本能寺は変

 世にいう「本能寺の変」には奇妙な点が多く、「本能寺の変」というよりは…

「本能寺は変」

…といったカンジですw。
 
本能寺の変 – Wikipedia
 
 先ず兵力に圧倒的な差があり、信長の手勢が約100人なのに対し光秀勢は1万人以上!そして嫡男の信忠は既に家督を継いでおり、信長を討てば織田家に弓を引く=信忠にも反旗を翻すことになるのに、光秀は信忠を脇に置きすべての兵を本能寺に向かわせたことになっています。
 


妙覚寺旧在所

 
 オカシイですよね?時を同じく信忠は本能寺からさほど遠くない妙覚寺に滞在しており、光秀にしてみれば軍勢を二手に分けて一気に仕掛けるのがセオリーのハズ。

 本能寺から妙覚寺までは直線距離にして約1kmしかなく、本能寺で大規模な戦闘が起これば昼間でもその騒ぎが聞こえそうな距離で、まして草木も寝静まった早朝であれば、なおのこと「謀反」の気配を悟られないために手勢を二手に分け一気に「奇襲」を仕掛けないと、中途半端な「クーデター」で終わってしまいますw。
 

妙覚寺 (上京区)
 
◆ 斎藤道三

 戦国時代の武将・斎藤道三(1494/1504-1556)。山城に生まれた。大山崎の油商人とも、長井豊後守利隆の嫡子であるともいう。

 1534年、美濃守護土岐氏の家臣・長井景弘を討ち、1537年頃、守護代斎藤氏の名跡をつぐ。1542年、土岐頼芸から美濃を奪取した。1548年娘の濃姫を織田信長の妻とする。家督争いから、1556年、道三愛妾の子・斎藤義竜と戦い長良川河畔で敗死した。

 道三は青年期に妙覚寺で修行し、学匠・常光院日諦に帰依したという。道三の子・観照院日饒はその関係から妙覚寺19世貫首に就く。1556年4月19日、長良川での戦いの前日、死を覚悟した道三は、日饒に遺言状「斎藤道三公遺言状」を送っている。

 
 圧倒的な兵力の違いで信長を「瞬殺」し、スグさま妙覚寺に取って返すのならまだしも、信忠に出陣の仕度の時間を与えてしまうほど本能寺攻略に手こずっているワケです。

 で、さらに奇妙なのは(恥ずかしながらはじめて知ったのですが)…

織田信忠の遺体も発見されていない!

…というコトで、「本能寺の変」の当事である信長、光秀、信忠の三人が歴史上から忽然と姿を消すという、摩訶不思議な結末で終わっているワケですw。
 
織田信忠 – Wikipedia
 
 フツーに考えると「何かオカシイ」ですよね?現代風にいえば「未解決事件」であり、「迷宮入り事件」です。

 父の信長が偉大だったので織田信忠は過小評価…というかほとんど話題に上りませんが、父ほどではないにしろ信忠の「器量」も侮り難く、それ故に信長共々暗殺されてしまったのか?
 

織田信忠の見た風景

…信長が15代将軍足利義昭のために造営した旧二条城(二条御所、二条新第、武家御城)と、本能寺の変において織田信忠が自刃した二条新造御所(誠仁親王御所)は別のものです。ガイドブックや書籍、研究者の中でも、混同されていますのでご注意ください。…

 
 「暗殺」されたかどうかはアレとしても「遺体無き殺人事件」には違いなく、「遺体」が見つからない方が都合がイイ輩たちが暗躍したように思え、そしてそれは「武士」とは違う類の勢力だろうと。

 武士にとって戦闘で敵の大将の「首印」を挙げることは「名誉」であり、その後の褒章の根拠(正当性)を裏付ける「証拠」にもなるワケです。

 そうした「武門の倣い」をウヤムヤにしたまま決着させたのが「本能寺の変」であり、この事件?を解明することで中世史が大きく変わるかも知れませんし、さらに言えば「本能寺の変」を計画・実行した「陰の勢力」は、現代日本にも影響を及ぼし続けているかも知れませんw。

例えば金融支配とか?

 ま、それは「妄想」に過ぎないにしても、ワタシには例の「旗印」の件もあってミョwに引っ掛かるワケです。なので本能寺の件は今後も多角的に再検証する必要がありそうですw。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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