織田信長の死にまつわるアレコレ

 先日、「世界不思議発見」という番組で「弥助(ヤスケ)」なる織田信長に仕えていた黒人侍従が取り挙げられましたが、その「ヤスケ」が…

イエズス会の回し者だった

…という説があります。
 
弥助 – Wikipedia
 
 曰く、当時は「銀本位制」だった日本から、多くの「金」がイエズス会によって海外に持ち出されていたのを、海外の情勢に聡かった織田信長は「金本位制」に切り替え、「金」の流出を防ごうとした。

 そこでイエズス会はキリシタン大名と通じ、明智光秀を唆して本能寺を急襲し、織田信長を暗殺した…と。
 


織田信長のマネー革命 (ソフトバンク新書)
武田 知弘 (著)

 
 確かこんなカンジの説ですが、真偽の程はナンとも言えませんw。ただ、かなり前にTVで放送されていた「歴史ミステリー」という番組の動画からすると、朝廷を蔑ろにしたので「誅殺」された可能性もありそうです。
 

 
 いずれにせよ解せないのは…

織田信長の亡骸は何処へ?

…という点。

 「暗殺」にしろ「誅殺」にしろ、織田信長を殺すことが目的ならば亡骸を隠す必要があるのか?

 家臣によって持ち去られた可能性もありますが、大切な主君であれば必ずや後世に何がしかの記録を残すハズ。隠したままでそれっきりとは考え難いワケです。

 歴史からその存在を消し去る必要があったかのようでもあり、何か…こう…「大きな陰謀」が存在ような印象を受けます。

 「歴史ミステリー」の動画を見る限りでは、「天皇」の権威を守ろうとする勢力(近衛家)による「陰謀」のようでもあり、後水尾天皇の「位牌」と織田信長の「首塚」が同じ寺にある由縁を検証する必要があります。
 

西山本門寺と織田信長公首塚の云われ

この西山本門寺と信長公との結びつきは、古くから地元では信長公の首塚が本堂奥の大柊のもとに安置されているということが口伝としてあった。 その根拠となったのは第18代・日順上人の内過去帳の旧暦6月2日の『惣見院信長』の記述で、以来、寺では歴代上人の口伝で信長公を供養してきた。 また近年では、昭和54年1月に読売新聞に掲載された宗門研究家・山口稔氏の記事と平成12年1月発行の「歴史街道」で作家の安部龍太郎氏執筆の「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」が紹介され、 信長公の首塚が再びクローズアップされてきた。

昭和54年1月に読売新聞に掲載された宗門研究家・山口稔氏の研究で特筆される事項として、第18代・日順上人(1602~1688)の内過去帳を骨に、日順 — 本因坊算砂 — 信長のかかわりを割り出し、 西山本門寺を舞台にした近世初期の埋もれた歴史を展開している。ここで重要な役割を果たすのが、本能寺の変で信長公と一緒に死んだ原一族が残した「原家記」。原志摩守が混乱の中から父と兄、それに信長公の首を持ち出し、山道伝いに駿河にたどりつき、 富士郡本門寺の本堂裏手に三つの首を埋めたと記されていると説明。この西山本門寺には「信長の首塚」が代々ひそかに言い伝えられ、山口さんは先代貫主日光上人から直接この伝承を確かめるとともに、状況証拠となる過去帳を見つけた。と記述されている。

日順上人は「原家記」を残した原一族の出で、同寺復興のため、朝廷・公家の支持を得て江戸幕府相手に寺格復権の大運動を繰り広げた傑僧。しかも原一族は西山と仏縁があると記載されている。もう一人の人物本因坊算砂(日海)は、 京都寂光寺本因坊の住僧で同寺は京都妙満寺を本山とする日蓮宗什門派の寺。妙満寺は日什上人の開山。その日什上人は富士郡の生まれで、最初富士門徒で修行したが、転じて一派を立て、京都においても富士門徒要法寺とは親しい交渉を持っていた。 その要法寺の広蔵院日辰が弘冶2年(1557)から再三、富士門徒合同のため、「本因坊日秀」を同行、西山を訪れていた。算砂(日海)は日秀の二代目とされ、西山と算砂をつなぐ糸は早くから張られていたと立証している。

また、作家の安部龍太郎氏執筆の「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」の中で、寺伝によれば、本能寺の変当日、信長の供をしていた原志摩守が本因坊算砂の指示によりこの寺に運んで供養したのだという。変の前夜に信長が算砂と鹿塩利賢に囲碁の対局をさせていた ことはよく知られているが、算砂は翌朝まで本能寺に留まり、戦乱に巻き込まれたのだろう。そして信長の死を知り、旧知の原志摩守に首を西山本門寺まで運ぶよう命じたのだ。と説明している。 二人にとってこの寺がなじみ深いものであったことは、算砂が本門寺の境内に本因坊という坊舎を作って住んでいたことや、原志摩守の子、日順を弟子とし、寺の第18代上人としていることからもうかがえる。とも記述している。この日順上人こそ、 常子内親王に働きかけて後水尾天皇夫妻の位牌を安置させた張本人なのである。寺には日順の自筆過去帳があり、それには『天正十年六月、惣見院信長、為明智被誅』と記されている。誅するとは、一般的には上位の者が罪ある者を成敗する場合に用いる言葉である。 日順上人は慶長七年(1602)の生まれだから変の当事者ではないが、師の算砂から事情はつぶさに聞いていたはずである。

上記、山口氏の研究結果と安部龍太郎氏執筆の「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」で、共通点が多く記述されており、古くから本門寺および西山周辺で口伝されていた信長公の首塚が一つの線で結ばれたことが証明された。

 

後水尾天皇 – Wikipedia

 後水尾天皇(ごみずのおてんのう、慶長元年6月4日(1596年6月29日) – 延宝8年8月19日(1680年9月11日))は第108代天皇(在位:慶長16年3月27日(1611年5月9日) – 寛永6年11月8日(1629年12月22日))。諱は政仁(ことひと)。
 
略 歴

 後陽成天皇はかねてから第1皇子・良仁親王(覚深法親王)を廃して、弟宮の八条宮智仁親王を立てる事を望んでいた。だが、関ヶ原の戦いによって新たに権力の座を手に入れた徳川家康もまた皇位継承に介入し、良仁親王の出家(皇位継承からの排除)は認めるものの、これに替わる次期天皇として嫡出男子であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。

 最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、結果的には自己の希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対しても良仁親王と同様に冷淡な態度を取るようになった。

 慶長16年(1611年)3月27日に後陽成天皇から譲位され践祚。4月12日に即位の礼を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、天海や板倉勝重の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。

 
 織田信長の「祟り」を沈めるために「首塚」にヒイラギの木が植えられたとのコトですが、1582年に「本能寺の変」が起きていますから、往時の天皇は先々代の正親町天皇になります。
 

正親町天皇 – Wikipedia

 正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) – 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) – 天正14年11月7日(1586年12月17日))。諱は方仁(みちひと)。
 
即 位

 弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達はすでに貧窮していた。戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった。正親町天皇は、元就に褒美として従五位下・右馬頭という位階を授け、皇室の紋章である菊と桐の模様を毛利家の家紋に付け足すことを許可した。

 さらに、本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。
 
織豊政権との関係

 朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、戦国大名の織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した。

 この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させたその一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた。

 元亀元年(1570年)の朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。その間の天正5年(1577年)には信長の最高位となる右大臣を宣下した。

 豊臣氏へ政権が移った後も、豊臣秀吉は御料地や黄金を献上し、正親町天皇を政権の後ろ楯とした。当時、秀吉は中国・朝鮮や東南アジアへの進出という壮大な野望を抱いていた(文禄の役)。

 明を征服した暁には「叡慮(天皇)」を明に移し、その後の「日本帝位の儀」をはじめとした朝廷人事についても構想していたとされる。この計画は朝鮮出兵での失敗によって頓挫したものの、その後も皇室と織豊政権の相互関係は続き、結果的に皇室の権威は高まった。

 天正14年(1586年)、孫の和仁(かずひと)親王(後陽成天皇)に譲位して仙洞御所に隠退した。文禄2年(1593年)1月5日に崩御した。

 
 織田信長の「誅殺」を企てたのが正親町天皇&近衛家だとするなら、なぜ関係の無い後水尾天皇の位牌が「祟り」を鎮めるために寺に安置されたのか?という疑問が湧くワケですが、その答えの一端が、後水尾天皇と後陽成天皇の生涯にわたる確執に秘められているように思えます。
 

後陽成天皇 – Wikipedia

 後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) – 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) – 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。諱を和仁(かずひと)といい後に周仁(かたひと)と名乗った。
 
略 歴

 後陽成天皇の在位期間は、ちょうど豊臣政権の天下統一と江戸幕府の開始にまたいでおり、前半と後半で天皇に対する扱いが変わっている。豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。天正16年(1588年)に秀吉の演出した天皇の聚楽第行幸は盛大に行われた。

 二十五箇条の覚書によれば文禄の役では秀吉が明を征服した暁には後陽成天皇を明の皇帝として北京に遷し、政仁親王か智仁親王を日本の天皇にしようとした。

 秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させている。

 慶長8年(1603年)に、徳川家康は征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開く。朝廷権威の抑制をはかる幕府は干渉を強め、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となった。慶長14年(1609年)に宮中女官の密通事件(猪熊事件)では、幕府の京都所司代に厳罰を要請している。

 これに先立って後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を皇位継承者とした。ところが秀吉が死ぬとこれを嫌って弟宮である八条宮智仁親王への譲位を望むが、廷臣や家康に反対される。

 関ヶ原の戦い後、後陽成天皇は家康の了承を得て良仁親王を強引に仁和寺で出家させて第3皇子・政仁親王を立てる

 慶長16年、政仁親王(後水尾天皇)に譲位して、仙洞御所へ退く。だが、後水尾天皇とも上手く行かず、父子の間は長く不和であり続けたと伝えられている。元和3年(1617年)に崩御、宝算47歳。

 
 ここまでで言えることは、信長と秀吉の朝廷に対する路線には大きな変化は無いというコト。もし豊臣秀吉が主君信長の暗殺の黒幕だとしたら、おそらく朝廷に対する態度も変わるだろうし、なおかつ「権力」を速やかに掌握するのに、信長の亡骸を隠すのは逆効果です。

 明智光秀は織田信長の「首印」を挙げられなかったが故に、下克上(反逆行為)を正当化する機会を失い、大急ぎで引き返してきた秀吉軍に討たれてしまうワケですが、そうなると秀吉が信長の「誅殺」に加担していたとも考えられず、可能性のひとつとして…

誰かが時間稼ぎのために亡骸を隠した

…が考えられます。

 つまり明智光秀は誰かに嵌められたのであって、謀反を起こした光秀を討つ予定だった第三者がいたのに、秀吉が予想外の速さで中国地方から戻ったので計画が狂ってしまい、光秀を討ち取った後に信長の亡骸を見つけ出す段取りだったのが、時を逸していまさら出せなくなってしまったのでは?

 また、信長の家臣が亡骸を隠したのであれば、秀吉が光秀を討ち取った後に亡骸を丁重に弔うハズ。

信長の亡骸を隠した者が信長暗殺の首謀者

…としか考えられず…

それは誰なのか?
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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