた児の頭を扁平にしたがり、皆が石で頭を押さえる。
 
 
弁辰與辰韓雜居,城郭衣服皆同,語言風俗有異
人形皆長大美髮,衣服潔清。
而刑法厳峻。
其國近倭,故颇有文身者。

弁辰と辰韓は雑居し、城郭と衣服は皆同じで、語言と風俗は異なる。
その人の形は皆身長が高く、髪が美しく、衣服は清潔。
そして刑法は厳峻。
その国は「倭」に近く、故に頗る文身(イレズミ)の者がいる。
 
 
初,朝鮮王衛滿所破,乃將其餘衆數千人走入海,攻馬韓,破之,自立為韓王
准後滅絶,馬韓人復自立為辰王。

初め、朝鮮王の准が衛満の所を破ったので、満の将とその余衆数千人は海に逃走し、馬韓に攻入り、これを破って、自ら韓王に立つ。
准の後裔は滅び絶え、馬韓人は復び自ら辰王に立つ。
 
 
建武二十年,韓人廉斯人苏馬諟等,詣樂浪貢獻。
光武封苏馬諟為漢廉斯邑君,使屬樂浪郡,四時朝謁。
靈帝末,韓、濊并盛,郡縣不能制,百姓苦亂,多流亡入韓者

建武二十年(44年)、韓人で廉斯人の苏馬諟らは、楽浪を詣でて貢物を献上。
光武帝は苏馬諟らを漢の廉斯邑君に封じ、使者は楽浪郡に属し、四歳時に朝謁する。
霊帝の末期(190年頃)、韓と濊が揃って隆盛となり、郡県は制御不能なので、苦乱する百姓の、多くの者が流亡して韓に入る。
 
 
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「三国志・魏書」 辰韓・弁辰

辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。
有城柵。
其言語不與馬韓同,名國爲邦,弓爲弧,賊爲寇,行酒爲行觴。
相呼皆爲徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。
名樂浪人爲阿殘;東方人名我爲,謂樂浪人本其殘餘人。
今有名之爲秦韓者。
始有六國,稍分爲十二國

 
辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。
城柵あり。
言語は馬韓と同じではない。
そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)、皆のことを徒と呼び合い、秦語に相似しているが、燕や斉の名称ではない。
楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。
今はこの国の名称を秦韓とする。
始めには六国あり、十二国に細分化した。
 
 
弁辰十二國,又有諸小別邑,各有渠帥,大者名臣智,其次有險側,次有樊濊,次有殺奚,次有邑借
有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁樂奴國、軍彌國(弁辰軍彌國)弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國弁辰走漕馬國弁辰安邪國(馬延國)、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。
弁、辰韓合二十四國,大國四五千家,小國六七百家,總四五萬戸。
其十二國屬辰王
辰王常用馬韓人作之,世世相繼。
辰王不得自立爲王(魏略曰:明其爲流移之人,故爲馬韓所制)。

弁辰も同じく十二国あり、小さな邑に別れ、それぞれに指導者がいて、一番上は臣智、次は險側、次は樊濊、次は殺奚、次に邑借と呼ばれる。
已柢国、不斯国、勤耆国、難彌離彌凍国、冉奚国、弁楽奴国、軍彌国〈弁軍彌国〉、如湛国、戸路国、州鮮国(馬延国)、斯盧国、優由国、弁辰彌離彌凍国、弁辰接塗国、弁辰古資彌凍国、弁辰古淳是国、弁辰半路国、弁辰彌烏邪馬国、弁辰甘路国、弁辰狗邪国、弁辰走漕馬国、弁辰安邪国(馬延国)、弁辰涜盧国がある。
弁辰、辰韓合わせて二十四国、大きな国は四、五千家、小さな国は六、七百家、総じて四、五万戸。
その十二国は辰王に属している。
辰王は常に馬韓人から選ばれ、代々受け継がれる。
自ら辰王になることはできない。(魏略曰く、明らかに流移の人であるので、馬韓が所を制している。)
 
 
土地肥美,宜種五穀及稻,曉蠶桑,作縑布,乘駕牛馬
嫁娶禮俗,男女有別。
以大鳥羽送死,其意欲使死者飛揚(魏略曰:其國作屋,橫累木爲之,有似牢獄也)。
國出鐵,韓、濊、倭皆從取之。
諸市買皆用鐵,如中國用錢,又以供給二郡。

土地は肥沃で、五穀や稲の種を撒くのに宜しく、養蚕に明るく、しっかりした布を織り、駕籠や牛馬に乗る。
大鳥の羽で死者を送り、その意味は死者の魂が羽を使い飛び立つためである。(魏略曰く、その国の作屋は、橫に木を累ねてつくり、牢獄に似ている。)
国は鉄を産出し、馬韓、濊、倭は皆辰韓に従いこれを受け取る。
諸市の売買は皆鉄を用い、中国で銭を使うが如くであり、また二群(楽浪、帯方)にも鉄を供給している。
 
 
俗喜歌舞飲酒。
有瑟,其形似築,彈之亦有音曲。
兒生,便以石厭其頭,欲其褊。
今辰韓人皆褊頭
男女近倭,亦文身。
便歩戰,兵仗與馬韓同。
其俗,行者相逢,皆住讓路。

風俗は歌舞飲酒を好む。
瑟があり、その形は筑に似て、これを弾き楽曲を奏でる。
子供が生まれると、頭の形を嫌厭し、石を使って扁形したがる。
今では辰韓の人は皆頭が尖っている。
倭の近くの男女は、同じく刺青をしている。
戦は歩兵が主力で、軍備は馬韓と同じ。
その習慣として、道で行き会うと、皆が道を譲りあう。
 
 
弁辰與辰韓雜居,亦有城郭。
衣服居處與辰韓同。
言語法俗相似,祠祭鬼神有異施灶皆在戸西
瀆盧國與倭接界。

弁辰と辰韓は雑居し、同じく城郭がある。
衣服と居処は辰韓と同じ。
言葉と法俗は相似で、祠祭する鬼神には異があり、灶(かまど)はすべて家の西側に施置する。
その瀆盧国は倭と境界を接する。
 
 
十二國亦有王,其人形皆大
衣服絜清,長髮
亦作廣幅細布。
法俗特嚴峻。

十二国に同じく王ありて、その人形は皆大きい。
衣服は清潔で、髪は結わない。
同じく幅の広い細布を作る。
法俗は特に厳格。
 
 
魏 – Wikipedia

 

「晋書」 辰韓
 
辰韓在馬韓之東,自言秦之亡人避役入韓,韓割東界以居之,立城柵,言語有類秦人,由是或謂之爲秦韓
初有六國,後稍分爲十二,又有弁辰,亦十二國,合四五萬戸,各有渠帥,皆屬於辰韓
辰韓常用馬韓人作主,雖世世相承,而不得自立,明其流移之人,故爲馬韓所制也。

辰韓は馬韓の東に在り、自ら言うに苦役を避けて韓に入った秦の亡命者で、韓が東界を割譲したので、ここに居つき、城柵を立て、言語は秦人に似していて、それでこれを秦韓ともいう。
初めは六国、やがて十二国に分かれ、また弁辰があり、おなじく十二国で、合計四~五万戸、各々に渠帥がいて、皆が辰韓に属している。
辰韓は常に馬韓人を用いて主を作るのが、代々の相伝といえ、自立することを得ず、明らかに流移の人ゆえに、馬韓が所を制している。
 
 
地宜五穀,俗饒蠶桑,善作縑布,服牛乘馬
其風俗可類馬韓,兵器亦與之同。
初生子,便以石押其頭使扁
喜舞,善彈瑟,瑟形似築。

土地は五穀の栽培に宜しく、俗衆は養蚕に明るく、善い縑布を作り、牛を働かせ馬に乗る。
その風俗は馬韓に類し、兵器もまたこれと同じ。
初子が生まれると、石を押し付けその頭を扁平にする。
舞いを喜び、善く瑟を弾く、瑟の形は筑に似ている。
 
 
武帝太康元年,其王遣使獻方物。
二年復來朝貢,七年又來。

武帝の太康元年(280年)、その王が使者を遣わせ方物を献上。
二年(281年)に復び来朝して貢ぎ、七年(288年)にまた来る。
 
 
晋 – Wikipedia

 
 時代順に「後漢書」⇒「三国志魏書」⇒「晋書」と辰韓について書き綴られ、その後も途切れずに南北朝時代の「梁書」⇒「隋書」⇒「旧唐書」⇒「新唐書」と、841年まで新羅について書かれています(使いまわしですが…)。

 ちなみに倭と百済の連合軍と唐と新羅の連合軍が戦った「白村江の戦い」は663年の出来事なので該当する部分は「旧唐書」の…
 

(永徽)六年,百濟與高麗、靺鞨率兵侵其北界,攻陷三十餘城,春秋遣使上表求救。
顯慶五年,命左武衛大將軍蘇定方熊津道大總管,統水陸十萬。
仍令春秋嵎夷道行軍總管,與定方討平百濟,俘其王扶餘義慈,獻于闕下。
自是新羅漸有高麗、百濟之地。其界益大,西至於海。

永徽六年(655年)、百済と高句麗は、靺鞨の率いる兵にて新羅の北界を侵し、三十余城が陥落、春秋は使者を遣わせ上表して救助を求める。
顕慶五年(660年)、左武衛大将軍の蘇定方を熊津道大総管を任命、水陸十万の軍勢を統率。
そして春秋を嵎夷道行軍総管に任命し、蘇定方と共に百済を討伐して平定すると、その王の扶餘義慈を捕え、王宮の門前に晒す。
これより新羅は暫く高句麗と百済の地を有し、その領界は益々広大となり、西は海に至る。

 
…の部分ですかね?
 
扶余義慈王 – Wikipedia
 
 資料をから言えることは新羅の前身である辰韓は「亡命者」の国で、自らの王を持たなかったというコト。

 「亡命者」=「流れ者」であるがゆえに弱い立場にあったのかのも知れませんが、別な見方をすれば「悪政」から逃れてきた人たちの心情として「絶対的権力」=「王」による統治を望まず、「馬韓」を「代理王」に据えることで誰の権力も集中しない制度=「象徴王」を選択したというコトも考えられます。

 そうした観点からすると日本の「天皇制」のようでもあり、辰韓(新羅)の風俗に何となく親近感を覚えるワケですが、さすがに…

赤ちゃんの頭を扁平にする風習はちょっと…orz

 長くなるので(じゅうぶん長いw)この続きはまた改めて。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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