織田信長とは何者であったのか?

 日本人なら誰もが知ってる戦国武将で、なおかつその強烈な個性ゆえに、ダントツの存在感=カリスマ性を帯びているのが織田信長。
 


織田信長 – Wikipedia

 
 「一向一揆衆の弾圧」「比叡山焼き討ち」など、「神仏を恐ぬ所業」で知られているワケですが、何が信長をそうした行動に走らせたのか?そこには歴史教科書には書かれていない「大人の事情」があったのではないか?というのも、比叡山などの強大な権力を持つ寺と、私兵とも言える「僧兵」の存在があったからですw。

 「殺生」を禁じる仏教に「僧兵」という戦闘集団はいかにも不釣合い。「仏教」という看板を外してしまえばただの「軍隊」であり、織田信長の「比叡山焼き討ち」もいわば「武力衝突」ではなかったのか?と。
 
比叡山焼き討ち – Wikipedia
 
 織田家のルーツを辿ると、先祖は現在の福井県丹生郡織田町にある織田剣神社の神主だったらしく、同神社はこの地方の豪族「伊部氏(忌部氏)」の氏神で、「伊部氏」はもともと祭祀を司る古代豪族でしたが、神社の神官を勤める一方で製鉄、陶器の生産にも携わっていたとか。
 

織田信長ルーツ、平氏でない?福井・越前町に始祖の墓
 
 福井県越前町教育委員会は1日、同町織田の法楽寺で60年以上前に見つかっていた石造物に記された銘などを調査した結果、信長ら織田氏の始祖とされる「親真」という人物の墓の一部と分かったと発表。
 
 多くの織田氏の系図では親真は平清盛の子孫とされ、信長の出自も平氏との説が根強いが、墓に刻まれた没年と、系図から考えられる親真の生年には100年以上の開きがあることが判明。町教委は「織田氏は平氏ではなく、真のルーツは町ゆかりの忌部氏」と指摘。
 
 五輪塔と呼ばれる墓の一部で、一辺約20センチの立方体だったとみられるが、半分が欠けている。これまで詳しく調べられていなかった。
 
2011/11/01 19:24 【共同通信】

 
 「忌部氏」は「中臣氏」と双璧を成す古代祭祀氏族でしたが、諸事情により衰退し「中臣氏」=「藤原氏」が台頭。

 また、「忌部氏」の本貫地は現在の奈良県橿原市忌部町の辺りとされていますが、国内各地に有力な「忌部氏」が点在し、そのひとつが阿波忌部氏

 「忌部氏」は黒潮に流されて日本に渡来した、中国南部の氏族という説もあって、その足跡と考えられているのが、黒潮沿岸(太平洋側)の四国、紀伊半島、三浦半島、伊豆半島、房総半島などに見られる地名の共通性(阿波=安房)であったり、「忌部氏」が伝えたとされる養蚕にまつわる神社。

 ならば、「忌部氏」も「古平氏」=南方系という話になり、また「平家」は「伊勢平氏」の分家であることから、織田信長と平清盛の間に直接の血の繋がりは無くても、「忌部氏」と目される織田信長が「平氏」を名乗るのは、大きな目で見ればスジが通るワケです。

 平清盛が瀬戸内海の海運を掌握したというのも、瀬戸内の「海賊」を手懐けたというだけではなく、阿波忌部氏の協力もあったかも知れませんし、清盛が宋との貿易に熱心だったのも、「忌部氏」が中国南部(宋)の出身であったなら当然の帰結。宋銭を日本国内で流通させ、日本を大陸化(中華化)したかったのかも知れませんw。
 


宋 (王朝) – Wikipedia

 
 しかし、後白河法皇をはじめ東国の豪族の反発を招き、やがて「壇ノ浦の合戦」(1185年)を迎えて「平家」の世は滅び、残党(落人)の多くは阿波忌部氏の勢力下にある四国に身を潜めた…と。

 で、織田信長に話を戻すと、織田剣神社には770年(平安時代)に鋳造された梵鐘が国宝として所蔵されていて、「梵鐘」はかつて同所にあった神宮寺のもので、中世には織田寺と呼ばれ延暦寺の末寺されて、多くの坊舎があったそうです。
 
神宮寺 – Wikipedia
 
 延暦寺を焼き討ちした織田信長の先祖が延暦寺の末寺と関係があるとしたら、信長の行動にも何か歴史的な因縁がありそう…。ちなみに延暦寺は最澄が開いた寺で、最澄が中国から持ち帰った仏教とは空海の「東密」に対して「台密」と呼ばれる「密教」
 
延暦寺 – Wikipedia
 
 白河天皇(1073 – 1087)が、「思い通りにならないもの」として…

賀茂川の水、双六の賽の目、比叡山の僧兵

…を挙げているように、延暦寺の「僧兵」はそれだけ厄介だったというコト。
 


僧 兵 – Wikipedia

 
 つまり天皇としても比叡山の僧兵は目の上のタンコブのようなもので、そうなると織田信長の行動は…

天皇のため

…というコトにもなりますw。
 
 
参考:
織田信長のルーツ
24.忌部氏考
「忌部氏」とは何者か?-『記・紀』再論16
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!