織田信長とは何者であったのか? 3

 織田信長の出自に興味を持ち、信長について書き始めたのがかれこれ一年ほど前で、当初は織田家の血筋は、古代氏族の「忌部氏」に連なるものと思っていましたが…。
 

織田信長ルーツ、平氏でない?福井・越前町に始祖の墓

 福井県越前町教育委員会は1日、同町織田の法楽寺で60年以上前に見つかっていた石造物に記された銘などを調査した結果、信長ら織田氏の始祖とされる「親真」という人物の墓の一部と分かったと発表。

 多くの織田氏の系図では親真は平清盛の子孫とされ、信長の出自も平氏との説が根強いが、墓に刻まれた没年と、系図から考えられる親真の生年には100年以上の開きがあることが判明。町教委は「織田氏は平氏ではなく、真のルーツは町ゆかりの忌部氏」と指摘。

 五輪塔と呼ばれる墓の一部で、一辺約20センチの立方体だったとみられるが、半分が欠けている。これまで詳しく調べられていなかった。

2011/11/01 19:24 【共同通信】

 
 一方、八切止夫氏によると織田信長の「織田」は賜姓であり、旧姓は「八田」だというので「Wiki」を参照すると…
 

織田信長 – Wikipedia

…信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。…

 
…というコトで、「主家」から「織田」の姓を下賜され「分家」したとも受け取れます。
 

八切止夫作品集 (1060) 古代史入門 12

― 近江の八田別所の出身で平氏であるから原住系であるとお書きになってる。あれはどういうことですか。普通われわれは越前の織田庄の出身だというふうに、普通の本には書いてありますけども。くい違っています。
 
 それは勝手に書いているので「上織田」と、斯波家に仕えていた前からの織田が本家です。信長の方は父信秀も勝幡城の城番に登用された時は八田信秀で、織田姓になったのは賜姓です。八田というのは弁天涯の、あの一帯をいまでもあのへんに住んでる人のことをヤッタモンっていうんです。安土城を作った弁天涯の絶壁八田なんです。越前から出るわけはなく下織田とよばれた信長は近江です。だから後に、信長が殺された後は、あそこの連中たちは追われて、近江乞食っていわれるんです。

(後略)

 
 「弾正」というのは被差別民に任じられる役職なので、したがって「下織田(八田)家」は先住民系(「赤」「白」の民)であり、福井県の「忌部氏」と繋がるのは「清洲織田家」だというのが八切氏の説。
 

八切止夫作品集 (1091) 論考・八切史観 3

 これは唐から輸入された制度で天智帝の時に始まり、大宝令で法文化された延暦11年(792)に「弾正例八十三条」という当時の刑事訴訟法が発布されたが、公家は、「兵になる事を嫌った」ごとく、「ただす役割」もまた嫌って、これを原住系に押しつけた。「千金の子は盗賊に死せず」の精神なのである。だから、よく映画や芝居で「おのれ、不浄役人め」とか「不浄な縄目にかかるものか」と軽蔑した言葉が出てくるのは、つまり俘囚の子孫が役人だった事に起因している。

 だからして公家が織田信長の父信忠に「御所に献金したのは奇特である」と「弾正忠」の官名をやったりしているのも、織田家というのは実は近江八田別所、昔の捕虜収容所の血統だからである。

 しかし、尾張の織田家を弾正にしたところで、京へ来て「御用、御用」と召し捕りをやるわけではないから、その後は有名無実になってしまったが、明治2年5月に新政府はこれを復興。同7月に弾正台京都出張本台、4年2月に弾正台京説摂出張巡察所と、捕物機関を設けたが、後司法省に吸収され、なくなってしまった。

 
 そうなると、ワタシが考えていた…

織田信長は、忌部氏再興の野望を持っていた

…というのは「見当外れ」ということになり、織田(八田)信長が「平氏」を名乗るのはご尤もだという話。

 ただ、天智天皇の代に「弾正例八十三条」を日本に持ち込んだのが、「白村江の戦い」に勝利して筑紫に進駐した唐の郭務悰=藤原鎌足であれば、天武天皇の在位期間(669~702)中に…

なぜ一度も遣唐使を派遣していないのか?

…という疑問が残ります。

 マッカーサーがですよ?日本に進駐した後に、30年近くアメリカ本土と往来しないなんて考えられませんw。この点がワタシが「八切史観」の、①郭務悰=藤原鎌足説、②唐による日本侵略説…にスンナリ同調できない理由。

 それよりは別な説…百済の王子「豊璋」が「白村江の戦い」の敗戦後に大宰府に逃げ延び、「藤原鎌足」と名前を変えることで身の安全を図った…と考えたほうがスッキリします。というのも、以前から奈良の「春日大社」の鹿にこだわっていて…

なぜ筑波から神鹿を勧請したのか?

…が疑問だったワケですが、藤原鎌足が豊璋の日本名であれば、百済人=夫余(鹿族)なので、鎌足の息子の不比等が筑波から神鹿を勧請することもスジが通るワケですw。
 
夫 余 – Wikipedia
 
 阿波忌部氏(夫余)の一団が四国から房総半島の「安房」に上陸したのは、おそらく「白村江の戦い」の前と思われ、鹿島神社もその頃に創建されたのではないかと?
 


下立松原神社所蔵 – 由布津主命の遺品

 
 ところで、『新唐書』(1060年)に記された歴代天皇は過去の「史書」とは大きく異なり、『日本書紀』に登場する天皇とほぼ一致する内容になっていて、このことは「唐」と「日本」の一元化(一体化)を示しているようにも受け取れるワケですが、そうなると「唐」側の作為『日本書紀』に反映されている可能性もあり、その痕跡が『日本書紀』に見られる「α群」と「β群」の違いに表れているのではないか?と。

 織田信長の話から逸れてしまいましたが、どうも織田(八田)家は忌部氏(夫余族)の末裔ではなく、平氏系(先住民)らしいことが確認できただけでも多少スッキリしましたw。

 それにしても…

なんでWikipediaには「郭務悰」の項目が無いワケ?
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 
追記:

郭務ソウ – Wikipedia
(2020年4月時点)