「凡庸な悪」 について

「本当の悪は平凡な人間の行う悪です。」

…とハンナ・アレントは学生に説いたそうですが、平凡な人間の誰しもがそうした「悪の芽」を持っているのか?となると、結論からすれば「YES」です。
 

 
 何度も引用している伊丹万作氏の「戦争責任者の問題」の中の一節に…
 

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
 

 
…とあるように、「平凡な人間」の協力があったからこそ、日本は敗戦に至るまで「戦争」を継続することができたということは…

戦争は「凡庸な悪」の集大成である

…と言え、このことを東京都議会議員の小松久子氏も危惧しているワケです。
 

本当の悪は平凡な人間の凡庸な悪 「ハンナ・アーレント」 の哲学
東京都議会議員 小松久子

特定秘密保護法そのものは巨大な悪という感じがしますが施行するのは人。ここにも 「凡庸な悪」 がたくさん、空気のようにそこらじゅうを満たす予感がします。…

 

 
 そして伊丹万作氏は次のように続けます。
 

 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
 

 
 つまり「平凡な人間の悪」は、社会状況によって生じるものでもあるというコト。
 

 
 で、「ほとんど全部の国民が、相互にだまし合わなければ生きて行けない」という戦時中の状況は、現代人からすると「愚かな状況」に見えるワケですが…

「愚かさ」と「悪」は同質なのだろうか?

…という疑問が…。

 「月がとっても青いから」 という懐メロの歌謡曲があります。夜道をワザワザ遠回りして帰るなんて合理的に考えれば「愚かな行為」なのに、人間には合理性では割り切れない「愚かさ」=「遊び心」があり、この「遊び心」が「文化」を育んできたことも、また事実。
 

 
 こうした「遊び心」=「愚かさ」も「人間性」のひとつであり、ロボットは「遊び心」なんて持ち合わせませんし、いくら「AI(人工知能)」が進化しようと「遊び心」を組み込むことは「不可能」です(たぶん)。

 「遊び心」は「愚かさ」でもあり、もしそれが「凡庸な悪」の「芽」になるのなら…

人間は根源的に「悪の芽」を持つ

…ことになるワケで、この「悪の芽」を自覚しないことには人間の愚行=「凡庸な悪」の繰り返しは終わらないという理屈になります。

 で、ハンナ・アレントの説く「本当の悪は平凡な人間の行う悪です。」に戻ると一番の問題点は…

当事者に「悪」の「自覚」が欠如している

…という点で、アイヒマンにしても、亀田元裁判長にしても、戦時中の日本人にしても、「イジメ」にしても、「社会通念(常識)」の内に存在する「凡庸な悪」は「凡庸さ」=「平凡さ」が社会通念から導かれる以上、その外側=「別な社会通念」からでないと認識されず、したがって「凡庸な悪」を「一個人特有のもの」と決めてかかるのも性急に思えます。

 人間が「愚か」な存在だとしても…

愚か故に「人間」である

…のであって、大切なのは「愚かさ」が「遊び心」として「文化」を創造することであり、「社会通念」や「周りの空気」に盲従して「無自覚な悪」を生み出さないよう警戒することだと思うワケです。
 

 
 「社会通念」≒「合意」が無ければ社会を維持することも儘ならず、したがってどのような社会的合意を築くか?ということに各人が無関心のままでは、せっかく人間として持って生まれた「遊び心」も、「凡庸な悪」を生み出す「凶器」に変わるのだという話。

 そこで!ワタシたち日本国民が目指す社会(合意)の姿は…

日本国憲法に則った社会にある!

…ということを、繰り返し述べている次第ですw。
 

【宮内庁】皇后陛下お誕生日に際し(平成25年)
 


皇后陛下お誕生日に際してのご近影

 
 「5月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた「五日市憲法草案」のことをしきりに思い出しておりました。

 明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。

 当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や,自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。」

 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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