百済人はペルシャ系か?

 唐代に編纂された『北史』「百済」について気になる記述があります。
 

卷九十四列傳第八十二 四夷
唐:李延壽
 
百 済

  • 百濟之國,蓋馬韓之屬也,出自索離國
    百済の国は、馬韓の地に属し、索離國より出る。
     
  • 其王出行,其侍兒於後妊娠,王還,欲殺之。
    その王の行幸に出て、しかる後にその侍女が妊娠し、王は帰還すると、これを殺そうとした。
     
  • 侍兒曰:「前見天上有氣如大雞子來降,感,故有娠。」王舍之。
    侍女は:「目の前の天上から大きな雞子のような気が降りて来て、それを感じ、故に妊娠しました。」と言い、王はこれをて置く。
     
  • 後生男,王置之牢,豕以口氣噓之,不死;後徙于闌,亦如之。
    後に男子が生まれ、王がこれを豚小屋に放置すると、豚は息を吹きかけて暖め死ななかった(その後厩舎に移したが、同じくこの如し)。
     
  • 王以爲神,命養之,名曰東明
    王は神の子と思い、これの養育を命じ、東明と名づける。
     
  • 及長,善射,王忌其猛,復欲殺之。
    成長するに及び、弓を善く射て、その勇猛を王は忌み嫌い、再びこれを殺そうした。
     
  • 東明乃奔走,南至淹滯水,以弓擊水,魚鱉皆爲橋,東明乘之得度,至夫余而王焉。
    そので東明は出奔し、南の淹滞水に至り、水面を弓で射ると、すべての魚と亀は橋となり、東明はこれを乗り越えられ、夫余の地に至り王になったという。
     
  • 東明之後有仇台,篤於仁信,始立國于帶方故地
    東明の後に仇台があり、仁信に篤く、帯方の秦(燕)の故地に国を立てる。
     
  • 漢遼東太守公孫度以女妻之,遂爲東夷強國。
    漢の遼東太守の公孫度(?-204年)は仇台の娘を妻にし、ついに東夷の強国となる。
     
  • 初以百家濟,因號百濟
    初めは百家で助け合ったので、それに因み国号を百済とする。
  • 其國東極新羅,北接高句麗,西南俱限大海,處小海南,東西四百五十里,南北九百餘里。
    その国の東は新羅に極まり、北は高句麗に接し、西南は大海にて限られ、小海(黄海)の南になり、東西は四百五十里で、南北は九百余里。
     
  • 其都曰居拔城,亦曰固麻城
    その都は居抜(ju-ba)城といい、また固麻(gu-ma)城ともいう。
     
  • 其外更有五方:中方曰古沙城,東方曰得安城,南方曰久知下城,西方曰刀先城,北方曰熊津城
    その外に更に五方に城が有る(中方は古沙(gu-sha)城いい、東方は得安(de-an)城といい、南方は久知下(jiu-zhi-xia)城といい、西方は刀先(dao-xian)城といい、北方は熊津(xiong-jin)城という)。
     
  • 王姓氏,號「于羅瑕」,百姓呼爲「鞬吉支」言並王也。
    王姓は餘氏、王号は「于羅瑕(yu-luo-xia)」で、百姓は「鞬吉支(jian-ji-zhi)」と呼び、「夏」の言葉でも王である。
     
  • 王妻號「于陸」,夏言妃也。
    王の妻の号は「于陸(yu-lu)」で、「夏」の言葉で妃である。

(中略)

  • 城之内外人庶及余小城,分隸焉。
    城の内外の庶事する人及びその他の小城は、塩の配分を受けて隷属しているようだ。

(後略)

 

 
 ワタシが気になったのは、王号の「瑕(xia)」=「シャー」古代ペルシャのソレと同じであり、『梁書』 によれば「西晋」の時代(265 – 316年)、「遼西」「百済郡」を自ら置いた=「建国」 したといのコト。
 

卷五十四 列傳第四十八 諸夷
唐:姚思廉 等
 
百 濟

  • 百濟者,其先東夷有三韓國,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。
    百済の者、その先は東夷の三韓の国で、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓という。
     
  • 弁韓、辰韓各十二國,馬韓有五十四國。
    弁韓と辰韓は各十二国で、馬韓は五十四国あり。
     
  • 大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戸,百濟即其一也
    大きな国は一万余家、小さな国は数千家、総じて十余万戸になり、百済は即ちそのひとつ。
     
  • 後漸強大,兼諸小國。
    漸く後に強大となり、諸小国を兼ねる。
     
  • 其國本與句驪在遼東之東,晉世句驪既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡
    その国は本来高句麗に与して遼東の東に在り、晋の治世に既に高句麗は遼東を略有し、百済も同じく遼西を拠有すると、晋と平の二郡を無くし、自ら百済郡を置く。
     
  • 晉太元中,王;義熙中,王餘映;宋元嘉中,王餘毗;並遣獻生口
    (東)晋の太元中期(385年頃)、「須」が、義熙中期(410年頃)、「餘映」が、(南)宋の元嘉中期(440年頃)、「餘毗」が、使者を遣り「生口」を献上す。
     
  • 餘毗死,立子
    「餘毗」が死に、子の「餘慶」が王に立つ。
     
  • 死,子牟都立。
    「餘慶」が死に、「牟都」の子が王に立つ。
     
  • 死,立子牟太
    「牟都」が死に、子の「牟太」が王に立つ。
     
  • 齊永明中,除都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。
    (南)斉の永明中期(490年頃)、「牟太」を「都督百済諸軍事」、「鎮東大將軍」、「百済王」に除す。
     
  • 天監元年,進號征東將軍。
    (梁)天監元年(502年)、「牟太」の号を「征東將軍」に進める。
     
  • 尋爲高句驪所破,衰弱者累年,遷居南韓地。
    高句麗に広所を破られ、年を累ねて百済の者は衰弱し、南韓の地に遷居す。
     
  • 普通二年,王餘隆始復遣使奉表,稱「累破句驪,今始與通好」,而百濟更爲強國。
    (梁)普通二年(521年)、王の「餘隆」は奉表の遣使を復し始め、「高句麗を累ねて破り、今通好を始めん」と言い、百済を更に強国にした。
     
  • 其年,高祖詔曰:
    その年、高祖(武帝)は詔に曰く:
     
  • 「行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王餘隆,守籓海外,遠脩貢職,乃誠款到,朕有嘉焉。
    「都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王である「餘隆」の行いは、海外の藩を守り、遠方から貢職を修め、乃誠款到,朕有嘉焉。
     
  • 宜率舊章,授茲榮命。
     
  • 可使持節、都督百濟諸軍事、寧東大將軍、百濟王。」
    使持節、都督百済諸軍事、寧東大将軍、百済王に可である。」
     
  • 五年,死,詔復以其子爲持節、督百濟諸軍事、綏東將軍、百濟王。
    五年(524年)、「餘隆」が死ぬと、詔でその子「餘明」を以て「持節」、「都督百済諸軍事」、「綏東将軍」、「百済王」に復す。
     
  • 號所治城曰固麻,謂邑曰簷魯,如中國之言郡縣也。
    治める所の城は「固麻」と号し、いわゆる邑は「簷魯」といい、中国で言う郡や県の如し。
     
  • 其國有二十二簷魯,皆以子弟宗族分據之。
    その国は二十二の「簷魯」が有り、これら皆が宗族の子弟により分拠される。
  • 其人形長,衣服淨潔。
    その人の形容は身長が高く、衣服は清潔。
     
  • 其國近倭,頗有文身者。
    その国は倭に近く、刺青する者すこぶる有り。
     
  • 今言語服章略與高驪同,行不張拱、拜不申足則異。
     
  • 呼帽曰冠,襦曰復衫,袴曰褌。
     
  • 其言參諸夏,亦秦、韓之遺俗云。
     
  • 中大通六年、大同七年,累遣使獻方物;併請『涅盤』等經義、『毛詩』博士,併工匠、畫師等,敕並給之。
     
  • 太清三年,不知京師寇賊,猶遣使貢獻;既至,見城闕荒毀,並號慟涕泣。
     
  • 侯景怒,囚執之,及景平,方得還國。
     

 
 

 
 「瑕(xia)」=「シャー」の王号は「夏」と同じだということですが、紀元前1600年頃に「殷」に滅ぼされた王朝の称号を伝えているのも疑問があり、視点を変えて同時代で「シャー」の王号を使っていた国を中華の周辺に見渡すとクシャーナ朝があります。
 

シャー – Wikipedia
 
その他

明朝で編纂された漢語と周辺外国語の対訳語彙集である 『華夷譯語』 の一編でペルシア語版である 『回回館譯語』 人物門では、「パードシャー」 پادشاه pādshāh を 「[立巴] 得沙黒」 と漢字音写し 「君(君主)」 の意味にあてており、同じく 「シャー」 شاه shāh を 「傻諕」 と漢字音写し 「君」 の意味としているが、別の箇所では 「パードシャー」 پادشاه pādshāh を 「[立巴] 得傻」 と写し、「天皇帝」 の意味としている箇所もある。

イスラーム時代以降の「シャー」ないし「シャーハンシャー」の君主号は、主にカスピ海南岸のダイラム地方やマーザンダラーン地方一帯のイラン系地方政権で使用されて続けた。サファヴィー朝が「シャー」を名乗ったのは、よく取りざたされる「イラン文化の復興」を根ざした復古的なものとする意見は正しくなく、出身地域を同じくするダイラム地方のブワイフ朝や、ズィヤール朝、マーザンダラーン地方のバーワンド家などと同様に、これらカスピ海南岸の政治勢力が使用してきた「シャー」の称号を伝統に従って自然に名乗ったものだったと解すべきだろう。

 

クシャーナ朝 – Wikipedia
 
歴史

大月氏
紀元前2世紀、匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民の月氏は、中央アジアのバクトリアに定着した。これを大月氏と呼ぶ。『漢書』西域伝によれば、大月氏は休密翕侯,貴霜翕侯,雙靡翕侯,肸頓翕侯,高附翕侯の五翕侯を置いて分割統治したという。それから100余年後、五翕侯のうちの貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)が強盛となり、他の四翕侯を滅ぼして貴霜王と称すようになった。

大月氏の諸侯はそれぞれコインを発行していたが、貴霜翕侯が発行したコインは他の諸侯の発行したコインに比べ数も多く、大型のコインは貴霜翕侯の物しか鋳造されなかった。
 

 
文化

王号
クシャーナ朝はユーラシア大陸の中央部の広い領域を支配したため、各地の文化の大きな影響を受けた。その文化は包容的、融合的性格を持ったといわれており、特にその特徴は王の称号に現れている。

例えばカニシカ王の残した碑文の中には 「シャーヒ、ムローダ、マハーラージャ、ラージャティラージャ、デーヴァプトラ、カイサラなるカニシカ」 と記す物がある。これはカニシカが使用した称号を羅列したものであるが、

  • シャーヒ(Shahi)は月氏で昔から用いられた王の称号である。
  • ムローダ(Muroda)はサカ人たちの首長を表す語である。
  • マハーラージャ(Maharaja)はインドで広く使われた称号であり大王を意味する。
  • ラージャティラージャ(Rajatiraja)は 「諸王の王」(シャーハンシャー)というイラン地方の伝統的な帝王の称号をサンスクリット語に訳したものである。
  • デーヴァプトラ(Devaputra)はデーヴァ(神、漢訳では天と訳される)とプトラ(子)の合成語であって中華皇帝が用いた称号 「天子」 をサンスクリット語に訳したものである。
  • カイサラ(Kaisara)はラテン語のカエサル(Caesar)から来たもので、ローマ皇帝の称号の一つである。

カニシカ王に限らず、クシャーナ朝の王たちは世界各地の王の称号を合わせて名乗ることを好んだ。
 
大月氏とクシャーナ朝
貴霜翕侯(クシャーナ族)が元々大月氏に属し、大月氏の他の翕侯を従えた後、クシャーナを国号として王と名乗ったという『後漢書』の記録や、伝統的な月氏の王の称号を用いたことからもわかるように、大月氏とクシャーナ朝は多分に連続性の強い政権であったと考えられる。

中国ではクシャーナ朝が権力を握った後も、その王を大月氏王と呼び続けた。『後漢書』には以下のようにある。

月氏自此之後,最爲富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。
(クジュラ・カドフィセスのインド征服)以後、月氏は最も富み盛んとなった。諸国は彼をクシャーナ王と呼んでいる。漢では古い称号を用いて大月氏と呼んでいる。
 
— 後漢書 —

また、中国の三国時代にヴァースデーヴァ1世(波調)が魏に使節を派遣した際、魏はヴァースデーヴァに対し、「親魏大月氏王」 の金印を贈っている。これは倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印の例であることから比較的よく知られているが、3世紀に入っても中国ではクシャーナ朝が大月氏と呼ばれていたことを示すものである。

しかし、大月氏とクシャーナ朝を同一のものと見なしていいかどうかにはさまざまな立場がある。ソグディアナやホラズム地方の大月氏系諸侯は、クシャーナ朝とは別に独立王国を形成していたことが知られており、これらの大月氏系諸国をクシャーナ朝が征服した痕跡は現在まで一切発見されていない。

 
 「百済」は古代朝鮮語で「ぺクチェ」と発音するそうですが、これも「ペルシャ」が転訛したものではないか?とさえ思えてきましたw。

 そうなるとクシャーナ朝(月氏)の末裔=弓月君が百済から渡来して秦氏へと続くことも、奈良時代に建造された明日香の宮などの建造物に「ペルシャ人」の痕跡が見られることも、さらには百済と連合を組んで倭国が「白村江の戦い」に臨んだことも、後世「平家(伊勢平氏)」が権勢を振るうようになったのも、また「源氏」=「北魏系」を謀略によって排除し、「平氏」である「北条家」が鎌倉幕府を乗っ取ったことも、すべてが「一本の糸」で繋がるように思えるワケですが、ま、検証するには時間が掛かるワケでボチボチやっていきますw。
 
弓月君 – Wikipedia
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!