女王の都 - 日下部氏編

 このところカタイ話が続いたので息抜きに…といったらアレですが、歴史の検証を少しばかりしてみようかと。

 以前、「女王の都」というエントリーで、「魏志倭人伝」から読み取れる「奴国」の位置を比定したワケですが、我ながら…

結構イイ線いってる

…のではないか?と。
 

 
 思うに過去の文献…特に?中国の史書を検証する際に留意する点は…

全てをひとりで書いているワケではない
 
…ということ。

 「後漢書」「三国史」「随書」、その他諸々の歴史書には膨大な量の情報が含まれますが、編者がすべての情報の真偽を検証することなど到底不可能

 過去の「史書」を参照(コピペ)したり、最新の「伝聞」を挿入(引用)したりして「史書」の体裁を整えるワケですから、各時代の「史書」における「倭国」の記述がビミョwに違ったとしても致し方ないと言えます。

 また、遠隔地の情報は交易を行う「商人」から得ることも多いでしょうから、「利害関係」によってバイアスがかかった情報が含まれることも予想され、鵜呑みにするのもどうか?と思うワケです。

 そうした玉石混交の情報でもどうしても誤魔化せないのが、地理的マーキングポイントや人間の生活痕=遺跡であり、その点で誰にでも検証可能な「対馬」「壱岐」についてテキトーな情報を書き残すことは、「史書」の編者の名誉に係ると同時に情報提供者も信用を失いかねないので…

最低限の真実は残っているだろう

…というのがワタシの文献に対するスタンスであり、それを元に「魏志倭人伝」の「対馬」と「壱岐」の記述から当時の「一里」を推定し、地図と照らし合わせて「末盧国」「伊都国」「奴国」「不彌国」の位置を比定した次第です。
 

 
 で、自分で言うのもアレですが、この比定でほぼ間違いないんじゃないかと?
 

 
 この過程で気になったのが「不彌国」=日田市であり、また、日田市と縁が深い「日下部氏」です。
 

肥後の山と歴史


阿蘇神話の神々の系譜(阿蘇神社に祀られる12神)新・阿蘇学(第3版) 熊本日々新聞社、1994年より

 阿蘇神話によると、草部吉見神は神武天皇によって先に九州へ派遣されていた日子八井耳命のことで、健磐龍命とは伯父甥の関係になるとしている。

 井上辰雄筑波大教授は、草部が「日下部」に通ずる地名であることから、この南郷谷の草部は日下部一族の居住地ではなかったか、と推定する。

 「日下部」というのは、雄略天皇の后妃の部民が置かれたところで、重要な軍事的拠点とされていた。阿蘇の草部も、日向の延岡から五ケ瀬川をさかのぼり、高千穂を通って阿蘇に入る重要ルートに位置しており、また一方、阿蘇から熊本平野に下る途中(合志郡)にも日下部の一族が配置されていたようだという。

 つまり、阿蘇からの主要幹線は、すべて日下部におさえられていた。阿蘇氏とすれば、この日下部と同族的な結合を強めることなしには、その勢力を伸ばすことはできなかった。健磐龍命が草部吉見の姫をめとったとするのも、恐らく南郷谷の勢力との協調を物語る伝承と解してよかろう、というのが井上説だ。

 いずれにしても、阿蘇氏系図をみると、外来者である征服氏族が、婚姻を通して、一歩一歩一代ごとに先住集団の方に引き寄せられていくという “逆転の現象” がここにもみられて、興味深い。

 
 神武天皇が云々という話はひとまず脇に置いてザックリ言うと…先に「日子八井耳命」が阿蘇に来て、後から来た「健磐龍命」は日下部(日子八井耳命)一族と血縁関係を結ぶことで「安全保障」を図った…という話なワケですよね?でも、そもそも伯父甥の関係(血縁関係)なんじゃないの?
 


「隼人と大和政権」 井上辰雄(著)
学生社 (歴史書懇話会)

 

日奉部(ひまつりべ)・財日奉(たからのひまつり)

…この采女(うねめ)と敏達天皇との間に生まれた宝王が、父、敏達天皇が初めて設けた(他田)日奉部と関係があったことは、十分首肯できることではないだろうか。天皇の皇女であった宝王を最高の巫女として、日足姫(皇極天皇)の管掌する時代に至ると、日奉部の一部は、「財日奉部」と称されるようになったのであろう。(他田)日奉部が祭官としての中臣氏に結びつくのに対し、特に財日奉部は日奉の最高の巫女に結びつく日奉部だったのかもしれないと想像している。…

…先にあげた子湯県の周辺部にあるとされた新田原(にゅうたばる)古墳群は「和名抄」に言う、【那珂郡夜明郷】に比定されている。【夜明】というのも、日向や日奉部に関係があるようであるが、じつは同名の郷が豊後国の日田郡にある。この豊後国の日田郡の郡司は、日下部一族である(拙著『正税帳の研究』)。『豊後国正税帳』に、【大領・外正七位上勲九等日下部連吉島(『大日本古文書』2-40)】とあるのがそれである。…

…ところで、この「日下部」こそ、日向の髪長媛の娘若日下部王(雄略天皇妃)の部民なのである。…

 
 「魏志倭人伝」に記されている「不彌国」=「日田」が日下部氏の支配する地であり、「法恩寺山古墳群」の七基(七代)の古墳が日下部氏の墓所であるならば、一代30~40年と概算して、卑弥呼の時代(240年頃)から210~280年間…すなわち、400年代中頃~500年頃まで日下部氏は日田に居を構えていたと考えられ、古墳が七基(七代)までということは、その後日下部氏は何処かに移住したか、一族宗門が滅ぼされたか?という話。
 

 
 そ・こ・で…「移住」したとなると、「稲荷山古墳出土鉄剣」の製作者として日下部氏が候補に挙がるワケですw。
 
稲荷山古墳出土鉄剣 – Wikipedia
 

 

銘文の要約

辛亥年(471年/531年)七月中記。「乎獲居(ヲ・ワケ)」臣の先祖は➀「意富比垝(オホ・ヒコ)」。「意富比垝」の子が➁「多加利足尼(タカリ・スクネ)」、その子が➂「弖已加利獲居(テイカリ・ワケ)」、その子が➃「多加披次獲居(タカハシ・ワケ)」、その子が➄「多沙鬼獲居(タサマ・ワケ)」、その子が➅「半弖比(ハテヒ)」、その子が➆「加差披余(カサハヨ)」、その子が⑧「乎獲居(ヲ・ワケ)」臣である。七代に亘り軍人の首長を勤め、今日に至る。

「獲加多支鹵(ワカタキル)」大王の寺が「斯鬼(シマ)」宮に在った時には軍事を司った。その業績を記録するためにこの刀を作った。

 
 日下部氏は軍人の家系であり、稲荷山古墳鉄剣の製作者もまた軍人の家系。しかも?七代という系譜と年代的にもほぼ一致します。

 雄略天皇の在位期間は450年~480年頃と推定され、「獲加多支鹵大王の寺が斯鬼宮に在った時には軍事を司った」という鉄剣の銘文と、鉄剣を製作した辛亥年が531年だとしても、「獲加多支鹵」=「雄略天皇」だとする学説にギリギリ?整合しますw。
 
雄略天皇 – Wikipedia
 
 こうした状況証拠を並べると、雄略天皇が崩御した後(480年以降)に日下部氏は何らかの理由で日田の地を離れ、武蔵の国の「さきたま」の地に移住して件の「鉄剣」を製作した…というストーリーが導かれるワケですが…

ドデスカネ?
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

広告