わずか3年で崩れた汎アラブ主義の夢

 もwずいぶん前に引用させていただいた「消滅した国々」さんのトコロから、再度シリアとエジプトに関するページを転載させて頂きますw。できるだけ「オリジナル」に忠実に転載させて頂きますのでご容赦を…orz。

 あと、本の宣伝をさせて頂きますので、ここはひとつ「バーター」ということで?
 


『消滅した国々』
吉田 一郎 (著)

 


アラブ連合共和国
首都:カイロ 人口 : 2900万人(1959年末)

 
その後いろんな経緯があって、この旗は現在シリアが国旗として採用し、「本家」のエジプトはこっちの旗に変わりました

1958年2月22日
 エジプトとシリアが合併し、アラブ連合共和国が成立。首都はカイロ

1958年3月
 アラブ連邦共和国とイエメン王国(北イエメン)が、アラブ連合を結成

1961年9月28日
 シリアがクーデターにより独立

1961年12月
 アラブ連合が解散

1971年9月11日
 アラブ連合共和国がエジプト・アラブ共和国に改称

アラブの反米勢力といえば、今でこそイスラム原理主義だが、かつてだったら汎アラブ主義(ナセル主義)。前者が「イスラムの大義」を掲げる宗教イデオロギーなのに対して、後者は「アラブの大義」を掲げたナショナリズムだ。

エジプトのナセル大統領はインドのネールやインドネシアのスカルノと並んで、50年代には第三世界のヒーローだった。彼は52年の自由将校団によるクーデターを経て54年に政権を握ると、ナイル川にアスワン・ハイ・ダムを建設して砂漠を農地に変えようと計画したが、ナセルの中立外交に反発したアメリカやイギリスはダム建設の援助を破棄。するとナセルは56年、植民地時代から英仏資本の会社が運営していたスエズ運河を国有化して、その通行料収入で建設費を賄おうとした。驚いた英仏両国はエジプトに侵攻するが、いかにも時代遅れな植民地主義丸出しのこの出兵は国際世論の大反発を受け、英仏両軍はほどなくエジプトから撤退。このスエズ動乱でアラブにおけるナセルの名声は不動のものとなり、ダムもソ連の援助を受けて完成させた。

そんなナセルに急接近したのがシリア。シリアでは46年の独立以来、クーデターの繰り返しで政情不安定が続いていたが、やがて汎アラブ主義と国家社会主義を掲げるバース党(アラブ復興社会主義党)が権力を握っていった。そして「スエズ動乱」を契機に、シリアはナセルの下でエジプトと統合することを決め、58年にアラブ連合共和国を結成する。「アラブ連合」という国名にしたのは、やがてアラブ諸国が次々と合流して、アラブ統一が実現することを期待したから。バース党が合併の道を選んだのは、当時シリアで勢力を伸ばしていた共産党や、イギリスと結びつこうとした右派に対抗するために、アラブ・ナショナリズムを高揚させて民衆の支持を集めようとしたからだった。

 

エジプトとシリアの合併調印式 (1958年)

 

こうしてエジプトはエジプト州、シリアはシリア州になったが、実際には中央政府はエジプト側に握られ、シリアはエジプトの飛び地になったようなものだった。政府や軍の幹部でシリア出身者が更迭され、エジプト人の登用が増えるとシリア州では反ナセルの声が高まり、ついにクーデターが発生してアラブ連合共和国からの離脱を宣言。統一アラブを掲げた新国家はわずか3年で破局を迎えた。

エジプトは国土の大半を砂漠が占めるが、シリアは穀物輸出をしている農業国で商業も盛んと、経済状況はまるで違った。シリアのほうが断然豊かなのに、政治的にはエジプトの支配下に置かれてしまったのだ。今はアラブ人だといっても、歴史を遡ればエジプト文明の国とメソポタミア文明の国。一時の政治的熱狂で合併しちゃっても、もとからうまく行くわけなかったですね…と思いきや、ナセルは1963年4月に再びエジプトシリア、さらにバース党が政権を握ったイラクも加えて「アラブ連合共和国連邦」の結成を宣言する。もっともこの時はシリアとイラクのバース党同士が手を結び、主導権をエジプトに渡すまいとしたので、正式発足する前にナセルは結成を取り消した

 

シリアの分離独立 (1961年)

 

ちなみに58年のアラブ連合には北イエメンも加わっていた。ただしアラブ連合共和国には加わらなかった…どういうことかというと、アラブ連合共和国(エジプト+シリア)とイエメン王国(北イエメン)という2つの主権国家で、国家連合の「アラブ連合」を結成したということ。ちょっとヤヤコシイですね。

北イエメンがアラブ連合に加わったのは、当時イギリス植民地だった英領アデン(後に南イエメン=イエメン人民民主共和国として独立)を併合しようと英軍に攻撃を仕掛けていたからで、北イエメンはアラブ連合に加盟すると、すぐに武力支援を求めている。しかしナセルが北イエメンに兵を送ったのは、アラブ連合が破綻した後の62年のこと。北イエメンでクーデターによって王制が倒れ、ナセル主義を掲げる「イエメン・アラブ共和国」が誕生したが、国王派がゲリラとなって内戦になったからだ。北イエメンの内戦は泥沼化し、王制打倒を支援したナセルは王制を維持するアラブ諸国を敵にまわすことになった。

 

その後、エジプトはひとりで「アラブ連合」を名乗りつづけていたが、70年に死去したナセルを引き継いだサダト大統領は、翌年今度はエジプトと再びシリア、そしてリビアとも組んで「アラブ共和国連邦」を成立させる。加盟3カ国は国旗を統一し、国名を「X X X ・アラブ共和国」で揃えたので、エジプトも「エジプト・アラブ共和国」に改称した。この連邦はイスラエル包囲網を結成するために作ったもので、軍事や経済、外交の実権は各国に残したままだった。73年にエジプトとシリアは、第三次中東戦争(67年)でイスラエルに奪われた領土(シナイ半島とゴラン高原)を奪還すべくイスラエルに奇襲を仕掛けるが、緒戦はうまくいったものの失敗し、アラブ共和国連邦は77年にリビアとエジプトが対立して消滅した。

「アラブ統一」を掲げ続けることに疲れたエジプトは、78年にイスラエルと和平協定を結んでシナイ半島を返してもらうが、アラブ諸国から大ひんしゅくをかうことになり、サダト大統領は暗殺されてしまう。一方シリアのバース党政権は汎アラブ主義から大シリア主義に転換して、レバノン内戦やパレスチナ紛争に積極介入した。そしてイラクのバース党政権はといえば、サダム・フセイン大統領を最高指導者に仰ぐ「大フセイン主義」になった。もっとも、フセイン大統領はクウェートを併合しようとしたり、イスラエルにミサイル打ち込んだりしたけど、これも汎アラブ主義のつもりだったのか?

 
 
 
 

歴史ナメんなよ!

でわっ!