「ケベス祭」考 2

 前回の整理をすると、「ケベス祭」が行われる櫛来(くしく)社(岩倉八幡社)は寛平元年(889年)に創建された社で、そんなに?古いワケでもないというコトと、祭は「製鉄」に因んだものだろうというコト。そして重要なのが櫛来社は第14代仲哀天皇を奉るために創建されたであろうコトです。

 仲哀天皇の倭風名は「帯中日子(タラシナカヒコ)天皇」で、「タラシ」の号を持つ天皇は第12代景行天皇、第13代成務天皇、第14代仲哀天皇だけです。そしえ興味深いことに櫛来社のある国見町の沖合の「姫(ひめ)島」には、「大帯(オオタラシ)八幡社」という「タラシ系」の神社があり…

櫛来社と大帯八幡社は一対なのでは?

…と。
 


大帯八幡社

 
景行天皇 – Wikipedia
 
成務天皇 – Wikipedia
 
仲哀天皇 – Wikipedia
 
 「ケベス祭」の由来書は焼失してしまったと前回書きましたが訂正します。「由来諸(縁起書)」が消失してしまったのは「大帯八幡社」のほうで、櫛来社と大帯八幡社が一対であれば縁起書もおそらくは大帯八幡社に保管され、それが火事?で焼失してしまったが故に「ケベス祭」の由来も分からなくなってしまったようです。

 ところで「大帯八幡社」のスグ近くに「焼野岳」という名の山があるのですが…

「櫛」+「焼野」+「姫」

…という「キーワード」から…

ヤマトタケル

…が連想され、ヤマトタケルは仲哀天皇の父親なワケですから、櫛来社と大帯八幡社は「ヤマトタケルの東征」とも関連しているように思えますw。
 


文化遺産|観光案内|大分県 ひめしま

 

ヤマトタケル – Wikipedia
 
古事記
相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭う。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那芸剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くす。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。
 
古事記
相模から上総に渡る際、走水(横須賀)の海の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘比売が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。入水の際に媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠む。

原文: 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
訳: 相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ

弟橘比売は、倭健命の思い出を胸に、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。

 
 しかし横須賀の走水および対岸の富津の周辺に「櫛」に因んだ地名は見当たらず、ヤマトタケルの東征の故事の舞台は「九州」だったとか?と想像が膨らみ…

火を以って火を制する。

…という故事に因んだ神事が「ケベス祭」かも?と。しかも「製鉄」を暗示する「ダブルミーニング」。

 そのうえ姫島にはもうひとつ興味深い伝承があって、国東半島の付け根にある豊後高田市真玉町に伝わる「飯峰礼山縁起」という古文書には…
 

用明天皇が国東半島姫島で籠船を見つけた。中には幼い姉弟がいて、自分たちは秦始皇帝の子孫だという。帝は彼らを引き取って養育した。身籠っていた姉はお産前に『始皇帝の子孫というのは嘘で、じつは風水龍王の子ども』だという。そして弟のことを託してお産し、大蛇に変身して龍宮城に帰っていった。弟は秦河勝と命名され聖徳太子の家臣となった。」

~京都「魔界」巡礼 | 丘眞奈美著 | 書籍 | PHP研究所 より~

 
…と記されているそうで、秦河勝と姫島およびその周辺には何らかの因縁がありそうですw。

 また大宝元(702)年に編集された「豊前国戸籍」からも国東半島周辺は「秦王国」であったことが確認されるワケで、「秦河勝」はさて措き用明天皇の時代(6世紀後半頃)から国東半島周辺に秦氏一族の入植が始まっていたと考えられます。
 
用明天皇 – Wikipedia
 

秦河勝 – Wikipedia
 
秦 河勝(はた の かわかつ、生没年不詳)は、6世紀後半から7世紀半ばにかけて大和朝廷で活動した山城国葛野(京都市)の人。姓は。秦丹照または秦国勝の子とする系図がある。冠位は大花上。
 
概 要

…河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子の側近として活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある。聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建てそれを安置した。610年、新羅の使節を迎える導者の任に当る。644年、駿河国富士川周辺で、大生部多を中心に「常世神」を崇める集団(宗教)を、河勝が追討した、とされる。…

 
 秦河勝は、後世(室町時代)に「狂言」、「能」を大成した世阿弥から…

猿楽(申楽)の祖

…として崇められ、聖徳太子に命じられて面を作り申楽を奉納したことが『風姿花伝』(世阿弥著)にも記されているとのこと。
 
世阿弥 – Wikipedia
 
 これらを総合的に判断すると、「ケベス祭」の面は「能面」の原型であるように思え、「ケベス祭」は「薪能」のハシリではないかと?

 そもそも「ケベス祭」を奉納したのは秦河勝だったかも知れませんw。
 


甲津原の古能面

 
 以上が「ケベス祭」についてのワタシなりの見解ですが、火事で?ご由緒が焼失しても書き直すことはできたハズなのにそうしなかったことに多少疑問が残ります。時の朝廷(権力者)が「ケベス祭」を表沙汰にしたくなかった=「秦王国」の存在を歴史から消し去りたかったから…というコトも考えられますが、首を突っ込むと長wくなりそうなのでやめときますw。

 で、結論?としては「ケベス祭」はギリシャ由来ではないにしろ、古の「秦王国」に因んだ祭りであると推定され、大分県の観光課も今後は「秦王国」であるとか、「秦氏」の発祥の地であるとか、「郷土史」に地元の若者が関心を持つようになれば…

地域の活性化

…とやらにも繋がるんじゃないかと?

 不相応な「箱モノ」を作るより、地域の若者の為に「予算」を有効に使うことをお勧めしますw。

まず人を育てる

…というところから「自治体の再生」は始まるというのがワタシの持論で、イロイロなやり方があるでしょうが、そのひとつとして地元の歴史を再認識し…

アンガージュマン(関係性)の再編を図る

…ことが肝心で、そこに若者が参加できなければ「死んだアンガージュマン」=地元の風習(因習・掟)は刷新されないだろうという話。

 したがって地元を愛する聡明な若者は…

歴史解放戦線に参列せよ!

…というコトですw。
 
 
 
 

人間ナメんなよ!

でわっ!

 
 

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