吉田茂の系譜

 日本の戦後は吉田茂によって始まったとも言え、「集団的自衛権」だの「積極的平和主義」だの「憲法改正」だのと時代がキナ臭くなっている昨今、吉田茂とは一体どういう人物であったのか?にガゼン興味が湧いた次第ですw。
 

吉田茂 – Wikipedia
 
生い立ち

 1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の5男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった。実母の身元はいまでもはっきりしない。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ。

 吉田の実父と義父は若い武士として1868(慶応四、明治元)年の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。その養母は徳川期儒学の誇り高い所産であった。

 小学時代の吉田茂1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という。

 養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などといっている。

 
 幼少期に既に十分に数奇な運命に翻弄されているようですが、これは「偶然」ではなく「必然」であり、そもそも土佐藩宿毛の山内家の分家の重鎮であった実父の武内…もとい、竹内綱も幕末から明治にかけて時代の荒波に揉まれ、維新後の明治2年には大阪府参事、明治7年には大蔵省6等出仕、翌年辞職して後藤象二郎の経営する蓬萊社に入り高島炭坑の経営に従事しています。
 

宿毛歴史館 – 竹内綱
 
(前 略)

…明治10年、西南の役が起きると、林有造達は西郷隆盛に呼応して挙兵し、一挙に大阪鎮台を陥れる策を練った。この時彼(綱)は有造を援けて新型洋式小銃3,000挺の入手に奔走した。これより先、明治7年の征台の役に外国より購入した小銃が不用になって目下、外国商人の手にある事を知った彼は、これに目をつけ800丁の鉄砲を手に入れた。しかしこの事が露顕してついにとらわれの身となり、林等は禁固10年の刑を云いわたされ、彼(綱)も禁固1年に処せられ新潟の監獄に服役して事が終わった。

出獄の後は専ら板垣退助を助けて自由党の組織に従事した。明治23年、帝国議会が開設されると彼は高知県から選ばれて衆院議員になり、一時中央政界で活躍したが、明治29年、朝鮮に京釜鉄道が興るとその常務理事に送ばれて爾後実業界に雄飛した。明治40年京釜鉄道が国有となると、彼は東京に引き上げ、それからは帝都の実業界で活躍している。…

(後 略)

 
 方や吉田茂の養父となった吉田健三は福井藩の武士で、幕末期(1866年)イギリスに密航した経歴があり、これが単独であったのか?他にも同行者がいたのか?は不明ですが、2年後に帰国すると横浜に設立されたジャーディン・マセソン商会の支店長に就任します。ジャーディン・マセソン商会といえば、知る人ぞ知る「フリーメイソン」のフロント企業であり、吉田健三はフリーメイソンに取り込まれた考えて間違いないでしょう。となると?養父吉田健三の資産≒フリーメイソンの資金を継承した吉田茂も…という話になり、同じくフリーメイソンと関係の深い長州閥と懇意になるのも当然ですw。
 

吉田健三 – Wikipedia
 
来歴・人物

 1849年、越前福井藩士・渡辺謙七の長男として誕生する。のち、絶家していた渡辺家の一門・吉田家を再興した。1864年に脱藩して大坂で医学を、次いで長崎で英学を学んだ。1866年にはイギリス軍艦でイギリスへ密航し、2年間、同国に滞在して西洋の新知識を習得した。

 1868年に帰国。一時新潟に居住するが、のち横浜に移って英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任し、日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげる。3年後には同社を退いて起業し、慰労金1万円を元手に様々な事業を展開する。英学塾を皮切りに、翌1872年には東京日日新聞の経営に参画。さらには醤油の醸造業や電灯会社の設立、ビールやトタン、フランネルの輸入など、実業家としての頭角を顕して横浜有数の富豪に成長した。

 自由民権運動の高まりを見せていた当時、健三は自由民権・国会開設派の牙城であった東京日日新聞の経営参画を通じ、板垣退助や後藤象二郎、竹内綱ら、自由党の面々と誼を通じて同党を経済的に支援した。特に竹内とは昵懇の関係にあり、1878年の保安条例公布によって東京を追放された際には、横浜の吉田邸に身を寄せている。1881年8月には、竹内の五男・茂を養嗣子とする

 生来心身頑強だったが、1888年の父・謙七の死去後に病を得、横浜にて急死した。享年40。

 
 若くして急死というのがナンか…アレですが、自由民権運動を支援したのはフリーメイソンの意向でもあったワケですかね?ともかく自由民権運動支援活動の経緯の中で竹内綱との友情?を深め、後年、吉田茂を養子として引き取ることになったのは、おそらく単なる友情からではなく、非嫡子であろうとも竹内綱の血縁であることに利用価値を見出したからではないかと?

 こうした周囲の環境の中で幼い吉田茂少年の行動規範となったのは何だったかというと、儒学者佐藤一斎の孫であり吉田家の養母、吉田士子(ことこ)から「愛国心」と「伝統主義」を叩き込まれたコト、そして杉浦重剛の学校に通い「尊皇心」を養ったコトではないかと思われ、「自由民権思想」「愛国思想」は吉田少年の中で渾然一体となっていたのかも知れません。
 

宿毛歴史館 – 吉田茂
 
(前 略)

 大正8年2月 第1次世界大戦講和会議委員の随員となり巴里に赴く。

 この随員としての経験が三十余年後、ワシントンでの第2次世界大戦首席全権としての茂に極めて大きく役立ったものと思われる。これについて彼は「長い外務省生活で自分から猟官運動をやったのは、パリ講和条約の全権随員と浜口内閣の外務次官の2度だけだ。」と云っている。自分から進んで随員を引き受けたことにくしき因縁さえ感ずるものである。

(中 略)

 昭和11年4月 駐イギリス大使となる。

 茂のイギリス大使時代に日独伊防共協定が結ばれた。この協定締結について、大使館付武官を通じて軍部より強力に、吉田大使の同意を求めて来たが、彼は徹頭徹尾これに反対し、理路整然とその不締結を要求したがついに入れられず、3国協定は締結され、やがて日本を破滅に追い込んでしまったものである。そしてこれに反対した彼は遂に軍部の反感と圧迫により、昭和14年3月駐英大使の職を追われて、退職帰国の止むなきに至った。

 昭和20年4月 憲兵隊に拘置される

 退職帰国した茂は悠々と大磯の自邸に閑居する身となったが、しかし窮迫した世情は、彼の自適を許さなかった。即ち支那事変はやがて大東亜戦争となり、勇ましかった旗色も次第にあせて、戦局は日を追うにつれて悪化、ついに本土決戦にまで追いつめられてしまった。この間彼は元首相近衛文麿公や木戸内府と互に連絡をとって、戦争終結への懸命の努力を続けたが、この事を知った軍部は彼を危険人物として絶えずその身辺に目を走らせ、特高や憲兵が常に彼につきまとうように成った。そうして、昭和20年4月ついに九段の憲兵隊本部へ召喚されたのである。

 「九段の憲兵隊本部へは2週間位いたかな。それから代々木の陸軍監獄に移された。近衛さんの内奏文をこしらえたのは私だと云うことで、しきりに責められたが、私が書いたわけじゃなかったから、知らぬ存ぜぬで通した。」とは、その当時の模様を後に彼自身が語った話。5月25日の東京大空襲では火の手はこの監獄にせまって来たため、憲兵に助け出されて、代々木の練兵場で一夜を明かし目黒の刑務所に移された。そうして四十余日間の尋問に堪えて6月仮釈放された。

 後年彼は「君は牢屋に入ったことがあるかね?1度ははいっていいところだよ」と時々友人達に語って笑うことがあったと聞くが、負け惜しみの強い彼にとって獄中生活は辛かったよりしゃくにさわったに違いなく最も苦しい時代だったと云える。

(後 略)

 
 故吉田首相であれば、「集団的自衛権」だの「特定秘密保護法」だの…

トンデモナイ!

…と反対するように思うワケですが、どうですかね?麻生副首相?

 ワタシの妄想に過ぎませんが、養父の吉田健三氏がフリーメイソンの傀儡であったとしても、吉田少年は養母から叩き込まれた「愛国心」と、学校で学んだ「尊皇心」に生涯突き動かされていたのではなかったかと?

 余談ですが自由民権運動の柱であった板垣退助の板垣家は、武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とする家柄で、遠く離れた山梨と縁があり、また、土佐藩主山内一豊もその先祖は相模の国の出自ですから、関東と土佐の縁を感じますw。
 

板垣退助 – Wikipedia
 
生い立ち

 天保8年4月17日(1837年5月21日)、土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正成の嫡男として、高知城下中島町(現 高知県高知市本町通2丁目)に生まれた。なお、乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である(退助の復姓については後述)。後藤象二郎とは竹馬の友である。同じ土佐藩の中岡慎太郎とは交誼があったが、坂本龍馬とは生前に一度も出会ったことは無い。 しかし龍馬の桂小五郎宛ての書簡には乾退助を紹介する記述があり、また退助も龍馬の脱藩の赦免に奔走するなど、互いに面識はあったようである(明治以降、板垣家と坂本家は親戚関係となる。また千葉さな子が開業した鍼灸院には退助自ら患者としてでなく、自由党員の小田切謙明(のちに無縁仏となったさな子の身元引受人となる)をはじめ数多くの患者を紹介するなど、龍馬の縁者には何かと面倒をみている)。上士と下士の身分が確立されていた土佐藩の中で谷干城佐々木高行と同じく、下士に対し寛大だった。

 少年期は腕白そのものであったという。退助は晩年、自分の少年時代を振り返り「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ、喧嘩に負けて帰れば母叱って直ぐに門に入れない。成長すると、また仮りにも卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬと教えられた」と述懐している。

 
 武田家臣団としての矜持を板垣退助が守っていたこと伺えまが、それにしても「千葉さな」が甲府で没していたとは…「北辰一刀流」の一門は千葉周作の娘のお墓参りをするんですかね?

 ま、ソレはソレとして「北辰信仰」といえばですよ?阿波忌部氏が房総半島に移住した際に持ち込んだものなワケで、その流れは「千葉さな」とともに甲府にまでたどり着いたと?そして武田家家臣の末裔の板垣退助に繋がるワケですから…

因果は廻るw!

…という話で、さらに吉田茂の父、竹内綱の出身地である「宿毛」はその昔「波多(ハタ)」と呼ばれていた地で、何気に「前方後円墳」とかあったりします。
 

宿毛歴史館 – 平田曽我山古墳

 昭和23年に新しい平田中学校を戸内の曽我山に建てることとなり、その敷地工事の際にこの山から銅鏡・鉄剣・土師器等が出土した。直ちに調査され、これは古墳であることが分かった。調査の記録から,この古墳が高知県最古最大の古墳であると共に、県下で唯一の前方後円墳であることも確認された。時代は5世紀後半(1550年昔)である。この時代は波多国という国があったときで、この古墳の主はおそらく波多国の国造であった天韓襲命(あまのからそのみこと)であろう。
 


平田曽我山古墳

 

 
 ま、アレです…「高天原」は阿波にあったという説を唱える人もいるくらいで、「九州王朝」、「大和王朝」、「出雲王朝」、「阿波王朝」、「吉備王朝」、「関東王朝」など、「日本」が国体を整える過渡期に「阿波王朝」=忌部氏も何らかの影響を及ぼしたのではないかと?

 そして、そうした過去の因縁の上に「天皇制」が存在しているワケで、「天皇」という「玉座」を巡る抗争は古の昔から人知れず繰り返され、その「しわ寄せ」が社会現象(事件)として現るような気がしますw。

イッタイいつまでやってんだ?

…という話で、「陰の権力闘争」に終止符を打ち日本を「裏表」無くひとつにまとめるのが…

真の愛国精神である!

…という持論(信念)故に「歴史」に拘り続けるワケですw。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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