織田信長の死にまつわるアレコレ 2

 久しぶりに織田信長の死にまつわるアレコレについて書きます。というのも最近、千利休が「本能寺の変」に深く関わっているのではないか?という思いが、ワタシの中にムクムク湧いてきたからですw。この件を追うと、「白足袋族」と呼ばれる京都の裏の支配層の一団にも辿り付くのではないか?…と。

 千利休といえば茶道の開祖のように思われていますが、そもそも茶道とは何かを歴史的に紐解くと、茶を嗜む=喫茶の始まりは、中国の伝説上の聖人(三皇五帝)のひとり、神農大帝に遡ります。

 神農大帝は皮膚が透明で内臓が透けて見え、あらゆる毒物を摂取して影響が現れる臓器を特定することができたと伝えられ、それに応じて解毒薬草を発見したところから、医学の神様として拝められています。

 そうした薬草の一つとして「茶」があることが「神農本草経」に記されていて、本来は薬もしくは滋養強壮剤として認識され、唐の時代になって広く一般大衆にも飲まれるようになり、遣唐使の多くが唐から茶を持ち帰り、最澄、空海もそのなかに含まれます。

 茶道(茶の湯)の原型?とされるのは、鎌倉時代の僧、栄西(臨済宗開祖)が宋より伝えた「抹茶法」であるとされています。ただし「抹茶法」にしても医療用途の域は出ていないようで、鎌倉幕府三代将軍・源実朝の二日酔いの解消のために茶を進め、ついでに「喫茶養生記」なる書物を献上したそうです。

 鎌倉時代には禅宗も興りましたが、茶は座禅中の眠気覚ましの飲み物とされ、禅僧に愛飲されたことが禅と茶道の繋がりであるというのも興味深い事実です。つまり「茶道の精神性が云々」などというのは後から取って付けた屁理屈であり、現代でいえば受験生が眠気覚ましにコーヒーを飲むのと変わりませんw。

 ちなみに栄西が創建した鎌倉の建仁寺では、毎年4月20日に栄西の誕生を祝する法要で「四頭(よつがしら)茶会」と呼ばれる茶会が開かれるそうです。こうした茶会の儀式(喫茶儀礼)を臨済宗では茶礼といい、曹洞宗では行茶と呼ぶそうです。

 鎌倉幕府が倒され室町時代に移行すると、「闘茶」という遊びが流行します。これは京都・栂尾(とがのお)産の茶を「本」とし、それ以外の産地の茶を「非」として飲み比べをするもので、この遊びから現代に繋がる「茶道」が始まったとされ、金閣寺、銀閣寺なども、こうした茶会のための「茶亭」であったと考えられています。「闘茶」は今日まで伝えられ、千家七事式のひとつに数えられています。

 「茶」が遊びとして定着した室町時代、足利幕府は「同朋衆」という人たちを抱えていました。「同朋衆」とは将軍、大名の侍従で、殿中の雑役や諸芸に従事し、「阿弥」という「時宗(時衆)」の信徒に許された号を用い、猿楽担当の音阿弥、造園担当の善阿弥、外来文化担当の能阿弥、芸阿弥、相阿弥、香・茶担当の千阿弥、生け花担当の立阿弥がありました。
 
時宗 – Wikipedia
 
 千利休の生家は堺の魚屋であるとされていますが、曾お爺ちゃんの代は足利幕府に使えた「同朋衆」であり、ただの「魚屋のせがれ」ではありません。それを示しているのが「千阿弥」から取った「千」の一字で、本人も「同朋衆」の血筋であることを自負していたのでしょう。

 足利幕府がなぜ「同朋衆(時宗信徒)」を雇用したのか明らかではありませんが、彼らの信仰形態は「浄土信仰」で、すなわち「現世」よりも「来世」に価値を置き、「現世」を「幽玄」と考える「能」にその思想が反映されていると言えます。

 「浄土信仰」は極論すれば「敗者の信仰」と言え、「現世」を捨てているというコトは支配者にとって支配に好都合である反面、一旦反旗を翻せば死を恐れないやっかいな存在でもあります。

 そこで足利幕府は、「浄土宗徒」=「時衆」を手懐けるために「同朋衆」として身辺に置いたのではないか?

 さらに言えば、「現世」に失望している被差別民の多くが「浄土信仰」に救いを求め、したがって「同朋衆」の「同朋」とは、同じ被差別民であることを指していると考えられます。

 足利幕府三代将軍義満は当時の「明」に朝貢し、「日本国王源道義」の号を与えられ勘合貿易に勤しんだワケですが、そうした状況下で「同朋衆」も文化面で飛躍したのではないか?…というのがワタシの推測です。
 
足利義満 – 世界史の窓
 
 で、足利幕府がグチャグチャになり、京の都が荒廃したので商人たちは堺に避難するワケですが、そうした商人の一団の中に「同朋衆」も含まれ、千利休の生家もそのひとつであったと考えられます。

 その後、室町幕府がほぼ崩壊した状況下でも、明との貿易を「同朋衆」などが取り仕切ったことで堺の町に富が集中し、足利義昭を奉じて上洛した織田信長が「矢銭(戦費)」を出せと堺にカチ込むのも、足利幕府に世話になった「同朋衆」なワケですから?ま、当然の流れと言えますw。
 


織田信長坐像

 


織田信長肖像

 
 上の坐像は、秀吉が信長公の葬儀を執り行う際、発見できない亡骸の代わりに彫らせた二体の木像の片割れで(一体は火葬)、多くの武将が参列する葬儀に代用されたものですから、信長公の実際の外見にほぼ近いと考えられます。でないと、非難、苦情によって秀吉の立場が危うくなりますw。

 下の肖像画は教科書でお馴染み?ですが、比較してみると…ワタシには「鼻の特徴」が似ているように見えるのですが?
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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