女王の都 - 日下部氏編 2

 日下部氏が「稲荷山古墳出土鉄剣」の製作者であると「仮定」してイロイロ可能性を考えているワケですが、鉄剣の製作年(辛亥年)が、「倭の五王」のひとりである「武」の使者が478年に宋を訪れたという「宋書」の記述と、「武」=「雄略」という一般的学説?とを勘案すれば、「531年の辛亥年」が該当します。
 

『梁書』 巻五十四 列伝第四十八
作者:姚思廉(唐) 等
 

安帝時有倭王
晋の安帝の時代(396~403年)、倭の王は賛であった。
賛死立弟
賛が死に、弟の彌が立つ。
彌死立子
彌が死に、子の済が立つ。
済死立子
済が死に、子の興が立つ。
興死立弟
興が死ぬと、弟の武が王に立った。
建元中除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六国諸軍事鎮東大将軍
斉の建元中(479年~482年)に、武の「持節」を「倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓の六国の諸軍事を司る「鎮東大将軍」に除す。
高祖即位進武号征東将軍
梁の高祖が即位(502年)すると、武の号を「征東将軍」に進めた。

 

 
 『梁書』の記述からすると「武」=「雄略天皇」は500年頃までは存命だったようで、それを踏まえて鉄剣の製作者(仮:日下部氏)の七代の家系を遡ると、若干の誤差を考慮しつつも、初代は200年代前半の人物と推定され、かつ、不彌国を治めていたとなるとイロイロ符合する事柄が浮かび上がります。

 例えば?「卑弥呼」という名前にしても、「ヒミ」という発音は不彌国の「フミ」という発音に近く、共立された王とは不彌国の巫女(ミコ)=不彌女(フミコ)であり、中国側がそれを「ヒミコ」と聞き違えたとか?
 
卑弥呼 – Wikipedia
 
 それを裏付けると言ったらアレですが、日田は全国でただ一箇所!「鉄製の鏡」が発掘された場所であり、同様の鏡を所有するのはかなり高位の人物に限られ、銅鏡とは比べ物にならないレアなお宝だということですw。
 

金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡 – Wikipedia

…中国の三国時代に書かれた『曹操集訳注』には、魏の曹操が金錯鉄鏡を持っていたと記されており、この種の鉄鏡は高位の支配層の所持物であったと考えられる。このような希少な鉄鏡がなぜ日田で出土したのかは不明であり、様々な仮説が唱えられている。

 例えば、九州国立博物館の河野一隆・文化交流展示室長は、伊都国との争いに敗れた奴国の王族が持ち込んだとする仮説を提唱している。また、一般には受け入れられている説ではないが、邪馬台国の卑弥呼または台与の所持品であるとする説や、この鏡が八咫鏡であるとする説もある。

東京国立博物館が所有しているが、2007年現在は福岡県太宰府市の九州国立博物館で常設展示されている。…

 

 
 この「鉄鏡」が、魏から卑弥呼に贈られものと考えるのは性急かも知れません。『後漢書』に記されているように「倭」の国の使節は一世紀から朝貢しており、卑弥呼以前に「鉄鏡」を贈られた「倭」の国の王がいた可能性も否めず、それが卑弥呼に受け継がれたことも考えられるからです。
 

『後漢書』 巻八十五 東夷列伝第七十五 倭國条
編者:范曄(劉宋) / 司馬彪(晋)
 

建武中元二年 倭奴國 奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界 也
建武中元二年(57年)、倭の「奴国」が朝賀の奉貢をし、使者は「大夫」を自称したが、倭の国は南界の極みである。
光武賜以印綬
「光武帝」は使者に印綬(官位)を賜った。
安帝永初元年 倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見
「安帝」の永初元年(107年)、倭の国の王「帥升」らが、奴隷百六十人を献上し、謁見を請願した。

 

 
 例の「阿蘇神社家系図」にしても別な視点から見直す必要があるかも知れません。そもそも草部(日下部)=彦(日子)八井耳命にしても…

本当に神武天皇の嫡子なのか?

…という疑問も…。
 

日子八井命 – Wikipedia

系譜

『古事記』によると、初代神武天皇と、大物主神の娘の伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと、媛蹈鞴五十鈴媛命)との間に生まれた皇子である。同書では、同母弟として神八井耳命神沼河耳命第二代綏靖天皇)の名を挙げる。

 

 

神八井耳命 – Wikipedia

『日本書紀』綏靖天皇即位前紀によれば、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くため弟の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そうとした。この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、己卯年十一月に片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か)の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳(綏靖天皇)が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟に皇位をすすめ(第二代綏靖天皇)、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。そして神八井耳は綏靖天皇四年四月に死去したという。

『古事記』においても同様の説話が記されている。

 
 「古事記」では、日子(彦)八井耳命と神八井耳命は「叔父と甥」の関係とされ、一方「日本書紀」にはその名が登場しませんが、「記紀」で共通しているのは…

彦八井耳命と神八井耳命は多氏の祖である

…ということです。
 
多氏 – Wikipedia
 
『新撰姓氏録』氏族一覧
 
 となると…

日子八井命=神八井耳命

…ではないか?と考えるのが妥当であり、「天皇(神渟名川耳尊)を補佐して神祇を掌る」というのであれば、日子八井命(神八井耳命)が件の「鉄鏡」を所持していたとしても不自然ではなく、それが後に卑弥呼(不彌女)に受け継がれたということも考えられるワケです。

 で、本題の日下部氏ですが、日下部氏が不彌国から関東に移住したのであれば、邪馬台国の傍流は関東にも根付いていることになり、「多氏」がその傍流のひとつであるなら、以前にも触れたように「多摩」の古地名「多氷」とは、「多氏」のコミュニティーを意味する「多評(コオリ)」であり、多摩地区に軍馬を飼育する牧が点在していたというのも、軍事を司っていた日下部氏と何らかの関係があるのかも知れませんw。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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