ちょっと気になる矢田寺

 奈良法隆寺のスグ北側に「矢田寺」というお寺があり、「あじさい寺」と呼ばれ広く親しまれているそうです。
 


矢田寺

 
 で、この寺は天武天皇が「壬申の乱」の戦勝を祈願するのに矢田山に上り、事が成就したことに感謝して天皇即位後の白鳳4年(675年)、智通僧正に勅して創建したのがはじまりとされています。
 
壬申の乱 – Wikipedia
 
 ところで「九州王朝倭国説」でいわれる九州年代によると、684年の白鳳大地震(筑紫大地震)まで「倭国天皇家」は九州筑紫の地に在ったことになっていて、矢田寺の縁起とは時代がズレます。
 
九州王朝 「倭国」 HP
 
 ワタシは九州王朝の存在を支持する立場なので、矢田寺の縁起の方に疑問を感じるワケですが、当該の縁起にしても矢田寺には存在せず他の寺の伝承に基づくのだとか。
 
白鳳地震 – Wikipedia
 
 ワタシが気になっているのは「矢田寺と新羅の繋がり」で、時系列の不整合はひとまず脇に置き「矢田寺と新羅」の関係…ひいては天武天皇と新羅の関係を考えます。というのも寺を開いた智通僧正は新羅の船で唐に渡った僧侶だからですw。
 
法相宗 – Wikipedia
 
 智通僧正は「法相宗」の僧侶で、「法相宗」はザックリ言うと「仏教の原型」であり「西遊記」で有名な「三蔵法師」の弟子となった日本人僧侶、「道昭」がその開祖です。また、道昭の弟子の智通僧正も三蔵法師に師事したとか?そして天武天皇は「法相宗」を庇護していたように伺えます。
 
道 昭 – Wikipedia
 
 で、「天武天皇と新羅の関係」ですが、「壬申の乱」の発端は「白村江の戦い」で倭・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れ、国を追われて「倭国」に亡命した「百済の王族」を朝廷内の重要なポストに置き、そのことが旧来の氏族の不満を煽ったのと、戦勝国の「唐」と「新羅」が政治介入した影響もあったのではないかと?

GHQが「公職追放」を行ったように、戦犯?である百済王族が朝廷内に居座っていては「唐」と「新羅」の干渉を招き、ひいては「直接支配」となる危険性を考え「朝廷の刷新」=「壬申の乱」が起きた可能性も否めません。

 天武天皇(大海人皇子)は何故矢田山に上ったのか?…もちろん戦勝祈願のためですが、「山にいる何者か」に会いに行ったことも考えられます。その「何者か」に加勢を頼み、それが得られたからこそ「壬申の乱」を成し得た…と?では「山にいる何者か」とは?

 話は逸れますが、熊野の山の「カラス天狗」は別名「八咫烏」とも呼ばれ、神武天皇の東征を助けます。
 
八咫烏 – Wikipedia
 
 実は「八咫烏」はもともと「矢田烏」だったという説もあり、これに従うなら…

天武天皇は「矢田烏」に会うため矢田山に上った

…という見方もでき、神武天皇の場合と同じく天武天皇も「ヤタガラス」の助力を得たという話になります。

 「壬申の乱」に話を戻すと、百済系王朝に対してクーデターを企てるというコトは、非百済系=新羅系、高句麗系および旧来の縄文系がクーデターに参加したと考えられ、ジッサイ伊勢神宮と深い係わりのある美濃の古豪族、多品治は縄文系の古豪族。
 
【BUSHOO!JAPAN】 日本人の1%しか知らない伊勢神宮7つの秘密
 
 「Wikipedia」によれば天武天皇は旧来の文化の保護にも尽力したとのコト。
 
天武天皇 – Wikipedia
 
 土着の太陽神信仰だった伊勢神宮を天照神と習合したのが現在の伊勢神宮であり、それ故か天武天皇以降は明治になるまで見向きもされなかったと?

 話が度々逸れてアレですが、「壬申の乱(672年)」は「白村江の戦い(663年)」の敗戦の9年後の出来事になり、その間も唐は筑紫にGHQ=都督府を置き669年には二千人もの軍隊を派遣しています。『日本書紀第二十七巻』
 
白村江の戦い – Wikipedia
 
 「壬申の乱」の年(天智天皇の崩御の年)、唐のマッカーサー=郭務悰は筑紫の都督府に滞在していて、「権力の空白」を突いて唐が一気に朝廷を乗っ取ることもできたのに、何故か?郭務悰は早々に帰国してしまいます。『日本書紀第二十八巻』

 おそらくかつての同盟国の新羅との戦いが激化し、朝鮮半島に援軍に向かう必要が生じたと思われ、唐と新羅の仲間割れ?で日本は最悪の状況を免れたのかも知れません。
 
唐・新羅戦争 – Wikipedia
 
 とはいっても朝鮮半島のイザコザが収まれば唐は再び戻ってくるハズなので、唐が不在の間に日本国内の体制の建て直しが求められるワケです。それには政治介入の口実を与えないために百済王族の公職追放を行なうしかなく、クーデターによる政権転覆という選択に至ったというのがワタシの推理です。そして…

クーデターを決行させたのは誰か?

…という線で浮かび上がって来るのが新羅の存在です。

 「白村江の戦い」の後に新羅も日本に干渉したハズですが、新羅は基本的に唐を信頼せず、もし日本が唐の前線基地と化せば陸と海の両方から唐に攻められるようになり、安全保障上の危機を感じていたハズ。

 「高句麗攻め」で同盟した唐に何度も裏切られた経緯もあり、日本が唐の支配下に置かれるよりは日本と同盟を結んだ方が安全保障の面で有益と考え、まずはクーデターにより百済人高級官僚を追放して親新羅政権に刷新し、後顧の憂いを断った上で朝鮮半島で唐との決戦に備える方針を立て、そこで白羽の矢を立てたのが天武天皇ではなかったかのか?

 矢田寺に話を戻すと空海とも縁のある寺らしく、空海は天武天皇よりずっと後の時代の人ですが、一説には空海は佐伯氏の出自=新羅系だということで、矢田寺と新羅との関係が見えてくるワケです。
 

空海寺
奈良の寺社 2006年1月20日 (金)
 

 
 空海が草庵にしていたとき「いろは仮名」を作ったとも伝えられる場所です

 (華厳宗東大寺末) 五竹山「空海寺」です

 60年に一度しか公開されないという地蔵菩薩石像(本尊)は俗に「穴地蔵」と呼ばれています

 昭和48年に再建された新しい本堂の前に地蔵十王石仏が立っています

 これは矢田寺金剛寺にあった矢田地蔵で、大きな光背に十王、閻魔閻羅、地獄の審判官などを従えています

 山門前に平城宮跡復元に尽力した棚田嘉十郎の墓が建てられています

 
 「矢田」は「八幡」の書き替えではないか?「八幡」の神は新羅からの外来神といわれ天武天皇が矢田の山に上ったという伝承は…

「壬申の乱」を新羅と共に計った

…と解釈することも可能です。
 
宇佐八幡神は新羅の神だった
 
 「白村江の戦い」に敗れた天智天皇でさえ戦後に遣唐使を派遣しているのに、天武天皇の在位中は一度も遣唐使の派遣がなかったのは、同盟を結んだ?新羅を憚って…とも考えられますw。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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